アメリカと日本の卒業文集を比べてみる

 新潟の実家から1−2キロ離れた所に「国際情報高校」という県内屈指の進学校がある。私の父親が校長先生に「息子がこんな本を出したんです。是非、高校生に話をさせてやってほしい」と親バカぶりを発揮。8月27日に、アフリカでの体験を話すことになった。

 対象は、「海外大学進学コース」の生徒ら約30人。なので、アメリカの高校、大学での私の体験により関心があるだろうと予想し、当時の写真や学校の文集を実家の倉庫から引っ張り出してみた。
 
 「そういえば、アメリカと日本の文集を読み比べてみたことなかったなあ」と思い、改めてページをめくってみた。そしたら、文集の構成が180度異なっており、二つの国の違いが際立っていることに気付いた。これは面白い「教材」になると思い、生徒たちに見せて、違いについて尋ねた。

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 まず、カバーデザイン。アメリカはカラフルで、日本は格式高い感じ。日本は「卒業文集」で卒業生全員に配られるのに対し、アメリカは一冊4000円で、買いたい人が買う。「卒業文集」というものはなく、「年度末文集」といい、全校生徒の写真があるが、卒業生中心に構成されている。


 次に、最初のページをめくってみる。

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 日本は、最初に校長先生と先生の集合写真があるのに対し、アメリカは生徒ばかり。アメリカの先生の紹介写真は96ページ目に出てくる。

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 次に日本の生徒の集合写真。真ん中に先生がいて、男女がしっかり区別されている。(私は前から三列目の一番左でふてくされている)

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 アメリカは「クラス」とうものがないため、日本の様なクラスごとの集合写真はない。生徒個人の顔写真が男女混合で並べられる。各部活動の集合写真は上の様にあるが、基本は選手が中心で、監督(先生)は写真に出てこない。(ちなみに、私は最前列の一番左)。

 日本は、委員会や部活動の集合写真には必ず担当の先生がおり、時には先生が中心に座っていることもある。私のクラスの副担任は、クラス、委員会、部活を掛け持ちしており、卒業生の私より頻繁に文集に登場していた。

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 アメリカの文集には、舌にピアスしている女子生徒が9ページ目に大きく取り上げられている(校長先生は96ページ目で、この女子生徒よりも小さい写真)。写真の横には「反乱者か革命家か?」という見出しがあり、「校則に従うのが重要なのか、個性を出すのが重要なのか?」という議論が交わされていた。

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 アメリカは男女の距離感も違う。こうやって男女が抱き合っている写真が何枚も載せられている。

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 日本の文集にも男女が混じり合う光景があるが、微妙な男女の距離感がある。ちなみに左から4番目が私で、一緒に踊っている女子生徒、むっちゃ嫌がっている感じ(涙)。

 アメリカの高校に入って最初に驚いたことは、新入生の「自己紹介」がないということ。私が英語の講義で自己紹介を始めたら、「何やってんだこいつ」みたいな目で見られた。日本の様なクラスという単位がなく、学年を超えて個人個人がごちゃまぜに学んでいるため、新しい人が入っても目新しいことがないのだ。日本はしっかりとした「クラス」という輪があり、そこに新しく入る人がいたらその輪に入るための儀式が必要。一方、アメリカは輪ではなく、個人の「点」がたくさんごちゃまぜにあって、そこに新しく一つの点が混じるだけだから、儀式は要らないのだ。

 生徒たちには「どっちが良くてどっちが悪いということは考えず、同じ文集なのに、なぜここまで違うのか、そこにはどんな考えがあるのかを考えてみましょう」と伝えた。

 話の後、生徒7人が校長室に来て、「英語はどうすれば学べるか?」「ロシア語や中国語は大事か?」「国連に入るためにはどうすればいいか?」「どうやってアメリカの大学を選んだか?」「難民キャンプで働くには何が必要か?」などなど、たくさん質問を頂いた。こういった積極性こそ、多文化理解の第一歩だろうな。
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ビルマ(ミャンマー)に捧げた20代

このブログを読む人は、私が人生のすべてをソマリアに捧げているかの様な錯覚に陥るかもしれない。しかし、ほんの3年前までは、ソマリアの「ソ」の字も知らなかった。私の20代は、ずっとビルマ(ミャンマー)に心を奪われていたからだ。

先月、政治改革の一環で、ビルマ政府は、ビザ発給を拒む「危険人物リスト」の中から2000人をリストから外し、その中に私の名前もあった。2009年、新婚旅行でビルマに行こうとしたら、私が書いた政府批判の記事を理由にビザ発給が拒否された。ビザ申請は、新聞記者としてではなく、父が経営する診療所の職員として申請したのだが、それでも、見破られた。

ビルマとの関わりは、2003年、大学卒業後、難民関連のインターン先を探し、世界中のあらゆる機関にメールを出しまくっていたら、タイのアジア移民研究所(チュラロンコン大学内)が受け入れてくれたことから始まった。そこでの業務が、ビルマとの国境沿いにある難民キャンプの調査だった。

1984年に設立されたキャンプに、半世紀以上続く紛争から逃れた難民が10万人以上暮らしているという現実は、当時22歳の私にとっては、とても信じ難いものだった。難民の人たちが語る事、自分たちの民族について、ビルマ政府からうけた人権侵害、キャンプでの生活、すべてが、自分の世界観を広げていった。

オランダの大学院に進学したが、論文調査のため、2004年に再び、タイに戻り、難民の若者が通う学校に4ヶ月住み込んだ。あまりに刺激的な体験を、自分の中だけにとどめておくことができず、家族に見せるために書き始めたエッセイが、たまりにたまって、「国境に宿る魂」(世織書房)として出版されてしまった。

毎日新聞に入ってからも、機会を見つけては、ビルマについて記事を書き続けた。奈良と広島の支局に在籍し、本来、管内のニュースを記事にするのが支局員の仕事なのに、私は、日本国内にビルマのニュースがあれば、どこへでも出張して記事にした。

2007年に、ビルマで僧侶による大規模デモを取材したジャーナリストの長井健司さんが殺された後、大阪のビルマ難民が、長井さんの実家(愛媛県今治市)を訪れ謝罪したのを、奈良から出張して記事にした。

2008年にビルマに大型サイクロンが襲い、14万人が亡くなった時は、大阪でビルマ難民が募金活動をするのを広島から出向いて取材し、「記者の目」という全国版コラムで、ビルマ政府の人権侵害について書いた。

2009年、新婚旅行でタイに行き、難民キャンプで、サイクロンから逃れて来た人を取材した。妻は「新婚旅行までそんなことしなくていいでしょ」と文句を言い、新婚早々、離婚騒動になった。

そして、ビルマのロヒンギャという、政府から国民と認められない少数民族が、群馬県館林市に多く住んでいるという話を聞き、難民支援団体で働いていた妻の活動に同行し、現状を記事にした。

日本政府が第三国定住で、タイの難民キャンプから毎年30人、日本に受け入れ始めたのだが、それを、長野県松本市の団体が、自分たちの自治体で受け入れようと名乗りを上げる話を聞き、再び、長野まで行き記事にした。

毎回、上司から「広島の記者を、ビルマ関連で何度も管外出張させるのはどうか」と当然のごとく渋られた。毎日新聞の記者は全国どこにでもいるわけで、会社的には、私に行ってもらう必要などない。それでも、私は諦めず、本社にいる先輩に出張要請を出してもらうなどし、毎回、強引に押し切った。

この長野の記事が出た約1ヶ月後、私は退社。平和構築に関心がある15人の若者を国連機関に1年送り出す外務省の事業に参加し、「タイのビルマ難民キャンプを支援する国連機関に行きたい」と何度も希望を出したのだが、ケニアに派遣されることになり、私のビルマとの関わりは中断したのだ。

それにしても、2、3年目の駆け出し記者の管外出張を何度も認めてくれた元上司の懐の深さと、私の支局不在中をカバーし続けてくれた元同僚たちには感謝してもしきれない。そんな、迷惑サラリーマンだった私が、今年1月に東京や新潟でソマリアについて講演をしたら、その元同僚たちが協力して、紙面で広報してくれた時は、涙が出そうになった。(勿論、私の強引な要請があったからなのだが、、、)。

  妻との出会いも、タイのバンコクで開かれたビルマの民主化について話し合うNGO会議だった。つまり、ビルマ軍政がなければ、妻と出会うこともなかったわけで、色々批判ばかりしてきたが、感謝しなくてはならないこともあるのだ。

(ちなみに、グーグルで私の名前とミャンマーで検索すると、いまだに、当時の記事が読めます)

過去の冷たい自分と向き合う 続編

オクラホマ州は、アメリカのど真ん中に位置し、19世紀にアメリカの先住民族の強制移住先として作られた46番目の州(50州の内)。「オクラホマ」とは、先住民族の言葉で「赤い人」を意味し、州内の先住民族の比率は8パーセントと、全米平均の5倍以上だ。

タルサ空港に着いた私は、 「YOKO」と書かれた紙プレートを手にした高校時代の野球部の友人2人に、出迎えてもらった。そのまま、友人宅に泊めてもらい、次の日の夕方、ジョディの夫、トムが迎えにきてくれた。車は、92年製で、シートベルトは壊れ、座席はホコリまみれ。トムは10年前と変わらず、タバコを吹かし続け、煙が苦手な自分は、窓に鼻を向けた。

午後6時ごろ、ジョディ宅に到着。昔と変わらず、家の中はタバコの臭いが充満しており、リビングルームもベッドルームもホコリまみれで、生活感は希薄だ。ジョディから「泊まる所が必要なら家で泊まってね」と言われていたが、タバコの煙も昼間から酔っぱらう人も苦手な自分は、友人宅を選ばざるをえなかった。

テラスでビールを飲みながら、タバコを吸うジョディは、10年前と変わらない笑顔で、私を迎えてくれた。 茶色だった髪は灰色になり、しわも増え、実際の年齢(53歳)よりも年老いて見えた。連絡をしてこなかった私を責めるどころか、300グラムの大きな牛ステーキを庭の炭火コンロで焼いて、歓迎してくれた。

早速、フランシスのお墓について尋ねると、お墓はないという。彼女が閉所恐怖症だったため、お墓に入るのを拒み、火葬した後、遺骨と灰を、彼女が子供のころ遊んでいた川に流してほしいというのが、本人の希望だったという。しかし、亡くなって8年近くになるにもかかわらず、まだ、遺骨と灰は、ジョディ宅に放置されたままになっていた。

ジョディもトムも、フランシスの命日さえ覚えていなかった。タバコとお酒とインターネット賭博に時間を費やしているようで、ジョディは、フランシスが亡くなって間もなく、飲酒運転で検挙され、免許を剥奪されていた。

「テロ」との戦いなどにより、私がいた頃より、米国のガソリンの料金は3倍以上に膨れ上がり、時給900円の車の修理工で生計を立てるジョディ夫婦の生活を逼迫していた。クレジットカードも携帯電話もなく、その日の生計を立てるのがやっとで、フランシスの遺骨などについて考える精神的余裕など、なさそうだった。

私は、ジョディに「明日、私がレンタカーをするから、一緒に、フランシスの遺骨を流しに行きませんか?」と尋ねた。ジョディは頷き、トムは、仕事を休む事ができないからと断った。おそらく、これが、私ができる最後の親孝行だと思った。

フランシスが遊んでいたという川は、タルサから車で約1時間。5人兄弟の末っ子だったフランシスは、親に毎年の夏休みに、この川周辺でキャンプをし、水遊びをしていたという。16歳で、海軍兵士と結婚し、ジョディを生んだ。数年で離婚し、看護師で生計を立てながら、一人娘を育てた。40代で勤務中に肩を痛め、仕事ができなくなり、以来、生活保護で暮らした。

私は、今更ではあるが、ジョディに色々、フランシスについて聞いてみた。

私:フランシスは、なぜ、私を受け入れてくれたの?身体障害を抱えて、生活は楽ではなかったと思うけど。
ジョ:叔父の家にフィンランド人の留学生が来ていたでしょ?それで、叔父から紹介があったの。受け入れ先に決まった家族の家が火事になって、行く場所を失った可哀想な日本人の少年がいるって。それで、ママが引き取ることになった。身体障害があっても、ママにできないことは、私たちが助ければ大丈夫だと思った。
私:私は、色々、問題を起こしたけど、フランシスは特に何も愚痴はこぼしていなかった?
ジョ:ママはあなたのこと、本当の息子だと思っていた。だから、問題なんてなかったのよ。ただ、一つ、ママが心配していたのは、あなたの高校の授業中の「居眠り」。ひょっとして、何かの病気なのではないかと、心配していたわ。

私は、思わず苦笑した。日本の高校でも基本的に居眠りをしていた私は、アメリカに来て、授業が理解できず、居眠り癖がさらにレベルアップ。30人規模のクラスで寝るのは当たり前だが、時にはマンツーマンレッスン(留学生のための補修英語講座)でも、頻繁に眠り、先生を泣かせたこともあった。

実は、この眠り癖のために強制帰国される寸前まできていた。オクラホマに来る前にフィラデルフィアで実地された1ヶ月間の英語講習中で、10分休憩時間中に、教室のど真ん中のフロアで横たわって寝ていたら、誰も起こしてくれず、結局、授業が終わるまでその状態だった。それで、東京の本部に「授業中に、教室のフロアで寝るのは日本の文化なのか? 」という問い合わせが学校から入り、私は事情聴取を受けた。「ちょっと、体調が悪かった」と弁明したが、「体調が悪い奴が、夜中遅くまで麻雀できるのか?」と怒られた。どうやら、ルームメートが、私が語学留学で来ていた日本人大学生たちと毎晩、麻雀をやっていたことを、学校に告げ口していたらしいのだ。「これ以上、何かあったら、帰国してもらう!」と言われ、仕方なく、授業態度改善を強いられた。

普通なら怒るところを、逆に私の健康の心配をしていたというのが、いかにもフランシスらしい。

フランシスが遊んでいたという川は、ダムが近くにあり、キャンプ場になっていた。ダムから流れ出す水流に、ジョディと一緒に、灰と遺骨を流した。フランシスは、「私をこの川に流さなかったら、呪いにくるわよ」と生前、ジョディに言っていたという。

決して楽ではない人生を歩んだフランシスにとっての、数少ない幸せな思い出だったのだろう。粉々になった遺骨と灰は、水流と共に、私たちの届かない遠い彼方へ行ってしまった。ジョディは「バーイ、ママ!」と叫び、私は、心の中で、「あなたがいなかったら、今の自分はありませんでした。ありがとうございました」とつぶやいた。

過去の冷たい自分と向き合う

ワシントンDCでの出張が終わった後、私は、飛行機で3時間かけて、中西部のオクラホマ州第二の都市、タルサへ向かった。12年目に入った私の海外生活が始まった思い出の場所である。

タルサ訪問の最大の目的は、交換留学生として来た私を2年間、本当の息子の様にお世話してくれたホストマザーのお墓参り。1996年、東京の留学生派遣団体 「アユサ」を通して渡米した私は、タルサ空港に到着してすぐホストファミリーを紹介された。ほとんどの留学生は、渡米数週間前にホストファミリーが決まり、ある程度、電話や手紙で連絡を取り合ってから、新天地での生活を始めた。しかし、私の場合は、手を挙げてくれた家族の家が火事になるなどで、結局、最後の最後まで決まらず、どんな家族と暮らす事になるのか全く情報がないままの渡米となった。

紹介されたホストファミリーは、「ジョディ」と「トム」と名乗る30代の中年夫婦と、それまで見た事もないような巨体で、車いすに座るフランシス。彼女の腕は私の頭ほど太く、体重は150キロ以上に見え、白髪で肌にしわも目立つ。53歳らしいが、70代くらいに見えた。英語が全くわからなかった私は、何やら英語で私に話しかけてくる3人に、適当に「オーケー、オーケー」と返した。まともに歩く事ができないフランシスを見て、ジョディとトムが私の主な世話役になるのだろうと勝手に想像した。

3人に家まで連れて行かれ、部屋やトイレなどについての説明を受けた後、ジョディとトムが「バーイ」と家を出て行ってしまった。私は、何が起こったのか理解できず、「2人はどこに?」とたどたどしい英語でフランシスに尋ねたら、「彼らの家」という返答が来た。ここでようやく、私は、車いすで巨体の老女と見知らぬ土地で2人暮らしをすることになった現実に直面した。

リビングからトイレまでの数メートルを歩くだけで、「ゼー、ゼー」と息を切らし、シャワーもあまり浴びることができないから、一緒に車に乗ると彼女の体臭が鼻を突いた。

当時、自分の親とさえそんなに会話を交わさなかった私に、突然、「ホストマザー」と紹介された女性に心を開くこと事態、至難の技だったが、車いすで巨体となればなおさらだった。「ありがとう」や「おはよう」などの簡単な声かけさえ億劫だった。

 無口だけならまだいいが、私は数々の問題も起こした。夜中にフランシスの車で勝手に高速道路を暴走して、エンストさせ、レッカー車で帰宅したり、音楽を大音量で聞きながら運転し、スピード違反をしていた私を追いかけるパトカーのサイレンに気付かず、逃走車と勘違いされ、計4台のパトカーから挟み撃ちにされたりした。そんな問題を起こす度、フランシスは私を怒るどころか、「おもしろいことしたね」と逆に楽しんでいるようだった。 クラスメートとけんかをして停学処分を食らった時は、「ちゃんと、手加減せずに殴ってきたの?」と笑い飛ばしていた。

そんな問題児を、息を切らしながら毎朝、毎夕、4キロ離れた学校の送り迎えをしてくれ、年間30試合以上ある野球部の試合は毎試合観戦しに来てくれた。学校の宿題を手伝ってくれたり、夏休みには、1400キロ離れたグランドキャニオンまで車を運転して連れて行ってくれた。 当初は1年の滞在予定だったが、日本の高校に戻るのが嫌だった私を、フランシスは快く2年目も引き受けてくれた。

そんな恩人に対して、私は感謝の気持ちを表すどころか、「なぜ、こんな太った人の家を割り当てられたのだろう?」という自分勝手な被害者意識しかなかった。クラスメートから「ホストマザーがものすごく太っているのだって?」と馬鹿にされた時も、野球部のチームメートから「本当の母親じゃないから気にしない」と慰められた時も、「フランシスは素晴らしいホストマザーです」と言うことはできなかった。

アメリカの大学へ進学した後は、フランシスから電話はあったが、こちらから電話をすることは滅多になかった。何度かオクラホマを訪れたが、友人との時間を優先した。2002年にアメリカを去った後は、ほとんど連絡を取る事がなくなり、2004年11月にフランシスが糖尿病と口腔がんで亡くなったことさえ、友人を通して1年経ってから知った。それでも、それまで全く連絡してこなかったことに対する罪悪感で、オクラホマに行く気にはどうしてもなれなかった。

その後も、こちらからジョディに連絡することはなく、昨年の震災で、数年ぶりにフェースブックを通してジョディから連絡が来た。

ワシントンDC出張が決まった時、私は、真っ先にオクラホマ行きのチケットを手配した。過去の冷たい自分と向き合える時が、ようやく来たのだと思った。
プロフィール

seventh star 7

Author:seventh star 7
黒岩揺光  
1981年、新潟生まれ。7人兄弟の末っ子。15歳で米国留学して以来、住んだ国は計8カ国に。海外生活計17年。日本では毎日新聞記者、アフリカでは難民キャンプの工場長、アゼルバイジャンで主夫、ジュネーブで国連職員などを歴任。現在は中東ヨルダンで妊娠した妻に寄り添う専業主夫。
 著書に「僕は七輪でみんなをハッピーにしたい」(ユーキャン)「国境に宿る魂」(世織書房)。
メール連絡先 yokuroi×hotmail.com (「×」を「@」にしてください) ツイッター:@YokoKuroiwa

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