遠い国にいるからこその一期一会

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 生涯学習で有名なユーキャンが、なぜ、難民キャンプについての本を出すのか?しかも、ケニアやアゼルバイジャンにいながら、どうやって、ユーキャンと接触したのか?今回、出版に至った経緯をたどると、人間は、本当に意外なところでつながり、そのつながりが時に思わぬ結果をもたらすことがあるということを思い知らされる。

 2010年3月、日本からケニアに来た当時、難民キャンプでの仕事以外に、私にはもう一つの大事な任務があった。日本の難民支援団体で働く妻が、ケニアで働けるよう、人的ネットワークを作り、情報収集するということだった。そのため、私は、機会を見つけては、なりふり構わず、色々な人に連絡をした。たとえば、共同通信のナイロビ支局に電話をし「私は元毎日の記者で、ダダーブの国連機関で働くのですが、一度御挨拶させてもらえないでしょうか?」と言った具合に。向こうからしたら、「なぜ、別の会社で働き、難民キャンプで働く人が挨拶したいのだろう? 」と思っただろう。

 外務省の事業で派遣された身分だから、在ケニア日本大使館に挨拶に行った時も、しっかり名刺交換をし、「今度、ご飯でもいきましょう」と、社交辞令で言ってくれる方が何人かいた。一ヶ月後、500キロ離れたダダーブから、休暇でナイロビに来た際、 社交辞令を言ってくれた方に連絡し、ランチを一緒にし、世界銀行で働く友人Nさんを紹介してくれた。Nさんは、その日、日本から友人が遊びに来ており、昼食後、ナイロビの観光地を巡る予定だった。「黒岩さんも一緒に行きますか?」と誘ってもらい、私は、そのまま、「キリン公園」などを一緒にめぐった。

 2ヶ月後、ナイロビの国連機関の幹部職に日本人医師Kさんが赴任するという話を聞いた。顔の広いNさんも知り合いということで、「是非、紹介してください」とお願いした。Kさんは、うわさ通りの人格者で、「じゃあ、家に食事に来てください」と見ず知らずの私を招待してくれた。そして、3カ月後、妻がナイロビに遊びに来た時、「妻を紹介したい」とKさんに伝え、再び、家に招待して頂いた。その食事会には、私たち夫婦の他にも、世界銀行で働くMさん夫婦も来ており、名刺交換をした。Mさんは、2児の父で、さらに博士論文執筆中という多忙な方で、それ以来、あまりお会いする機会がなかった。

 1年半後、すでにナイロビの国連事務所で働き始めた妻は、南スーダンに長期出張に出ていた。私は1人でご飯を食べるのがさみしいから、できるだけ友人宅を梯子していた。ある日、同じアパートに住む友人Iさんが、「親子丼食べるか?」と誘ってくれた。しかし、Iさんは、一つ条件をつけてきた。「二人で食べたくないから、もう一人連れてきて」と。すでに午後4時。2時間前に呼んで、すぐ来てくれる人はなかなかいない。しかも、Iさんは、「家が狭いから、もう一人だけ。2人以上はだめ」と、さらにハードルを上げた。何人かに電話したが、もう予定が入っているなどと、断られ続けた。

 そこまでして親子丼食べたくないや、と思い、自分で料理を始めたら、ふと、Mさんのことが頭に浮かんだ。Mさんとは、会う機会こそあまりなかったが、私がジャーナリストの友人らと大使館で開催した東日本大震災の現場報告会に足を運んでくれたり、私が新聞に提言記事を載せた際は、メールで感想をくれるなど、私の活動をいつも応援してくれていた。Mさんに電話をしてみると、「丁度、今、家族が日本に帰ってまして、私も1人なんです。今からランニング行くので、ちょっと遅れますが、参加させてもらってもいいですか?」と承諾してくれた。

 Iさん、Mさんと3人で親子丼を食べながら、私は「誰か、出版社の友達いないですか?」と尋ねた。当時、私は、会う人、会う人に、同じ質問を繰り返していた。約1年ぶりに会うのに、いきなり商談を持ち出す私に、Mさんは辟易する様子もなく、「いますよ。実は、この友人から、アフリカについての本を出さないか?って相談されていましてね」と言うではないか!「じゃあ、是非、紹介してください」とお願いし、Mさんは、早速、次の週に、メールでユーキャンのSさんを紹介してくれた。

 昨年10月、私が一時帰国した際、Sさんと、高田馬場のコーヒー屋で初対面。ダダーブの写真などを見せながら、話していると、Sさんは「世界最大の難民キャンプで頑張る日本人の話は面白いし、一般の人が読んで元気をもらえそうな気がします。来年の4月ごろ出版でいきましょう」となり、とんとん拍子で話は進んでいった。

 「遠い国にいるのに、なぜ、日本でネットワークができるのか?」と聞かれることがあるが、私は遠い国に「いるのに」ではなくて「いるからこそ」できると思っている。確かに、外国に日本の出版社はあまりないわけで、日本にいた方が売り込みやすいかもしれない。しかし、出版業界も結局は誰かの紹介がないと売り込むのは難しいわけで、紹介してくれる人をどうやって見つけるかが大事になる。

 ナイロビを去る前の一週間、私は3年間の滞在でお世話になった様々な人にお別れを告げた。新聞社、国連、大使館、ジャイカ、旅行代理店、NPOで働く人や、紙袋を作る会社役員、フリーカメラマンや主婦など。東京に住んでいたら、こういった多岐の分野で活躍する人と一度にネットワークを作るのは難しい。しかし、離れた外国で暮らすと「ああ、あなたも日本人ですか」と言うだけで挨拶する理由になり、ネットワークの幅は逆に広がりやすい。これからも、「ああ、あなたも日本人ですか」で得られる一期一会を大事にしていきたい。

 それにしても、Iさんの「お前と二人で飯は食いたくない」の失礼極まりない一言が、本出版を導き出すとは。影の殊勲者だ。
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日本語がわからなくても本は書ける

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私が本格的にものを書き始めたのは、10年前。タイの難民キャンプに行った時だった。20年近くある難民キャンプに10万人以上の難民が暮らしている現実が受け入れ難く、そこで暮らす人々との会話があまりにも刺激的で、自分の胸の内だけに留めておくことができず、家族に読んでもらおうと、パソコンに向かい始めた。その文章が、東京のビルマの民主化支援団体のニュースレターに掲載され、「伝える」醍醐味を実感した。出版社にツテがある母親が、その文章を売り込み、2009年に出版された。17ページのあとがきを、なぜか私の母親が書くという、奇妙な本で、明らかに、母親におんぶにだっこされた出版だった。

毎日新聞に入る時も「難民の現状を紙面で伝えたい」と面接試験で言ったものの、日本語教育が中学で終わっている私の日本語知識は乏しく 、最終面接直前に配られたアンケートで「座右の銘」の意味がわからず、困り果てた。試験官に「『ざうのめい』ってなんですか?」と尋ねると「自分で考えてください」と言われた。「自分で考えられないから聞いているのです」と言おうとしたが、選考過程に悪影響が出たらまずいと思い、やめておいた。

そのアンケートは面接の待合室で配られ、他にも数人、面接待ちの受験者がいた。アンケート配布前までは、「緊張するねー」「他にはどんなところ受けているの?」などと、仲良く会話をしていたから、もしかしたら、「ざうのめい」の意味を教えてくれるかと思い、彼らに目線を向けた。そしたら、偶然か必然か、全員、アンケートから目を離そうとしなかった。私が試験管に質問した時は、間違いなく、こちらに目線があったにも関わらずにだ。「せっかく最終面接まできたのに、変人と関わって、落とされたら困る」とでも思ったのだろう。人間とは無情なものだ。

結局、「ざうのめい」は空欄で出し、幸い、面接でそれに関する質問はなかった。適当に「犬」とか書こうかと思ったが、やめといて正解だったと、後からわかった。

こんな私が、毎日新聞に合格したのは奇跡としか言いようがない。

そんな奇跡を起こして入った毎日新聞を3年半でなぜ、辞めたのか?難民問題を書きたくて入ったのだが、入社半年後、私はNPOや人権担当ではなく、警察担当を希望していた。 殺人事件などは世間の関心も高く、警察官は、一番、情報を取ってくるのが難しいことから、「事件記者」は新聞社でも花形的存在。「海外の支局に行きたかったら事件で特ダネ書け」と上司から言われ、実際、難民救済キャンペーンでアフリカなどに取材に行く記者は、警察や検察を担当して活躍した記者が多かった。自然と、「俺も、事件もので特ダネを書かなくては」と思うようになっていった。

記者2年目になると、「最低月に一本は全国版に記事を掲載する」と勝手に自分で自分に重圧をかけた。(地方支局の記者は、全国版に何本独自記事を掲載できるかで力量が問われる)いつのまにか、私は、入社当時抱いていた「難民の現状を伝えたいから書く」という原点を忘れ、「全国版に載せたいから書く」という態度になってしまい、取材対象者と十分な意思疎通をとらず記事を掲載し、気分を害してしまうことまであった。

 「自分が本当に書きたいと思うことを、書けるようになりたい。自分が心から感動したことを、他の人に伝えられるようになりたい」。2009年9月、毎日新聞を退社し、2010年3月、アフリカの世界最大の難民キャンプの国連事務所に入った。(続く)

(注: 伝えたいものを伝えられなかったのは、あくまで、私個人の問題、人間の弱さとか記者としての非力さとかで、毎日新聞という組織に問題があったということではない。事件記者が花形になるのは、警察組織で刑事が花形であるのと同じこと。毎日新聞は、記事の書き方を一から教えてくれた恩人であり、退社して3年半たった今でも、元先輩や同期たちから、さまざまな助言を頂いている)
プロフィール

seventh star 7

Author:seventh star 7
黒岩揺光  
1981年、新潟生まれ。7人兄弟の末っ子。15歳で米国留学して以来、住んだ国は計8カ国に。海外生活計17年。日本では毎日新聞記者、アフリカでは難民キャンプの工場長、アゼルバイジャンで主夫、ジュネーブで国連職員などを歴任。現在は中東ヨルダンで妊娠した妻に寄り添う専業主夫。
 著書に「僕は七輪でみんなをハッピーにしたい」(ユーキャン)「国境に宿る魂」(世織書房)。
メール連絡先 yokuroi×hotmail.com (「×」を「@」にしてください) ツイッター:@YokoKuroiwa

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