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従業員2人を停職処分に

従業員2人を停職処分に

 今日は朝から気が重い。従業員2人に1カ月の停職処分を下さなければならないからだ。無論、こんなことするのは人生で初めて。入ってきたばかりの工場長がこんなことをしたら、従業員からの反発はすごいだろう。もしかしたら、信頼関係に大きなヒビが入るかもしれない。裏で何を言われるのかもわからない。それでも、自分の信念を突き通さなければならないのは辛いなあ。

 処分を下されるのは、どちらも男性。1人は50代のイブラヒム(仮名)。5月と6月の2ヶ月間で無断欠勤が11日。先週、警告を出したら、「出勤しているのに、欠勤扱いにされた!」と逆切れ。出勤簿を見ると6月2日に欠勤とあった。「この日は?」と尋ねたら、「この日も出勤していた!」と豪語してくる。しかし、この日は、私自身が工場に来ていた日で、イブラヒムの姿は残念ながら見なかった。無断欠勤が多いうえに、出勤簿をつける主任の名誉を傷つけた代償は大きい。しかも、何の反省の色も見られない。主任のラホと相談し、停職処分が決まった。

 2人目の方はさらに深刻で、複雑だ。コンロを作るためのレンガを、毎日200個作るのを目標としているが、6月20日は、数人の従業員が欠勤したため100個前後しか作れなかった。しかし、23日に工場で月間報告書を見たら、20日に作られたレンガの数が「200個」と記されていた。報告書をつけた主任代理のアブラシード(25歳)を早速呼び、本人は自らの失態と認めた。私が毎日工場に来ることができないため、月間報告書は、私と従業員の信頼関係をつなぐ唯一の生命線。私は、平静を保つことができず、「この難民キャンプには、仕事がしたくても仕事に就けないたくさんの若者がいるんだ!もっと真面目にやってくれ!」とアブラシードを叱責した。
その日作られたレンガを数えるだけの仕事を怠るなんて。しかも、目標達成されなかった場合のペナルティーなんて何も課されていないのに、なぜ、偽った記載をしなければいけなかったのか?仕事を舐めているとしか思えない。本人に尋ねても、「すいません」「すいません」と言うだけで、何も言おうとしない。本来、従業員の処分は、主任からの警告、私からの警告、そしてそれでもだめなら、停職となる。しかし、今回の事は、あまりにも重大である。警告を飛ばして、即停職処分とした。そして、彼を主任代理として任命したラホを警告処分にした。

 いつも通り朝8時半ごろ工場に着くと、早速、ラホとイブライムを別室に呼んだ。イブラヒムには、私から停職処分を告げる文章を読み、ラホがソマリア語に口頭で翻訳した。イブラヒムは、何も言わず、下を向いたまま、紙を受け取った。「もう行っていい。それから、アブラシードを呼んでくれ」と私は伝えた。

 アブラシードは、硬い表情で入ってきた。彼は英語がわかるため、ラホの翻訳は不要だった。私が、処分を告げる文章を読み上げた後、彼はそれを受取ろうとせず、「本来なら、まず、警告するのではないのですか?」と言ってきた。私は、「残念だけど、君が犯したミスは、警告で済まされるものではない。もし、この処分が気に食わなければ、解雇しかない。どちらか自分で選んでくれ」と強い口調で伝えた。

 ラホが横から「ボス。私も発言してもいいでしょうか?」と尋ねてきた。私は了承し、ラホは「これは彼が犯した初めてのミスです。警告にしてやってはどうでしょうか?」。私は「残念だけど、これはもう決まったことだ。月間報告書に偽りが記されるのなら、もう私たちの信頼関係はない。信頼関係がなければ、仕事を続けるのは不可能だ。工場を閉鎖するしかない」ときっぱり断った。

 アブラシードは、渋々、文章を手にして、部屋を出て行った。そして、ラホと2人きりになり、私は「実は、まだあるんだ」と、ラホに対する警告処分が記された文章を取り出した。私は読み上げ、ラホは黙って聞き、読み終わった後、「サワサワ(スワヒリ語でOK)」と言い、文章を受け取った。私は内心、不安で仕方がなかった。ラホはもう4年以上、この工場で働き、他の従業員から絶大な信頼がある。これで、彼女との信頼関係が崩れるようなことがあれば、これからの仕事に大きな支障がでるだろう。

 この日は丁度、給料日のため、従業員全員を集めて、1人1人に給料を現金で手渡し、受け取ったサインをもらった。給料は1人5000シリング。日本円にして約5000円。週35時間肉体労働をして、月5000円。日本で同じ量の仕事をすれば、少なくとも20~30倍はもらえるだろう。つくづく、人生とは不公平にできているものだと感じさせられる。

 そして、その後、私は「私がここに来てから1カ月が経ちました。皆さん、どうでしょうか?」と皆の前で切り出した。そしたら、ソマリア語で何やら、従業員同士でやりとりが始まった。隣にいるラホに「何て言っているの?」と聞くと「あなたは良い工場長という人もいれば、そうではないという人もいるようです」と教えてくれた。私は、「何が問題なのか、話してもらえますか?」と聞いた。

 そしたら、女性従業員のマラシ(30代、仮名)が、「私たちはこの1カ月、あなたを歓迎しようと心がけた。でも、あなたは、私たちの仲間2人を工場から追い出そうとしている」と言う。私は、停職処分を2人に告げてから数分しか経過していないのに、すでに従業員全員に知れ渡っているということに少し驚き、「それについては、後でじっくり説明します。他には何かありませんか?」と言う。

 今度は、50代の男性従業員、リバンが、「あなたは前任者とは違う。たくさん工場に顔を出してくれるし、それはありがたい。私たちはあなたを尊敬したいし、あなたも私たちを尊敬してほしい。でも、2人の従業員をああいう形で処分をするのはどうかと思う」と言ってきた。どうやら、2人の停職処分がよほど、ショックだったのだろう。これ以外の事について話すのは無理のようなので、私は、彼らにゆっくりと、自分の思いが伝わるように話した。

 「それでは、説明します。私は、この工場長になったことをとても誇りに思っています。あなたたちが毎日作っているコンロは、キャンプの住人たちの生活に役立っているからです。だから、私はあなたたちにとても感謝しています。
 私は日本という国に生まれました。あなたたちは、日本についてほとんど知らない。そして、私も、ここに来るまでソマリアという国について、ほとんど知らなかった。私たちは、それだけかけ離れた場所から来て、全く異なる文化で、色々理解できないことがあるだろう。こういった関係で、信頼関係を築くのは難しいけど、私たちが双方で、努力を怠らないことが大事だと思います。
 イブラヒムは、2ヶ月間で11回無断欠勤をし、さらに主任が彼の出勤簿に偽って欠勤と記したと言いました。実際、その日は、イブラヒムは出勤していなかったことを、私がこの目で確認しています。彼は主任の名誉を傷つけました。
 アブラシードは、月間報告書に偽りの記載をしました。この月間報告書は、毎日工場に来れない私とあなたたちの信頼関係を築く唯一の生命線です。この報告書の信頼性が失われれば、この工場の運営は難しくなります。
 私はあなたたちを理解したいと思っている。だから、私はあなたたちに決して嘘はつかない。だから、あなたたちも決して私に嘘はつかないでほしい」

 マラシは、深く頷いて、理解してくれたようだった。

 私は、「この他にも、この1ヶ月間で、身分証明書の紛失が1件、無断欠勤2カ月が1件あった。イフォ(別の難民キャンプ)の工場では、これまで何の問題もない。頑張りましょう」と笑顔で話し、従業員たちの表情が少し柔らかくなった。

 「他に質問は?」と尋ねると、これまで静かにしていたブラレ(40代男性、仮名)が「停職処分をされた2人はどちらも私の班です。どうか、寛大な処分をお願いできないだろうか?」と、尋ねてきた。もう、これについての話は終わったと思っていた私は、不意を突かれた思いだった。

 私は逆に、ブラレに尋ねた。「あなたが、私だったら、どうするのですか?」と尋ねた。ブラレは、「警告します」と答えた。私は「イブラヒムは、もう3回も警告を受けているのですよ」と言うと、ブラレは「私があなたでも、そうしていたでしょう」と言い、黙った。

 「他は?」と、できるかぎり柔らかい口調で言うと、今度は、59歳のハサン(男性、仮名)が「あなたは私たちの父親で、私たちは、あなたの子供です。家族みたいなものなのだから、2人に寛大な処分をしてあげてくれないか?」と請願してきた。私は「何を言っているのですか。見た目なら、あなたが私の父親でもおかしくない」と笑顔で答えると、皆、噴出した。

これだけ、従業員たちが請願しているのを目の当たりにすると、さすがに折れたくなる。私は、「あなたには子供がいますか?」と尋ねた。ハサンが頷くと、「子供たちがあなたに嘘をついたら、どうしますか?」と尋ねると、「警告します」と言ってきた。再び、私がイブラヒムには警告がすでにされていたことを告げると、「それについてはわかった。でも、アブラシードは、警告処分なしで、いきなり停職になった。本来なら、警告処分からするのが普通です」と言ってきた。隣にいる60歳のシヤード(仮名、男性)も頷いた。

 私は「確かに、アブラシードは警告なしで、いきなり停職になりました。ただ、2人の行った行為は、全く異なるものです。コーラを盗むのと、人を殺すのとでは、与えられる罰が違うように、罰則というものは、事の重大さによって分けなくてはなりません。イブラヒムが何回無断欠勤しようが、この工場の運営にはさほど影響はありません。彼1人がいなくなってもそこまで大きな問題はない。しかし、私とあなたたちをつなぐ唯一の生命線である報告書に偽りの記載がされたら、それは、この工場の存続の危機を意味します。『この工場を潰して、別のところに移転しよう』という声が本部から上がるかもしれません。そして、ここにいるすべての人が職を失う。アブラシードがしたことは、それだけ重大なことなのです」と伝えた。アブラシードは、ずっとうつむいたまま、何も話さない。

 ようやく、誰も停職処分に関して話すものはいなくなった。一体、彼らがどこまで理解してくれたのかは疑問だ。ミーティング終了後、従業員たちは、通常業務に戻った。停職処分を受けた二人は、木のベンチに座ったまま、全く動こうとしない。誰とも会話を交わすこともなく、アブラシードは携帯電話をいじっている。私は、少し胸が痛くなった。
 
 マラシが、ラホを通して、生後6カ月の子供が病気だから、少し仕事を休まなくてはならないと告げてきた。私は笑顔で「それは心配だね。看病してあげて」と伝えた。そしたら、「何日休めるのか?」と尋ねてきた。私は、「ラホに任せるよ」と言った。今回の停職処分で、従業員もかなり神経過敏になっているのだろう。これが良い刺激となるか、悪い爆弾となるかは、明日からのお楽しみだ。とにかく、私は、誠心誠意、彼らに尽くすのみ。
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なぜ、1人の妻にこだわるのか?

女性従業員は全部で10人。敬虔なイスラム教徒で皆ヒジャブという布で頭を覆っている。難民キャンプで働くまでは、そういったイスラム教徒の女性は無口でおとなしいイメージがあったが、どうしてどうして。男性従業員よりも、よく話す!女性だけで集まって、何やら、甲高い声でべちゃべちゃ話している。買い物途中のお母さんたちが道端で話し合っているのと同じイメージ。

 たまに、私から話しかけると、とても興味深そうに色々聞いてくる。「日本」という国については、名前は聞いたことがあるくらいで、何のイメージもないという。「日本の首都はどこか?」と尋ねたら、無口になり、「パリ?」とぼそっと呟いた女性がいたほどだ。

 ある日、私が、4人の女性従業員が楽しそうに話しながら、コンロ作りに励んでいるときに、彼女たちの輪に入りこんでみた。

 そしたら、ハナム(仮名、30歳)が、「白髪が何本かあるけど、もう子供はいるの?」と尋ねてきた。ダダーブに来てから、一段と白髪が増えていたのは気づいていたが、痛いところを突いてくる。「いや、まだいないよ」と伝えると、「それはダメよ!子供作らなきゃ」という。

 「じゃあ、君は何人いるの?」と聞き返すと、

「7人」

 と誇らしげに即答してきた。周りの女性たちにも尋ねると、「6人」「7人」「10人」と、やたらと多い。私自身、7人兄弟の一番下だから大学族なのだが、ここでは、それは全く珍しいことではない。しかし、同じ年ですでに7人も産んでいるとは、、。

 「日本では、1人か2人が普通だよ」と教えると、「なんで、たくさん産まないのか?」と聞いてくる。

 私が、「私の場合は、今、妻と離れているしね。まだ、難しいな」と言うと、さらに、驚き発言が。

 「じゃあ、ここで、もう1人と結婚したらいいじゃない?なんで、1人の妻にこだわるの?」と真顔で聞いてきた。

 質問してきたファトゥマ(30代、仮名)の夫は、3人妻がいるという。3人の妻が別々の家に住み、夫は3日間間隔で各妻の家を訪れるという。

 「他の妻に嫉妬とかないの?」と私が聞くと、「そんなの全然ない」ときっぱり。「女性は、複数の男性と結婚できるの?」と聞くと、首を振る。「男性はできて、女性はできないなんて、不公平じゃない?」と言うと、「いいえ。これはイスラムの教えですから」と言う。
 
 そうか。宗教の前では、私の男女平等の法則なんて、通用しないのだ。

 「君たちの子供が、日本人と結婚したら、嫌?」と聞いてみると、「イスラム教徒なら、明日にでも、贈呈するわ」と、いつもの甲高い声で答えてきた。

 宗教なんて、これまで本気で考えてこなかった自分が、宗教に人生のすべてをかけている人たちと一緒に働くなんて、不思議なものだ。ちなみに、イスラムの一夫多妻制は、戦争が繰り返されるなかで、未亡人救済を目的として始まったとされる。イスラムに限らず、ケニアにもその伝統は根強く、公用語のスワヒリ語には妻の複数形はあっても、夫の複数形はない。

 ハナムに私が「じゃあ、来年にでも5人子供作る!」と冗談を言ったら、「私は、一日も早く10人目を産むつもりよ」と、笑いながら返してきた。こりゃ、勝ち目ないな、、。しかし、今日の会話、私の妻が聞いたら、どう何て言うだろう、、。


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無断欠勤2カ月


 「工場長」という名の通り、従業員の管理・指導が仕事の大半を占める。工場は、二つの難民キャンプにそれぞれあり、全部で男女30人(19~60歳)が働いている。ただの工場長でも、緊急人道支援の現場。想定外の事はいくらでもあり、従業員の指導も、様々な事に配慮しながらやらなければならない。

 例えば、先日、4月中旬から二ヶ月間、無断欠勤していた従業員が突然現れた。普通なら、即解雇するケースだろう。しかし、色々なケースが想定されるため、従業員の言い分をしっかり聞いてやらなければならない。

 私の右腕として工場の主任を務めるラホ(‘仮名・女性・35歳)は、「そんな長い間、無断欠勤されて、彼を信用できなくなった。解雇するしかない」と主張。私は、彼に無断欠勤した理由を尋ねても、何も答えようとしない。

 無断欠勤していたのはバシール(仮名・男性)。欠勤するまでの勤務態度は良し。能力も高かったという。もしかしたら、直属の上司のラホの前では、言いにくいこともあるかもしれない。ラホも少し感情的になっているため、一度、落ち着いた場所で1対1で話した方がいいかもしれない。従業員の中で英語が流暢にできるのはラホだけ。だから、彼らと対話しようとしたら、必ずラホを通さなければならない。

 次の日、私は、英語ができる知り合いのソマリア人に通訳をお願いし、バシールの話を聞いてみることにした。

私:4月中旬から、無断欠勤ということだけど、どうしたの?

バ:おばあちゃんの体調が悪くて、看病に行っていました。

私:おばあちゃんはもう大丈夫なのか?

バ:亡くなりました。

私:、、、いつ?

バ:二十日前くらい。

私:どこで?

バ:ガリッサ近くの村です。(ガリッサはダダーブから約90キロ離れた町)

私:なんで、おばあちゃんはそこにいたの?

バ:親戚の家に住んでいました。

私:君は、おばあちゃんの容体が悪くなったことをどうやって知ったの?

バ:おばあちゃんと一緒に住んでいる親戚がキャンプまで来て、教えてくれました。

私:それで、そのままその親戚と一緒におばあちゃんの家まで行ったの?

バ:はい。

私:出発する前に、なぜ、連絡できなかったの?

バ:携帯電話を持っていません。

私:向こうに到着してからでも、誰かの携帯電話を借りて電話できなかった?

バ:誰の番号も頭で覚えていませんでした。だからかけられなかった。

 木の長椅子に座り、背中を壁にもたれ、片足の膝を曲げて、目線を下を向け、バシールは淡々と答えた。私は、彼の話に一貫性があるかどうか、一つ一つ細かく質問することに心がけた。

私:いつ、難民キャンプに戻ってきたの?

バ:一週間前くらい。

私:それで、すぐに出勤することはできなかった?なぜ、昨日になって来たの?

バ:こちらに戻ってきたら、母の容体が急に悪化していました。そして5日前に亡くなったのです。そのショックでしばらく動けませんでした。

 お母さんまで亡くしたとは、、、。

私:お母さんは、なぜ、亡くなったの?どんな病気で?

バ:心筋梗塞。

 キャンプから離れたところに住んでいる祖母が亡くなったという嘘はつけるだろうが、難民キャンプにいるお母さんが亡くなったという嘘はつくことができないだろう。そんなことは、調べればすぐわかるだろうし、近所・親戚に知れ渡るだろうから、他の従業員だって知っていることだ。

 携帯電話がなければ連絡ができないのは、仕方のないことではあるし、ラホの番号をメモって常に携帯するようなきめ細かさを彼に求めるのは、少し無理がある。おそらく、小学校すら行っていないだろうし、文字の読み書きもできないだろう。組織の一人としての責任とか常識とかを話しても、彼には通用しない。だから、彼が本当の事を話しているかどうか、どれだけ私に真摯に向かって話しをしてくれているかを知りたかった。通訳をしている知り合いも、「彼の話し方は信頼できます」と言う。

 そういえば、ラホは、バシールが給料は全く母親にはあげずに、カートと呼ばれる麻薬性がある植物を買うことに給料のすべてをつぎ込んでいると非難していた。実際はどうなのだろうか?

私:給料はお母さんにあげていたの?

バ:5000シリングのうち、2000シリングはお母さん。2000シリングでカートを買って、残りは自分のお小遣いにしていた。

 給料の4割がカートかよーー(汗)。でも、お母さんには全くあげていなかったというわけでもないみたいだ。ということは、ラホが言っていたことは嘘ということになる。自分の部下の名誉に関わる話で、簡単に嘘をついてはいけないところだが。

私:難民キャンプにはいつ来たの?

バ:1992年です。

私:学校は行った?

バ:いや。家族が貧しかったので、子供のころから仕事をしていました。

私:どんな仕事?

バ:近所の人のために水を汲みに行ってお小遣いをもらったりした。少し大きくなってからは、ドンキーカート(ロバに荷台をつけて物を運搬する)でお金を稼ぎました。

私:今回の事は反省している?

バ:はい。みんなに迷惑をかけたと思っています。

私:こういうことが二度と起こらないようにするには、どうしたらいいかな?

バ:、、、、。

「主任の電話番号をメモって常に携帯し、何かあったら報告するように心がける」という答えを期待したが、さすがに、それは無理だったようだ。


私:大事な家族が一度に二人も亡くなったことはとても悲しい。君も大変だったろう。でも、だからと言って、君がしたことがすべて許されるということじゃない。長期欠勤することを、私たちに伝える方法はいくらでもあった。携帯電話がなくても、誰か近所の人に伝言を頼むことはできたでしょう?これは仕事なのだから、責任感を持ってもらわないと。

バ:はい。私のミスでした。

私:本来なら、ラホの言う通り解雇するところだが、今回は事が事なだけに、そういうわけにもいかない。だから、君が本気でまじめに職場に復帰したいというなら、誠意を見せてほしい。7月の1ヶ月間、無給で働いて、ラホが君の仕事ぶりを認めるなら、8月から正式に復帰してもらう。どうかな?

バ:わかりました。

彼は淡々と答えた。何の感情も表に出すことはない。

 しかし、これで事が一件落着したわけではない。ラホは当初、彼を解雇すると言った。彼女の判断を覆したのだから、彼女の主任としての面子も保たなければならない。私はラホを呼んで、二人きりで話した。

私:彼にも色々な事情があったようだ。即解雇とは言わず、もう一度チャンスを与えたらどうかな?

ラ:はい。私もそう提案しようと思っていました。

私:ありがとう。7月、彼の勤務態度が良いか悪いかは、君の判断に任せるから。

ラ:わかりました。

 ラホも納得してくれたようだ。

 自分の判断が甘すぎたのかどうか、少し自信がないが、日本でも母親が死ねば、2カ月とまではいかないが、それなりに配慮はされるだろう。それにしても、工場長就任初期から、バタバタだな。これから1年も果たして体力続いていくのかなあ、、。

 最後に、バシールに「お母さんが亡くなった今でも、カートは買い続けるのか?」と聞いたら、「うん」と照れ笑いをしていた。そこまで、カートというのは、気持ち良いものなのか?キャンプの中を歩くと、カート漬けになって、泥酔している若者に出くわすことがよくある。あまり、カート漬けになって、仕事に支障をきたさなければいいけど、、。そしたら、今度こそ解雇だな。






なぜ、コンロ作りなのか?

 日本のサラリーマン辞めて、アフリカの難民キャンプの若者支援やって、次は、NGOで難民のためのコンロ作り。なんで?とよく聞かれる。確かに一貫性に欠けているようにも見える。が、そもそも、人生なんてすべてがシナリオ通りに進んでいたらつまらない。
 大体、サラリーマン辞めたのが2009年10月。結婚して8カ月しか経っていなかった。普通、新婚ホヤホヤの男が、「会社辞めて、ケニアの難民キャンプで働く」って言ったら、離婚騒動に発展するだろう。ところがどっこい。当時、東京の難民支援NGOで働いていた妻は「じゃあ、私も」と、私がケニアに赴任した約1年後に、首都ナイロビの国連機関に就職してしまった。しかも、私よりも数段上の待遇で(涙)。日本では、私が営利企業の正社員で、妻は小さなNGO職員。給料は倍くらい違った。しかし、今は、逆転満塁ホームランを打たれた気分で、一気に試合の主導権を握られてしまったのだ。
 ナイロビから500キロ離れたダダーブでの1年契約の仕事が終わった後、夫婦同じ場所で働きたいと思い、ナイロビで仕事を探したのだけど、これがまた難しい。国連機関やNGOなど、たくさん空席は出るのだけど、いくら履歴書を送っても、良い返事が来ない(涙)。人道支援の現場での経験を重視する国際機関では、日本の会社員だった私が、さまざまな現場での経験をぶら下げて世界中から応募してくる人たちに太刀打ちできるわけがない。
このままじゃ、「ナイロビで専業主夫」というタイトルでブログでも書くしかないなあ、と思っていたら、ダダーブのNGOで働いていたタンザニア人のJが、「俺ここでの仕事辞めるから、俺のポジションの空席が出るよ」とアドバイスしてくれた。Jとは仲良しで、JのNGOの幹部がダダーブへ視察に来るたびに、一緒にご飯を食べたりしていた。もし、上司たちが私を気に入ってくれていたら、チャンスはある!と、乗り乗りの気分に。
 しかし、また、ダダーブに逆戻りになったら、夫婦離れ離れになってしまう。しかも、あの灼熱地獄のダダーブへ戻るだけの体力があるだろうか?1年ダダーブで働いたが、体調数回崩すわ、白髪増えるわ、体重減るわで、心身共に疲れ切っていた。どうしよー、と考えた末、Jが「毎週末、ナイロビに戻れるし、年間9週間の有給があるよ」と言ったので、妻の承諾を得て、応募することにした。
そしたら、応募書類提出してから約3週間後、JのNGOの本部から電話があった。すでに顔見知りのJの上司から「コンロの仕事はしたことある?」と聞かれて、「全くありません」と正直に答えた。その後、「家族はどこに?」「私たちの活動について知っていることを話してください」などといくつか3~4分間質問を受けた後、「じゃあ、採用します」と内定を頂いた!超、適当――!志望動機も聞かれず、コンロの仕事すらしたことないって言っているのに、こんな採用プロセスで果たしていいのだろうか?と疑問に感じたが、まあ、とりあえず、妻と同じ国で仕事を頂けるということに感謝した。
 だから、「なぜ、コンロ作りなの?」と聞かれても、実際は返答に困る。別にコンロに特別思い入れがあるわけでもなかったし、環境問題をやりたかったわけでもなかった。妻と同じ国で働けて、勤務時間に柔軟性がありそうな組織だったというのが一番の理由。私たち夫婦、出会って6年、結婚して2年半近くになるが、いまだ、同じ都市で暮らしたという経験がほとんどない。妻は韓国人だが、最初はソウル(妻の大学)ー奈良(私の初任地)。そして、新潟(妻の大学院)―奈良。新潟―広島(私の転勤先)。東京(妻のNGO)―広島。そして東京―ダダーブ。で、今、ダダーブーナイロビ。でも、毎週末、ナイロビーナイロビだから、今までよりは、一番距離が近くなったというわけだ。アフリカで、初めての夫婦生活が営めるということになる。どんな、新婚生活が待っているのか。乞うご期待!
 
 

非日常の中にある日常

昨年10月、著書第一弾「国境に宿る魂」(世織書房)が出版された。普通なら両手をあげて喜ぶはずなのだが、なかなか、それができない。本は私が24歳のときにタイやビルマでの体験を綴ったものなのだが、改めて読み返そうとしても、1ページくらいで顔が赤くなってしまう。「同種偏愛主義」だの「民族主義」だの、文章が硬い。偉そうに世界をすべて知り尽くしたように、物事を決めつけている。うーーん。こんなの2500円払って、買ってくれる人、いないだろうなああ。

 と、思いながらも、ケニアに40冊ほど持ってきて、日本人に会うたびに売りつけている。自分の家に食事に招待して、話が盛り上がったときに「いやあ、最近、本を出しましてねえ」と切り出して、現物を持ち出すと、場がしーーんと静まりかえる(汗)。タイとビルマの難民に興味ないし、本代高いし、でも、食事に招待してもらっているから、断るのも、、、、というのが、本音だろうな。ほとんど、悪徳商法に近いやり方だが、それでも8割方、「ちょっと、今日、お金持ち合わせてないので」などと言って、うまく切り抜けていく(涙)。

 世界で一番大きい難民キャンプで働く唯一の日本人(2011年6月現在)として、現場のリポートを日本の人に届けたいという思いがある。でも、アフリカとか難民とか、なかなか身近に感じられないことについて、共感が得られるように書くのって、難しい。

 先日、日本に一時帰国した時、出版の仕事をしている友人とお茶しながら、私の本についてアドバイスを頂いた。

友「この本は完ぺきにしようとしすぎている。学術論文ならわかるけど、体験ルポで完ぺきなものは求められていない。そもそも、なんで、難民に興味を持ったの?」

私「高校1年でアメリカ留学して、言語の壁とかぶつかって、大変だった。それで20歳で旧ユーゴで難民に初めて出会って、異国の地で苦労している人たちを見て、昔の自分と重なった。私は自分で選んで異国に行ったけど、異国に行かざるをえなかった彼らからしたら、まだ自分は恵まれていると思った」

友「それも、完ぺきすぎるなあ。そんな、完ぺきな10代だったの??もっと、馬鹿なことしてたんじゃないの?」

私「うん、してたよ。中学の時は、新聞配達して稼いだお金で、新幹線(子供料金)に乗って競馬場に行っていた。関東のいとこの家に行った時は、帰りの電車賃がなくなるまで競艇につぎこんで、泣きながらいとこの家に金を借りに行った。アメリカの大学時代は、カジノ船のゴールドメンバーだった。でも、それも難民に出会って、すべてやめられたんだ」

友「ああ。そういう方が、共感しやすいかもね。元ギャンブル少年が、難民キャンプで支援しているって、おもしろそう」

なるほど。何となく、腑に落ちるものがあった。確かに売れてる小説の主人公って、恋人や友達がいなかったり、仕事で失敗が多かったり、家族関係がこじれていたり、何かしらのコンプレックスを抱えている。でも、そういったコンプレックスがあるからこそ、人は共感するのかもしれない。

 中学時代に賭博にはまったのも、兄姉より成績が良くないとか、周りの同級生には彼女がいるのに、自分だけいないとか、今考えれば、くっだらない理由だったけ。兄姉に追いつくために、一生懸命背伸びしようとばかりしていたから、硬い文章にしかならなかった。

 紛争、飢餓、旱魃、テロ、疫病、この世のすべての病理を抱え込んでしまったかのような国、ソマリア。そこから逃れてきた人たちが住む、ケニアのダダーブ。私が国連での任務を終えた今年3月は32万人だった難民キャンプの人口が、今年6月に戻ってきたら35万人に増えていた。

私はこのキャンプで、これから1年、アメリカに本部を置くNGO「International Lifeline Fund」の職員として、19~50歳の男女30人が働くコンロ製造工場の「工場長」として30人を監督する。コンロといってもガスとか電気コンロではない。キャンプの人たちは、その辺で集めた木々を燃やして料理をするのだが、私たちが作る粘土製の円形コンロの中で木々を燃やすことで、普通に焚火した時の7割の量の木々で料理することができるようになる。乾燥地帯で細い枝の低木が砂漠上に数メートル置きに連なるダダーブで、材木は貴重な資源。外からやってきた難民が木々を伐採することで、ケニアの人々と対立することにもなりかねない。

「難しい民」と書いて「難民」だから、栄養失調している子供や片足がない元兵士などのイメージが浮かぶかもしれない。確かにそういう人たちもたくさんいる。一方で、数ヶ国語を使いこなして、車を乗り回し、レストラン、ホテル、インターネットカフェ、両替商を経営するお金持ちの難民だっている。サッカー、バレーボール、ビリヤード、映画鑑賞をして日常を過ごす若者など、非日常の中にも日常的な風景はある。サッカーワールドカップの際にはアフリカ諸国の応援に盛り上がり、日本に津波が襲ってきた時には、たくさんのメッセージがキャンプから私の携帯に届いた。

それにしても、コンロ工場で働く30人の難民も、私みたいな「工場長」に雇われることになるとは思わなかっただろう。2人のエチオピア人以外は、みんな敬虔なイスラム教徒。女性はヒジャブという布で頭を覆っているし、みんな1日5回のお祈りは絶対欠かさない。飲酒や賭博なんて、もっての他だ。私が二十歳の時にカジノ船のゴールドメンバーだったなんて知ったら、即ストライキになるだろうな(汗)。

そんなかけ離れた人生を歩んできた私と彼らの間で繰り広げられる「非日常の中の日常」を綴りたい。

プロフィール

seventh star 7

Author:seventh star 7
黒岩揺光  
1981年、新潟生まれ。7人兄弟の末っ子。15歳で米国留学して以来、住んだ国は計8カ国に。海外生活計17年。日本では毎日新聞記者、アフリカでは難民キャンプの工場長、アゼルバイジャンで主夫、ジュネーブで国連職員などを歴任。現在は中東ヨルダンで妊娠した妻に寄り添う専業主夫。
 著書に「僕は七輪でみんなをハッピーにしたい」(ユーキャン)「国境に宿る魂」(世織書房)。
メール連絡先 yokuroi×hotmail.com (「×」を「@」にしてください) ツイッター:@YokoKuroiwa

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