ライフラインに入って何が変わったか

劇の次は、詩のリハーサルを見た。従業員たち全員が前に並び、詩を読む者が前に一歩出て、大きな声で朗読する。

「ライフラインは森林伐採を食い止める。
ライフラインのおかげで、雨が降り、人々の生活が良くなる。
ライフラインに入って、私は七厘を作る技術と知識を得ることができた」

テーマは、「ライフラインに入って、自分はどう変わったか」だ。だから、私は、ライフラインに入る前と後で、従業員たちの日常生活で、どんな変化があったのか、具体的な事例を話してほしかった。

詩を朗読したハビボに尋ねた。「ライフラインに入る前の自分と、今の自分、どんな違いがありますか?」

ハビボは、躊躇することなく「違う国籍の人と関わることに慣れました。ライフラインの工場には、これまで、日本人だけでなく、タンザニア人やアメリカ人、そして同僚にはブルンジやエチオピアの人たちがいます。ライフラインに入る前、私は、外国人は、人間の肉を食べる人たちだと思っていたので、とても恐ろしい存在でした。キャンプで見かけることがあったら、走って逃げていました。
また、ライフラインに入って、七厘について知識を学び、自分にもっと自信が付きました。それまでは、子供の世話と家畜の世話しかすることができなかったけど、今は、自分で、新しい仕事を始められる自信があります」と話した。

私は、「ありがとう。とても具体的でわかりやすいです。そういった皆さんの日常の変化について話してくれたら、とても良い詩になるのではないでしょうか?」

従業員たちは、「わかりました。1人1人の体験を書き綴り、まとめてみます」と答えた。

七厘を作る知識よりも、他国籍の人との交流が先に挙げられたのが興味深かった。「外国人は人の肉を食べる」という発言は、40歳の彼女が、これまでどれだけ閉ざされた社会に生きてきたかが垣間見える。私も15歳の時に渡米した時、白人のクラスメートの車で家に初めて送っていってもらった時、「森に連れてかれて、ボコボコにされたらどうしよう?」なんて、怯えていたのを思い出した。

これまで、私は、故郷、新潟で私がスキーをするビデオ映像などを従業員たちに見せ、他文化について紹介してきた。二つの板で雪山を滑り降りる人たちの映像に、従業員たちは見入り、「彼らは、この板で通勤しているのですか?」と尋ねきて、私は思わず吹き出してしまった。私が他の文化を紹介するだけでなく、私が、もっと、彼らの文化を学ぶことも必要だな。
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悪人の立場で考える


3月31日に第3回合同ワークショップを開くことが決まり、各工場の従業員たちは劇や詩の発表の練習にいそしんでいる。29日、工場Bの進捗状況を観に行った。劇は「環境に関するメッセージを込めたもの」、詩は「ライフラインで働いて、自分にどんな変化が起きたのか」をテーマに、従業員たち自身で脚本を作り、練習してもらった。

まず、劇。難民女性が薪を集めに行くと、斧を持ったケニア人に襲われ、必死に逃げ切り、ライフラインから七厘をもらい、使用する薪の量を減らし、ハッピーエンドという話だった。
うーーん。単純すぎるし、ライフラインの活動をそのまま劇で紹介しているだけで、肝心の「ドラマ」がない。
私は、「皆さんはテレビでドラマとかは観た事ありますか?」と尋ねると、半分以上は首を振った。難民キャンプには映画鑑賞できるDVDシネマがあるが、お金に余裕がないと観に行けないのだろう。ドラマや映画を観た事がなければ、劇を演じたこともない従業員にとったら、とても難しい課題だったにちがいない。

私は、「劇というものは、何かテーマがあるのですが、今回の劇のテーマは何ですか?」と尋ねると、指導役のファラが「ケニア人と難民の相互理解です」と即答した。

ダダーブには46万人の難民が木々を切り、その木々を家畜の餌として生計を依存してきた周辺のケニア人の生活を脅かしている。ファラは、ライフラインが七厘を配ることで、森林伐採を抑制し、ケニア人と難民の関係を良くするという意味を込めたのだろう。

「でも、今の劇を見る人は、斧を持ったケニア人についてどういう印象を受けるでしょうか?」と私は尋ねた。「とても暴力的な人」と従業員たちは返答した。

「そうですね。とても悪者に見えました。か弱い難民が、悪者のケニア人にいじめられ、それを助けるのがライフライン、というシナリオですが、これだと、ケニア人と難民の相互理解を促進させるどころか、ケニア人に対するイメージを悪化させることにならないでしょうか?」と私は尋ねた。

 ファラは「それでは、劇の最後に、ケニア人と難民が手を取り合うようにします」と言う。私は「二人が手を取り合うようにするためには、どんな演技を加えたらいいでしょうか?」と尋ねると、「斧を持ったケニア人が、なぜ、そのような行動を取るようになったのかを演じればいい」と、そのケニア人役を努める、ノアが言う。私は、「そうですね。それでは、具体的に、脚本に何を加えればいいですか?」と尋ね返したが、従業員たちは静まり返り、「もう、私たちのアイデアは尽きました。工場長の考えを聞かせてください」と言ってきた。

 私は、「劇というのは、主人公の日常的な生活を映し出し、その中に、自分たちのメッセージを込めるものです。ライフラインの活動を順序立てて劇にしても、そこには誰の『人生』も描かれません。例えば、斧を持ったケニア人の男性には、家族はいるのでしょうか?仕事はあるのでしょうか?彼に、ヤギが50匹いたとし、46万人の難民が彼の村周辺に押し寄せ、たくさん木々を伐採したため、ヤギの餌がなくなり、ヤギがバタバタと死んでいった。それによって、彼の生計は圧迫され、子供に十分な食料を購入できず、一番小さな子供が栄養失調でなくなり、彼は精神的に不安定になり、斧を持って難民を襲う様になってしまった。そんな、彼の人生を劇で描けば、間接的に、環境の大切さを伝えることができるのではないでしょうか?」と説明した。

ファラは「それは良い考えです」と返答したが、他の従業員たちは、「あと1日しかないのに、これじゃ、一からやり直しだ」と唖然とする者もいた。

難民とケニア人の間にある亀裂は深い。難民は、ケニア人、難民と同じ仕事をしても数倍の給料を貰うことができ、 昨年末、治安悪化でケニア警察が難民に暴力を振るったり、日常的にキャンプの外に出る自由を与えないなど、同じ人間として扱ってくれないと非難する。一方、ケニア人は、難民は水、食料、教育、医療を無料で提供される上に、木々を切るなどして、自分たちの生活を脅かすと非難する。

双方の立場はよくわかるが、私は、これは不毛の議論にも聞こえる。選挙の度に、ケニアの政治家がキャンプで市民権を配り、自分に投票させてきたことから、ケニアの市民権を持つ難民は万単位でいる。さらに、ダダーブ周辺はソマリ系ケニア人が住み、外見は難民と変わらないため、難民の食料配給カードを持つケニア人もまた、万単位でいるだろう。30以上の援助団体がいるおかげで、何千という就職口がケニア人に開かれ、ダダーブにはケニア全土から仕事を求めてやってくるケニア人がいる。

少し、話がそれてしまったが、従業員たちが、本気で「相互理解」を求めるなら、この劇を機会に、少しでもケニア人の立場で考えられるようになってほしかった。そうすれば、「ケニア人」と「難民」の間にある線も、実は、彼らが思っているほど、明確なものではないことに気付くかもしれない。

腹心との出会い

 昨年10月から私の右腕として大活躍しているモウリドは、私が2010年3月にダダーブに来て、最初に出会った難民の1人だ。当時、私は国連の若者支援担当として、彼はキャンプの青年組織幹部の1人で、会議で出会った。次の週、私がキャンプを視察に行くと、彼が快く案内役を引き受けてくれ、市場や彼の自宅を見せてくれた。市場のレストランでは、「あなたはゲストですから」と、何度も遠慮する私を遮り昼飯代を出してくれた。

 1987年、ソマリア南部最大の港があるキスマヨで生まれた。両親は雑貨店を経営していた。1991年に内戦が勃発し、市民の大半はケニアなどへ逃れたが、モウリド一家は、店も家も被害が少なく、キスマヨに残った。1997年に父親が病死し、経済的に苦しくなり、母親と共にケニアへ逃れた。「キャンプに行けば、無料で教育が受けられるというのが一番の魅力でした」と言う。

 とにかく勉強が好きだった。中でも英語は得意科目で、キャンプにある唯一の図書館に通っては、英語の絵本を借りて、何度も読み返した。高等学校をトップレベルの成績で卒業し、キャンプの欧米のNGOに就職した。

 就職口が限られたダダーブ難民キャンプでは、30以上ある援助団体は最大の雇用の受け皿 、6000人近くの難民が働いている。NGOで働いてみて、モウリドは、「難民従業員とケニア人従業員の格差に驚いた」と振り返る。給料は5倍から10倍の差があり、団体のお金や事務所の鍵の管理は難民従業員に任されることはなく、仕事が残っていても、ケニア人従業員が事務所を出る時に、出なければいけなかった。ケニア人従業員が受けられる社内研修も、難民従業員は受けられなかった。

 モウリドは、私が若者支援担当として提案した「ユースフェスティバル」の案に、最初から同調した数少ない若者の1人だった。私は、難民の若者たちでできることは、若者たちだけでやるべきだと思い、「援助団体に頼らない、若者たちの、若者たちによる、若者たちのためのフェスティバルを開きましょう」と提案した。ダダーブでは20年間、難民の日、環境の日、マラリアの日、国際女性の日、など記念式典が援助団体のお金で催されてきた。若者たちの中には、「なんで、自分たちだけ、お金を出さなければならないのか?」と不満が上がった。

 それでも、何人かは、「もう20年も援助団体から支援を受けたおかげで、私たちにもそれなりの能力が身に付いた。これからは、自分たちの足で歩いていけるよう、努力すべき」という画期的な考えを持った若者たちが出てきて、3つあるキャンプすべてでフェスティバル実行委員会が結成された。モウリドも、一つのキャンプの実行委員長となった。

 しかし、援助団体からお金をもらわないということは、それまで青年組織に与えられた、ある意味「特権」と決別することを意味し、それに反発する若者たちからモウリドは嫌がらせを受けた。ある日、私とのミーティング後、そこに居合わせた別の幹部からは、「お前は、もう幹部リストから除名したから、話をするな」とまで言われ、モウリドは、泣きながら「何か問題があるなら、全体ミーティングで話し合おう」と呼びかけた。

 様々なハードルを乗り越え、フェスティバルで歌や踊り、劇をボランティアで披露してくれるグループを探し歩き、企画書を作った。当日必要な道具を手配し、会場まで運搬する手続きをした。そうしているうちに、「それまで援助団体に頼り切って来たことも、自分たちにもできるということがわかり、どんどん、引き込まれていきました」という。

 作り上げたフェスティバルの企画書をNGOとの合同会議で発表した。10以上の団体が集まり、モウリドが司会進行役を勤めた。「それまで、自分より階級が上だと思っていたNGOの人たちが、私たちと肩を並べて座り、私の提案に耳を傾けてくれたこと事態、初めての事だった。さらに、私を会議の進行役として認め、発言する時は挙手して私に許可を求めて来た時、それまで失われていた自尊心を取り戻した気がした」と当時を振り返る。

 そして、フェスティバル当日、それまでのどんな記念式典に集まった人よりも多くの若者たち(約1000人)が集まり、相撲大会など、様々なパフォーマンスに見入った。次の日の打ち上げでは、「他の援助団体で働く友人が『自分たちの援助団体が率先した記念式典なんて、あのフェスティバルに比べたら、ちっぽけなものだった』って、嫉妬してましたよ!」と無邪気な笑顔を見せた。

 モウリドが、ライフラインに入って5ヶ月。すでに、なくてはならない存在となった。それまで、従業員たちの利益を代弁することしかできない主任が調整役だったため、ひっきりなしにくる従業員たちからの要求、一つ一つに私が答えなければならなかった。しかし、モウリドは、団体側と従業員側の双方の利益を天秤にかけることができるので、私が言おうとしていることの半分以上を、彼がソマリア語で直接言ってくれるため、私にかけられた負担は半減した。

 今度は、彼とどんな「フェスティバル」が開催できるのか、楽しみだ。

生まれて初めてのテスト

3月16、17日と従業員の能力診断テストを実地した。七厘、環境、そしてライフラインに関する知識を向上させることで、従業員の士気を高めるのが狙い。

昨年11月に、英語とソマリア語両方で約6ページの説明書を作成し、従業員全員に配り、半日かけて一つ一つ説明した。そして、テスト実地について発表したのは約2ヶ月前。4月末に全員の工場での契約が切れることから、「テストの結果が、契約更新するかどうかの参考資料になります」とプレッシャーをかけた。

そしたら、予想通り、従業員たちからは
「一度も学校に行った事がない私たちにテストをするなんて、あまりにも厳しすぎる」
「もう3年以上働いているのに、このテストの結果によって契約が更新されなくなるなんて心外」
「もう50歳過ぎて、新しい知識を覚えられる脳みそなんてない」
などと、不満が上がった。「一体、何点取れば、契約は更新されるのか?」などと聞いてくる者もいた。

私は「このテストが、契約更新を決める唯一の事項になるわけではありません。だから、何点取ったら大丈夫というラインはありません。後、皆さんが学校に行った事がないことは知っています。だからといって、新しい知識が学べないとは思えません。

皆さんは、これまで、何度、説明書を勉強しようと試みましたか?一度も試みないで、最初から「できない」と決めつけたら、あなたたちの能力はそれ以上伸びる事はない。『文字の読み書きができないから、じゃあ、この人たちには何の知識も与えないようにしよう』という上司と、『読み書きができなくても、頭で覚えることはできるのだから、根気よく教えることが大事』という上司、どちらが良いのですか?」と尋ねると、皆、迷わず後者を選び、渋々、説明書とにらみ合いをする日々になった。

情報化社会は、世界の文字の読み書きができない人たちを孤立化させる。ダダーブも無論、例外でない。昨年、国連に勤務していたころに私が実地した調査では、高等学校を卒業した者の9割が、援助団体から何かしらの研修を受けたことがあると答えたのに対し、学校に行ったことがない者に限ったら1割のみだった。雇用の機会だけでなく、特別な研修、訓練プログラムのほとんどが、文字の読み書き能力を前提としているためだ。

だから、私は、文字の読み書きができない従業員が大半を占めるライフラインで仕事をするのに大きなやりがいを覚えた。

私が工場長に就任した当初、七厘が薪を節約する目的で配られていることさえ知らない従業員がいることに驚いた。また、薪を節約する事が、環境保全につながり、さらには、ダダーブの難民と、周辺に住むケニア人たちとの関係改善につながることを知っている人は皆無だった。そして、「ライフライン」命名の意味を分かっている者もゼロだった。自分たちが作っている物が社会にどんな影響を与えるのか、自分たちが所属している団体がどういう哲学で活動しているのか知らなければ、その仕事にやる気を見いだすことは難しい。

従業員たちは、仕事が終わった後、文字の読み書きができる従業員を頼って、輪になって座り、説明書を一つ一つ読み合っていた。中には、森林や、薪などを絵にすることで、文字がわからなくてもわかる自分だけの説明書を作るものまでいた。先日のブログで紹介した従業員たちによる言語教室立ち上げは、このテストに向けての自習が引き金となった。

テストは全部で4問。
「七厘を受け取った難民が、七厘を使っても薪を節約できなかった。どんな原因が考えられるか?」
「ライフラインの活動目的は何か?」
「七厘を使うことで、どんな得をするか」
「ライフラインの活動と、昨年、ソマリアを襲った干ばつとはどんな関係があるのか?」

無論、すべて口頭による個別試験だ。その日は作業をストップし、全員を工場内に待機させ、1人1人外に呼び出し、試験に答え終わったものは、テスト問題が漏れないよう、そのまま帰宅させ、他の従業員と接触させないようにした。携帯電話はすべて保管させてもらった。

テストでは、モウリドが通訳を勤めてくれた。いつもの様に、質問の趣旨をすぐに理解してくれる従業員は少なく、モウリドが何度も何度も説明してから、的を得た答えがでてくることが多かった。皆、緊張した表情で私とモウリドの前に座り、質問にゆっくりとした表情で答えていた。私は、一つ一つ答えをノートに取り、各質問を10点満点で評価し、総合得点40点中、何点取れたか、試験が終わる度に教えた。

テストの結果は驚くべきものだった。従業員39人の平均得点が28点。7割を理解しているということだ。昨年11月に雇用されたばかりの文字の読み書きのできない女性従業員が35点を取り、高等学校を卒業した者と同等のスコアだった。また、女性の平均点が男性を5ポイント上回り、普段、料理で七厘とより身近に接することが有利に働いたと思われる。

何よりもショックだったのは、勤続年数にスコアが反比例していたことだった。20点以下は5人だけだったが、内4人が2007年から働いていた古株組だった。先月、雇われたばかりの片目が見えない男性でさえ27点取った。「古株の俺たちの契約が切れるわけがない」という事なかれ主義が蔓延していたとしか思えなかった。

従業員の中には、「私が35点も取ったなんて信じられない!」という者もいれば、「もう、ここ2週間は、ずっとこのテストの事だけ考えていました」という者もいた。ストライキで全面対決した主任のラホは、「今回のテストのおかげで、皆、文字の読み書きができなくても、新しい事を学べるということがわかりました。本当にありがとうございました」と私に礼を言った。
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 ほとんどの従業員にとって、生まれて初めてのテストだった。つまり、生まれて初めて、自分の知識が試されたということだ。これが、従業員たちにとって何か新しいに挑戦する契機になってくれたらと願う。

難民から馬鹿にされていた従業員たち

 3月10日、工場Bで、私が工場長に就任してからの10ヶ月間を、従業員たちに振り返ってもらい、驚きの事実を知った。

 従業員のアミナ(女性、30代)は「以前は、私たちが七厘を配っても、質が良くないから、難民たちから感謝されず、逆に馬鹿にされていた」と言う。私は「なぜ、七厘を無料で配布しているのに、馬鹿にされるのですか?」と尋ねた。そしたら、「当時の七厘は、鉄で囲われてなかったから、数週間で壊れるものが多かった。ある時は、配布する際に、七厘を手で持ち上げたら、そのまま壊れてしまうものまでありました。それを見た難民たちは『こんなものを作るのに、いくらの資金を無駄に使っているのか?』と私たちをからかいました」と話すのだ。

 私は、昨年11月に、すべての七厘に鉄の囲いを取り付けた。確かに、ダダーブ周辺には七厘に適した土がなく、それまでのモデルは、配布した2週間後に難民の住宅に行くと、すでに壊れているものがあったりした。それでも、難民がしっかり七厘を修理する知識があれば、数ヶ月は保つと前任者から聞いていたし、何もないよりはましなのだから、感謝はされていると思っていた。しかし、難民たちから「土カマドNGO」などと、ライフラインが揶揄されていたとは知らかった。自分たちが誇りを持てない物を、どうやって、「意欲的に仕事をしましょう」と言えるのか?

 私は「それについて、前工場長には話した事があるの?」と尋ねたが、「いえ。前の工場長とは、今みたいな定例ミーティングもなかったし、前の工場長は主任とばかり話をしていたので、私たちが直接何かを申し立てる雰囲気がありませんでした」という。主任とは、昨年8月に横領をして首になったハサンのことだ。当時、工場で英語をできるのはハサンだけで、従業員との会話は、すべてハサンを通さなくてはいけなかった。私は、ハサンが、いつも偏った情報を私に上げてくることを察し、毎月、全体ミーティングを開き、そこには第三者の通訳を付けることで、一般従業員が直接情報を上げやすい環境を作った。そこで、「今の七厘は、難民たちから好まれていない。鉄の囲いを作り、丈夫にしてくれませんか?」という要望が従業員から繰り返し出ていた。

 この工場が作られたのが2009年。難民たちから感謝されるモデルに変わるまでに3年の月日がかかった。そこには、「緊急援助」の難しさが垣間見える。「困っている人に物資を!」と急ぐ援助団体とドナー。失業率が高い中、「給料さえもらえればいい」とあきらめる地元出身の従業員。それによって、届きにくくなる「受益者の声」。消費社会で、消費者が好まない商品を作り続ける民間会社はないが、緊急援助の現場では、それが可能になってしまう。

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一体、私たち「ライフライン」はここで2年も3年も何をしてきたのだろうと、考えてしまうのだ。

ソマリアはアフリカのライオン 続く

私は、従業員たちに「アフリカのライオンであるソマリアで、なぜ、20年以上も戦争が続いていると、皆さんは考えているのですか?」と尋ねた。

主任のアブディがすかさず「西洋諸国による介入ですよ。彼らに都合の良いリーダーを支援し、戦争が長く続いた。ソマリアにある武器はほとんど海外から持ち込まれた物だと思います」

ノアは「ソマリアの政情不安で得をする人たちがたくさんいる。例えば、ソマリアには政府がないから、税金がかからない。ソマリアの物は安く輸入することができる。サウジアラビアとかは、ソマリアの家畜を安く買っているのです。2006年に、ソマリアに比較的安定した政権があったのに、それをエチオピア政府は武力で倒してしまった」

私は「外部からの要因も大きいと思いますが、今、ソマリア南部を支配しているイスラム武装組織のアルシャバブのメンバーはソマリア人ではありませんか?」と尋ねた。

ノアは「ソマリア人ですが、彼らは仕事がないから、仕方なく戦っているだけです。アルシャバブの過激的な思想に賛同している人はほとんどいません。組織のメンバーになれば、高い給料がもらえますから。ソマリアに政府があって、若者が仕事に就く事ができれば、誰もアルシャバブに参加しようとは思わない。それに、アルシャバブの資金源だって、海外だと思います」と言う。

私は「国際社会はソマリアにどういった介入をすべきでしょうか?」

ノアは「今の暫定政府に必要なだけの資金を投入し、アルシャバブを倒し、安定した政権が作れるよう支援することです」と返答した。

紛争の原因も外部の人なら、解決するのも、外部の人だと信じきっている。

私は、「ソマリアの歴史や政治の専門書を読んでも、色々な事情が絡み合って複雑です。祖国の紛争について考えることに疲れたりしませんか?」

アブディは「20年前、ソマリアを逃れた時、私は、すぐ祖国へ戻れるのだと思っていた。まさか、このキャンプに20年もいるなんて思わなかった。できることなら、アメリカや他国へ逃れて生活したい。でも、私たちはここから一歩出れば、『不法滞在』となってしまう。自分が難民であることと、私たちは一生向き合っていかなければならないのかと思うと、疲れます」

私は「祖国での紛争は、自分たちの手の届かない、自分たちではどうすることもできないものという風に感じますか?」という私の質問には、皆、深く頷いていた。暫定政府は欧米諸国が、イスラム勢力は、他の国の過激派たちが支援し、従業員たちの目には、外部の人たちが祖国の地で代理戦争をしているという認識でしかなかった。

私は、タイのビルマ(ミャンマー)難民の民族意識について半年間調査したことがある。そこの難民キャンプも20年以上あり、総人口は10万人以上で、規模も期間もダダーブに似ている部分が多々あったが、最大の違いは、難民たちの祖国の紛争に対する想いだ。

ビルマは、政府軍と少数民族の武装勢力との対立が60年以上続き、難民キャンプは少数民族のカレン人が住んでおり、皆、「カレンの自治のために身を捧げよう」と勉学や自助組織での仕事に励む者が多かった。アメリカや欧米に定住する機会があっても、「私はここに残って、同胞のために働く」という若者までいた。

それに対し、ダダーブの難民たちは、誰が敵で、誰が味方なのかよくわからない。自分たちではどうすることもできない部分で紛争が行われているから、何を目標に日々を送っていいのかわからない。肉体的にも精神的にも「宙ぶらりん」状態で、「ダダーブに残って、ソマリアのために身を捧げる」という若者に会った事がないし、誰に聞いても「そんな若者はここにはいない。皆、アメリカに行って、自由の身になることだけしか頭にないよ」という。
 
 私は、従業員たちが、七厘を作ることで、「自分たちにも、何かできることがある」というメッセージを送ろうと努力してきた。でも、実際、それが、ソマリアの紛争解決につながる可能性はきわめて薄い。そんな中、従業員たちに、仕事に対して「やりがい」を感じてもらうためには、どうすればいいのか。難題だな。

ソマリアはアフリカのライオン

 20年以上内戦が続き、国際社会から「無政府状態」「テロの温床」などと指摘されるソマリア。従業員たちは、祖国についてどんな想いを抱いているのか?ケニアでの避難生活も10年、20年となり、「もう、こんな国、私の祖国じゃない!」と突き放したくなると思う人もいるかもしれない。

 しかし、現実は全く逆で、皆「ソマリアはアフリカのライオン」と豪語するほど、祖国を誇りに思っている。ソマリアの国旗は、白い星の形で、地政学上重要だったソマリアをイギリス、イタリア、フランス、エチオピアが分断し、それらの土地をいつの日か統一したいという国民の想いが込められている。

 私は、レンガ不足で作業ができない日を選び、従業員たちを集め、「なぜ、『ソマリアはアフリカのライオン』と呼ばれるのですか?」と尋ねた。従業員たちが誇りに思うことについて知ることで、信頼関係構築に役立てると思ったし、大学院で難民の民族意識がどういう物語で形成されているかについて研究した手前、学問的興味もあった。

 ノア(男性、35歳)は「アフリカで唯一、独立を保ったエチオピアを、ソマリアは1977年の戦争で負かしました。以来、ソマリアは、アフリカのライオンと呼ばれるようになりました」という。(実際、専門書ではソマリアは敗退したと記されている)

 主任のアデンは「アフリカの独立戦争の際、ソマリアは他国を支援しました。ウガンダ、南アフリカ、マラウイなどです」と答えた。

 ファラは「ソマリアは他のアフリカ諸国に比べ、発展していました。商売が巧く、道路も整備され、大きな港や空港があって貿易の主要地だった。南アフリカやアメリカにも多くのソマリア人が住んでいますが、そこの国民が道路で物乞いをしていても、ソマリア人は1人もそんなことをしていません」と続けた。

 ハナムは「ソマリア人は信頼関係が強く、何の担保もなしにお金を親戚や友人から借りて、商売を始めることができるのですよ。ダダーブだって、元々何もないところだったのに、今では、大きな規模の市場で出来上がった」と言った。

 ファラが「欧米諸国に渡ったソマリア人は、そこで稼いだお金をお酒やタバコに使うのではなく、すべて、祖国に残る同胞たちのために送ります」と胸を張った。

 そしたら、突然、レゲ(37歳、女性)が顔を布で隠した。「今となっては、すべて過去の栄光です。今は、皆、離れ離れに暮らさなくてはいけなくなった」と目に涙を浮かべながら話し始めた。レゲは1991年に内戦が勃発した際に祖国を離れ、そこに残った母親と離れ離れになり、昨年ソマリアを襲った飢饉で、母親がダダーブに逃れ、20年ぶりの再会を果たしたのだった。

 隣に座っているハナムも涙を流し始めた。従業員の涙を初めて見た私はどうしていいかわからず「聞いてはいけないことを聞いてしまったのなら謝ります」と言うことしかできなかった。普段、従業員たちが抑えている感情を垣間見ることで、胸が痛くなった。ファラが駆け寄り、レゲを宥めたが、泣き止むことができず、工場の外へ出て行ってしまった。

 本来、「アフリカのライオン」と豪語したい祖国が、国際社会から「無政府状態」と命名され、理想と現実との乖離に、従業員たちはどうしようもない無力感に襲われているようだった。

 私は、そこで、次の質問に移った。従業員たちは、「アフリカのライオン」であるソマリアで、なぜ20年以上内戦が続いているのか?一番の原因はどこにあると認識しているのか?

自分の名前を読めるようになりたい

3月7日、いつもの様に、工場Bに顔を出すと、壁に小さな黒板が立てかかっていた。縦1メートル30センチ、横50センチの黒板に、白いチョークでアルファベットの文字がいくつか書かれていた。私は最初、どうせ、近くの援助団体の事務所から借りてきた物なのだろうと、勝手に想像し、従業員に何も聞かなかった。そしたら、就業時間が終わりに近づいたころ、従業員たちがノートとペンを手に、黒板の周りに座り始めた。

昨年までソマリアの大学で英語を教え、昨年12月からライフラインで働き始めたファラ(1月26日ブログ参照)が黒板の前にたち、「J for Jug, K for King, L for Lion」などと、アルファベットを一つ一つ教え始めた。

主任のアデンに「どういうこと?」と尋ねると、「従業員たちが自分たちで志願して英語とスワヒリ語を学びたいと言い出したのです。就業時間が終わった午後1時から約1時間、毎日、工場に残って勉強するというのです」と説明してくれた。黒板は、女性従業員で一番の働き者のハビボ(仮名、40代)が500シリング(約500円。月給の1割)を出して買い、チョークは知り合いがやっている塾でお裾分けしてもらった。ノートやペンは各従業員が自腹で用意した。授業料は、1人1ヶ月200シリングをファラに払うという。

母国語ですら読み書きができない従業員たちが、ノートに、ヨレヨレのアルファベットを書き綴っているのを見て、私は目が少し潤んだ。ハビボは「子供の頃は、毎日、ソマリアでヤギを引き連れて草原を歩くだけの日々で、学校の存在すら知らなかった。でも、この工場で、契約書や就業規則、七厘についての説明書を工場長が英語とソマリア語、両方を用意してくれ、文字の読み書きができる人に教えてもらっていくうち、自分の名前くらいは読めるようになりたい、私がこの世界に存在していることを、この目で確かめられるようになりたい、って思い始めました」と話す。

私は、「まず、ソマリア語の読み書きから勉強したいとは思わなかったの?」と尋ねると、「英語は工場長と話すため、スワヒリ語は、ブルンジとスーダン出身の同僚と話すため」と言う。「それに、アルファベットが分かれば、ソマリア語を学ぶのも簡単になる」と付け足した。確かに、ソマリア語の文字は英語のアルファベットを使う。

工場長になって10ヶ月。援助に依存しきった難民キャンプで、主任による横領があり、報告書に偽りの記載があり、ストライキがあり、様々な困難にぶつかってきた。それでも、いつの日か、従業員たちが自発的に何か始める日が来るのではないかという期待が自分の背中を押し続けて来た。そして、それが、「工場長と話がしたい」という動機で、従業員たちが、自分たちの限られた資産を捻出し、新しい言語を学ぶという形で訪れ、私は胸に込み上げてくるものを抑えることができなかった。

「本部に、この授業を新しいライフラインの研修制度として認めてもらい、授業料を工面してもらえるよう、提案してみます。もちろん、あなたたちの英語力が上達するという条件付きですよ」と伝えると、従業員たちは拍手喝采で沸いた。生徒が10人いるとし、一ヶ月の全体の授業料は2000シリング(約2000円)。それくらいなら、自分のポケットから出しても構わないと思うくらい、私は、従業員たちに感謝の気持ちで一杯だった。
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なぜ、七厘を難民キャンプで配るのか

 2月中旬、シュクリ(仮名、20歳女性)は午後2時ごろから、いつもの様に、親戚の女性ら4人と薪を拾いにキャンプ周辺を歩き始めた。午後4時ごろ、背中一杯に背負うほどの薪が集まり、家に戻ろうとした時、50代の男性が斧を片手に走ってくるのが見えた。「なんで、よそ者のお前らが、薪を集めている?この泥棒ども!」。シュクリは、一緒にいた女性と二人で逃げ、他の2人は別方向に逃げた。

 斧を持った男性は、シュクリたちの方へ走って来た。シュクリは妊娠3ヶ月。突然パニック状態に陥り、数歩走ったところで、地面に前のめりに倒れ込んだ。意識を失ったシュクリを、男性は気にも留めず、別の女性を追いかけ続けた。その女性が、キャンプの住居地区に入った所で、男性は諦め、引き返していった。
別方向へ逃げた女性がシュクリを救護しに行き、男性に向かって「意識がない。助けて!」と叫んだが、「知るか」と男性はそのまま歩き続けた。

 シュクリは即死だった。パニック状態に陥ったことによる心筋梗塞なのか、病院で診断を受けた訳ではないから、はっきりとした死因はわからない。

 この事件は、私たちライフラインの活動の重要性を再認識させるものだった。シュクリを追いかけた男性は、ダダーブ周辺の村に住むケニア人。近年の難民の急増により、森林伐採に拍車がかかり、ヤギや牛などの家畜で生計を立てる地元住民の生活を脅かしていた。

 ダダーブ難民キャンプには元々三つのキャンプがあったが、昨年の飢饉で、さらに二つ増えた。が、その内の一つの「キャンピオス」キャンプは、未だにケニア政府から正式な承認を受けていない。これ以上、難民が増えることは治安悪化だけでなく、森林伐採により、地元住民の故郷を奪うことにもなるからだ。


 私たち、ライフラインは、七厘を配ることで、環境を守るだけでなく、難民たちがケニアにいる権利を守ろうとしている。しかし、残念ながら資金不足で、難民全員に七厘を配ることはできていない。食料、医療や教育に比べ、七厘は「緊急性」が低いと言われる。

 シュクリの夫、モハメッド(仮名、30代)は、「最高の妻だった。初めての子供を身ごもったばかりだったのに、本当に悔しい」と話した。シュクリの死について、私は、しっかり、従業員たちに伝えなければならない。彼らの仕事は、私のためでも、ライフラインのためでもなく、彼ら自身のためにあるのだということを、この事件が明確にしてくれるはずだ。
プロフィール

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Author:seventh star 7
黒岩揺光  
1981年、新潟生まれ。7人兄弟の末っ子。15歳で米国留学して以来、住んだ国は計8カ国に。海外生活計17年。日本では毎日新聞記者、アフリカでは難民キャンプの工場長、アゼルバイジャンで主夫、ジュネーブで国連職員などを歴任。現在は中東ヨルダンで妊娠した妻に寄り添う専業主夫。
 著書に「僕は七輪でみんなをハッピーにしたい」(ユーキャン)「国境に宿る魂」(世織書房)。
メール連絡先 yokuroi×hotmail.com (「×」を「@」にしてください) ツイッター:@YokoKuroiwa

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