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海外での主夫生活を満喫する法則とは

主夫会メンバーで一番、「主夫」を満喫しているのがノルウェー人のクリス(45歳)。ハンガリー人の妻のジタ(41歳)がノルウェーに本部をおく石油会社「スタットオイル(Statoil))で働いている。

先日、地元の雑誌に主夫会が取材を受けた際、「アゼルでの生活を終えた後も、『主夫』になりたいか?」との質問に、唯一、クリスだけが「もちろん!」と即答できた。クリスは、すでに、トルコで3年、シンガポールで3年、そして、アゼルで3年と、海外での主夫歴9年の大ベテラン。

クリスは政治学で修士号を取り、ノルウェー語、英語、スペイン語を操り、現在、ロシア語を学んでいる。買い物する時でさえ、本を持ち歩く読書家であり、100カ国近く旅したこともある旅行家でもある。さらに、アルコール中毒研究所や人事コンサル会社勤務、大学講師、小説の翻訳、さらに国立博物館のボランティアガイドまで、幅広い業種をこなした経験がある。

 若い頃から旅が好きで、19歳の時、バイトで貯めた100万円で、4ヶ月、アメリカ、オーストラリア、フィジーなどを友人と旅行した。

大学1年の時にスペインへ半年、そして大学3年の時にデンマークへ1年留学。大学院在学中にもスペインへ留学し、ある日、食堂で、「隣に座っていい?」と話しかけてきたのがジタだった。ハンガリーの大学からの交換留学生だったジタも旅行好きで、二人はすぐ打ち解けた。

エストニアの政治制度について修士論文を書くため、1年間、エストニアに留学した。そこにいたノルウェー人の友人から頼まれ、大学でノルウェー語を教えた。

その後、それまで遠距離になっていたジタと一緒になるため、ハンガリーで1年、論文の執筆作業に取りかかった。そして、1年後、ジタがハンガリーの大学を卒業し、二人は、ハンガリーに残るか、ノルウェーに行くか、離れ離れになるか、大きな選択をしなければならなかった。


 ハンガリーに残れば、クリスの就職口が限られ、ノルウェーに行けば、ジタの就職口が限られる。しかし、ハンガリーでは、育児休暇も時間外労働の制度も整っておらず、ジタの女性の友人たちは、育児かキャリアかの二者択一を迫られていた。生活水準が高く、社会保障制度が整っているノルウェーの方が、安定した暮らしができる可能性が高かった。

 ジターはノルウェーに移り住むことに決め、二人は、ジタの在留許可を取るため、婚姻届を出した。しかし、まだ修士論文を終えてなかったクリスと、大学卒業したばかりのジタはお金がなく、クリスの実家で暮らさなければならなかった。(成人したら親と離れて暮らすのが当たり前のノルウェーではとても珍しいこと)クリスは、母親が園長を努める幼稚園でバイトをし、ジタはノルウェー語を学びながら、就職口を探した。「いつまでこんな生活が続くのだろう?」と不安が募った。

 ある日、クリスの父親が海外出張に行く時に乗った飛行機で、隣の席に座ったのがスタットオイルの職員だった。父親が、ハンガリーから来た義娘が仕事を探している話をしたら、「じゃあ、うちでインターンでもしてみたらどうか?」と打診された。

ジタは、無給インターンとして働き始めた。偶然とは恐ろしいもので、当時、たまたま、スタットオイルは、ハンガリー政府と新しいプロジェクトを始めようとしていたところだった。「交渉チームに、ハンガリー語がわかる職員がいたら助かる」と言われ、3ヶ月後に正規職員になった。

スタットオイルは首都オスロから南西へ400キロ離れたスタバンガーという都市にあった。クリスの就職希望先は官公庁で、すべてオスロにあった。いくつかの省庁からは面接にも呼ばれていたが、ジタの就職先が決まった瞬間、クリスは、オスロでの就職活動を辞め、スタバンガー限定での就職活動に切り替えた。日本で言えば、国土交通省のキャリア職員になろうとしていた人が、仙台で就職活動をするようなものである。「クリスはオスロで、ジタはスタバンガーで離れて暮らすという選択肢はなかったのか?」と尋ねると、「ジタは、私のために、母国ハンガリーを去るという決断をしてくれた。そんなジタを独ぼっちにするなんてできない。私がオスロでの就職活動を辞めるなんて、ジタがした犠牲に比べたら、ちっぽけなものさ」と言う。

スタバンガーには、クリスが働きたいと思える就職口があまりなく、数ヶ月間、バイトをしながら就職活動をし、政府系のアルコール/薬物研究所の研究員として働くことになった。

2001年、長男、ダニエルが生まれ、ジタは育児休暇を取った。ノルウェーの育児休暇制度は、8ヶ月なら給料100パーセント、1年間なら8割、1年半なら6割と選べ、父親も最低数ヶ月取ることが義務づけられている。ジタは1年取得し、ハンガリーの実家へ戻った。

これが日本なら、間違いなく、クリスはノルウェーに単身で残る所だが、ところがどっこい。

クリスは勤め先に「妻とハンガリーに行くことにしました」と伝える。「家族が一緒にいるのが一番。今の会社を辞めても、別の就職口を見つける自信があった」と言う。私が「家族が一緒が一番なら、ハンガリーへ行かず、ノルウェーで3人で過ごすこともできたのでは?」と尋ねると、「育児休暇は彼女にとって母国で過ごせる貴重な機会だ」とジタへの配慮を強調する。結局、クリスの職場は、クリスの給料を3割減にし、在宅勤務に切り替え、家族3人でハンガリーで過ごした。


2002年、育児休暇を終えたジタは会社からトルコ駐在を打診された。クリスの研究所は、「1年以上の在宅勤務は認められない」と言った。研究所に戻れば、課長に昇進する話も出ていたが、クリスは迷わず、研究所を辞め、イスタンブールで「主夫」になる道を選んだ。「私たちは二人とも海外で生活することを夢見ていた」とサッパリ。

 まず、海外駐在員は、自国で勤務するよりも、手当がたくさんつくため、給料が倍増する。これで、クリスが経済的に働かなければならない理由はなくなった。次に、旅行好きなクリスにとって、歴史遺産だらけのトルコはとても魅力的な所だった。

トルコでは、ダニエルを幼稚園に入れるまでは、毎日、面倒を見た。子育てクラブにも毎週顔を出し、他国出身の母親たちと情報交換をした。日本の会社では考えられないことだが、スタットオイルは、海外駐在する社員の配偶者のキャリア支援策として、毎年130万円を上限に、「研修補助」を支給する。「夫や妻のために外国へ付いて行けば、履歴書にブランクができる可能性が高い。その負担を軽減するためだよ」とクリスは説明する。 ダニエルが幼稚園に入ったら、クリスはノルウェーの大学の通信教育で経済学を受講したいと会社に申請し、認められた。

さらに、ノルウェーの出版社で働く大学時代の友人が「翻訳のバイトをしないか?」とクリスを誘ってきた。英語の歴史小説をノルウェー語に訳す仕事で、計5冊を翻訳した。週に1度は、ガイドブックを片手にイスタブール市内の歴史的名所を訪れた。

2005年、次男、ベネデクが生まれ、再び、ジタは1年の育児休暇を取り、家族4人でハンガリーで過ごした。

2006年、ジタがノルウェーの本部勤務になり、クリスは、人事コンサル会社で働く大学時代の友人から「一緒にやらないか」と誘われた。大手企業の病気休暇制度作りに関わり、職員の福利厚生を保ちつつ、経費を削減する方法を編み出し、顧客の会社に、研修を実施した。

2008年、ジタがシンガポール駐在となり、コンサル会社を辞めた。歴史や文化が大好きなクリスは、現地の国立博物館でボランティアガイドになるための育成コースを受講し、ガイドになった。また、ノルウェーの別のコンサル会社から、在宅でできる資料作成のバイトもした。

2010年、ジタがアゼルバイジャン駐在になる。アゼルでは、ノルウェー大使に挨拶した際、ノルウェー語を教えていたことを伝えると、アゼルの国立大学でスカンジナビア文化を教える学士課程の創設を手伝ってくれと頼まれた。シンポジウム開催や、スカンジナビアとアゼルバイジャンの関係についての本の執筆にも携わった。また、ノルウェーの知人を通して、在宅でできる、コンサル会社の資料分析バイトもいくつかこなした。

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私:海外での「主夫生活」を満喫するコツは?

クリス:まず、「なぜ、この国に家族で来たのか?」について、しっかりした夫婦の共通認識があること。それぞれ異なる人生観や趣味、考え方を持つ個人が複数で同じ屋根の下で暮らすなら、必ず、双方、何かしらの「妥協」が必要になる。それがハンガリーとノルウェーという異なる国の出身同士だったらその「妥協」はさらに大きくなる。

それを理解した上で、じゃあ、お互いが不公平を感じないよう、どうやって妥協し合っていけるか話し合う。私たちの場合、まず、ジタが、ノルウェーに移住することで大きな妥協をしてくれた。そして、数ヶ月で大手企業に就職した時点で、私は、自分のキャリアよりもジタのキャリアを優先すると決め、妥協した。育児休暇中はハンガリーで過ごしたのもそのためだ。

次に「しっかりとした計画を立てること」。無計画な1日というのは、驚くほどあっという間に過ぎてしまい、無力感が漂い始めると、主夫生活は息苦しいものになる。だから、私は翻訳やコンサルのバイト、経済学の勉強など、締め切り日を設定し、計画を立てるようにした。もちろん、空いた時間に、観光などを入れてね。

私:地元の雑誌から取材を受けた時、「もう一度、主夫をやるか?」との問いに、即答できたのはクリスだけだった。

クリス:海外駐在中は、手当がつくし、家政婦はいるし、ジタの休みも多いから、自分の時間も、家族との時間もたっぷりある。旅行もできる。私に在宅でできる仕事を紹介してくれる友人はノルウェーにたくさんいるから、暇になる心配もない。何の不満もないね。

私:でも、私が国連試験に合格し、ジュネーブに行くべきか、主夫のままでいるべきか相談した時、クリスは「私だったら、ジュネーブに行くだろう」と言った。主夫が最高なら、「主夫のままで」と言うのではないか。

クリス:国連で働くなんて、なかなかないチャンスだし、ヨーコーがジュネーブに行くことで、スージンが被る「妥協」がそこまで大きくないような気がしたからね(スージンは国連から「無給特別休暇」取得が認められ、国連職員のまま、ジュネーブで生活できることになった)。それに、私はいつでもどこでもお金を稼げる自信があるし、ノルウェーに家もあるから、「主夫」のままでいれるけど、ヨーコーはまだ若いから、そういったネットワークも資産もないだろ?もし、病気とか事故で、スージンの収入に頼れなくなったら、厳しくなるんじゃないか。

私:クリスの一番凄い所は、何でも楽しそうにやっているところ。どうすれば、そんなに、何でも楽しめるの?

クリス:自分がどういう業務なら楽しめるかわかっているから、楽しめないとい思う仕事はしない。部下の監督は楽しめないから、最初の職場で昇進の話を持ち出された時は、こちらから断った。私の楽しめる業務というのは、新しいプロジェクトを自分でデザインし、実行し、それが何かしら社会に良い影響を与えるのを実感できること。研究者でも、大学講師でも、コンサル会社でも、ある特定のプロジェクトを自分の裁量で遂行するという点では似ているから、楽しめたのだと思う。

私:でも、仕事って楽しいことばかりじゃないでしょ。

クリス:もちろん。アゼルの大学でシンポジウム開催を手伝ったことがあったけど、アゼルの人たちって3日前より先の計画って立てられない人たちだから、本当に大変だった。ノルウェーだったら、1ヶ月前に決まっていることでも、こちらでは1日前とかだったりする。そういう時は、自分が人類学者になったと思って、「なぜ、この人たちはこういう考え方をするのだろう?」って、考えるんだ。そうすると自分の知的好奇心がくすぐられる。話を聞いていくうち、アゼルでは、20年前に戦争もあったし、政治体制も独裁に近いから、物事が計画通りに進むということがあまりないらしい。だから、前もって計画するのは時間の無駄なんだ。1日とか2日前でも、彼らが本気になると、できちゃうから不思議だよね。良い意味で柔軟性があるというのか、、。

私:クリスの主夫生活を支えているのは「どこにいても仕事ができる」という自信で、その根底にあるのは、ノルウェーにいる友人たちとの深い繋がりだと思うのだけど、海外生活が長いのに、どうやって母国の友人と繋がりを保っているの?

クリス:ものは考えようだよ。同じ町で長年ずっと暮らしている旧友同士が何年も会わないなんてことはざらだよ。会うには「きっかけ」が必要だからね。私みたいに海外で生活していると、「今ノルウェーに戻っているから会おう」という「きっかけ」が簡単に作れる。だから、ノルウェーに戻る度に自宅でパーティーを開催して、友人との繋がりを大切にしているんだ。

私:あと、驚くのが、海外での主夫生活をノルウェー社会全体が支えようとしていること。状況に応じて在宅勤務に切り替えてくれたり、大学が通信教育制度を実施していたり、会社が配偶者対象に「研修補助」を出したり。他にはどんな制度があるの?

クリス:海外駐在する社員に家族がいる場合といない場合とで、待遇に差が出る。まず、子どもがいる場合は一戸建ての家が与えられるが、子どもがいない場合はアパート。配偶者がいる場合は、運転手が付けられるが、単身の場合は、運転手なし。あと、研修補助とは別に、赴任地の現地語を学びたい場合、授業料が全額補助される。おかげで今、ロシア語を無料で学ばせてもらっているよ。

私:なぜ、そこまで制度が充実しているの?

クリス:家族生活がしっかりあってこそ、仕事も能率よくこなせるという考え方がある。そして、ノルウェーでは一生、同じ会社で働き続けるという人は少ない。だから会社側も、良い人材を引き抜き、居残ってもらうために、福利厚生をしっかりしなくてはいけない。

私:海外に駐在している日本のある友人が、日本にいる妻の出産に立ち合うために休暇を申請したら上司に断られた。

クリス:え??そんなことがあったら、社員全員、別の会社へ動くだろうね。
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毎日3時間お手玉をして肩を痛める主夫

主夫会で一番穏やかで無口なのがアメリカ人のジェシー(40歳)。つるつる頭にあご髭があるから、一見、牧師かと思う。怒ったり感情的になるところを想像できない、スポンジの様な頬。普通、グループに一人だけ無口な人がいると、周りに気を使わせるものだが、なぜかジェシーの無口さは、「私は、こうやって座って話を聞いているだけで幸せです」というメッセージが放たれている。

さらに凄いのは、主夫会は午前9時から12時ごろまで続くのだが、ジェシーは、その間、コーヒーも紅茶もジュースも水も、何も注文しないということだ。私たちは、午前9時に1杯目を注文し、1時間後に2杯目を注文する。「もともと、コーヒーや紅茶を飲む習慣がないから」と言う。「周りの人が何か頼んでいるのだから、自分もせめて水(150円)くらいは頼まないと」という発想が彼にはないのだ。
周りに流されない強さと、周りを和ませる穏やかさを合わせ持つジェシーの生い立ちが知りたく、「インタビューさせてくれないか?」と電話した。「いつがいいかな?」と尋ねると、「月曜日から金曜日、娘が学校に出かける午前8時から、帰ってくる午後3時までの間なら、いつでもいいよ」という返事が返ってきた。

米国第二の都市、ロスアンジェルス近郊で生まれたが、自然溢れた田舎で子育てがしたいという親の希望で、4歳のころ、オレゴン州のログーリバーという数千人が暮らす村に移り住んだ。2万平方メートルの広大な庭に、ログハウス、池、草原と丘があり、馬、ヤギ、鶏、牛などを飼育した。

おかげで、ジェシーはカエル探しや丘登りなど、外で遊びながら育ち、手榴弾でウズラなどを穫って、自分で裁いて料理する高校生だった。自然と触れ合いすぎたせいか、人間とのコミュニケーションは得意でなく、自分から人に話しかけることは滅多になく、飲み会もダンスパーティーも部活も参加しなかった。狩猟好きな友人と2人で山に出かけるのが楽しみだった。この友人は狩猟狂で、早朝、スカンクを捕え、そのまま登校し、先生に「臭すぎる!」と下校を命じられたことがあったという。

学校の成績は良く、先生や親から奨学金で有名大学への進学を薦められたが、里山から離れたくなかったジェシーは、実家から近い(といっても車で2時間離れた)小規模なカレッジに進学した。大学ではロッククライミングやヨットを楽しんだ。
大学卒業後は、ログーリバーに戻り、建築コンサルタント会社に就職した。週末は、勿論、山でハイキングや狩猟をした。28歳の時、友人の紹介で、8歳年上のリサに会い、すぐ打ち解けた。キャンプやハイキングが好きで、ジェシーが無口でも、リサがうまく会話をリードしてくれた。生物学の博士号を持つリサは当時、オレゴン州の州都、ポートランドの大学に勤めていた。同じ州といっても、車で4時間かかる。

2年後、リサがカリフォルニアの州都、サクラメントの大学へ転職することになった。それまでずっと抱いてきた故郷への愛着があったものの、30年の人生で唯一、一緒に時間を過ごすことのできる女性。彼女となら、自分みたいな無口な人間でも、幸せな家庭が作れるかもしれない。ジェシーは会社を辞め、サクラメントのコンサル会社に転職した。
2007年、長女のエリシアが生まれたと同時に、アメリカはサブプライムローンでバブルが崩壊。2008年春、ジェシーは会社から解雇される。再就職口を探しても、建設関連の就職口はほとんどなかった。さらに、2004年に購入した家のローンが20年以上残っており、リサだけの収入では厳しかった。

そんな時、リサに「グルジア(アゼルの隣国)で1年、仕事をしてみないか?」という話が舞い降りてきた。

冷戦時代、グルジアやアゼルなどの旧ソ連諸国で建設された生物研究施設で、テロに使用されうる有害物質の管理体制を強化し、他国に対する脅威を防ぐため、米国政府が生物学者を長期間派遣するというプロジェクトだった。

オレゴンの山に囲まれてのどかに暮らすことが最高の幸せのジェシーにとって、見知らぬ国に移住するのには抵抗があった。しかし、仕事がない。グルジアに行けば、住宅は無料で提供してもらえるうえ、海外勤務手当が出るから、米国で共働きするよりも、給料が高い。家のローンのことを考えたら、ジェシーに残された選択肢は限られていた。リサも、新しい環境での仕事を望んでいた。「1年だけなら何とかなる」と自分に言い聞かせ、米国を旅立った。

グルジアでは、家事、育児に専念した。子育て中の母親が集まるクラブに参加してみたが、女性ばかりで馴染めなかった。エリシアが幼稚園にいる時間は、近くの公園で散歩したり、インターネットゲームで農園を作るゲームに熱中した。

1年の契約が終わる頃になり、米国へ戻る気満々だったジェシーに、リサは伝えた。「会社から、ウズベキスタンで同様のプロジェクトの仕事をしないかと打診された」。米国に戻っても、二人とも一から仕事を探さなければならない。米国の景気はまだ回復していない。家のローンもまだ大分残っていた。二人とも職が見つからなければどうしようーーー。

結局、ジェシーは渋々、ウズベキスタンに行くことに了承した。いつもの様に家事を担当し、昼間の空いている時間、インターネットゲームをやろうとしても、家のネットでは回線スピードが遅く、できなかった。ロシア語を勉強してみたが、「どうせ米国に戻ったら使わなくなるだろう」と思うと、なかなか集中することができなかった。

仕方なく、家にあったお手玉を練習するようになり、次第に夢中になっていった。3個ができるようになったら、4個。ネットでお手玉の技を色々観察し、玉を低く投げて、回転を速くする技術を学んだ。毎日3時間練習するようになり、リサからは笑われた。「お手玉のことは、あまり人に話していないんだ」と照れくさそうに笑う。

2年半後、資金不足でプロジェクトが頓挫し、ようやく、米国に帰れると胸をなで下ろした。自由に狩猟やハイキングができない生活はもう限界だった。

リサにサンフランシスコの研究所から仕事のオファーがあった。家族3人で帰ろうと準備を始めた。が、不景気で米国政府の研究費補助がカットされ、オファーが取り消された。と同時に、会社から、アゼルバイジャンで同様のプロジェクトをしないかと打診された。

ジェシーは米国に戻りたいとの思いを伝えた。が、リサは「米国に戻って、二人とも就職できなかったらどうするの?」といつもの台詞を放ち、ジェシーは返す言葉がなかった。その時点ですでに3年半のブランクがあるジェシーにとって再就職は困難を極めることが予測された。そして、肝心の家のローンはまだ残っている。
2013年5月、アゼルバイジャンに辿り着いた。丁度、学校が年度末で、8月末の新年度までエリシアを学校に入れることができず、3ヶ月半、毎日二人っきりで家の中で過ごさなくてはならなかった。出歩く場所もないジェシーは息詰まり、リサに切り出した。

「もう、こちらでの生活は限界だ。私がエリシアを連れて、米国に戻り、リサは単身赴任で残ることはできないだろうか?」

リサは首を縦に振らなかった。家族と離れ離れになりたくないし、エリシアにとっても、両方の親が付いていた方がいいだろうと言われた。ジェシーは納得するしかなかった。

9月のある日、マンションのエレベーター内で、若いアジア人男性に「ハウアーユー?」と声をかけられた。「どこからきたの?」「アゼルで何をしているの?」などと質問され、「妻が働いている」と答えたら、「え!私もです!」とその男性は喜んだ。「毎週木曜日に、主夫会があるから今度来てみなよ」と言われ、「そんな男性が他にもいるのか」と興味がわいた。しかも、そのアジア人男性は、ジェシーと同じ階に暮らしているという。次の木曜日、主夫会に行ってみると、皆、英語で会話をし、リラックスした雰囲気で居心地が良かった。以来、毎週参加するようになり、米国を出てから4年目で初めて、平日昼間に会う「友人」ができた。

お手玉の技術は向上し、5個を同時に投げ回すこともできるようになった。が、毎日3時間の練習を2−3年続けたら、肩を痛めてしまい、ここ半年はお手玉ができなくなってしまった。ここ最近は、インターネットで冬季五輪の中継に夢中になっている。

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私:他の主夫に「日中はどう過ごしているの?」という質問は必ずしているのだけど、なかなか本音を言ってくれない。ジョンの家には映画DVDが600枚以上あるのだけど、ジョンは「散歩したり、読書したり、買い物したり」と答えるだけ。私が「映画を見たりもするの?」と尋ねると、「時々ね」と答えたから、それをノートにメモろうとしたら、「メモらないでくれ」って言われた(笑)。そしたら、横から、ジョンのパートナーのジェシカが「今夢中になっているインターネットゲームについて話してあげたら?」と言うと、ジョンが「そろそろ出かける時間じゃないのか?」とジェシカを黙らせた。46歳のおっさんが、平日の昼間に家で映画鑑賞やゲームをすることの何がいけないだろうね。散歩や読書や買い物は生産的で、DVD鑑賞やゲームは非生産的だという位置づけなのかな。

ジェシー:この前、アメリカに一時帰国した時、友人が私が主夫であることを知って、「ジェシーは今、全く何もしていないんだってよ!」って周りの人たちに言いふらしていて、驚いた。ちょっと前までは、アメリカだって、男が働いて、女が家事というのが普通だった。そういう女性たちは、果たして「何もしていなかった」のか?今は不景気で共働きじゃないと生活が苦しい家庭が多くなったからか、収入がないということに対する偏見が凄い。自分の娘の世話をするということが、どうすれば「何もしていない」と解釈されるのか不思議でならない。

私:私も同じ様な体験はあるよ。配偶者の仕事のために、聞いたこともない国に付いて行くことが、どれだけ大変なことなのか、ほとんどの人は思いを馳せようとしない。アゼルの様に、就労ビザを取るのが難しい国なんて、長く滞在すればするほど、それだけブランクが長くなるわけだから、どんどん再就職を難しくさせる。

ジェシー:私のブランクももうすぐ5年になる。米国に戻っても、私が就職できる場所は限られるだろうし、まして生物学者のリサより高い収入を得るなんて不可能に近いだろう。そうなると、これからは、どうしても、リサの就職できる場所に、私が付いて行かざるをえなくなる。私にとって一番の幸せは、オレゴンの片田舎で狩りやハイキングをすることなんだけど、そんな場所にリサの就職口はないだろうな。

私:例えば、ジェシーが最初に働いていたコンサル会社に戻って、そこにリサが付いてくるというのは?

ジェシー:うん、あの会社なら喜んで、僕を受け入れてくれるだろうね。でも、リサは主婦にはなれないよ。彼女にとってやりがいのある仕事をするというのが、どれだけ大事なことなのかわかっているからね。これまで、ウズベキ、アゼルと外国での生活を続けたのも、経済的理由以上に、彼女が米国に戻って仕事のない生活を想像できなかったことの方が大きいかもしれない。私はその真逆で、仕事がなくても、食べていければそれでいいと思っている。

 リサが研究者の道に戻るのは難しい。この5年間、研究者にとって命綱である「論文」を一つも発表していない。とすると、今の会社でキャリアを積み上げていくことになるのだけど、そしたら、私が里山に戻れなくなる。ジレンマだよ。

私:そういったジェシーの将来への不安について、リサにはどこまで話せているの?

ジェシー:実はあまり話せてないんだ。もっと意思表示しないといけないとは思っているのだけどね。今回のアゼルのプロジェクトが終わる時、タイミングを見計らって、しっかり話ができたらいいと思っている。

私:ハイキングやキャンプなら、アゼルバイジャンでもできるじゃない。

ジェシー:道具は全部、米国に置いてきたし、車もないよ。

私:車ならレンタカーもできるし、道具だって、買ったり、借りたりできるんじゃない。私たち夫婦はドバイから道具を買ってきて、アゼルの北部でキャンプしたよ。すごい楽しかった!

ジェシー:、、、。言葉も通じないし、見知らぬ土地で動き回ろうという気分にどうしてもなれないんだ。タクシーの運転手に行き先も言えない。道に迷っても、歩いている人に声をかけられない。ここでは、バスも地下鉄もあまり乗らない。週末も買い物以外はあまり出かけないよ。

私:故郷から1万キロ離れた所での生活は辛いよね。DVD鑑賞だろうが、お手玉だろうが、ゲームだろうが、それが異国で受けるストレス解消になるなら、何も恥じることはないのにね。私も、たまに、っていうか、結構、頻繁に、YouTubeでドラマとかお笑い番組とか見ながら半日を過ごして「ああー!なんで、俺はこんな風に時間を無駄にしてしまったのだろう!」って罪悪感に悩まされる。でもそれって、自分が生まれたころから社会的に定義付けられた「生産的なもの」、例えば、語学勉強とか、執筆活動とか、スポーツとか、に対する執着なんだよね。本来、自分にとって何が生産的なのかって、自分で決められるはずなのにね。

ジェシー: 毎年9月に、1人でオレゴンに戻って、友人と狩りに出かける。それが今の僕にとっての唯一の楽しみなんだ。9月まで残り何ヶ月あるかカウントするくらいだ。

私:こちらで仕事を探そうと思ったことは?

ジェシー:いや。エリシアが家に帰って来たら一緒にいてやりたいし、風邪で休んだ時や、夏休みや冬休みとかに、一緒にいてやりたいから。娘が必要な時に、常にいてやれる父になりたい。言葉も通じないベビーシッターに預けるのも嫌だし。

私:30年、40年後、自分が死ぬ前に、人生を振り返る時、どんなことが「ああ、自分は良い人生を送れたなー」って思わせると思う?

ジェシー:、、、、。(しばらく考え込む)自分の住みたいと思う場所に住めて、狩りとかハイキングとか釣りとか、どれだけ自分の好きなことをやったかということかな。

私:いいね。多分、自分の場合は、そういうこと以上に、自分がどれだけ社会に良いインパクトを与えることができたのか考えてしまうと思う。

ジェシー:自分にはそれはないな。そういうのもっと考えるべきなんだろうけどね。

私:お手玉が上達したら、道ばたで芸をして、周りを楽しませることができるんじゃない?(笑)

話は3時間以上続いた。学歴や会社名や仕事の社会貢献度よりも、自分の住み慣れた場所で暮らすことが大事だという考えは、世間にあり触れていそうで、 あまり出くわしたことがない。そもそも、住み慣れた場所で暮らし続けたい人は、転勤を繰り返さなければならない毎日新聞社や援助業界には入らないだろうから、当たり前といえば当たり前だ。

ジェシーみたいに、自分が幸せになれる方法を知っている人ほど強い人はいない。社会貢献度とかを幸せの指標にしてしまうと、それこそ底なし沼にはまって、周りから評価されてないと感じると、嫉妬して、感情的になって、しまいには、怒鳴りつけたりもする。でも、ジェシーはその軸がしっかり定まっているから、不満を述べたり、怒ったりする必要がないのかもしれない。平日の昼間にお手玉をすることに羞恥心もあまり感じない。「住み慣れた場所に戻れれば、周りが自分をどう思うかなんて関係ないよ」。強いな、、、。


黒岩のすべらない話


最近、YouTubeで「人志松本のすべらない話」にはまっている。

番組の仕組みはとてもシンプル。数人のお笑い芸人がテーブルを囲み、サイコロを振って、当てられた芸人が数分間で「すべらない話」(面白い話)を披露するというもの。

話の内容も至ってシンプル。高校生の頃、付き合っていた彼女と家で抱き合っていた所を親に覗き見された話や、昔、お姉ちゃんが風呂に入った所をビデオカメラで盗撮しようとした話など。こうやって、文字で要約したら、なんてことない話でも、彼ら芸人が話すと、笑いがとまらない話になってしまう。その「トリック」が知りたく、私は画面に釘付けになってしまう。

主題の選定、話の構成、声のトーン、表情の使い方など、ありとあらゆるものに工夫をこらし、時にはジェスチャーを交えて、ストーリーを展開し、最後に必ず「落ち」があって、会場の笑いを誘う。ものすごい技術だ。

大抵の面白い話って、面白い話を予期せぬ場面で起こるから面白いのであって、「面白い話をして」と期待する人を笑わせるのって、難しい。

いつも思う。社会で人間関係を作る上で、誠実さや思いやりと同じくらい、人を笑わせる能力って大事なはずなのだが、前者は親や先生から教わることはあっても、後者を教えてもらえることって少ない。小学校や中学校時代、先生が私たち生徒を笑いの渦に巻き込んだ場面を思い出すことができない。

アフリカの難民キャンプで、難民が私との別れ際、「ヨーコーとの一番の思い出は、仕事中にわけのわからない冗談を言って、周りを笑わせること」と言っていた。短気で傲慢な私が、難民と一定の人間関係を作れたのも、「笑い」という技術が、言語や宗教など、私と難民との間にあるあらゆる壁をぶち破る力があったからこそなのだと思う。「平和構築学」とか難しい学問作るより、「世界で通用する笑い学」とかやった方が、よっぽど世界平和に貢献しそうな気がする。

よし。こうなったら、私も「すべらない話」に挑戦だ!これから国際機関の本部で様々な国籍の人と最高のチームを作れるようになるためにも、この能力は必要だ。

2月7日。アゼルバイジャンの在留邦人で作る「日本人会」が私の送別会を計画してくれた。おそらく、「それでは、黒岩さん、一言お願いします」という流れになるだろう。この機会に、「すべらない話」をしてやろうと、YouTubeを見ながら、構成を練った。

当日は日本大使館近くのグルジア料理店に約15人が参加。(アゼルの在留邦人は約30人)グルジアの名物であるジャンボ餃子や、鶏肉のニンニクヨーグルト煮など、美味しい料理が出た後、会長が私の所に来て、「あの、すいませんが、最後に黒岩さんから皆さんに一言お願いできますか?」と予想通り、リクエストが来た!

私は、意図的に眉を寄せて、「ええ!聞いてないですよー。僕そういうの苦手なんで」と固辞する振りをした後、「で、今ですか?」と高鳴る胸の鼓動を必死に抑えた。

会長が「それでは、宴もたけなわですが、最後に、今日の主賓である黒岩さんから、皆さんに挨拶をしていただきます」と言い、私は促されるがまま、前に出た。

「アゼルに来てもうすぐ1年になりますが、まさか、こんなに早く出ることになるとは思ってもいませんでした。1年前、皆さんに自己紹介した際、妻か私か、より待遇の良い仕事に就く方に、もう片方が付いて行くという勝負をした結果、私が負け、アゼルで専業主夫になったことをお話ししました。主夫になって、韓国語勉強したり、料理を学んだりと、『主夫っていいなー』と思う自分がいる一方で、自分の社会的な立ち位置を知りたいという自分がいるのもまた事実でした。だから、ただの興味本意で、昨年5月、国連試験を受験しました。受かるなんて思ってもいなかったし、受かったとしても、それはあくまで、『ああ、自分の能力って、一応認めてもらえるんだ』という記念受験的なものだと思っていました。

そしたら、書類選考を通過し、7月31日、東京の外務省で最終面接に招かれました。 すでにこの試験に合格した友人らにアドバイスを求めた結果、『合格した後、希望した派遣先に派遣してもらえるとは限らないから、もし、アゼルバイジャンに派遣されたいなら、面接ではっきり意思表示しておいた方がいい』と助言を頂きました。
妻とはアゼルに来るまでずっと離れ離れだったので、私が合格した場合、アゼル以外の国に派遣されて、離れ離れになるという選択肢はありませんでした。そして、4年前に同じ試験に受かって、すでに私より国連でのキャリアが先行している妻に今の仕事を辞めさせて、付いて来させるという選択肢もありませんでした。つまり、合格した場合、アゼルの国連機関に派遣してもらう以外の選択肢は私には考えられなかったのです。

しかし、アゼルは近年の経済発展のため、国連機関は活動規模を縮小しています。アゼル全体で、国連の外国人スタッフは10人以下です。世界に様々な紛争地がある中、アゼルに派遣してもらえる可能性はどう考えても低く、面接で「アゼルに派遣してもらわないと困ります」と言えば、面接官にあまり良い印象は与えないでしょう。

それでも、私は腹を固めました。妻と離れ離れになりたくない。どんなにキャリアが充実しようと、家族生活が台無しになったら、幸せにはなれない。4年前、27歳で同じ試験を合格した妻が、32歳で受験している私のために、キャリアをストップするなんてありえない。「アゼルに派遣してもらわないと困ります!」と面接の予備練習で、何度も連呼し、本番に備えました。

面接官は3人で、『国連で、あなたが培った経験をどうやって活かせますか?』などの質問がありました。派遣先についての質問はなく、30分、40分と時間は過ぎていきました。

そしたら、女性面接官が英語で『あなたのワイフはアゼルバイジャンの国連で働いるということですが、あなたが合格した場合、派遣先については、どれくらい柔軟に対応できるのでしょうか?』

心の中で『来た!』と叫び、私は、用意していた台詞を吐き出そうと右手を振り上げました。

派遣していただけるのなら、どこでも行かせていただきます!』(右腕を前に突き出し、人差し指を会場に向けながら)


 そこで、私は話を一旦止め、恐る恐る、参加者の表情を伺った。

笑ってる。笑ってる。「ハッハッハ!」と私の顔を見て、笑っている!口を抑えている人もいる。こうやって文字化してしまうと、いまいちユーモアが伝わらないかもしれないが、とにかく、皆、笑っていた。

妻のため、家族のために、かっこ良く面接官に立ち向かおうとしたが、結局、最後の最後で自分のエゴにノックダウンされる私の間抜けさというか、愛きょうに、ユーモアを感じくれたようだった。ああ、良かったー、、!最後の最後で滑ったら、かっこわるいからな。

その後、「黒岩さんの本、まだ在庫残っていますか?」などと4人の方が、私の著書を買ってくれた!!(なんと、たまたま、この日は私が自分の著書4冊を持ち歩いていたのだ)

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やっぱり、笑いのパワーは凄い!YouTubeで無駄な時間を使ったと思っていたけど、何が人生の役に立つかなんてわからないな。

私の著書は、すでに何人かの在留邦人の方にはご購入いただいているので、アゼル在住の日本人世帯に限れば、購入率が7割以上となり、アゼルでは大ベストセラーということになる(笑)。

こんな強引で傲慢な私に1年間付き合ってくださった在留邦人の皆様、本当にありがとうございました!!!

難民は助けたいけど、妻は助けたくない

1月22日朝は、肉団子そばを作り、弁当は昨晩作ったピーマンの肉詰め。そばをすするスージンに「夕ご飯食べたいものある?」といつもの様に尋ねる。普段は「何でもいい」と言うスージンだが、この日は珍しく、「コロッケが食べたい」と言う。

主夫にとって、メニューを選定してもらえることほど助かることはない。 しかも、私も食べたいと思っていたコロッケ。ヨガレッスンの帰りに、モール(デパート)地下のスーパーで牛のひき肉、ジャガイモ、タマネギを買う。

午後5時ごろ、台所へ行き、米をすすぎ、炊飯器にかけ、ジャガイモを茹で、タマネギと人参をみじん切りにして、ひき肉と炒め始める。キャベツを千切りし、味噌汁のために、鍋に昆布と水をいれ、レンジにかける。午後5時半ごろ、スージンが帰宅。いつもの様に、台所に来て、「スープでも作ろうか?」と言ってくる。

いつもだったら、「じゃあお願い」となるところだが、この日はなぜか、「いや、もう味噌汁作っているからいいよ。休んでいて」と言う自分がいた。

スージンは「ええ?本当に?どうしたの?」と驚く。これまでは、私が料理中に、スージンが一分でも椅子に座って、iPhoneを見始めたら「何やっている?手伝って!」と喧嘩になっていたのに。

実は私自身も驚いていた。いつから、そんなに思いやり溢れた主夫になったのだろう?

私がジュネーブに行ったら、3ヶ月ほど離れ離れの生活になる。6月からジュネーブで一緒に生活できるようになっても、今のように、ゆっくりとスージンのために料理する時間なんてないだろうと思うと、切ない気持ちになっている。買い物をしている時間も、料理をしている時間も、それまでは「効率よく、一分一秒でも早く」と焦ってやっていたが、今は、包丁がまな板を叩く音が自分の胸をポカポカ暖かくするようになっていった。

そうか。何となくだけど、 なぜ、今まで私がスージンをたくさん怒らせてきたのか、少し理解できる様な気がした。

私が「iPhone見ている時間があるなら、手伝って!」と言った時、スージンは「ちょっとくらいいいでしょ?」と怒った。私は、スージンが私の細かすぎるところに怒っているのだと思っていた。が、今考えると、本来、家族への愛情表現であるべき「家事」をあくまで義務的にしかこなせない私への苛立ちだったのかもしれない。

「スージンのためにやっていることなのだから、私は嬉しいんだよ」と私が言うと、スージンは「どうして、今頃になってそんなこというの?あ!私に仕事辞めさせること、悪く思っているの?」などと逆に心配されてしまった。

世界の困っている難民を助けたいと言いながら、自分に長年寄り添ってくれている家族に対する奉仕を喜んですることができない自分に、常に矛盾を感じていた。頭ではわかっていっても、まあ、みんなそんなもんだろうー、と半ば諦めていたけど、これからは、その矛盾に素直に向き合っていこうと思う。

 23日朝は、私は健康診断で朝ご飯は食べられない。妻のために焼きそばを作ると、スージンは「ええ!私だけのために作っているの?ヨーコーが朝ご飯を食べたいから、そのついでに作ってくれていると思ったのに、違ったのね!」と驚かれた。そんな「自分本位」な主夫に見られていたと知り、少しがっくり、、、。

年収50万円男


明けましておめでとうございます。

皆さん、2013年の私の年収、気になりませんか?この際、すべてばらしちゃいましょう。

印税(4月に発売された七輪の本)31万円

その他執筆/講演料(新聞投稿など) 8万円

寿司教室 (計7回)  約10万円 

合計、49万円なり。そうなんです。私は年収50万円男。

寿司教室を継続していたら、結構、いけたのかもしれないけど、日本大使館の人から「就労資格は?」とか言われて、ビビったのと、面倒くさくなったのとで、辞めてしまった。

それしか稼いでいないにも関わらず、2013年は贅沢三昧の年だった。

南アフリカ、エチオピア、ドバイ、日本(2回)、カンボジア(2回)と海外旅行。

屋上テラス付きの家に暮らし始め、天気のいい日は、海を眺めながら読書。(家賃は高いが、国連から補助がでる)

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HONDA「パイロット」という日本では売られていない、8人乗りジープを乗り回す。(妻が外交官扱いのため、免税され、比較的安く買える)

通常の年間会費が30万円の高級ジムに通う。(これも妻が外交官のため、特別割引される)テニス、バスケ、ヨガ、筋トレ、マッサージなどなどのため、週に3−4回利用。

「お前。妻のお金でそんな贅沢して罪悪感とかないのか?」と思う人もいるかもしれない。実際、10歳の姪に、「ええ?スージンのお金で車買ったの?」と驚かれた。私は妻と一緒に暮らすために、就労が困難な国に移住せざるをえなかったわけで、誰かを好きでいることに罪悪感を抱かなければならない社会ほど、息苦しいものはないと思う。逆に、罪悪感どころか、こんな贅沢な暮らしをさせてくれる優秀な妻と結婚できた私の「人間力」を誇りにさえ感じる。

物質的贅沢だけではなかった。

2012年まで毎年、100日前後しか顔を合わせられなかった妻と、300日以上、顔を合わせた。妻の勤務先は残業がゼロのため、基本、平日夕方5時半からは家族の時間だった。

2006年に毎日新聞に入ってから、毎年1度は体調を崩し(アフリカでは数回)ていたが、昨年は、一度たりとも、風邪を引かなかった。

大学時代から続いていた歯ぎしりも、週に数回から、数ヶ月に1度の割合になった。

手持ち料理の数は20前後から、100以上に激増。そして、韓国語の能力も上がった。

年収50万で、これだけ楽しい生活ができるなら、もう、ずっと「主夫」のままでいいやー。と、思うはずでしょ?

しかし、、、。今年は、主夫生活とは決別することになった。3月から、妻の働く国連難民高等弁務官事務所の本部(スイス)で働くことになりました。

「お前、就職活動してたのかーー?」と思われるでしょう。はいしてました。と、言っても、応募書類を出したのは一度だけ。

「JPO」という、毎年、日本政府が30人ほど試験で選抜した人を国連職員として国連機関に派遣する制度がある。35歳以下で修士号を取得し、関連業務経験がある人なら、誰でも何回でも受験でき、私は昨年、記念受験のつもりで、応募した。すでに3回受験し、3回とも一次選考で落とされていたから、今回も駄目だろうと思っていた。が!なんと、驚いたことに合格してしまった!政府の人も、「4回も受験して落としたら自殺してしまうんじゃないか」と思ったのかもしれない。

それで、派遣先がスイスのジュネーブに決まり、スージンは今年6月、アゼルバイジャンでの契約を中断し、ジュネーブで合流する予定だ。

「てめえ!今まで、さんざん『主夫』とか言っておいて、結局、妻に仕事辞めさせているじゃねえか!」と罵倒されるかもしれない。

これについては、説明したら、長————くなるし、長くなればなるほど、言い訳みたいに聞こえるのも嫌なので、ものすごく簡潔に答えさせてもらう。

妻はアゼルでの契約を辞めても5年間、国連の正規職員しか応募できない「内部職員専用の空席」に応募し続けることができる。要するに、職場復帰できる可能性がそれなりにあるのだ。それに対し、私はこのオファーを断ったら、国連はおろか、すでにブランクが1年以上あるため、一般の再就職はどんどん難しくなっていく。そうすると、妻が働き、私が主夫という構図が固定化し、妻が病気になったりした場合、一気に家庭の収入がなくなるリスクが生じる。二人とも、一定の収入を稼げる状態にしておけば、10年、20年続く家族生活を考えた場合、休みたい人が休み、働きたい人が働くという感じで、より選択肢が広がるのではないかと思った。

というわけで、残り2ヶ月となった「主夫生活」。既に支払った、高級ジムの会費を無駄にしないよう、たくさん通わせてもらう。そして、ジュネーブでは、妻がどんな料理をしてくれるのか楽しみだ。毎日、メニューを考える辛さを思い知ってもらいたい。

 今年もよろしくお願いします。
プロフィール

seventh star 7

Author:seventh star 7
黒岩揺光  
1981年、新潟生まれ。7人兄弟の末っ子。15歳で米国留学して以来、住んだ国は計8カ国に。海外生活計17年。日本では毎日新聞記者、アフリカでは難民キャンプの工場長、アゼルバイジャンで主夫、ジュネーブで国連職員などを歴任。現在は中東ヨルダンで妊娠した妻に寄り添う専業主夫。
 著書に「僕は七輪でみんなをハッピーにしたい」(ユーキャン)「国境に宿る魂」(世織書房)。
メール連絡先 yokuroi×hotmail.com (「×」を「@」にしてください) ツイッター:@YokoKuroiwa

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