戦争で負った傷と向き合う

カウンセリング専門の援助機関で働く友人から「あなたの工場で働くヤシン(仮名、20代男性)が、私たちのカウンセリングに通っているのだけど、かなり深刻なの。毎週火曜日と水曜日に、早退許可を出してもらえないか?」との連絡を受けた。

ライフラインでは、よりやる気のある難民に雇用機会を与えるための「インターン制度」がある。インターンは無給で1ヶ月間、七輪作りを学び、空席が出た場合に、インターン修了生で一番勤務態度が良かった人を雇うというもの。

ヤシンは、4月に、別の従業員の紹介で、インターンを申し込んできた。彼は英語が堪能で、私は「君みたいな教養が高い人なら、もっと、しっかりした仕事があるのではないの?インターンをしても、その後、仕事をもらえる保障はないのだけど、いいんだね?」と彼に念を押し、「わかっています」とインターンになった。

七輪作りは肉体的にきつい労働だ。私もレンガ運びを手伝うことがあるが、1時間でヘトヘトになる。インターンもかなりの割合で、「こんなきつい仕事を無給ではできない」と逃げ出してしまう。

しかし、ヤシンは、一ヶ月間、どんな辛い仕事も嫌がらず積極的にやり、無遅刻、無欠勤で終えた。インターン終了後も、何度か工場に顔を見せ、空席の機会を待っていた。そしたら、7月、女性従業員が育児のため、半年間、休職することになり、10人のインターン修了生の中から、ヤシンが代理として雇用された。

8月22日、私は、とりあえず、国連事務所にヤシンに来てもらい、事情を聞いてみることにした。げっそりとやせ細った体で、紺のTシャツは、工場から直接来たからなのか、所々、汚れがある。「友人から、あなたがカウンセリングが必要と聞きました。それについては全面的にサポートします。もし、差し支えなければ、話せる範囲内で事情を聞かせてくれませんか?勿論、言いたくないことは、言わなくていいです。これは、義務ではありません」と伝え、ヤシンは、ゆっくりとした口調で話し始めた。

「約10年前、祖国で武装勢力のメンバー数人に家を襲われました。斧を振りかざし、私たち家族は拷問を受けました。私は、左耳をナイフで斬りつけられ、火あぶりにされました」

彼が左手で掴んだ左耳に目をやると、上部がへこんでいることに初めて気付く。

「数十頭いた牛や家具はすべて奪われました。『この民族は絶滅させなければならない』と、メンバーの1人が話しているのが聞こえました。父と母、兄弟3人いましたが、全員、体を縛り付けられました。幸い、誰も殺されませんでした。父親は『何とか、また、一からやり直そう』と私たちに言い、隣人からお金や食料を分けてもらうなどし、何とか生活を立て直しました。しかし、双子の妹が、精神的に不安定になりました。人の話に集中することができなかったり、突然、鼻血を出すようになりました。

2年前、再び、武装集団が家を襲ってきました。私は、牛の放牧作業から帰ってくる途中で、100メートル先で、数人の男が斧を持って家の庭にいるのが見えました。彼らは、父の髪の毛を掴み、斧で首を切り落としました。その瞬間、私の中で、すべての時間が止まり、頭が真っ白になり、何が何だかわからなくなりました。体が勝手に、家とは逆方向に走り出しました。走って、走って、走りました。森にたどり着き、1人で、果物などを食べながら、過ごしました。 他の家族が無事なのかさえわからない。でも、怖くて、家には戻れない。

震えながら、森で、数日間過ごした後、首都まで行きました。荷物運びなどでお金を稼ごうとしましたが、体に力が入らず、続けることができませんでした。そこには、対立部族が多く住んでいることから、身の危険を感じ、そこから、トラックの荷台に忍び込み、ナイロビに辿り着きました。

国連事務所で難民申請をし、ナイロビに住む同胞たちにかくまってもらいました。そしたら、双子の妹も、ナイロビにいることがわかり、再会を果たしました。死んだと思っていた妹が生きていることに、最初は大喜びしましたが、妹から、他の家族全員が殺されたことを聞き、言葉を失いました。さらに、妹の精神状態が、著しく悪化していたのです。

夜、突然、叫び出したり、火を見ると、鼻血を出したり、記憶があいまいだったり、とにかく正常ではなかった。国連に難民申請をしても、彼女の記憶があいまいだから、首尾一貫した供述ができず、申請は却下されました。

私たちは昨年、ダダーブ難民キャンプに送られました。今、カウンセリングに通っていますが、妹は、私が通訳してあげないと、カウンセラーに何も話すことができないので、私が同席しなければならないのです。

キャンプの治安悪化は、妹の状態をさらに悪化させます。路肩爆弾の爆発音を聞けば、恐ろしい記憶を呼び覚ますのか、一晩中、叫び続けます。

私は、妹と2人暮らしで、料理も洗濯も私がやらなくてはなりません。国連からの食料配給だけでは生きていけないので、妹のために少しでも収入を稼ごうと、国連職員の清掃係になりましたが、洗剤で手がかさばり、できませんでした。別の援助機関でも働こうとしましたが、職務が、他の難民が抱える問題を調査するもので、私に、そんな精神的余裕がなく、あきらめました。

ライフラインのインターン制度を知り、無給だとは知っていましたが、家にずっといるよりは、何か技能を身につけた方がいいと思い、参加しました。今は、とにかく、妹が、料理や洗濯、小さなことでもいいから、できるようになるまで、横で支えてあげたい。

未だに難民認定は受けていませんが、精神科医からの推薦書を出して、再申請している所です」

ヤシンは、時折、涙を流しながら、打ち明けてくれた。私は、呆然となり、何かかけられる言葉はないかと一生懸命探した結果、「大変だったね」と語りかけた。 ヤシンは、「大変?私なんか、まだ幸せです。妹に比べたら」。頬をしたたれる小粒の涙を左手で拭き取りながら答えた。
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仕事がしたい

工場Aの閉鎖が決まり、私は、ある従業員の事が気になった。昨年末に、障害者支援の団体から紹介され、ライフラインの従業員になった、アフメッド(仮名、36歳男性)。足や股間などが象のように大きく膨れることから「象皮病」と呼ばれる病気を左足に負っている。小学校も卒業しておらず、しかも身体障害を背負う彼に、別の仕事を見つけるのは至難の業だろう。私は、彼をダダーブに呼び、話を聞いた。

私は、アフメッドに「仕事がなくなっても大丈夫?ライフラインでの仕事はどうだった?」などと尋ねるうち、アフメッドは自分について語り始めた。

「ライフラインで仕事ができなくなるのは本当に辛いですよ。私みたいに、教養もなく、障害を負い、しかも、少数派部族に属しているのを受け入れてくれるのは、ライフラインだけでしたから。

私は、これまでもこれからも、亡くなった母親との約束を守ることだけを考えて生きています。私は、ソマリアの首都モガディシオで生まれ、7人兄弟の長男で、母親は政府の職員でした。父親は一人目の妻の家で暮らしていたので、普段、あまり顔を合わせませんでした。母親はとても教養が高く、収入も安定していた。でも、なぜか、私は勉強が大嫌いだった。9歳くらいから、学校をさぼって、『ミラー』(ソマリアで人気の大麻の様な葉)を友人たちと噛んでいました。ミラーを噛むと、とても気分が良くなった。授業中に、教室の窓から飛び降りて抜け出していたから、「ジャンパー」なんてあだ名をつけられていました。結局、母親からの説得を無視し、10歳で小学校を辞めました。

1991年、内戦が勃発し、武装集団が私の家を襲いました。丁度、妊娠中の母親しか家におらず、銃を数発、空中に放ち、金品を奪って行きました。母親は直接危害は加えられなかったものの、精神的ショックで、流産し、腹部からの出血が止まりませんでした。私は、必死に医者を探しまわりましたが、戦争で、すべての病院が閉まっていました。母親の容態は悪化を続けました。意識がもうろうとしていく中、私は母の頭を膝の上に抱き寄せ、看病しました。母は、「あなたは長男で、父親はあまり家にいないのだから、あなたが、下の子たちの面倒を見てね。もう、ミラーを噛むのは辞めてね」。私は泣きながら、「何でもするから、頼むから、逝かないで!お願いだよ、、」。間もなく、母は息を引き取りました。39歳という若さで。

 私は、ミラーを噛む生活とは決別しました。父親の建築の仕事を手伝いながら、わずかな収入を稼ぎ、妹や弟たちの学費に充てました。母親に恥ずかしくない生活をすることだけを考えました。1995年、父親から紹介された女性と結婚し、息子を授かりました。しかし、間もなく父親が胃がんで亡くなり、妻とも離婚しました。そしたら、突然、左足が腫れ始めました。激痛に悩まされ、病院に一ヶ月入院しました。何が原因なのかは、わかりません。

父の死後は、仕事が大変になりました。大工でしたが、日雇い労働なので、数ヶ月仕事がないこともありました。そういう時は、弟や妹に満足に食事を与えることもできませんでした。どうしようか考えた時、近所の人たちが、サウジアラビアへ出稼ぎに行った親戚からの送金で、大きな家を建てているのを見ました。内戦は一向に終わる兆しもなく、私は「これしかない」とソマリアを出ることを思い立ちました。

しかし、ソマリアからサウジアラビアへ行くには、アデン湾を船で渡り、イエメンに密入国しなければいけません。私同様、イスラムの聖地で、裕福なサウジアラビアを目指すソマリア人は多く、定員超過状態で海を渡る密入国船が多く、転覆事故が毎年数十件あり、たくさんの同胞が命を落としていました。それでも、「母との約束を守るには、ソマリアにいてはだめだ」と自分に言い聞かせました。

20ドルを密入国業者に支払い、わずか長さ6メートルのボートに290人が詰め込まれました。体を寄せ合うこと12日間、ようやくイエメンが遠くに見えかけてきた時です。船長が、「イエメンの海上保安船がこちらに向かっている。密入国がバレたら、全員捕まる。ここから、泳いでイエメンまで行ってくれ」と私たちにお願いしてきました。イエメンは軍事独裁政権で、捕まったら終わりです。私たちは、「泳げる分けないだろ!」と船長たちと言い合いになり、拳銃を突きつける者まで出てきました。ボートの上で乱闘が始まり、船体はバランスを失い、そのまま転覆しました。

皆、お互いの体を掴み合いながら、必死に生き延びようとしました。私のシャツは隣にいた女性に脱ぎ取られました。私も、何か捕まるものを求め、がむしゃらに泳ぎました。そしたら、幸運にも、船体の一部に捕まることができたのです。他の6人とそれに捕まりながら、2晩、海の中で過ごしました。喉がからからになり、意識がもうろうとしていく中、大きな船体が目の前に現れ、救助されました。290人中、助かったのは私たち7人だけでした。

多くのソマリア人が暮らすイエメンでは、友人の紹介で、パン屋で働きました。しかし、アラブ系のイエメン人は、肌が黒いソマリア人を見下しています。店長は、私の給料を2ヶ月以上支払わず、「もし、この工場を出て行くなら、お前の不法終了について警察に届け出るぞ」と脅されました。仕方なく、私は、お金が溜まってから行こうと思っていたサウジアラビアを目指すことにしました。お金がないため、車や飛行機で行く事ができません.山間部を密入国ルートを1人5日間歩いて越境しました。サウジアラビアに入って間もなく、左足の痛みがひどくなり始めました。あまりにも激痛が続き、歩けないくらいになりました。近くのモスクへ助けを求め、国家警察に保護されました。私が不法で入国したことを知り、警察は、ソマリアへ私を強制送還しました。

ソマリアに戻っても、左足は治らず、病院からは「ケニアのダダーブ難民キャンプなら、医療施設も充実しているから、治してくれるかもしれない」と忠告を受け、2006年、ダダーブへ来ました。ナイロビの病院に入院し、足の痛みは和らぎました。

しかし、キャンプでは仕事がなかなか見つかりませんでした。援助機関は、文字の読み書きができないと難しいし、キャンプ内の市場で働くには、親戚や知り合いがいないと難しい。私は、ソマリアでの少数部族の「バントゥ」部族(ケニア、タンザニアなどから、ソマリアへ奴隷として送られた人たちの子孫で、『アラブ系』のソマリア人から蔑視の対象とされる)に属するため、それほど大きなツテがありませんでした。

ミシンを借りて、小さな仕立て屋をやりましたが、ミシンと場所の賃貸料が高く、売り上げが追いつかず、半年で辞めました。市場を歩いても、私の膨れ上がった足を見て、子供たちは逃げ出します。私は、途方に暮れました。

2011年秋、身体障害者を支援する団体から、ライフラインという団体が、インターンを募集していることを聞きました。私は、「どうせ、英語が話せなければ、だめなのだろう」と半ば諦めていましたが、工場に行ってみると、ほとんどの従業員が文字の読み書きができず、私の部族から3人の雇われていることに、驚きました。バントゥの同胞から、「ここで、一生懸命働けば、雇ってもらえるぞ。頑張れ」と励まされ、毎日毎日、働きました。そして、一ヶ月後、正式雇用の通知を頂いた時は、本当に嬉しかった。生まれて初めて、しっかりした組織に受け入れてもらった瞬間だった。

初めての給料で、他のバントゥ出身の若者たちにサッカーのユニフォームを買い、「ライフライン」というサッカーチームを結成しました。他の援助機関と違って、その人の教育レベルや部族、障害の有無など関係なく、誰でも快く受け入れてくれるライフラインのことを、1人でも多くの人に知ってもらいたかった。

その後の給料で、家を立て直したり、台所道具を買ったり、ソマリアの家族に送金したりしました。やっと、母親との約束を果たす事ができたと思っていました。

ライフラインでは、動物と植物が、酸素と二酸化炭素を交換して、相互依存の関係とういことを学びました。それで、七輪配布による森林保存の重要性を学び、この世界には、自分みたいな障害者でも、何か社会の役に立てることがあるのだとわかりました。木々が私たちに酸素を与える様に、私も、他の同胞たちのために七輪を作る事ができる。

でも、工場閉鎖で、私の一番幸せな時間は、長く続きませんでした。私の人生は、とことん、ついてないですね。

今年2月に私たちがストライキをしたことがありましたね。本当は、私は働きたかった。工場長を裏切るようなまねはしたくなかった。でも、皆がストライキをするって言うから、仕方なく追従しました。1人だけで働いても仕方ないですから。私は、あの時、工場長は何も悪い事はしていないと思っていました。あの時、ストライキなんてして、本当に申し訳なく思っています。

少しの間だけでも、幸せな時間を頂いた事、とても感謝しています。また、工場が再開できたら、一緒に働きたいですね。仕事がしたいです。ライフラインの活動は、もっと、色々な人に知れ渡るべきです。工場長、こんな自分を受け入れてくれて、本当にありがとうございました。母親も喜んでいると思います」
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腹心との出会い

 昨年10月から私の右腕として大活躍しているモウリドは、私が2010年3月にダダーブに来て、最初に出会った難民の1人だ。当時、私は国連の若者支援担当として、彼はキャンプの青年組織幹部の1人で、会議で出会った。次の週、私がキャンプを視察に行くと、彼が快く案内役を引き受けてくれ、市場や彼の自宅を見せてくれた。市場のレストランでは、「あなたはゲストですから」と、何度も遠慮する私を遮り昼飯代を出してくれた。

 1987年、ソマリア南部最大の港があるキスマヨで生まれた。両親は雑貨店を経営していた。1991年に内戦が勃発し、市民の大半はケニアなどへ逃れたが、モウリド一家は、店も家も被害が少なく、キスマヨに残った。1997年に父親が病死し、経済的に苦しくなり、母親と共にケニアへ逃れた。「キャンプに行けば、無料で教育が受けられるというのが一番の魅力でした」と言う。

 とにかく勉強が好きだった。中でも英語は得意科目で、キャンプにある唯一の図書館に通っては、英語の絵本を借りて、何度も読み返した。高等学校をトップレベルの成績で卒業し、キャンプの欧米のNGOに就職した。

 就職口が限られたダダーブ難民キャンプでは、30以上ある援助団体は最大の雇用の受け皿 、6000人近くの難民が働いている。NGOで働いてみて、モウリドは、「難民従業員とケニア人従業員の格差に驚いた」と振り返る。給料は5倍から10倍の差があり、団体のお金や事務所の鍵の管理は難民従業員に任されることはなく、仕事が残っていても、ケニア人従業員が事務所を出る時に、出なければいけなかった。ケニア人従業員が受けられる社内研修も、難民従業員は受けられなかった。

 モウリドは、私が若者支援担当として提案した「ユースフェスティバル」の案に、最初から同調した数少ない若者の1人だった。私は、難民の若者たちでできることは、若者たちだけでやるべきだと思い、「援助団体に頼らない、若者たちの、若者たちによる、若者たちのためのフェスティバルを開きましょう」と提案した。ダダーブでは20年間、難民の日、環境の日、マラリアの日、国際女性の日、など記念式典が援助団体のお金で催されてきた。若者たちの中には、「なんで、自分たちだけ、お金を出さなければならないのか?」と不満が上がった。

 それでも、何人かは、「もう20年も援助団体から支援を受けたおかげで、私たちにもそれなりの能力が身に付いた。これからは、自分たちの足で歩いていけるよう、努力すべき」という画期的な考えを持った若者たちが出てきて、3つあるキャンプすべてでフェスティバル実行委員会が結成された。モウリドも、一つのキャンプの実行委員長となった。

 しかし、援助団体からお金をもらわないということは、それまで青年組織に与えられた、ある意味「特権」と決別することを意味し、それに反発する若者たちからモウリドは嫌がらせを受けた。ある日、私とのミーティング後、そこに居合わせた別の幹部からは、「お前は、もう幹部リストから除名したから、話をするな」とまで言われ、モウリドは、泣きながら「何か問題があるなら、全体ミーティングで話し合おう」と呼びかけた。

 様々なハードルを乗り越え、フェスティバルで歌や踊り、劇をボランティアで披露してくれるグループを探し歩き、企画書を作った。当日必要な道具を手配し、会場まで運搬する手続きをした。そうしているうちに、「それまで援助団体に頼り切って来たことも、自分たちにもできるということがわかり、どんどん、引き込まれていきました」という。

 作り上げたフェスティバルの企画書をNGOとの合同会議で発表した。10以上の団体が集まり、モウリドが司会進行役を勤めた。「それまで、自分より階級が上だと思っていたNGOの人たちが、私たちと肩を並べて座り、私の提案に耳を傾けてくれたこと事態、初めての事だった。さらに、私を会議の進行役として認め、発言する時は挙手して私に許可を求めて来た時、それまで失われていた自尊心を取り戻した気がした」と当時を振り返る。

 そして、フェスティバル当日、それまでのどんな記念式典に集まった人よりも多くの若者たち(約1000人)が集まり、相撲大会など、様々なパフォーマンスに見入った。次の日の打ち上げでは、「他の援助団体で働く友人が『自分たちの援助団体が率先した記念式典なんて、あのフェスティバルに比べたら、ちっぽけなものだった』って、嫉妬してましたよ!」と無邪気な笑顔を見せた。

 モウリドが、ライフラインに入って5ヶ月。すでに、なくてはならない存在となった。それまで、従業員たちの利益を代弁することしかできない主任が調整役だったため、ひっきりなしにくる従業員たちからの要求、一つ一つに私が答えなければならなかった。しかし、モウリドは、団体側と従業員側の双方の利益を天秤にかけることができるので、私が言おうとしていることの半分以上を、彼がソマリア語で直接言ってくれるため、私にかけられた負担は半減した。

 今度は、彼とどんな「フェスティバル」が開催できるのか、楽しみだ。

2回目のキャンプ生活

先月、工場Bで働き始めたファラ(30代、男性、仮名)は、昨年11月に、ソマリアから逃れてきた。ソマリアでは大学の講師として英語を教え、給料は350ドルで、現在の5倍近く貰っていたという。それなのに、「この工場で働くのは楽しい!」といつも笑顔で言うのは、なぜなのか?

「干ばつで、すべての価格が上がり、私の給料では生きていけなくなりました」と言う。ソマリア南部に昨年襲った干ばつで、畜産業や農業が壊滅的打撃を受け、一杯の牛乳が20円から、250円に跳ね上がったという。

さらに、昨年10月にケニア軍がソマリアに侵攻したことを受け、ソマリア南部を実行支配するイスラム武装組織「アルシャバブ」は「(ケニアの公用語の)英語を話す者は、ケニアのスパイとみなす」とラジオで住民に通達した。10月半ば、武装勢力メンバー3人が、ファラの留守中に家を昼と夕方の2回訪れた。妻が「夫はいません」と告げると、3人は去っていった。
携帯電話で妻から報告を受けたファラは、恐怖で家に戻ることができなかった。サッカーのワールドカップを観戦した者を「西洋に魂を売った」という理由で処刑するアルシャバブに、住民は皆怯え、その組織名を口にすることさえ避けた。「英語の講師である私を捕まえにきたのだとしたら、もうここでは生きていけない」と、ダダーブへ向かう車を手配した。

ダダーブ難民キャンプに来るのは2度目だった。小学生時代に、ソマリア内戦が勃発。夕方、近所でサッカーをしていると突然銃声が鳴り響き、母親に「逃げるわよ!」と遠くから呼ばれた。走りながら、一緒にサッカーをしていた友人が流れ弾に当たり、倒れた。それでも、走り続けた。

そのままダダーブへ家族と行き、ダダーブで小学校、高等学校、教員養成学校を卒業し、2004年、当時、比較的安定していたソマリアへ家族と戻った。

小さな店を経営する両親はソマリアに残り、先週、妻がダダーブへ来て、2ヶ月ぶりに夫婦生活が戻った。
私は「君みたいな能力の高い人は、より良い待遇の仕事があったら、すぐそちらへ行くだろうな」と皮肉ると、「とんでもない!私は、ずっとライフラインにいたいです」という。「なぜ?」と訪ねると、「ソマリアから追われた私に最初に手を差し伸べてくれた場所だし、従業員が皆まじめに働いているのに惹かれます」と答えた。

少し間を置いてから、「それに、、」と、少し改まった表情で、「あなたのような、外国人のNGOの代表が、難民従業員と同じ椅子に座って話してくれるのは、新鮮で嬉しいです」と、白い歯をむき出しにして言ってくれ、彼の身の上話を聞いて痛んでいた心が少し和らいだ。

従業員の生い立ち ~ カトラ ~

 今年の干ばつでダダーブ難民キャンプの人口は30万人から45万人へ急増した。新しく入って来た難民の多くは学校で学んだことがない女性や子供で、キャンプで仕事に就ける者は少ない。ライフラインは、その中から2人の未亡人女性を工場に従業員として招き入れた。

 その内の1人、カトラ(仮名、20代後半)はソマリア南部のハガールで生まれた。父親は4人の妻がいて、兄弟が15人いた。ヤギや牛を飼う遊牧民の家庭で、7歳から家畜の放牧を任された。近くに通える学校などはなかった。

近所の子供たち5~6人で、100匹以上のヤギを連れて、赤道直下の砂漠を一日中歩いた。水たまりを見つけるまで歩かなければならず、「雨が降らない時は12時間ほど歩きまわらなければならず、午後には喉が渇いて大変だった」と振り返る。ヤギが一匹でも逃げるようなことがあれば、父親から棒で叩かれ、夜通し探し回らなければならなかった。雨が溜まった池で友人たちとよく泳いで遊んだが、友達の1人が溺れて亡くなってから、遊ぶのを辞めた。

 1991年、カトラが10歳の時、ソマリアで内戦が勃発した。間もなく、離れて暮らす伯父の訃報が届いた。銃撃戦に巻き込まれ、流れ弾が命中したという。実の兄を亡くした母親は一日中泣き続け、情緒不安定に陥った。次の日から、視線に入る男性すべてに「お前が兄を殺した」と殴りかかるようになり、生後間もない妹を背中に抱えたカトラさえ、棒で叩かれた。父親が、母親の見張り役となり、カトラや子供たちが家畜の世話をした。

 当時妊娠していた母親は、無事出産はしたものの、母乳をすることができなかった。そして間もなく、食べ物を拒むようになり、栄養失調で亡くなった。40歳だった。

 長女のカトラは11歳で母親の代わりとして家事を担った。15歳の時、村が武装集団に襲われ、家畜を連れて森の中へ逃げた。一ヶ月間、避難生活をした後、村に戻った。

 16歳でお見合い結婚。父親から紹介された親戚の男の子だった。3人の子供を授かり、昨年、夫が病気で急死。干ばつが襲いかかり、家畜がバタバタと亡くなっていった。

 生活の糧を失い、2~8歳の子供3人と父親と、夫の家族からお金を借り、今年7月、ダダーブへバスで向かった。

 9月、私が、新しい難民が住む地域を歩いた時、その地区の女性リーダーに「夫を亡くした女性を、私の工場で雇いたい」と伝えたら、連れてこられたのが、カトラだった。

 「学校すら行っていない私が、仕事に就けるなんて思ってもいなかった。父も喜んでいます」と言う。今は、親戚に頼んで、毎晩、文字の読み書きを学んでいる。「難民キャンプの存在をもっと早く知っていたら、良かった。本当は学校に行きたかった。将来は先生になりたい。失う物ばかりだったけど、これからは得る物もあるかもしれない」と希望を胸に託した。
プロフィール

seventh star 7

Author:seventh star 7
黒岩揺光  
1981年、新潟生まれ。7人兄弟の末っ子。15歳で米国留学して以来、住んだ国は計8カ国に。海外生活計17年。日本では毎日新聞記者、アフリカでは難民キャンプの工場長、アゼルバイジャンで主夫、ジュネーブで国連職員などを歴任。現在は中東ヨルダンで妊娠した妻に寄り添う専業主夫。
 著書に「僕は七輪でみんなをハッピーにしたい」(ユーキャン)「国境に宿る魂」(世織書房)。
メール連絡先 yokuroi×hotmail.com (「×」を「@」にしてください) ツイッター:@YokoKuroiwa

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