4カ月経って、振り出しに戻る

工場長就任してもうすぐ4カ月だが、これまで従業員同士のいさかいなどで、私の視界はほとんど工場内に閉ざされてしまっていた。

私たちの作ったコンロが実際、難民の家で適切に使われているのかどうかを調査するのが、本来の私の重要な任務の一つだ。9月24日、私は、初めて、従業員と一緒に、コンロが配布された家庭を見回ってみた。

今月初めに従業員が行った調査報告書には、コンロを受け取った難民は皆「とても役に立ちます」と従業員に返答していた。しかし、リストにあるすべての人間が口を揃えて同じ事を言うだろうか?不在の人だっているだろうに、リストに、空欄は1人もなかった。「本当に、一軒一軒、従業員は調査しているのか?」と自然に疑問を抱いてしまった。

アブラシードとキモの二人で、先週コンロを受け取った家を目指して工場から歩いた。そうすると、信じられない光景が私の前に立ちはだかった。最初に訪れた4軒連続で、コンロを使っていないのだ!難民の人たちは、これまでの彼らの習慣通り、石を三角形に三つ置き、中央に薪を燃やして料理をしていた。従業員が汗水たらして作ったコンロは、きれいさっぱり、薪の横に置かれたままだった。

「なぜ?」と難民に尋ねても、「今夜から使います!」と言うだけで、はっきりとした理由を言わない。その後、コンロを使用している人も何人かいたが、マニュアル通りに使っている人は皆無に近かった。例えば、本来、平らな地面の上に置かなければいけないのに、穴を掘ってそこにコンロを入れて使うなどしていた。

コンロを配布する前、30分から1時間かけてコンロの使い方について説明をしているはずだ。その説明がうまく伝わっていないのだろうか?

そして、私は、さらに驚きの事実を知らされることになった。一緒にいたキモに、「なぜ、コンロが平らな地面に置かれなくてはならないのか、わかる?」と尋ねてみると、「、、、、。わかりません」というではないか!彼は、私が工場に入る前から調査役を任されてきた。コンロの機能について理解していない人が、どうやって、コンロが適切に使用されているのか調査ができるというのか?

驚きはそこで終わらない。次の日、工場で5か月前から働いているミナマ(仮名。18歳女性)に、「コンロを使ってくれない難民にコンロを使ってもらえるように、何て言って説得するの?」とテストしてみたら、「コンロを使うことが大事だと伝えます」と言う。「なんで、大事かわかる?」と尋ねても、彼女は答えることができなかった。つまり、彼女は、コンロの作り方は習ったが、なぜ、コンロを作る必要があるのか、誰からも教えられなかったということだ。そんなことがありえるのだろうか?私は、この4カ月、一体、何を見て来たのか?一気に、振り出しに戻った気分だ。先日はブログで、どうすれば従業員に「生きがい」を感じてもらえるのかと自問したが、コンロを作る理由さえ知らない従業員が、どうやって工場で働く生きがいを見出すことができるというのか?

私は、さらに他の従業員を試した。コンロの使い方について難民に説明する時に使う、布製の絵柄がある。コンロの中に薪を置く際、薪を下向けに置くことで外からの空気の循環を良くし、火力に勢いを付ける方法が絵で表されている。「この絵について誰か説明してくれ」と工場にいる1人1人に尋ねた。しかし、主任を含め、誰一人として、適切な返答をできる人がいなかった!

この工場運営の最大の目的は、従業員がソマリアへ戻った時、自分たちの力で工場を運営し、コンロを売って、自分たちの仕事を確保し、さらに、森林伐採を食い止めることにある。つまり、工場は彼らの将来の「会社」で、コンロは彼らにとっての「商品」だ。しかし、その肝心の「商品」を彼らはお客さんに売り込む方法を知らない。すでに2年以上働いている者もいるのに。この工場は、従業員の自律支援とは程遠い形で運営されてきた。

なぜ、こんなことが起きるのか?それは、この工場が、外部からの「支援」で成り立ち、「利益」で成り立つ一般の民間工場と決定的に違うというところにある気がする。

私の従業員は、どんなコンロを作ろうが、それが使われようが、使われまいが、運営費が支援に依存しているわけだから、毎月、同じ給料をもらう。それに対して、他の民間工場は、質の悪い物を作ったり、自分たちの製品をうまくセールできなければ、他の工場に顧客を奪われ、潰れてしまう。この「危機感」の有無というのは、とても大きな違いのように感じる。

「支援する」というのはとても聞こえのいい物だ。私がダダーブに来て一年半になるが、私がここで上げた成果について誰かに説明しなければいけないという機会は、これまでほぼなかった。皆、私がダダーブで働いているというだけで、「それはすごいこと」と言ってくれる。

それは、この工場にもそのままあてはまる。私がこの工場について外部の人に説明する度、「難民の人たちは滅多に就職口がないのだから、その人たちに毎月給料を払えるだけの工場を運営してあげるのは良いことだ」と、皆言ってくれる。実際、コンロが使われているのか、従業員はコンロについて知識はあるのかなど、私を含め、誰も疑問に抱くことはなかった。

難民の人たちの働きぶりや成果を全く問わないというのは、「思いやり」なのかもしれないが、逆に、長期的な目で見たら、それは残酷なことなのではないか。支援を受けることが当たり前という「支援依存症」に陥り、自分から新しいことを提案する動機もなければ、自分が生産した物に責任を負うこともない。どれだけ仕事をさぼれるか、どれだけ支援団体からお金を横流しできるか、そんなことばかりを考えるようになる。

これまで従業員との一連の対立の根源もそこにあるのだと思う。報告書に偽りの記載をすることも、横領や賄賂をすることも、遅刻や無断欠勤することも、すべて、「私たちは支援を受け続けることができる」という神話が彼らの行動を支えているのかもしれない。

これまで、前任者のJについて色々批判してきたが、結局、Jに何の指導をしなかった本部も、それを取り巻く「援助業界」も、どこかで責任の一端を負っているように思う。

 ソマリアの内戦が終わる時、「支援依存症」に陥った彼らが果たして国の再建を担えるのだろうか?とても悲観的にさせられる一日だった。
スポンサーサイト

子供たちへの知識の伝承

配布されたコンロがしっかり難民に使用されているかどうかのモニタリングのため、キャンプを従業員と一緒に歩いていると、木陰で60代の男性が、ノートに一生懸命、アラビア語で何かを書いていた。一緒にいた従業員のアブラシードは「コーラン(イスラム教の教典)を写しているのです」と言う。
 
今年2月にキャンプに来たという男性は上半身裸。ペンの代わりに、小枝の先っぽに、黒炭を水に溶かしでできた黒い液体を付けて、親戚からもらったというノートに一文字一文字、丁寧に綴っていた。食糧も水も十分でない環境で、こういった作業に励むということは、男性に何かしら強い想いがあるのだと悟った。仕事を忘れて男性の前に座り込んだ。

「なぜ、コーランの本を持っているのに、ノートに写す必要があるのか?」と尋ねると、男性は「これは人から借りたものです」という。かなり分厚い書物をノートに写すというのは相当の労力だ。男性は「一カ月はかかると思います」という。
 
「ソマリアにいる時、コーランはなかったの?」と尋ねると、「勿論、ありました。でも、来る途中で盗賊に荷物をすべて盗られたのです」と言う。
 
他の難民同様、男性は元遊牧民で、干ばつで家畜を失い、畑を売ったお金をバス代にして、持てる荷物を全部車に詰め込んで、ケニアへ越境した。ケニア国境からダダーブ難民キャンプまでは約100キロある。男性が乗ったワゴンは、その途中で4人の武装集団に襲われた。

顔を布で覆った4人は、車から乗員を全員出し、地面にうつ伏せに寝るよう指示した。そして、車の中にあるすべての荷物を取り出し始めた。そこで、男性は「コーランだけは盗らないでください」と請願したが、聞き入れてもらうどころか、武装メンバーの1人が男性の右腕を銃で投打した。
 
そのまま男性たちはキャンプへ向かい、男性はキャンプの病院で治療を受けた。無論、警察に届けたところで、どこの誰かも検討が付かない武装集団の行方など追えるはずがない。

 「キャンプに来て半年。体の調子も良くなったし、生活も少し落ち着いてきたから、コーラン写しを始めた」という男性。私は、「一ヶ月間も一つの書物を手書きで写すという原動力はどこから来るのか?」と尋ねると、「子供たちに知識の伝承するのが、私たち大人の義務ですから」と白い歯を見せて答えた。家族のために、一カ月も手書きで本を写す自分を想像することができなかった。

 突然、パラパラと雨が降って来た。「ああ。これで、今日の作業は中断だ」と男性は、小枝を組み合わせて、ビニールシートを被せて作られた「家」に戻っていった。彼の様な穏やかで思いやりある人間が、20年も紛争の絶えない国から来ているということが信じられなかった。

タブーの世界で生きる女性たち

 ダダーブ難民キャンプの人口45万人のほとんどはソマリア人で敬虔なイスラム教徒。女性はヒジャブという布を全身に被り、目と手以外の肌は見せない。女性の清潔さがそれだけ大事にされる社会でも、生活苦などから性を売って生活する女性たちがいる。

 性的少数派を支援するNGO「National Council of Churches of Kenya(NCCK)」は、現在107人のセックスワーカーに、エイズ教育や就職支援などの活動をしている。年齢は18歳~50歳まで。18歳以下もいるが、そういった人たちは未成年支援を専門とするNGOが受け持っているという。

 9割以上が、夫から離婚され、複数の子供を養う最終手段として性ビジネスに足を踏み入れるという。離婚される理由は様々で、一夫多妻が認められる中、「男性にとったら『飽きた』というだけで離婚できますから」とNCCKのウィルソンは言う。

 彼女たちはお客1人を相手にするごとに500シリング(約500円)を稼ぐ。コンドームを使用しない場合は相場がさらに高くなるという。高等学校を卒業した「エリート」の難民が、NGOで一カ月働いて5000シリング稼ぐことを考えれば、魅力的な収入源だろう。

 お客は難民だけでなく、支援物資を運ぶトラックの運転手や、キャンプ内の支援団体の建物を建設する業者の人たち。エイズ感染は深刻で、すでにNCCKが把握しているだけでも8人がエイズに感染しているという。

 私は、「彼女たちに別の収入源があれば、性ビジネスから足を洗うのでしょうか?」とウィルソンに尋ねた。私の工場で雇うことで、彼女たちがエイズからの危険から逃れられるのなら、それはとても有意義なことではないか。

 しかし、ウィルソンの答えは曖昧だった。「女性の間でも、性ビジネスに抱く感情は様々です。彼女たちも人間ですから性的欲求があります。一度この世界に足を踏み入れ、それ以外で他の男性とスキンシップをする機会がないとしたら、この仕事で寂しさを紛らわす人もいます。実際、私たちの支援で肉屋を開業し成功した女性がいるのですが、その後も、時々、不特定の男性を相手にしているようです」

 性的欲求。女性の目や顔以外の肌を見ることがないソマリア人社会において、その言葉を聞くこと自体が新鮮というか、何かしっくりこなかった。皆、薄黒い地味なヒジャブで全身を覆っているから、自分の中で自然と「ソマリア人女性」のイメージが形成されていたのだろう。

 私はウィルソンに彼女たちとの面会を希望した。工場で働くということに対して、彼女たちの反応が知りたかった。

 9月23日午前9時、約束の時間になっても、NCCKの事務所に彼女たちの姿はない。ウィルソンは「キャンプの女性たちは家事・育児、すべてやりますから」と言う。9時半ごろになり、ようやく、1人、1人と部屋に入って来た。目線が合わないソマリア人の15歳くらいの少女もいた。ADHDだろうか?20歳前後の妊婦も2人いた。お客から身ごもった子供だという。親子もいた。精神的に病んだ母親が性ビジネスに走り、子供たちも巻き込んだのだという。幼児に母乳をしている女性もいた。ソマリア人だけでなく、コンゴ人、ブルンジ人、エチオピア人など計15人が集まった。

 私が、工場について説明し、誰かを雇いたいということを話した瞬間、彼女たちから拍手が起こった。「とにかく仕事なら何でもしたい」という彼女たちの強い希望が伺えた。しかし、全員雇えることはできない。多くても3人だ。「私は、午前8時から午後1時まで、週6日、毎日来れますか?」と尋ねたら、妊婦や幼児がいる女性たちは少し渋い表情になった。

とにかく、雇うからには、真摯に取り組んでくれる人が欲しいため、私は「一カ月の研修期間」を設けた。研修期間は無給で、毎日、時間通りに一生懸命仕事をするかどうかを見極め、正規採用につなげる。

 1人1人面接している時間もないし、初対面から、色々込み入った事を尋ねることもできない。仕方なく、簡単にグループ面接をした後、ウィルソンたちにどの数人の女性を推薦してもらうことにした。

 一つ、心配があった。性ビジネスに足を踏み入れた女性たちというのは、ソマリア人社会では最も汚れた存在だ。そんな女性たちが、工場の従業員たちと果たしてうまくやっていけるのか?差別などは起きないだろうか?

 ウィルソンは「心配ないと思います。これまでそういった女性ということを知りながら結婚した男性もいます。相互扶助の精神が強いソマリア人社会で、貧困に立ち向かおうとしている人に手を差し伸べることも大事なことなのです」。今日会った女性の中には、英語も、ソマリア語も、スワヒリ語も話せない女性がいた。つまり、工場の従業員とコミュニケーションすらまともにとれないということだ。でも、逆に言えば、そんな彼女たちに、このキャンプでどんな就職口があるというのか?

 タブーの世界で生きる彼女たちに少しでも陽を当ててやることができればいいのだが。

劇団「ライフライン」設立

 どうすれば、従業員たちに工場で働くということに誇りを抱いてもらえるのか?文字の読み書きもできない。教育も受けたことがない。元遊牧民で、大きな誇りだったラクダや牛ももういない。20年もキャンプに閉じ込められている。毎日、牛の糞をコネコネしてコンロを作るだけが、生活の糧だ。一体、彼らは、自分の人生に、誇りにできることはあるのだろうか?
と、工場場が悲観的になってはいけない。彼らのやっていることは、コミュニティにとってとても有意義なことなのだ。そもそも、ソマリアには、彼らが作る「かまど」なんてないだろうし、かまどを作れる存在は稀有だろう。つまり、将来ソマリアに平和が訪れた場合、彼らは環境保全運動の最前線に立てる存在なのである。それを、コミュニティが認めてあげれば、彼らも少しは誇りに思えることができるかもしれない。
しかし、私たちのNGO「国際ライフライン基金」の知名度は限りなく低い。工場の前に看板もなければ、車もない。キャンプのリーダーに挨拶に行っても、「2007年から活動しているなんて信じられない」と言われるくらいだ。ダダーブにある25以上のNGOで、もっとも従業員が少なく、予算もないから、仕方ないのかもしれないが、難民の生活に密着した目に見える物を4年間作り続けているのに、リーダーが知らないというのはあんまりだ。どうすれば、50万都市になりつつあるダダーブの住民に、ライフラインの従業員33人の功績を知ってもらうことができるのか?
そこで、先日、インターネットでダウンロードした映画「フラガールズ」を観た時、「これだ!」と思いついた。東北の炭鉱の町が舞台で、炭鉱の需要が激減し労働者が次々に解雇されていくなか、町の女性たちがハワイのダンスチームを作り、地域の活性化につなげた話。
早速、私は「劇団・ライフライン」立ち上げ構想を、従業員たちに話した。劇、歌、ダンスなど舞台関連とは無縁の世界で生きてきた彼らは、少し困惑した表情だった。「誰か専門家に頼んだ方がいいのでは?」「やったことないから、よくわかりません」と言う。「どんな劇をしたら、かまどの重要性を知ってもらえるかな?」と尋ねたら、主任のアデンは「かまどで作ったお茶と、そうでないお茶を用意して、かまどで作ったお茶を飲んだ女性が『おいしい!』と感動する話はどうか?」と言う。私は「うーーん(汗)。単純すぎるし、かまどを使う意義は薪の使用量を減らすことで、味の質の向上じゃない」と答えた。
私が脚本を書こうかと思ったけど、それじゃ意味がない。彼ら自身の手で作るということに意義がある気がした。しかし、誰も、何から手を付けたらいいのか、わからず、このままでは何も始まらない。工場長が何か、起爆剤を仕掛けてやらなくてはならない。そこで、私は「裏技」に出ることにした。二つの工場同士の「競争意識」を利用するのだ。
9月29日、二つの工場の従業員全員を集めた全体会議を開き、そこで各工場の劇団に劇を披露してもらう。外部から審査員を招き、勝敗を付ける。そして、工場Aの従業員には、「工場Bの従業員は、毎日、死に物狂いで練習しているよー。『工場Aに勝つぞ!』と言っているよ」。そして、工場Bには、同様の事を言った。そしたら、効果は覿面!工場Bは、従業員たちで少しずつお金を出し合って、コンサルタントを雇い、劇の脚本を書いてもらい、練習を開始した。工場Aも、劇の経験豊富なエチオピア人のキモを団長にし、就業時間の最後の1時間を使って、練習を始めた。「向こうの工場は、私たちよりも前に練習を始めている!残された時間は少ないから、一生懸命やりましょう!」とキモは声を上げ、他の従業員たちも、キモの指導に耳を傾けていた。
もし、この劇団がそれなりのものになれば、キャンプで開かれる「環境フェスティバル」「難民の日」などのイベントで披露することができる。そうすれば、「ライフライン」の知名度は一気にあがり、従業員もコミュニティから注目されるだろう。これが彼らの「生きがい」につながり、工場の生産活動もさらに上向いてくれればいいのだが。さて、どんな劇が披露されるのだろう。

工場で働く「生きがい」とは?

 工場長就任して3カ月がたった。工場の生産量は、私の就任前より飛躍的に伸びた。コンロの格部分を構成するレンガの生産量が、一月4000個から6000個に増えた。そして、コンロの数も、二つの工場合計で、一カ月700個から1000個に。従業員の数は変わっていない。アメリカの本部からは「どうやったんだ?」と聞かれたが、うまく、一言で説明できないものがある。

 部下の成果を上げるために、上司に何ができるか。私が思いついた要素は主に4点に絞られる。

1. 遅刻、無断欠勤などに対する罰則を厳格化し、「一生懸命やらないと、首にされる」という危機感を与える。
2. 部下と上司との間の信頼関係を作り、「上司の自慢の部下になろう」という気にさせる。
3. 個々人の成果を数値化し、やればやるほど給料が上がったり、勤務条件が良くなるようにする
4. 自分たちがやっている仕事が他人のため、共同体のために役立っているという自覚を芽生えさせ、仕事に生きがいを感じてもらう。


 これまでの生産量の著しい増加は、「1」と「3」の要素が大きい。就任1カ月目で2人を停職処分にし、2カ月目で1人を解雇したため、従業員の中に、「次は誰だ?」という危機感が生まれた。そして、労働時間を1日6時間から5時間に短縮させる代わりに、一日の生産目標を上げさせた。日本人の感覚から1日5時間労働というのは、それほどきつくないように聞こえるが、ソマリア人にとっては相当の労働量だ。

 他のNGOなど見ていると、難民スタッフの勤務時間は8時から正午の4時間で、それも毎日仕事が与えられるわけではなく、一日ぶらぶらして過ごす日もよくある。昨年、若者の実態調査をやった時、データ入力をやってもらうために30人の難民を短期雇用したが、1日3~4時間の労働が限界で、午後の時間はその辺に寝転がってしまう者もいるほどだった。

 そんなソマリア人にとって、コンロ工場の様な3K職場で、月曜から土曜まで毎日6時間勤務は、「非現実的」だったし、実際、実行されていなかった。午後1時半までが就業時間だが、午前11時ごろには皆、床に座り込んで、12時には帰宅していた。だったら、「たくさんレンガを作って、早めに家に帰りましょう」と勤務時間を「現実的」なものに設定し、工場長が「譲歩」したように装い、一日にレンガを生産する数を200から250に上げるという「譲歩」を従業員たちから引き出した。それに伴って、生産されるコンロの数も一気に増えた。
 
 そして、最近は「2」の要素も出てくるようになった。従業員が麻疹になったらお見舞いに行ったり、お母さんが病気を患ったら差し入れを持っていったりした。また、スタッフとの会話では、言葉の壁はあるものの、うまく、ジョークを取り入れて「お茶目工場長」の一面も見せるよう努力している。例えば、今日は、私たちのNGOがダダーブで4年も活動しているにもかかわらず、知名度がものすごく低いことについてスタッフと話している時、「他のNGOは車があって、そこに名前が書いてあるから認知されるけど、うちのNGOはそれがないのがいけない」という意見がスタッフからあった。ごもっともな意見で、私たちのNGOの様に、コンロを運搬する際、一般の難民が使う「ドンキーカート」と呼ばれるロバの荷台を使うNGOは他にはない。そこで私は、「じゃあ、ロバの体に私たちのNGOの名前を書いた入れ墨を入れましょう!」と提案したら、従業員たちは、げらげら笑っていた。

 しかし、1~3の要素でうまく成功したところで、どれも限界がある。「1」と「2」は、私が工場から居なくなったら、効果が消えるだろうし、「3」だけでは、他で良い労働条件が見つかれば、このNGOから出ていくことになるから、いずれも「持続性」がないのだ。彼らはダダーブで10年、20年と暮らしてきている。私と過ごす時間なんて、その中のほんの一部でしかない。彼らの仕事に対する本気度を上げ、それを私が居なくなった後も、継続してもらうには、「4」を実現するしかない。

 しかし、「かまど工場」なんて、3K職場の典型で、難民キャンプ内でも「理想的職場」とはほど遠いものがある。土の牛の糞を混ぜてレンガを作り、それを組み合わせて、また、粘土を回りに縫って固定していく作業で、体全体が牛の糞臭くなるのだ。実際、停職処分を二人出した後に「救世主」として雇ったアデンは、結局2カ月で辞めてしまった。「すいませんが、高等学校まで行っている私がする仕事ではありません」ときっぱり言った。

 日本でも、小さな下請けをする工場で働く従業員に、仕事に生きがいを感じてもらうのは、ちょっと難しい気がする。

 この3カ月の生産量だけ見たら、立派な工場長なのかもしれないが、それを単なる自己満足に終わらせないためにも、残り9カ月の契約期間で、何とか、従業員たちが工場で働くということに少しの生きがいを感じてもらえるような工夫ができたらと思う。
 

工場長としての誇り

「かまど工場」をキャンプで運営する意義は、ただ、難民が使う薪を節約するだけでなく、失業率の高いキャンプの住民に、雇用の機会を創出するという面もある。今年2月に国連がやった若者の実態調査では、インタビューした18~35歳の難民1300人の内、仕事に就いているは約3割だった。中でも、一番大きな就職先はNGO。ダダーブには25以上のNGOがあり、通訳などとして、それぞれ難民を数十人から数百人雇用している。しかし、そのほとんどは小学校、または高等教育を卒業した、いやゆる「エリート層」で、文字の読み書きができない難民にとって、NGOで就職するのは至難の業だ。実際、文字の読み書きができない若者に限れば、仕事に就いているのは1割強だけだった。そういう中で、私の工場は、主に肉体労働のため、文字の読み書きができなくても就職できるという「弱者」に寄り添ったNGOなのだ。

 例えば、今回の「飢饉」で流入してくる難民たちのほとんどは文字の読み書きができない。つまり、キャンプで仕事を見つけるのは難しい。彼らはキャンプ内でも一番恵まれない状況にあるのだから、私としては、彼らから1人でも2人でも雇用の機会を与えたかった。

 しかし、どういう基準で、何千、何万の恵まれない難民から、1人、2人を人選すればいいのか。募集をかけると言っても、張り紙をすれば文字の読み書きができる人が必然と優遇されてしまうし、部族リーダーにお願いしても、彼らの親戚・友人らが優遇される可能性もある。結局、自分で歩いて、適当に、大変そうな難民に声をかけて、工場に連れてくるのが一番、「公平」で「現実的」という結論に至った。

 9月2日、今年になって入って来た難民が住む地区を歩いた。1人1人に声をかけていくうち、4人目で、子供6人を世話し、親も夫もいないという、ファトマ(仮名、20歳女性)に出会った。他の難民同様、木の枝とプラスチックシートで作られた、直径2メートルほどの「テント」に7人で暮らしているという。通訳を通して、私のNGOの説明をし、「工場で働いてみないか?」と尋ねると、笑顔で「はい」と答えた。「最初の一カ月は試験期間。ボランティアだ。もし、一ヶ月間、一生懸命やってくれたら、正式に雇用する」と伝えた。

 ケニア国境から約200キロ離れた町「ディンソウ」近くの村出身。7頭のラクダ、20匹のヤギ、30匹の牛を育て、豆などの畑を耕して暮らしていた。9人兄弟の4番目。父親は2003年、心臓病で42歳で亡くなった。村に学校はなく、幼少時から料理や水汲みなど家の手伝いをしながら育った。14歳で、いとこと結婚。16歳で妊娠したが、子供は生まれて間もなく亡くなった。3年前から雨がほとんど降らなくなり、家畜が次々に亡くなっていった。緑色だった地面が、茶色に変わり、3ヘクタールあった畑は、ただの赤土の地面と化した。18歳で2人目を妊娠したが、間もなく、夫が離婚を申し出た。ソマリア社会では、夫が離婚を申し出た場合、妻は受諾する以外に選択肢はない。理由を尋ねても、夫は何も言わなかった。しかし、ファトマには、離婚理由はわかっていた。干ばつにより、夫には家の生計を支えることが難しくなっていた。ソマリア社会では、夫に家族を扶養する義務が課されるが、それが果たせないというのは「恥」だ。「夫はそれが耐えられず、村から出て行ったのだと思います」と言う。「干ばつさえなければ、私たち家族は一緒にいられたのに」というファトマの目は、涙で少しうるんでいた。

 2011年6月、親戚ら30人でケニア国境を目指した。15日間歩き続け、ダダーブ難民キャンプに辿り着いた。1~10歳の6人の子供と一緒に住むが、ファトマと血の繋がっている子供は1人だけ。3人は自分の妹。そして2人は、甥と姪だ。母親は病気のため、兄と姉と共にソマリアに残った。もう1人の姉は、夫と共にエチオピアの難民キャンプを目指して旅立ったが、9月初旬、電話で「麻疹にかかって亡くなった」と姉の夫から連絡があった。6人の子供と共にケニアで1人ぼっちになり、「どうしたらいいのか?」と途方に暮れた。夫に見捨てられ、姉を亡くし、家族と分断された。配給される食糧は十分とは言えず、住む「テント」も居心地が良いとは決して言えない。

 それでも、「工場で働くのは好き?」と尋ねると、強張った彼女の表情が一気に緩む。「学校も行かなかった私が仕事に就けるなんて思ってもいませんでした」という。「工場長」であることに、また新しい誇りができた。

母から残された笛

母から残された笛

 ダダーブ難民キャンプは、元々、国連とケニア政府との間で境界線が定められ、難民はその中に住むことになっているのだが、今回の干ばつで境界線外に余儀なく住みつく難民が急増した。

3~4平方キロメートルくらいの 木の枝と布、そして国連から支給されるプラスチックシートをかぶせて作られた円形の「住居」が無数に立ち並ぶ。直径2メートルくらいの中に、家族3~7人が身を寄せて暮らす。それにしても暑い!大きな麦わら帽子にサングラスをかけても、日差しが体のエネルギーをどんどん吸い取っていく。そして、数分おきに、砂たつまきのような砂塵が体を襲う。

少し歩くと、直径50センチから2メートルくらいの小さな赤土の山が100個ほど並んでいた。山の高さは30センチほど。通訳が「これはお墓です」という。2カ月ほど前に作られた墓地には、栄養失調でたどり着いた子供や高齢者がダダーブで次々と亡くなっていった証明だ。

背後から突然、20代後半の男性が話しかけてきた。「この山は、私の妻のです。昨日亡くなりました」。おそらく、私から何か支援が受けられると思って、話しかけてきたのだろう。

男性は0歳~8歳の子供が5人いる。2カ月前にダダーブに辿り着いた。男性によると、ソマリアでは雨が3年間、全く降らず、家畜が次々と亡くなっていた。長年無政府状態が続くソマリア南部を実効支配し、アルカイダと関係があるとされる急進派イスラム組織「アルシャバーブ」が、住民の移動を厳しく制限していたため、これまでケニアへ逃れてくることができなかった。しかし、干ばつで家畜が亡くなったため、それまで住民から家畜を略奪してきたアルシャバーブも、住民の移動を制限する理由がなくなった。

男性は、村人200人と共に歩いてケニアを目指した。徒歩で約一カ月。途中で5人が飢えで亡くなった。

男性の妻は数日前から麻疹を患い、そのまま亡くなった。免疫が弱っている難民が密集した形で暮らしているため、1人でも麻疹を患えば、ウイルスは一気に他の人に広がる。私の工場の従業員も1人、麻疹になり、長い間仕事を休んでいる。

生後5カ月の赤ちゃんは、母親の母乳を受けることができなくなった。赤ちゃんを抱く祖母は、必死に乳児の顔の周りを飛ぶ数匹のハエを手で払っていた。母親が生きている間は元気だった乳児が、今は、もう目も開けることさえできなくなった。必死で呼吸をする乳児を見て「虫の息」というのは、こういうことを言うのだと思った。

男性に話を聞く間、「ビビビ。ピピピ」という音楽が、何度となく流れた。3歳の次男が、携帯電話の玩具のボタンを押して遊んでいるのだ。「これは、母親が亡くなる前に、子供たちに買い与えたのです」と男性。イスラムの「断食の月」であるラマダンが先週終わり、ご馳走を食べて祝う「イード」と呼ばれる祝日があり、子供たちは親から玩具や洋服をもらう。亡くなった母親は、親戚から少ない小銭を分け与えてもらい、笛を二つ、そしてこの電話玩具を一つ買い、3日後に亡くなった。

午後2時ごろ、キャンプの中心市場まで約2キロの道のりを歩いた。正午にコーラ300ミリリットルを飲み、1時に500ミリリットルの水を飲んでいたが、すでに喉が渇き、再び500ミリリットルの水を買って飲み干した。さらに午後3時、市場でオレンジジュース500ミリリットルを飲んだ。日本では滅多に甘いジュースなど買わない私が、ここでは、毎日、糖分に飢え、コーラやスプライトを飲みたくなる。

難民の人たちは、この暑さの中、裸足で一カ月歩いたという。私には信じられなかった。2時間ほどキャンプを歩いて、話を聞いただけで、へとへとになった。毎日夕方になるとバスケやテニスなどの運動をするのが日課の私も、その日ばかりはベットで横になった。
プロフィール

seventh star 7

Author:seventh star 7
黒岩揺光  
1981年、新潟生まれ。7人兄弟の末っ子。15歳で米国留学して以来、住んだ国は計8カ国に。海外生活計17年。日本では毎日新聞記者、アフリカでは難民キャンプの工場長、アゼルバイジャンで主夫、ジュネーブで国連職員などを歴任。現在は中東ヨルダンで妊娠した妻に寄り添う専業主夫。
 著書に「僕は七輪でみんなをハッピーにしたい」(ユーキャン)「国境に宿る魂」(世織書房)。
メール連絡先 yokuroi×hotmail.com (「×」を「@」にしてください) ツイッター:@YokoKuroiwa

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR