生まれて初めて母との対話 その2

家族写真


私:アゼルの主夫仲間と時間を過ごす内、夫婦どちらかの稼ぎで家計が支えられるなら、もう片方が育児に専念した方が、子どもにとって、ひいては家族全体にとって良いのではないかと思い始めた。うちの場合、お父さんの稼ぎだけで生活はできたわけだけど、お母さんは、なんで、私たちを生後間もなくベビーシッターさんに預けたの?

母:当時、育休制度っていうのがなかったからね。あなたが生まれた時はあったから、2ヶ月取った。それに、子どもは親だけでなく、他の子どもと時間を過ごすのってとても大事なのよ。生後6ヶ月だともう人見知りが始まるから、生後2ヶ月から他の幼児と時間を作ることが大事だと思っているの。

後、私は、自分にキャリアがなければ、夫婦の対等関係が維持できないとも思っていたの。私の父親は、母親に対し好き勝手していたけど、母親から離婚は絶対言い出せなかった。生活ができなくなるからね。父親が母親に「嫌なら出てってもいいんだぞ」と言う姿は痛ましかったなあ。でも、自分の子どもが本当に私を必要とするなら、いつでも仕事を辞めるつもりでいたけどね。

私:なるほどね。でも、他の幼児との時間は、自分で面倒を見たとしても、確保できるよね?近所にいる幼児たちと遊ばせればいいだけのことだからさ。私が生まれた時は育休制度があって、1年休んでも良かったのに、2ヶ月だけしか休まなかったよね。男女平等の観点からはとても喜ばしい制度なのに、なぜ、それを最大限使わなかったの?

母:なんで、育休が男女平等につながるの?

私:だって、育児を理由に仕事を辞めなくてもすむようになったってことでしょ?

母:そうね。制度ができたばかりのもので、必要悪だと思っていたのかな。どうしても必要じゃないかぎりは使う物でもないと思っていた。私にとって、家で一対一で子どもの相手をするということが退屈だった。みはえ(二女)の時、1年くらい専業で育児をしたけど、辛かったわ。子どもが一人で遊んでいる時は、こちらは基本的に何もすることがないからね。作家だったり、文学的素質があったら、それを見ながら文章を考えることもできたのかもしれないけど、そういう素養がなかった。

私:最初の1年くらいは付きっきりでいる親が結構いると思うのだけど、そういう人たちは大丈夫なのに、なぜ、お母さんは退屈になってしまったのだろう?

母:専業主婦にはなりたくないという想いがとても強かった。みはえの時は、保育士の資格がなくて仕事ができなかったから、主婦になっただけ。

私:いつから主婦に対しての抵抗があったの?

母:小学校のころから。私の母は、毎日、同じこと(家事)をするのを嫌がっていた。いつも「ああ家事なんていやだいやだ」って言ってた。彼女が亡くなる寸前、生まれ変わったら何になりたいか尋ねたら、「研究者」と言っていた。母は小学校の成績が良いことだけが自慢で、「女」であるがゆえに、それ以上、教育を受けることができなかったの。大学卒の父が解けなかった数学の問題を解いたから、父が母に惹かれたのよ。

私の友人の中には、主婦でいるのを楽しむ人もいる。色々な物を手で作ったりね。「母親」として、「妻」として誰かを支えるという仕事にやりがいを感じる人だっていると思う。でも、私は、どうしても「私」が直接社会と関わりたかった。障がい者差別、男女差別、そういう関心がずっとあるから、その社会とのつながりを断つ生活は考えられなかった。 1年の専業主婦生活を終えて、保育園に勤務するようになった時、「奥さん」から氏名を持った一人の人間になれたような気がしたわ。

私:社会的関心への原点は何?おばあちゃん?

母:小学6年で国会議員になりたいと思っていた。社会を良くするんだって、漠然と考えていた。「女らしくしろ」とか言い続ける母親にも反発していた。

私:お母さんは、若い頃から子どもが欲しいと思っていた?

母:いや。子どもはあまり好きじゃなかった。やすのぶ(弟)の世話もあまりせずに、いつも遊び歩いていた。だから結婚する時も子どもは産まないと話していた。でも、姪や甥が生まれるにつれ、子どもが可愛いと思うようになり、社会人になって「子どもがいないのは半人前」みたいな風潮もあったから、産むことにしたの。

私:それで、産まれて来たのが男と女の双子だった。(私の長兄と長姉)

母:そう。とても可愛くてね。男と女の子を同じように育てたら、男女の違いはどう出てくるのか実験をしてみたくなったの。それが楽しくて楽しくて、男女のカップルをもう二組欲しくなった。この時、高校教師から、保育園の保母になることに決めたの。そうすれば、より多くの子どもたちの成育が観察できるでしょ。

私:それで、6人子どもができ、私が予定外で生まれたわけね(笑)。家で、一対一で子どもの面倒を見るのは退屈だけど、保育園で複数の子どもを見るのは退屈じゃないんだね。

母:そうよ。だって、日々、園内で色々な問題が起こるでしょ。

私:主夫の友人たちは、「自分の子どもとの時間はお金に返られないものだ」って言っていた。お母さんにとって、私たちとの時間はどうだったのか?

母:昼間は預けて、夜一緒にいればそれでいいと思った。

私:なんで、そう思ったの?

母:昼間は別の子どもたちと一緒にいるわけだからね。

私:でも、その子どもたちとお母さんは一生、一緒に過ごすわけではないでしょ。自分の子どもたちは、死ぬまで一緒だからね。今、主夫になってみて、自分の人生を振り返ると、色々な疑問が浮かび上がってきた。なんで自分はこんなに競争心に満ちた人間なのか。なんで、家の兄弟はみんな違うプロ野球のチームのファンにならなければならなかったのか。全員で同じチームを応援する家族だって一杯いるはずだ。なぜ、自分はいつも兄姉より勝らなければならないと思い込んでいたのか。他人から認められるために必死だったのか。なぜ、自分は妻のスージンに対して思いやりを持って接することができないのか。もしかしたら、私が生後2ヶ月でベビーシッターに預けられたということと、何かしらの因果関係があるんじゃないかと思い始めた。要するに、私は、お母さんからの愛情を求めていた。でも、お母さんには、私よりも大事なものが常にあった。だから、私は、他の兄や姉よりも多くの愛情をもらうために、彼らと違うことをし、お母さんから認めてもらいたかったのかもしれない。

母:そう、、、。ようこうがそんな風に話してくれるの初めてだから嬉しいわ。確かに、ようこうは中学時代、とても静かだった。家の中では、いつも表情を強ばらせていたね。私は、ようこうが話をするのが好きでないのだと思っていた。

私:悩みがあってもお母さんには恥ずかしくて話せなかった。まあ、お母さんに何でも話せる中学生もあまりいないと思うけど。今でも、お母さんのささいな行動が気になることがある。例えば、今年の8月に、重い荷物があるから、車でお父さんの診療所まで送ってもらう時、車の中で「あなたが一人でこの荷物を運転して運んで、車を家に戻してから、歩いて診療所まで行くことができたのではないか?」と尋ねていた。そんな事は車に乗る前に言ってほしいし、もっと言えば、診療所は家から車で一分もかからないわけだから、それくらいの時間を息子のために捧げてあげようという想いはないのかと、少し苛立った。

その一週間前、私の友人が6人、東京から遊びに来ていて、車が2台必要だったから、お父さんの診療所から車を一台借りて、お母さんにもう一台の運転をお願いしたことがあったよね。友人たちを駅まで送り届けた後、私は、車を返しに、診療所の駐車場に車を停めて出て来たら、お母さんの車がいなくなっていた。携帯に電話をしたら「なんか、駐車に手こずっているようだったから、先に行ったのよ。そこからなら歩いて帰れるでしょ?」と言った。 確かに歩いて15分の距離(上記の診療所とは別のもの)だったけど、8月の真夏日で外の気温は35度。一緒にいたスージンは日差しに弱いから、それなりの負担になる。せめて一言「先に行っているわよ」と言うことができなかったのか、と、とても心を痛めた。

とにかく、お母さんにはやらなければいけないこと、やりたいことがたくさんありすぎて、私の入る隙がなかった。お母さんに褒められたという記憶もなかった。お母さんは、私の学校の成績とか気にする親じゃなかったから、それはそれで嬉しかったけど、スポーツに関しても、成績に関しても、褒められたという記憶がない。

私が小学4年の時、お母さんは保母を辞めて、自宅を改装して、登校拒否児や障がい者の駆け込み寺を作った。私も、たまに学校をズル休みして、そこに来る子どもたちと遊んだ。それで、ある日、私が、一つ年下の男の子とビリヤードをしたことがあったけど、その時、お母さんは、私と彼、どちらを応援したと思う?

母:年下の方を応援しただろうね。

私:そう。その子が玉を入れたら喜んで、外したら、残念がっていた。俺はそれがすごい辛かった。

母:ああ、そう、、。

私:なんで、お母さんは、別の人の子を応援するのだろうって。 私は、その時、妙な嫉妬心にかられた。おそらく、そんな小さいことが積み重なって、自分の中で、「お母さんには、私よりも大事なものがある」って思っていたのかもしれない。だから、必死に競争に勝って、誰かから認められてほしかった。

母:そうなのね。私は、たくお(父)とたかひろ(長兄)に対しては、徹底的に褒めなかったのよ。「男は褒めたらもっと威張る」って思っていたのね。だから、たかひろなんて、「俺は親から褒められない駄目な子どもだってずっと思ってた」って言ってたわ。7人の子どもたちの競争意識は本当に高かった。特に、上の双子。(長兄と長姉は双子)どっちがどんな成績で、どんな作品を作っていて、どんなことをしているのか逐一監視し合っていた。家族によっては、子どもが全員医者になる家もあるのに、私の子どもたちは、全員、違う職業についた。私は「子どもはそれぞれ違う色を出せばいい」と思っていたから嬉しかったけど、まさか、みんな違う道を選ぶとはね。

私:そう考えたら、私は末っ子だから一番大変だった。だって、生まれた時に、すでに6人もライバルがいたわけだから(笑)。一番上の二人は少なくとも、一時期はお母さんを独占できた。まあ、上の兄姉に言わせれば、私が一番甘やかされたと言うだろうけどね。
でも、そんな競争意識の高い双子がいて、片方は男だからという理由だけで褒めなかったの?たかちゃん(たかひろ)は大変だっただろうね、、、。

母:そうよ。大変だったと思う。母乳する時、赤ちゃんを見ながら母乳するのが良いと言われたけど、私は、本を読みながら母乳していたのよ。

私:本を読みながら?そしたら、赤ちゃんは、おっぱいを飲みながら、お母さんを見上げても、お母さんは本を読んでいるから、自分よりも本が大事だって思っちゃうんじゃない?お母さんだって、セックスする時、相手が本読みながらだったら愛を感じないでしょ(笑)?

母:本を読みながらセックスなんてできないでしょ!田舎に来るとね、なかなか、自分の知的好奇心を満たしてくれる物がないのよ。(両親は東京で結婚し、父が新潟の南魚沼の病院に招かれたため、母は仕事を辞めて父に付いて行った)それに、夫に家事/育児をやらせるために、戦う準備をする必要があった。だから、「女」と名のつく本は片っ端から読んで、たくおに論理的に説明する必要があったのよ。

私:お父さんは最初は家事はやりたがらなかったの?

母:貧しい家庭に育ったから、「僕は高校時代にたくさん家事はやったからもういい」って言っていた。共働きになってからも、「僕の仕事の方が忙しいし、収入が高い」と言って、家事はやらなかった。確かに、保母よりも医師の方が収入は高いし、忙しい。でも、私は、保母の職がほとんど女性で占められ、給料が低く抑えられている現状とかを話し、なんとか説得しようとした。口で言うと喧嘩になるから、手紙で伝えた。そしたら、洗濯や弁当作りはやってくれるようになった。

私:子育てをライフワークといいながら、2ヶ月で自分の子どもを預けるということについて、何か負い目はなかったの?

母:義母は「チヅコさんは、生みっぱなしで、子どもは全員預けている」と言っていた。でも、私は、ちゃんと育てていると思っていた。昼間預けるということは育児放棄だとは思っていない。これについては、松田道雄さんの本が私の支えになった。 その本は、子どもは社会の中で育つのだから、親との一対一の世界では、子どもは退屈だと言う。今でも、3歳までは母親の手でとか、保育所に預けるのは可哀想と言う人がいたけど、松田さんは、保育所でも子どもは幸せになれると書いてあった。

私:それは統計に基づいているもの?

母:そのうち、統計でわかってきたことは、育児ノイローゼは、勤めている母親ほどかかりにくいということ。

私:でも、それは、母親側の都合じゃない?まあ、母親がノイローゼになったら、子どもも困るけどさ。

母:そうよ。子どもにとっても大変よ。虐待にもつながるし。

私:子どもが2歳まで母親に育てられた場合と、数ヶ月で預けた場合、子どもに違いはでるのか?そういう統計はあるのかな?

母:預けられた先にもよるでしょ。テレビを見せっぱなしの所もあるし。私立の保育所なんてピンからピリまであるからね。

私:私たちが預けられた先は、しっかりした所だと思っていたの?

母:うーん。確信はできないよね。自分の子どもが劣悪な環境になったら、別の保育所に移すという選択肢もあると思う。でも、保母が悪くても、友達と遊んで楽しけりゃ良いやということもあるよね。

私:お母さんは、自分の本にも書いているけど、他の保母さんとは育児の考え方に違いがあったよね?それは、お母さんとこの町全体の違いでもあると思うのだけど、だとしたら、自分の子を他の人に預けるということに抵抗はなかったの?しかも、生後数ヶ月という一番大事な時期に。

母:なるべく、子どもがやりたいことはやらせてくださいってベビーシッターさんに伝えていたけどね。子どもがその預け先を嫌がるなら、それは考えないといけないけどね。

私:子どもが嫌がっているのかどうかって、わかるもんなのかな?

母:そうね。ヨーコーが、小学校の担任を嫌がっていたことなんて私全然知らなかったもんね。

私:お母さんは、「子どもが私を必要とするなら、いつでも仕事を辞める気でいた」とか「子どもが嫌がるなら預けない」とか言うけど、子どもの意志を汲み取るのって難しいのではないかな?少なくとも、ビリヤードでお母さんが他の子を応援した時、私は「私を応援して」とは言えなかった。だから、お母さんは子どもが必要な時は駆けつけるっていうけど、それを察するのは難しいんじゃないかな。やっぱり、子どものころから専業主婦っていうものに抵抗感があったのが一番大きいんだね?

母:そうね、、。自分の親が専業主婦を楽しんでいたら違っていたかもしれないけど、私の母は、本当に行動力があった。だから、主婦であることを楽しめなかったのよね。

私:専業主婦を1年やった時、精神的不安定になったりした?

母:毎日文句を言っていた。そんなに文句を言われるくらいなら、働いてくれた方がいいって夫は思っていた。

私:それをみいちゃんは感じ取っただろうね。近くで嫌々やっているの。

母:そうかもね。

私:大事な娘との大事な時間とは思えなかったの?

母:彼女にとって私といることがどうかっていうことをあまり考えなかった。やっぱり、かなり自己中心的に、「私にとって」を第一に考えていたな。母親としてかなり未熟で、他の母親たちは一人目から、子どもが病気になったら、自分が代わりに病気になってあげたいって思うけど、私は5人目くらいまでそんな考えはなかったな。

私:社会を変えたいという気持ちが強かったということ?

母:生まれた時から女であるがゆえに住みにくかった。積極的なこと、行動力があることは、男であればプラスなのに、女であればプラスに評価されなかった。

私:小学校では評価されなかったの?

母:友達いなかったね。いつも周りをいじめていたし。他の子のテスト用紙を見て「こんなのもわからないの?」って言ったりしていた。他の子の気持ちがわからない子だったな。

私:生後数ヶ月で預けるということが、何かしら、長期的にマイナスに転じるとは思わなかった?

母:子どもにとって、集団でいる時間がどれくらい必要かっていうのは、子どもによって違うと思う。今の保育時間は、親の労働時間に合わせられていて、8時間となっている。それは子どもにとって長いと思うの。4時間とか6時間とかにした方が、子どもにとって、家族と一緒にいる時間になったと思うのだけど。

私:だったら、それこそ育児休暇を取って、子どもと一緒に過ごした方がよかったじゃない。そこに矛盾は感じないの?

母:まあね。

私:(笑)いや、まあねじゃなくてさ。

母:家族でっていう時、一対一ということじゃなくて、家族全員ってことでしょ。

私:育児休暇をとっても、それでは、特定の子どもとの一対一の時間であって、7人の子どもとの時間ではないから、家族との時間ではないということ?

母:ううん。

私:でも、別に、一対一でもいいよね?

母:まあ、そうだけどさ。子どもとの一対一っていうのは退屈なのよ。

私:6時間労働になって家族との時間が増えるのがいいけど、一対一は退屈ということね?

母:(笑)うん。

私:意味わかんねえな(笑)。

母:母親としては欠陥人間だったってことよ。子どもたちは私を良く受け入れてくれたと思うよ。私自身が母親から無限の愛みたいなのを感じていないからね。困った時に母親のところに行くというのがなかったからさ。私の子どもに取っては大変だったと思うよね。

この人は7人くらい子どもがいないと、ちゃんとした母親になれないと思われたから、神様から7人授かったのかと思う。一番上の双子に対してなんて、本当にひどかったと思う。

私:どういうところがひどかったの?

母:一番上二人の時は、「早く寝なさい」って叩いたのよ。私が本が読みたいから、という理由だけでね。

私:叩いたの?寝かせるために?

母:そうよ。叩いたら寝ないよね(笑)。たかひろ(長男)のことはどれだけ叩いたことかわからないくらいよ。彼らからしたら母親とは思えなかったんじゃないかな。もえちゃん(長女)なんか、おばあちゃんの方が好きだったしね。

私:自分も、自分の時間が大事で、スージンを悲しませてしまうことがよくあるよ。この前、スージンの事務所に日本から荷物が届いたから、車で取りに来てとお願いされた。タクシーなら3−400円の距離だから、「タクシー呼んだら」と言ったら、スージンは「20分という時間を妻のために捧げられない夫なら、離婚した方がいい!」と怒ってしまった。それで、離婚されたら収入源がなくなると思い、真っ先に車で駆けつけたけどね(笑)。

母:そういう時は、あなたが謝るの?

私:うん。

母:そうなの。似た者同士なのね(笑)。私が執着するのって「時間」なのよね。最近は結構時間のゆとりが出て来て、こうやってあなたと話すこともできるようになった。読む本が溜まっているわけでもないし、書きたいことがあるわけでもないし。

私:それは喜ばしいこと?

母:微妙ね。

私:何かしらしないと落ち着かない?

母:今も、しえ(孫)のDVDを借りに行くと、選ぶのに時間がかかるのよ。だから、待っているが嫌なのよね。

私:なんで、自分の時間に執着するようになったの?社会変革のために一分も無駄にできないということ?

母:読書時間かな。読むのが遅いから、人が読んでいる本を自分が読んでないことがあって、たくさん本を読まなきゃなって感じだったな。なんか、本から追っかけられている感じだった。あれも読みたい。これも読みたい。読まなきゃ。人に伝えたいって思いもあるしね。

時計は午後1時15分になり、私たちは席を立った。「インタビューさせてもらったからここは俺が払うね」と私が2300円をレジで払った。母は財布を出すそぶりはしたものの「あ、そう」とだけ言った。

話し合いは終始穏やかだった。母が父と長兄を褒めなかったと話した時、少し、目が潤んでいたくらいで、たまに笑いが起きるくらいスムーズに行った。母は次の日に家族メール(家族全員が入ったメーリングリストがある)に「ようこうから色々インタビューされて面白かった。皆さんも次実家に来る時は、何か質問を用意してきてね」と送った。

間違いなく、32年の人生で、母親と最も深い話をした日だった。母親の一言一言が自分の肩に長年入り続けてきた力を、ポンプの様に吸取っていった。

成績優秀だったのに「女」であるがゆえに「主婦」になり、夫の好き勝手な行動に文句を言えなかった祖母。そんな不平等な社会を変えるべく、7人の子どもを産みながらもキャリアを持ち続け、一分一秒を惜しんで、読書に励み、執筆や講演で変革を訴え続けた母。そんな忙しい母から認められるために、15歳で日本を出て、計6カ国13年にも及ぶ海外生活を経て、キャリアよりも家族との時間を優先するため、「主夫」になった私。

霧で視界が悪い山を登り切り、霧が晴れて、振り返ると、これまで歩いて来た山道が見えた時の様な、清々しさがあった。

母はミーティングから戻って来たら、「これから(障がい者が働く)パン屋で売れ残ったパンを、売歩いてくる」とまた出て行ってしまった。あと何年、こうやって駆け巡り続ける母の姿を見ていられるのかと考えたら、初めて私の目が潤んでしまった。
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生まれて初めての母との対話 その1


「主夫」になり1年近くが経ち、アゼルの主夫と接するうち、私は自分の両親の育児方針に疑問を持つようになっていた。

今年の夏に日本に帰国した際は、実家で2週間ほど過ごし、北海道、滋賀に住む兄姉の家を初めて訪れ、親や兄姉と時間を過ごすことができた。これも主夫になったおかげである。実家近くに住む次男とは二人きりで夕飯を食べ、「二人きりでのご飯なんて12年振りだな」なんて話をした。別に仲が悪いわけではないのに、私の海外暮らしが長い上、それぞれに家族ができると、兄姉とはいえ、なかなか二人だけの時間というのは取れない。

両親と一緒に美術館へ出かけた日、母親と昔話になり、「ヨーコーは子どもの頃、甘えん坊で、ベビーシッターさんに預ける時は、母乳が欲しくてずっと大泣きしたのよ」と言った。私が「何歳から預けられていたんだっけ?」と尋ねたら、「生後2ヶ月」という答えが。

私は、自分の耳を疑った。この32年間、自分がベビーシッターや託児所に預けられていたことは知っていた。でも、まさか、生後2ヶ月という早い段階で母親の手元を離れていたなんて、、。

アゼルバイジャンで、様々な「主夫」と交流をし、父と息子がレストランで肩を組んだり、日常的に映画やキャンプに出かけたりと、私が自分の親とはありえなかった関係を構築しているのを目の当たりにした。それで、「夫婦どちらかの収入で家計が支えられるなら、子どもが小さい時は、片方が育児に専念した方が、家族全体にとっては良いのではないか」と思い始めるようになった。

しかし、私の周りは、夫婦どちらかの収入だけで家計が支えられるのに、夫婦共働きの家庭が多い。例えば、新潟の実家近くに住む私の二姉(42歳)。夫婦揃って弁護士で、それぞれの法律事務所を持ち、いわば自営業。10、8、5歳の子ども3人おり、平日は姉、義兄、私の母の3人で育児担当を持ち回りし、家族5人揃っての夕食は週末に限られる 。子どもが1、2歳の時からずっとこんな感じで、先日、5歳の姪が熱を出した時も、二人とも仕事は休まず、姪は病児保育に預けられた。施設は伝染を防ぐため、4畳くらいの狭い部屋に仕切られ、そこに一日中入れられる姪が可哀想で仕方なかった。

そんな姉に疑問を抱き始めていた矢先、私自身が生後2ヶ月で預けられていた現実を知り、姉に対する疑念など二の次になった。私の父は医者である。私が生まれた当時は町立病院の院長だった。家計のことを考えたら、母が働く必要は全くなかった。にもかかわらず、上の兄姉も同様、生後まもなく、ベビーシッターに預けられたという。

母は育児の専門家として知られる。元保母の体験をもとに、官僚的な保育園の体質に警鐘を鳴らし、園児の個性を重んじる重要性について説いた著書「おお子育て」(教育史料出版会、1981年)が2万部売れ、全国各地から講演依頼が届いた。そして、「続、おお子育て」(同、1986年)では7人の子どもを育てた体験を綴り、その後も執筆を重ね、著書は合計9冊に。当時生まれたばかりの私は、親が本を出すことが普通のことだと勘違いし、同級生に「お前の親はどんな本書いているがあ(書いているの)?」と尋ねていた。

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本では「育児をライフワーク」と書きながら、自分の子どもは生後間もなく他人に預けっぱなし、、、。何か腑に落ちないものがあり、私は、改めて、本を読み返してみた。

「続、おお子育て」には各子どもの章があり、「揺光章」によると、私は生後46日で、ベビーシッターさんの家に預けられた。母乳が欲しくて泣きじゃくり、ベビーシッターさんから「母乳を辞めてくれ」と言われるほど、ずっと泣きじゃくったという。これについて母は、当時「(勤務先の保育園で)あと1ヶ月で卒園していく子どもたちを受け持っており、その子たちの気持ちを考えると、なんとしても3月いっぱいは(仕事を)がんばらなくてはと思った。揺光にはがまんしてもらった」と記している。

そして、子どもたちが卒園した後の、4—5月の2ヶ月間、母は「育児休暇」を取った。この期間で、母は1日も早く職場復帰するため、おかゆなどの離乳食を始め、6月、私を託児所に預けた。本には「(託児所でも)1日中泣いている日が続いた。でも、それもほんの一ヶ月くらいで卒業し、、」と書かれている。私からしたら「ほんの一ヶ月」ではなく「一ヶ月も!」と思ってしまう。つまり、人生で一番重要な時期である生後6ヶ月の間の計2ヶ月間(3月と6月)泣き続けたということだ。さらに、ネットで調べると、生後3ヶ月で離乳食を始めるのは、あまりにも早すぎで、乳児の体に負担がかかるリスクがあるという。母は私を2ヶ月間泣かせ、体にリスクを負わせてまで、職場復帰を、いや、保育園の子どもたちと一緒にいることを優先したのだ。

本を読み返せば読み返すほど、この32年間、「なぜ?」「なぜ?」とバラバラに考えていたことが、一つの糸で結ばれていく思いだった。なぜ、私は5歳まで母のおっぱいをしゃぶり続けたのか?なぜ、私は中学までおねしょを続けたのか?なぜ、私は兄姉と同じ球団ではなく、広島カープを応援したのか?なぜ、私は人一倍競争意識が強いのか?なぜ、、、。

母は本で、「3歳ころまでを極端な愛情不足の中で育った子どもは、後になっては、その埋め合わせがつかないという例をよく耳にする」(おお子育て、130ページ)と書いている。それでは、私みたいに、最初の6ヶ月の内の2ヶ月間、母親を求めて泣き続けた場合は、どうなるのだろう?

本の「揺光章」の最後、テレビ局が家を取材に来た時、「お母さんはどんなお母さんか?」とレポーターが私に尋ねた時のことが紹介されている。当時3歳の私は「虹」と答え、その理由は「きれいだから」。この虹発言は、私がどれだけお母さん子だったのか象徴する言葉として、家族内でずっと受け継がれていた。しかし、今一度、改めて、当時の私の心境を探ってみた。虹は、きれいだが、見たい時に見ることができず、見えたとしても、決して触ることができない。言い得て妙とはこのことだ。

10月18日夜、東京ドームでカープの敗戦確定を見届け、19日、東京の三兄の家に立ち寄って、最終の新幹線で新潟の実家へ戻った。午後11時半に家に着き、居間のテーブルに「先に寝る。布団は和室に敷いてある」という母の置き手紙があった。

20日朝、午前8時くらいに起きると、父はすでに出勤し、母は、テレビを見ながら日課のストレッチ体操をしていた。「ああ、起きた?」と、絨毯に横たわって足を開いたり閉じたりしながら、いつもの甲高い声で母は言った。 「カープ残念だったわね」と言い、台所で、朝ご飯のパンを用意してくれた。「パン、パン、パン」という母のスリッパの足音の中に「ブッ!」というおならの音が混ざるところは、何年も変わらない。そして、体内から臭気を放出したことなど全くおかまいなしといった様子で「コーヒーでいいの?」などと聞いてくるところも変わらない。こんな愛きょうある母親だから、私たちの間では「チヅコ」とファーストネームで親しまれている。

保母を20年した後、自宅を改造して、登校拒否時や障がい児が通える駆け込み寺を8年運営し、数ヶ月だが参議院議員も勤めた。今は、社会福祉法人の理事長として、老人のケアハウスやグループホーム、障がい者が働くパン屋やカフェの運営をしている。

私がパンをかじり始めると「じゃあ、すずかけ(老人のケアホーム)にミーティングに行ってくる」と出かけて行った。家に一人になり、考えた。母親に尋ねるべきかどうか。なぜ、私が小さい時、私よりも、保育園の子どもたちを優先したのか?

うーん。母親のすべてを否定してしまうようで、躊躇してしまう。でも、母とゆっくり話せるのは年に1—2度しかない。「さしさわりのあることを言い合おう」というキャッチフレーズが母の名刺に綴られていることを思い出し、私は思い切って、母の携帯に電話した。


「今日、昼飯でも行こう」。母は「もうすぐ家に着くから、その時に」と言い、電話を切った。家に来ると、「12時にケアホームの入居者の人にこの前の市議選挙の結果報告と挨拶をしなきゃいけないし、1時半からはミーティングがある」と言う。

私は「12時の挨拶は明日でもいいだろ?」と言うが、「昨日、市議選が終わったばかりだから、今日しなきゃいけないのよ」と引かない。私は、車で15分かかる自然食レストランに行きたかったため、「じゃあ、ちょっと時間的に難しいな」と言い、部屋に戻ると、3分後、母が「わかった。12時の挨拶は、午後6時にずらせるから、行きましょう」と言って来た。

ズボンを履き替え、財布をポケットに入れ、準備をしていると「何やっているの?行かないの?」と母。とにかくせっかちで、周りの人間が自分ペースで動くと思うところも、ずっと前から変わらない。

私の運転で行き、茅葺き屋根のレストランに入り、私はあんかけ豆腐定食を、母は、鮮魚定食を頼んだ。水を飲みながら、私は、勇気を振り絞って母に切り出した。

お義父さんとお義母さんにお礼の手紙


お義父さん、お義母さんへ

この度は長い間、お世話になりました。とても楽しい時間を過ごすことができました。義息子を3週間もお世話してくれる両親はなかなかいないと思います。本当に思いやり溢れた家族に恵まれ、私は幸せです。

私は自己主張の強い人間です。だから、お二人には、色々、自分の意見を申し上げ、時にはお二人の信条を傷つける様なこともあり、大変、申し訳なく思っています。

私は、お二人とは全く違った環境で育ちました。

私は、朝鮮戦争直後に生まれたお二人と違い、子どものころ飢えた経験も、飢えた人が身近にいたこともありませんでした。「食べるためにはどうするべきか」「妹や弟の生活を楽にするにはどうすればよいか」と考える必要はありませんでした。家族の「命」を本気で心配したこともありません。食べるものに困らなかった分、「自分は何をしたいのか?」のみ、考えることが許されました。

私は、お義父さんと違い、十代で両親を病気で失うことはありませんでした。4人の弟や妹を養うために、サウジアラビア、イラン、リビアなど生活環境が厳しい場所へ単身で出稼ぎに行く必要もありませんでした。私は、「新しい世界を見てみたい」という好奇心だけでアメリカに行くことができました。

私は、お二人と違い、表現の自由がない、軍事独裁政権下で生きたこともありません。お二人が若い頃、独裁政権の下、韓国の経済は急速に延びました。お義父さんが「色々な意見が乱立すると進むものも進まなくなる。決断力があるリーダーの意見が通りやすい方が良いときもある。韓国の経済は、当時の朴正煕のおかげで良くなった」とおっしゃっていましたね。

スージンが学生時代、人権についての書物を読んだら「そんなものは読むな」とお義父さんが言われたのも、政権を批判したら家族全員が不幸になると考えられたからでしょう。


私は母親から「迷惑を掛け合おう」と育てられました。色々な意見を出し合う事で、その人それぞれの個性が伸びるという考えでした。

だから、ヘジン(義妹、25歳)の扱いについても色々議論しましたね。お二人は、宗教や賃金の差を理由に、ヘジンがカンボジア人男性と二人で食事をするのは良くないと思う。ヘジンが学びたい英語ではなく、学びたくないピアノを学ぶべきだと思う。ヘジンがなりたい幼稚園先生になるためには、それが必要だと思うから。

私は、ヘジンが食事をしたい人と食事をすればいいと思うし、学びたい英語を学べばいいと思う。それが間違った選択だったとしても、その失敗から人は成長するものだと思うから。そして、いつか、ヘジンはお二人なしですべて決断しなければいけない日がやってくるのだとしたら、なおさらです。

私は10歳で、友人と二人で1500キロ以上離れた沖縄を旅行しました。航空券の手配、宿泊所の選定/予約まですべて自分たちでやりました。帰りの寝台列車でお金がなくなり、お昼ご飯を食べるために、テレホンカードを列車内で売歩きました。そしたら、隣の乗客が買ってくれ、なんとか昼ご飯を食べることができたのです。お金を使いすぎたという失敗があったからこそ、自分で人間関係を作って、生き抜くという喜びを、学ぶことができました。

それからアメリカへ行き、英語を学び、様々な国を駆け巡るうち、スージンに出会い、お二人に出会うことができました。自分の数々の失敗があったからこそ、人とのつながりを求める欲求が沸き、お二人に辿り着く事ができたのです。

お二人は、常に、家族に愛情を注いでこられました。私の事も本当の息子の様に可愛がってくれました。
例えば、私が一人で出かけた日、お義母さんから私の携帯電話に不在着信が10分で5回あった時がありましたね。私は、お義父さんが死んだのかと思い、あわてて電話をかけましたが、お義母さんは「今日の昼ご飯、何食べたの?」と聞いてきて、「なんで、そんなことのために5回も電話するんだ」と思いました。

私が嫌がる「針灸医院」に無理矢理連れて行かれることも、「学校が終わったらすぐ帰って来なさい」「昨日はスージンと電話で何を話したんだ?」「子どもはなんで産まないのか?」と聞かれることも、生まれて初めての体験でした。

最初は煩わしいと思うことも多々ありましたが、徐々に、お二人が私を想ってくれるからこその言動だと理解できるようになりました。

妥協して週2回通った鍼灸医院ですが、少し足冷えが治ったように思います。私が一泊二日で旅行に行った帰り、空港まで家族3人で出迎えてもらった時は、心が温まりました。

私の家族なら、間違いなく「誰か、ヨーコーの迎え!」と母親が叫び、家族の一人が行かされることになっていたでしょう。

昨日、1週間の旅から日本の実家へ戻ったのですが、「駅から歩いて来なさい」と言われました。駅から家まで歩いて10分の距離だからだと思いますが、おそらく、お二人なら、駅まで出迎えに来てくれたのではないでしょうか。

 8年前、私が大学院でパソコンを使いすぎて腱鞘炎になり、実家から車で20分かかる整体医院に通った時です。免許がない私を、母親が毎日、送ってくれましたが、母親は「お願いだから早く運転免許とって」と言っていました。

私の両親は常に忙しく、私は生まれて数ヶ月で託児所に預けられました。お義母さんの様な「専業主婦」は家におらず、私に不在着信を5回もしてくれる人はいませんでした。

お二人の、「愛情表現」に対し、たくさん失礼な事を言って、申し訳ありませんでした。自分とは違う考え方に接し、それが大事な人の生育に関わる場合、(この場合はヘジン)、私は自分の意見をその人に伝えなくては気がすまない人間です。

「差し障りのあることを言い合おう」という母親の教えだけでなく、6カ国、計13年間に及ぶ海外生活で、「空気を読む力」だけでは到底理解できない文化/風習と触れ合った経験も大きいと思います。

韓国と日本の関係はぎくしゃくを続けています。ネットなどでは、色々な過激な文言も飛び交っています。こういった発信をする人の中に、一体、どれくらいの数の人が、お互いの言語を話し、私たちの様に信頼関係を作ろうと努力した経験があるのか、疑問に思います。

同じ屋根の下で暮らすために、お互いの宗教や言語を学び、謙虚にお互いの生い立ちに耳を傾け、対話を続ければ、いつかお互いが納得する答えが出る様な気がします。

お二人と過ごした3週間はとても有意義でした。本当にありがとうございました。まだまだ、私の韓国語は不自由です。これからも日々努力し、次はもっとお二人と話し合えるよう、頑張ります。

ようこう


カンボジア家族4人

私がカンボジアを去る時、プノンペン空港で。

アンコールワット

一泊二日で一人で訪れた世界遺産、アンコールワット。プンペンから飛行機で40分。

カンボジア家族

今年1月からカンボジアで新生活を始めた妻家族。食事はもっぱら韓国料理。

日本に馴染めない日本人 その2 男女平等は達成されている?


毎日新聞時代は本当に良い上司に恵まれた。私の書きたい記事に応じて、全国色々な所へ出張に行かせてもらい、たくさんわがままを聞いてもらった。

それでも、広島の尾道に勤務していたころの上司、Yさん(当時40代)とは、私の記事の掲載を巡り、一度だけ対立した。記者が持ち回りで好きなテーマで書くコラムに、私が男女平等をテーマに書いたら、「20年前とか30年前ならわかるけどさあ、もう、21世紀だよ。男女平等なんてとっくに達成されているじゃないか」と言い、掲載を拒んだ(記事の詳細な内容は残念ながら、どうしても思い出せない)。

私:だったら、なんで、私が料理することを知ると、「え?料理するの?」って驚く人がたくさんいるのですか?色々な国に住んできたけど、男が料理することにこれだけ驚かれるのは、日本くらいです。

Y:その驚く人って、何歳くらいの人なの?

私:すべての世代でいます。この前、支局でシャブシャブしましたけど、残りの肉を私が家に持ち帰ろうとしたら後輩(女性)が「え?それ何にするのですか?」ってマジ顔で聞かれて、答えに困りました。私が、あの肉を家で茹でて、シャブシャブの垂れに付けて食べることに、それほど違和感があるものなのでしょうか? 同じ年代の一人暮らしの男性でも、家のガスコンロを触ったことがないなんていう人、結構いますよ。

Y:俺は毎日ガスコンロつけているよ。

私:男女平等が達成されているなら、なんで、会社内で育児休暇を取る男性が少ないのでしょうか?

Y:何年か前に、育児休暇を取った男性記者がその体験を記事にしていたけどな。

私: 記事にするってことはそれだけ珍しいっていうことじゃないですか。男性社員の育児休暇取得率はどうなんですか?

Y:、、、。確かに、そういう意味では、まだ男女平等は達成されていないのかもしれないな。わかりました。

ということで、記事は翌日掲載された。

Yさんは、当時、読売新聞の地域面が「活躍する女性」の連載をしていたのを見て「いつの時代の話だかなあ。もう、男性とか女性とかいう違いなんてないだろうに」と首を傾げていた。

そのYさんは、数ヶ月後にめでたく結婚。相手は、広島県福山市でこじんまりとしたコーヒー店を経営していた女性Tさん。その結婚式で、Yさんは、結婚への想いを涙ながらに出席者の前で語った。

「一番最初にTさんの手を握った時、とてもざらざらしていた。仕事柄、コーヒー豆を洗ったりするために、手に負担がかかる仕事なのだと実感しました。その時、彼女がこんな大変な仕事をせずとも楽に暮らせるよう、私が守ってあげたいと心から思いました

Yさんの目からは涙が出ていた。Yさんの先輩記者(男性)は「これまでお前がした話の中で一番感動したぞ!」と拍手し、他の約40人の出席者も続いて手を叩き、感動した様子だった。

私は、1人ぽつんと、周回遅れのマラソンランナーの様な気分だった。同じ日本人なのに、発せられている言語の意味が理解できない。

私の目からは、Tさんが女性という特定の性別に属するがゆえに、キャリアの自由を奪われてしまった可哀想な人にしか見えなかった。Yさんは、別にどこかに転勤することが決まっていたわけでもないし、Tさんが妊娠していたわけでもない。
Tさんのコーヒー店にはYさんに何度か連れて行ってもらったことがあったが、カウンター10席くらいの小規模な店で、一杯400円の本格的なコーヒーを楽しみにくるお客さんでいつも賑わっていた。

私が寿司教室を始めた理由の一つに、将来、田舎でこじんまりとしたカフェやペンションなんかやってみたいなあ、という憧れがあったからだ。もしかしたら、Tさんにだって同様の憧れがあって始めたコーヒー店だったかもしれない。

無論、TさんがYさんに「もう、こんな仕事辛くて早く辞めたい」と言っていたのかもしれない。だとしても、Yさんの演説に聴衆が拍手喝采で感動するのは、どうしても理解できないし、明らかに感動を誘うように話していたYさんにも共感できなかった。「女に辛い仕事をさせる男はだめ」みたいに考えているのだとしたら、Yさんが常日頃言っていた「男女平等はすでに達成されている」という文言とも大きな矛盾があるように思えた。

私が記者2年目のころ、毎日新聞大阪本社初の女性部長が誕生するなど、出世していく女性が増えつつあったが、その梯子にのっかる女性は、ほぼ例外なく独身だった。本社のある部長(男性)と飲んだ時「若い女性記者に育休取られると、その後の扱いが困るねん。年次は5年目でも、実際の経験は3年か4年目で、しかもブランク付きやろ」とぼやいていた。私が尊敬するある女性先輩記者は子どもを産むかどうか悩みつつ「女だからって使えないって思われるのだけは嫌なんだよね」と打ち明けた。

内閣府の昨年末の調査によると、「女性は家庭にとどまり家事や育児に専念し、男性は外に出て働くべき」と考える人が5割に達し、1992年以来初めて増加に転じた。しかも、20代での増加幅が一番大きく、「若者の保守化」が懸念された。

しかし、毎日新聞の様に出世していく女性が独身ばかりだったら、自然と若い女性記者は「キャリア」か「家族/出産」かの二者択一を求められることになる。そして、私同様「どんなに偉くなっても、喜びや悲しみを隣で共有できる家族がいないのは寂しい」と考えるなら、その結果として「女性は家庭」と、現実を見据えた選択をしているだけなのかもしれない。

Tさんのコーヒー、美味しかったなー。

私は女性の味方ではありません

5月21日のブログ「日本に馴染めない日本人」に、友人Sさん(30代男性)から、とても興味深い反響を頂いたので、紹介させていただく。


「やりたい」ということが前提となっている「仕事」ですけど、仕事ってそんなに楽しいんですか?そう思う人がうらやましいです。共働きしないと生きていけなければ2人とも働く、一人でいいなら収入が多く安定した方が働く。仕事しないでも生活できるなら働かない(最高)、と私は思います。また、いわゆるエリート層じゃなくて、育児・家事は誰かにしてもらい、自分は外に働きに出たいという女性が日本にどれだけいるのか興味があります。極地サンプルで恐縮ですが、うちの兄嫁は「外で働くの絶対にやだ」というタイプです。


読者の方たちが、「みんな仕事がやりたい」という前提で私が書いていると読み取ってしまったら、それは、私の表現力不足だ。Sさんが言うように、私は、「今の仕事に生きがいを持っているか?」「毎朝、仕事に行くのが楽しみか?」という質問に、「はい」と答える人は、とても少ないのではないかと思っている。そして「1年や2年、仕事を中断しても食べていけるなら、育児や家事、または趣味に没頭してみたいと思う事はあるか?」という質問に「はい」と答える人は、結構、いそうな気がする。(勝手な想像ですいません)。

「男が外で働き、女は家庭を守る」という考えを正当化する人が使う議論に「妻が仕事したくないって言うから」「女性だって寿退社したいって言うじゃないか」というものがある。実際、私も、日本で「早く結婚して仕事辞めたい」という女性に何度か出くわした。

他にも「女性の能力を活用するっていうけど、社会全体の利益のために、育児に生きがいを持ってやりたい女性の自由を奪ってはいけない」という男性もいた。

しかし、これらの議論は、問題の本質を突いてない様に感じられる。もし、「今の仕事に生きがいを持っている」「毎朝、仕事に行くのが楽しみで仕方ない」という人が少ない場合、「早く結婚して仕事を辞めたい」という人がいるのは、ある意味、自明のことではないか?

問題は、女性には「結婚」を理由に仕事を辞める権利が社会的に認知されているのに、男性には認められていないということではないだろうか?育児に生きがいを持ってやりたい男性だって潜在的にはいるのではないだろうか?

私は結婚する前から、妻の方が待遇の良い仕事に就く可能性があるだろうと思っていた。お互い難民支援という世界を渡り歩く仕事を志していたため「どうやって家族と仕事を両立するのか?」という質問を受けることがよくあった。親戚が集まった所で「妻の行く先に私が付いていくこともありえるかも」と言ったら、年上の従兄弟(男性)が失笑し、私の兄弟の方を見て「え?何か弟さんが言ってますけど、大丈夫ですか?」と言った。
また、ケニアにいる時、ある夕食会で、日本人の男友達が「実は、私も育児とか家事の方が向いていると思うから、女性に付いていきたいのですよ」と言った。それを隣で聞いていた別の日本人の男友達は「ええ?本当ですか?○○さんは仕事がない生活に耐えられないと思いますけどねー」と頭から否定しようとしていた。

男は家庭の大黒柱。男は常に仕事すべし。「女性は家庭を守る」という固定観念が、働きたい女性を束縛するのと同様、「男は外で働くべし」という固定観念が、「少し休みたい」「子どもと時間を過ごしたい」と考える男性を同じ様に束縛してはいないか?今月の朝日新聞の世論調査で、「男性も育休を取るべき」と考える男性が実に75パーセントもいることがわかった。しかし、実際、取っている人は2パーセントで、取得できない最大の理由が「職場の理解が得られない」だった(5月21日朝刊社会面)。

女性の友人から「ようこうは女性の視点で書いているね」という指摘を受けた。 しかし、私は、このブログを新タイトルで書き始めた時から、男性の「ちょっと休みたい」権利を擁護したい一心で書いている。

私の父が先週、脳梗塞で、一瞬、体半分が機能しなくなった。医師である父は、脳梗塞の時にどういう処置をとるべきかは熟知しているはずだ。にもかかわらず、「大丈夫。これから診療があるから」と仕事に行こうとし、同じく医師である兄が「手遅れになる前に検査しないと!」と無理矢理抱きかかえて病院に連れて行かなければならなかった。

なぜ、そこまでして仕事に行かなければならないのか?父の中にある「俺は家族の大黒柱。息子の前で弱音は吐けない」というプライドが、体半分動かなくなっても仕事へ行かせようとしたのなら、「男は外で仕事すべき」という固定概念が、どれだけ男性を不平等に扱っているのかわかる。

大学時代、ビルマ(ミャンマー)北部、カチン民族という少数民族が暮らす地帯の専門学校で、ボランティア講師として「社会学」を教えたことがある。16—25歳の男女70人と、「男女平等」などについて議論した。ある18歳の女子生徒は課題作文で「男女平等は、女性だけでなく、男性にとっても利益があると思います。私の父は、家族の問題をいつも一人で抱え込み、お母さんや私たちと相談してくれませんでした。だから、お父さんはいつも苦しんでいました。もし、男と女が協力して家族の問題を話し合うことができれば、お父さんはもっと楽になれたのだと思います」と。

「男女平等」は「女性の権利擁護」と同義語ではない。そして、私はあくまで男性の視点からこのブログを書き続けたいと思う。

プロフィール

seventh star 7

Author:seventh star 7
黒岩揺光  
1981年、新潟生まれ。7人兄弟の末っ子。15歳で米国留学して以来、住んだ国は計8カ国に。海外生活計17年。日本では毎日新聞記者、アフリカでは難民キャンプの工場長、アゼルバイジャンで主夫、ジュネーブで国連職員などを歴任。現在は中東ヨルダンで妊娠した妻に寄り添う専業主夫。
 著書に「僕は七輪でみんなをハッピーにしたい」(ユーキャン)「国境に宿る魂」(世織書房)。
メール連絡先 yokuroi×hotmail.com (「×」を「@」にしてください) ツイッター:@YokoKuroiwa

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