5年間工場を支えた主任との寂しい別れ

4月にライフラインでの仕事を辞めた工場Aの前主任のラホは、私に、「辞める理由については辞表にすべて書くつもりです」と言っていた(4月4日付け記事「主任からの意外の申し出」参照)。私はその辞表を首を長くして待っていた。 そしたら、ある日、携帯メッセージが入ってきた。

「私は、ライフラインでの仕事を辞めようと思います。私はこの5年間、工場運営に身を捧げてきました。つきましては、私の娘を工場で雇っていただくことは可能でしょうか?さらに、今月の給料を支払っていただけないでしょうか?よろしくお願いします」

辞める理由については、全く書かれておらず、私が工場長就任して最も頭を抱えた問題であったラホの縁故主義が、ここでも貫かれていることに、正直、辟易とさせられた。すでに、彼女の妹、甥、いとこの3人が工場に雇われており、これまで、何度も、縁故主義の根絶を話してきたつもりだった。それが、ラホに最後まで伝わらなかったということは、私たちは同じ所で働く運命になかったのではないかとさえ思わされた。

私は、縁故主義を根っこから嫌っているわけではない。実際、自営業の自分の父も、私の兄に、会社を継ごうとしており、それに対し、特に違和感はない。私の父と、ラホの違いは、父は自分の力で会社を建てたのに対し、ラホは、外部からの寄付金で運営されている工場の主任に任命されたということだ。その工場設立に何の努力もしなかった人が、好き勝手に家族を雇用するなら、ライフラインのモットーである「自立支援」とは全く逆の効果を生むだけだ。
 
 さらに給料についてだが、彼女は4月3日をもって、工場を去った。その時点で彼女の有給休暇は1日しか残っていなかった。つまり、彼女の4月の給料は4日分しかもらえないはずなのに、一ヶ月分丸々の給料を要求しているのだ。しかも、契約書には辞める一月前までに通知する義務が課せられているが、彼女は通達した次の日から来なくなった。

私は、「工場で今、新しい従業員は探しておりません。給料も、契約書通りの分しか支払うことはできません。これまで、ありがとうございました。」とだけ返答した。

4月中旬、工場Aでの全体ミーティングで、「なぜ、ラホは工場に来ないのですか?何か、工場長とラホの間で問題があったのなら、私たちが仲介しますけど?」と、従業員から聞かれた。私は、ラホが同僚たちに、何も説明していないということに驚いた。従業員たちは、「ラホは、『工場長が私に工場へ来るようお願いするなら、工場に戻ってくる』と言っていた」と私に伝えた。つまり、ラホは、私が彼女に工場にとどまるようお願いしたことなど一切、従業員たちには話さず、まるで、彼女が辞めることで、従業員たちが私に対する不信感を募らせることを期待していたかのようだ。

私が、それまでのいきさつを詳細に説明すると、従業員たちは逆に驚いていた。

毎月、主任には月初めに、その月の電話代として500シリングを配布するのだが、ラホは4月に3日間しか働かなかったため、電話代を戻すようにお願いしたが、「もう使った」と言われた。

さらに、身分証の返却を求めたが、なかなか応じず、5月中旬になってようやく、私の手元に戻ってきた。

ライフラインがダダーブで活動を始めた2007年から主任としてずっと働いてきたラホが、こういった寂しい形で辞めることになった最大の理由は、私とラホの性格の違いというより、私と私の前任者の運営方針に大きな隔たりがあったということだと思う。本来なら、功労者として大きなパーティでも催したいところだが、残念ながら、ラホの私もそういう気分にはなれなかった。彼女と再会する日は、果たしてくるのだろうか。
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次期工場長は誰か

18、19日と2日続けて、各工場の新しい主任との月例ミーティング。治安が悪いから、私が工場に行くのは控え、警察のガードが付く国連の事務所に主任に来てもらった。

活動報告書、出席簿、七輪の調査報告書などを点検する。仕方のないことかもしれないが、報告書には様々な間違いがある。

例えば、各従業員が毎月、いくつの年次有給休暇を取得できるかを示す表がある。4月1日時点で有給休暇が20あり、4月に休暇を10日取得した従業員が、5月1日時点で取得できる休暇日数が「12」と記載されている。そんな計算間違いが数多く見られ、私は、間違いがある従業員の欄に印をつけ、「もう一度、ゆっくり見直してみてもらえますか?」とその場での主任のファラに書き直しを命じた。

30分して、書き直されたチャートを見ても、まだ、間違いがあった。私は、仕方なく、ファラと一緒に、休暇取得数を声を出して数え合い、足し算と引き算をして、間違いを指摘した。英語をネイティブ並みに話せる主任が、こんな簡単な算数ができないということに、落胆を隠せなかった。「一つ一つ、ゆっくり確認しながら、記入するようにしてください」と話した。

問題は、ファラだけじゃない。本来、私の代わりに現場を仕切るはずのモウリドも、間違いを見逃しているのだ。

七輪を難民たちがどう使っているのかの報告書には、調査した七輪すべて「状態は良い」となっている一方、別の記載欄には、「壊れやすいと不満を述べる難民が多い」と記されている。七輪の状態が本当に良好なら、なぜ、壊れやすいという不満を述べる難民がいるのか?そういった矛盾を、モウリドも主任も、指摘することができない。

 報告書を細かくチェックするという習慣がないのか、同胞の過ちを掘り下げることに抵抗感があるのか、ただ怠慢なだけなのか。モウリドがライフラインに入って半年になるが、チェック機能がまだまだ弱い。

 そしたら、工場Aの新しい主任になったブラレ(男性、仮名)が「従業員が大学や専門学校に通えるような奨学金制度はないのでしょうか?」と尋ねてきた。要するに、何か学びたいから、その授業料を出してくれと言っている。「ライフラインが、本当に従業員の能力を伸ばしたいのなら、そういう奨学金制度が必要なのではないでしょうか?」と言う。

私は、「何も、学校に行くだけが能力向上の手段だとは思っていません。ライフラインは、実践方式で従業員の能力向上をしている。あなたが日々、一つの工場の運営を任され、こうやって、正確な報告書作成の指導を細かく受けているということが、どれだけ、あなたの能力向上につながっているのか、わかっていますか?」

ブラレは、まだ、納得していない様子だった。私は、彼に伝えた。「私が、ライフラインの工場を去る時、モウリドに自分の地位を引き継ぎたいと思っている。勿論、その時点で、モウリドにそれだけの能力があったらの話だ。そして、君の能力が上がれば、モウリドの地位を任せることだってありえる。本来、私たち外国人は、ダダーブに20年も居座るべきではなかった。難民の能力向上を20年やっていれば、外国人に頼ることなく、難民だけでキャンプの運営はできたと思う。でも20年経った今でも、難民従業員は、指導役になるために育成されることもなく、雑用を任され、キャンプ運営に口を出すことはできない。だから、モウリドもブラレも、報告書を細かくチェックする習慣が身に付かなかった。でも、正確な報告書を作るという能力は、君たちがこれから社会に出る時、必ず必要になるものです。だから、私は、細かくあなたたちの指導をしている」

ブラレの表情が少し柔らかくなった。ダダーブには約2000人の援助関係者と、約6000人の難民従業員がいる。ピラミッド式に、外国人スタッフが上、ケニア人スタッフが中、そして、底辺に難民従業員がおり、待遇も各階級で数倍の差がある。

難民従業員が、階級を二つ飛び越えて、外国人スタッフのポジションに就くというのは、前代未聞の話だ。でも、私は、モウリドならできると本気で信じている。「難民自身でできることは難民で」というライフラインのモットーを腐らさないためにも、私は、モウリドを立派な次期工場長に育てたい。そして、いつか、ワシントンDCで開かれるライフライン年次総会で、モウリドと再会を果たしたい。そんな日を思い浮かべたら、仕事へのやる気が湧いてきた。

過去の冷たい自分と向き合う 続編

オクラホマ州は、アメリカのど真ん中に位置し、19世紀にアメリカの先住民族の強制移住先として作られた46番目の州(50州の内)。「オクラホマ」とは、先住民族の言葉で「赤い人」を意味し、州内の先住民族の比率は8パーセントと、全米平均の5倍以上だ。

タルサ空港に着いた私は、 「YOKO」と書かれた紙プレートを手にした高校時代の野球部の友人2人に、出迎えてもらった。そのまま、友人宅に泊めてもらい、次の日の夕方、ジョディの夫、トムが迎えにきてくれた。車は、92年製で、シートベルトは壊れ、座席はホコリまみれ。トムは10年前と変わらず、タバコを吹かし続け、煙が苦手な自分は、窓に鼻を向けた。

午後6時ごろ、ジョディ宅に到着。昔と変わらず、家の中はタバコの臭いが充満しており、リビングルームもベッドルームもホコリまみれで、生活感は希薄だ。ジョディから「泊まる所が必要なら家で泊まってね」と言われていたが、タバコの煙も昼間から酔っぱらう人も苦手な自分は、友人宅を選ばざるをえなかった。

テラスでビールを飲みながら、タバコを吸うジョディは、10年前と変わらない笑顔で、私を迎えてくれた。 茶色だった髪は灰色になり、しわも増え、実際の年齢(53歳)よりも年老いて見えた。連絡をしてこなかった私を責めるどころか、300グラムの大きな牛ステーキを庭の炭火コンロで焼いて、歓迎してくれた。

早速、フランシスのお墓について尋ねると、お墓はないという。彼女が閉所恐怖症だったため、お墓に入るのを拒み、火葬した後、遺骨と灰を、彼女が子供のころ遊んでいた川に流してほしいというのが、本人の希望だったという。しかし、亡くなって8年近くになるにもかかわらず、まだ、遺骨と灰は、ジョディ宅に放置されたままになっていた。

ジョディもトムも、フランシスの命日さえ覚えていなかった。タバコとお酒とインターネット賭博に時間を費やしているようで、ジョディは、フランシスが亡くなって間もなく、飲酒運転で検挙され、免許を剥奪されていた。

「テロ」との戦いなどにより、私がいた頃より、米国のガソリンの料金は3倍以上に膨れ上がり、時給900円の車の修理工で生計を立てるジョディ夫婦の生活を逼迫していた。クレジットカードも携帯電話もなく、その日の生計を立てるのがやっとで、フランシスの遺骨などについて考える精神的余裕など、なさそうだった。

私は、ジョディに「明日、私がレンタカーをするから、一緒に、フランシスの遺骨を流しに行きませんか?」と尋ねた。ジョディは頷き、トムは、仕事を休む事ができないからと断った。おそらく、これが、私ができる最後の親孝行だと思った。

フランシスが遊んでいたという川は、タルサから車で約1時間。5人兄弟の末っ子だったフランシスは、親に毎年の夏休みに、この川周辺でキャンプをし、水遊びをしていたという。16歳で、海軍兵士と結婚し、ジョディを生んだ。数年で離婚し、看護師で生計を立てながら、一人娘を育てた。40代で勤務中に肩を痛め、仕事ができなくなり、以来、生活保護で暮らした。

私は、今更ではあるが、ジョディに色々、フランシスについて聞いてみた。

私:フランシスは、なぜ、私を受け入れてくれたの?身体障害を抱えて、生活は楽ではなかったと思うけど。
ジョ:叔父の家にフィンランド人の留学生が来ていたでしょ?それで、叔父から紹介があったの。受け入れ先に決まった家族の家が火事になって、行く場所を失った可哀想な日本人の少年がいるって。それで、ママが引き取ることになった。身体障害があっても、ママにできないことは、私たちが助ければ大丈夫だと思った。
私:私は、色々、問題を起こしたけど、フランシスは特に何も愚痴はこぼしていなかった?
ジョ:ママはあなたのこと、本当の息子だと思っていた。だから、問題なんてなかったのよ。ただ、一つ、ママが心配していたのは、あなたの高校の授業中の「居眠り」。ひょっとして、何かの病気なのではないかと、心配していたわ。

私は、思わず苦笑した。日本の高校でも基本的に居眠りをしていた私は、アメリカに来て、授業が理解できず、居眠り癖がさらにレベルアップ。30人規模のクラスで寝るのは当たり前だが、時にはマンツーマンレッスン(留学生のための補修英語講座)でも、頻繁に眠り、先生を泣かせたこともあった。

実は、この眠り癖のために強制帰国される寸前まできていた。オクラホマに来る前にフィラデルフィアで実地された1ヶ月間の英語講習中で、10分休憩時間中に、教室のど真ん中のフロアで横たわって寝ていたら、誰も起こしてくれず、結局、授業が終わるまでその状態だった。それで、東京の本部に「授業中に、教室のフロアで寝るのは日本の文化なのか? 」という問い合わせが学校から入り、私は事情聴取を受けた。「ちょっと、体調が悪かった」と弁明したが、「体調が悪い奴が、夜中遅くまで麻雀できるのか?」と怒られた。どうやら、ルームメートが、私が語学留学で来ていた日本人大学生たちと毎晩、麻雀をやっていたことを、学校に告げ口していたらしいのだ。「これ以上、何かあったら、帰国してもらう!」と言われ、仕方なく、授業態度改善を強いられた。

普通なら怒るところを、逆に私の健康の心配をしていたというのが、いかにもフランシスらしい。

フランシスが遊んでいたという川は、ダムが近くにあり、キャンプ場になっていた。ダムから流れ出す水流に、ジョディと一緒に、灰と遺骨を流した。フランシスは、「私をこの川に流さなかったら、呪いにくるわよ」と生前、ジョディに言っていたという。

決して楽ではない人生を歩んだフランシスにとっての、数少ない幸せな思い出だったのだろう。粉々になった遺骨と灰は、水流と共に、私たちの届かない遠い彼方へ行ってしまった。ジョディは「バーイ、ママ!」と叫び、私は、心の中で、「あなたがいなかったら、今の自分はありませんでした。ありがとうございました」とつぶやいた。

過去の冷たい自分と向き合う

ワシントンDCでの出張が終わった後、私は、飛行機で3時間かけて、中西部のオクラホマ州第二の都市、タルサへ向かった。12年目に入った私の海外生活が始まった思い出の場所である。

タルサ訪問の最大の目的は、交換留学生として来た私を2年間、本当の息子の様にお世話してくれたホストマザーのお墓参り。1996年、東京の留学生派遣団体 「アユサ」を通して渡米した私は、タルサ空港に到着してすぐホストファミリーを紹介された。ほとんどの留学生は、渡米数週間前にホストファミリーが決まり、ある程度、電話や手紙で連絡を取り合ってから、新天地での生活を始めた。しかし、私の場合は、手を挙げてくれた家族の家が火事になるなどで、結局、最後の最後まで決まらず、どんな家族と暮らす事になるのか全く情報がないままの渡米となった。

紹介されたホストファミリーは、「ジョディ」と「トム」と名乗る30代の中年夫婦と、それまで見た事もないような巨体で、車いすに座るフランシス。彼女の腕は私の頭ほど太く、体重は150キロ以上に見え、白髪で肌にしわも目立つ。53歳らしいが、70代くらいに見えた。英語が全くわからなかった私は、何やら英語で私に話しかけてくる3人に、適当に「オーケー、オーケー」と返した。まともに歩く事ができないフランシスを見て、ジョディとトムが私の主な世話役になるのだろうと勝手に想像した。

3人に家まで連れて行かれ、部屋やトイレなどについての説明を受けた後、ジョディとトムが「バーイ」と家を出て行ってしまった。私は、何が起こったのか理解できず、「2人はどこに?」とたどたどしい英語でフランシスに尋ねたら、「彼らの家」という返答が来た。ここでようやく、私は、車いすで巨体の老女と見知らぬ土地で2人暮らしをすることになった現実に直面した。

リビングからトイレまでの数メートルを歩くだけで、「ゼー、ゼー」と息を切らし、シャワーもあまり浴びることができないから、一緒に車に乗ると彼女の体臭が鼻を突いた。

当時、自分の親とさえそんなに会話を交わさなかった私に、突然、「ホストマザー」と紹介された女性に心を開くこと事態、至難の技だったが、車いすで巨体となればなおさらだった。「ありがとう」や「おはよう」などの簡単な声かけさえ億劫だった。

 無口だけならまだいいが、私は数々の問題も起こした。夜中にフランシスの車で勝手に高速道路を暴走して、エンストさせ、レッカー車で帰宅したり、音楽を大音量で聞きながら運転し、スピード違反をしていた私を追いかけるパトカーのサイレンに気付かず、逃走車と勘違いされ、計4台のパトカーから挟み撃ちにされたりした。そんな問題を起こす度、フランシスは私を怒るどころか、「おもしろいことしたね」と逆に楽しんでいるようだった。 クラスメートとけんかをして停学処分を食らった時は、「ちゃんと、手加減せずに殴ってきたの?」と笑い飛ばしていた。

そんな問題児を、息を切らしながら毎朝、毎夕、4キロ離れた学校の送り迎えをしてくれ、年間30試合以上ある野球部の試合は毎試合観戦しに来てくれた。学校の宿題を手伝ってくれたり、夏休みには、1400キロ離れたグランドキャニオンまで車を運転して連れて行ってくれた。 当初は1年の滞在予定だったが、日本の高校に戻るのが嫌だった私を、フランシスは快く2年目も引き受けてくれた。

そんな恩人に対して、私は感謝の気持ちを表すどころか、「なぜ、こんな太った人の家を割り当てられたのだろう?」という自分勝手な被害者意識しかなかった。クラスメートから「ホストマザーがものすごく太っているのだって?」と馬鹿にされた時も、野球部のチームメートから「本当の母親じゃないから気にしない」と慰められた時も、「フランシスは素晴らしいホストマザーです」と言うことはできなかった。

アメリカの大学へ進学した後は、フランシスから電話はあったが、こちらから電話をすることは滅多になかった。何度かオクラホマを訪れたが、友人との時間を優先した。2002年にアメリカを去った後は、ほとんど連絡を取る事がなくなり、2004年11月にフランシスが糖尿病と口腔がんで亡くなったことさえ、友人を通して1年経ってから知った。それでも、それまで全く連絡してこなかったことに対する罪悪感で、オクラホマに行く気にはどうしてもなれなかった。

その後も、こちらからジョディに連絡することはなく、昨年の震災で、数年ぶりにフェースブックを通してジョディから連絡が来た。

ワシントンDC出張が決まった時、私は、真っ先にオクラホマ行きのチケットを手配した。過去の冷たい自分と向き合える時が、ようやく来たのだと思った。

博愛主義の源

今回のアメリカ出張での楽しみは何と言っても、ライフライン代表理事で創設者のダンに会うことだった。ライフラインは2003年に設立され、現在、ハイチ、ウガンダ、ケニアで年間約1億円の予算で七厘や井戸の事業を実地しているが、なんと、予算のほとんどは、弁護士のダンの個人的寄付で賄われている。

私は、年間1億円もの額を人道支援に注ぎ込むダンの「博愛精神」の源は何なのか知りたかった。ダンは50歳前後で、リュックサックを担ぎ、軽自動車を運転し、とても大富豪とは思えない庶民的な人だ。住んでいる所も、一般のアパートだ。

私は会議が終わった後の飲み会でダンに切り出し、ダンはいつもの笑顔で対応してくれた。

私:日本では、年間1億円もの額を寄付するなんてあまり聞かないのだけど、ダンの博愛精神はどこからくるの?

ダ:昔から平等や人権への強い想いがあったね。

私:それは、何か、自分の過去の体験がそういう想いを強くさせたのですか?

ダ:今まで、そんなこと聞かれた事なかったな。うーん。何か、特定な経験があるわけじゃないのだけど、とにかく、昔から不公平な事に我慢ができない人間だった。私は、自分が稼いでいるお金で贅沢をするくらいなら、様々な社会的構造で不公平にも貧しい生活を強いられている人を救いたいと思う。「貧困」の反対語は「裕福」というのが通常だけど、私は、「貧困」の反対語は「公平」だと思っている。ヘブライ語で「思いやり」という単語は、とてもよく使われるんだ。

私:ダンはユダヤ人なのですか?

ダ:敬虔ではないけどね。父親は、ホロコーストでチェコスロバキアから逃れてきた難民だった。1939年、ヒットラーが侵攻してきた5日後に国外へ逃亡した。父親は5歳だったのだけど、とても幸運だったとしか言いようがないよ。ニューヨークに住み、勉学に励み、神経学専門の大学教授になった。父は、いつも、私に「不公平な社会システムに虐げられている人の境遇に想いを馳せることは忘れるな」と言っていた。結局、世界はホロコーストから何も学んでいない。カンボジアやルワンダの大虐殺が示している様にね。だから、少しでも経済的余裕のある人が、戦わなければならないよ。

私は、連日の会議で眠くなっていたが、ダンの話で、一気に目が覚めた。ダンは、「日本はとても横のつながりが深い社会だと思っていたから、寄付をすることが珍しいとは驚いた」と言う。人道支援の現場で活動する日本の団体の運営資金の大部分は政府、国連、または宗教団体から出る。企業や個人からの寄付はとても少ない。私は、ずっと、なぜ日本はそうなのか考えてきたが、ダンからわずかながらヒントを得ることができた。

アメリカは、ダンの父親の例が示す様に、歴史的に迫害の対象になった人たちを受け入れ、今でも年間万単位でアジアやアフリカから難民を受け入れている。一方、日本は「難民鎖国」と呼ばれるほど、難民認定数が年間数十人と少ない。それにより、「助けてもらったのだから、次は、自分が助ける番」という博愛精神の土壌がアメリカの方ができやすかったのではないか。

東日本大震災の被災地で、在日ビルマ(ミャンマー)難民がボランティアをしていたことを思い出した。政府がいくら、国連への拠出金を出そうが、 実際に不公平な社会構造に虐げられた人たちと社会の中で直接関わろうとしなければ、「博愛精神」は根付かないのかもしれない。

これまでダダーブでは、メールの返信が遅いなど、色々本部に対する不満もあったが、ダンの心意気に触れ 、そんな不満を抱いていた自分がとてもちっぽけに感じた。

私にとってのアメリカ

ライフラインの年次総会出席のため、4月27日、本部があるワシントンDCの国際空港に到着。高校、大学と5年半を過ごしたアメリカに10年ぶりの再訪。私にとってのアメリカとは、ルーズで、寛容的で、それでいて傲慢。

1996年、15歳で交換留学生として渡米した際、男性入国審査官は、「何を勉強しにきたの?ウェルカム、エンド、グッとラック!」と励ましてくれた。彼にとっては何気ない一言でも、新天地での生活への不安で一杯だった自分にとっては、忘れられない一言となった。

  米中西部オクラホマ州の公立高校に留学したのだが、ある日、アメリカ史の自習時間で、後ろから消しゴムを投げてくる奴がいた。「ストップ!」と私が言っても、投げ続けてきたので、短気な私は、机を立ち上がり、彼の顔面を殴りつけた。そして、私はそのまま机に戻ろうとしたら、彼が私の襟をつかみ、殴り返してきた。そのまま二人とも5日間の停学処分を告げられ、学校を早退した。

 夕方、ホストファミリーの家に学校から電話が来た。「停学処分は取り消す」という。ホストマザーの話では、私のクラスメートたちが、校長先生に「ヨーコーは悪くない。他の国へ行って、消しゴムを投げられたら、誰だって怒るはずだ」と申し出てくれた。英語があまりできなかった自分は、当時、そんな親友がいたわけでもなかった。つまり、私個人を守るというよりも、クラスメートたちは「留学生」というマイノリティーに対する校内の差別的行為に、憤慨したのだった。

 入国審査官の歓迎の一言も、クラスメートたちの申し出も、日本ではあまり体験することのできないもので、多民族国家アメリカの強さみたいなものを肌で感じた。

 しかし、今回の入国審査は違った。筋肉ムキムキの入国審査官の体格は16年前と変わらなかったが 、カウンターに来た自分に「所持金は?クレジットカードは?入国目的は?」などと疑心暗鬼に満ちた質問を浴びせた。15歳と31歳の私の人相が変わったからだと思う人もいるかもしれないが、残念ながら、当時の私の顔は、今と変わらない彫りの深さだった。

 午後2時半に市内の宿舎に着き、そのまま、市内を歩き回った。宿舎近くの大型スーパーに水を買いに行ったら、レジの女性がポテトチップスを食べながら、仕事をしていた。「市内地図はどこで買えますか?」と女性に尋ねたら、後ろに並んでいた男性が「3ブロック離れた所にあるよ」と教えてくれた。

 テロとの戦いで入国審査は厳格化しても、日本にはない、仕事に対するルーズな感覚も、見知らぬ人に話しかける人懐っこさも、変わっていなかった。16年前、当初は1年間の滞在予定だったのが、日本の高校に退学届けを出し、留学先の高校にそのまま残る決断をした自分が、なぜアメリカにそこまで惹き付けられたのかを思い起こさせてくれた。
プロフィール

seventh star 7

Author:seventh star 7
黒岩揺光  
1981年、新潟生まれ。7人兄弟の末っ子。15歳で米国留学して以来、住んだ国は計8カ国に。海外生活計17年。日本では毎日新聞記者、アフリカでは難民キャンプの工場長、アゼルバイジャンで主夫、ジュネーブで国連職員などを歴任。現在は中東ヨルダンで妊娠した妻に寄り添う専業主夫。
 著書に「僕は七輪でみんなをハッピーにしたい」(ユーキャン)「国境に宿る魂」(世織書房)。
メール連絡先 yokuroi×hotmail.com (「×」を「@」にしてください) ツイッター:@YokoKuroiwa

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