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難民の「自立力」のシンボルが消滅する

写真2
29日午後7時ごろ、ダダーブ難民居住地区にあるキャンプの一つ、「ダガハリ」キャンプの市場で大規模な火事が発生した。数十センチの通路を隔てて引き締め合う店舗が次々と焼かれ、30日午前7時ごろまで延焼した。

30日午前9時ごろ、私は、国連の治安担当者とケニア警察と一緒に現場に向かい、延べ5000平方㍍に及ぶ 、市場の大部分が「消滅」したのを目の当たりにし、しばし呆然とした。野菜を買った食材店通りも、お茶を飲んだレストランも、すべて鉄板とがれきの山とかしていた。幸い、死人はおらず、数人がやけどなどのけがを負ったという。

 現場一帯は、白い煙に包まれ、多くの人たちが、ブラスチックのタンクで水をくみ、自分たちの店の跡地の消火活動や、残った貴金属類を拾い集めるなどしていた。中には、地面にまき散らされ、土まみれになった砂糖の山を、袋に入れている子供もいた。拳銃を肩にかけたケニア警察は、現場の跡地から物を盗もうとしている難民がいないか監視し、少しでも怪しい行動があれば、容赦なく、こん棒を振りかざし、私も危うく巻き添えを食らうところだった。

友人6人とお金を出し合って、昨年始めた雑貨屋を失った39歳男性は「店には200万シリング(約200万円)くらいあったけど、すべて失いました」と肩を落とした。男性によると、300以上の店が全焼し、数百万単位の損失は「めずらしくない」と言う。中には1000万シリング以上を失った人までおり、火事の深刻さを物語っている。

出火場所は、市場の店舗に電力を供給していた発電所で、電線を通して、電力供給先の各店舗へ一瞬で延焼し、市場から1キロ離れた所に暮らす男性は「爆発音を聞いてから、市場へ駆けつけようとしましたが、その時には、辺り一面火が燃え上がり、どうすることもできなかった」と言う。

ダガハリでの火事は、これで3度目。これまでは、援助機関も消火器を持って消火活動に当たることができたが、昨年からの治安悪化で、援助機関は、身動きがとりづらかった。 ダガハリでは先週、路肩爆弾が爆発して6人が重傷を負ったばかりだった。そのため、火事の一報が入った際、誰もが放火の可能性を考え、現場に近づくのをためらった。店舗を失った難民たちは口々に「なぜ、私たちを見捨てたのか?」と訴えた。

問題は、なぜ、店舗や住居が密集しているキャンプで、消火対策措置が設置されてこなかったということだった。店舗を失った男性は「昔の店舗はすべて、木造だったけど、みんな火事を恐れて鉄板を使う様になった。でも、今回の様に、発電所から電線を通して延焼するなんて予想しなかった」と言う。

私が国連に勤務していた昨年3月、ダガハリの青年組織が、消防団結成のための企画書を国連に出した。丁度、私の任務が終わる頃のことで、引き継ぎ書に記して、私は国連を去ったが、結局、上層部の判断で実現されることはなかった。今回の火事で、難民居住地区にも消防団などの長期的視野を入れた開発が必要なのだということを、私たちに改めて教訓とさせた。

ホテル、送金業者、レストラン、インターネットカフェ、DVDシネマ、雑貨屋、肉屋などが連なった市場は、1991年にキャンプが設立されて以来、住民たちが自分たちでコツコツ貯めた「財産」の結晶だった。また、市場の発展には、援助機関はほとんど関与しておらず、まさしく難民の「自立力」の証明でもあった。援助機関と難民が協力して、これらの「宝」を二度と失わないよう、対策を練らなくてはならない。

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仕事がしたい

工場Aの閉鎖が決まり、私は、ある従業員の事が気になった。昨年末に、障害者支援の団体から紹介され、ライフラインの従業員になった、アフメッド(仮名、36歳男性)。足や股間などが象のように大きく膨れることから「象皮病」と呼ばれる病気を左足に負っている。小学校も卒業しておらず、しかも身体障害を背負う彼に、別の仕事を見つけるのは至難の業だろう。私は、彼をダダーブに呼び、話を聞いた。

私は、アフメッドに「仕事がなくなっても大丈夫?ライフラインでの仕事はどうだった?」などと尋ねるうち、アフメッドは自分について語り始めた。

「ライフラインで仕事ができなくなるのは本当に辛いですよ。私みたいに、教養もなく、障害を負い、しかも、少数派部族に属しているのを受け入れてくれるのは、ライフラインだけでしたから。

私は、これまでもこれからも、亡くなった母親との約束を守ることだけを考えて生きています。私は、ソマリアの首都モガディシオで生まれ、7人兄弟の長男で、母親は政府の職員でした。父親は一人目の妻の家で暮らしていたので、普段、あまり顔を合わせませんでした。母親はとても教養が高く、収入も安定していた。でも、なぜか、私は勉強が大嫌いだった。9歳くらいから、学校をさぼって、『ミラー』(ソマリアで人気の大麻の様な葉)を友人たちと噛んでいました。ミラーを噛むと、とても気分が良くなった。授業中に、教室の窓から飛び降りて抜け出していたから、「ジャンパー」なんてあだ名をつけられていました。結局、母親からの説得を無視し、10歳で小学校を辞めました。

1991年、内戦が勃発し、武装集団が私の家を襲いました。丁度、妊娠中の母親しか家におらず、銃を数発、空中に放ち、金品を奪って行きました。母親は直接危害は加えられなかったものの、精神的ショックで、流産し、腹部からの出血が止まりませんでした。私は、必死に医者を探しまわりましたが、戦争で、すべての病院が閉まっていました。母親の容態は悪化を続けました。意識がもうろうとしていく中、私は母の頭を膝の上に抱き寄せ、看病しました。母は、「あなたは長男で、父親はあまり家にいないのだから、あなたが、下の子たちの面倒を見てね。もう、ミラーを噛むのは辞めてね」。私は泣きながら、「何でもするから、頼むから、逝かないで!お願いだよ、、」。間もなく、母は息を引き取りました。39歳という若さで。

 私は、ミラーを噛む生活とは決別しました。父親の建築の仕事を手伝いながら、わずかな収入を稼ぎ、妹や弟たちの学費に充てました。母親に恥ずかしくない生活をすることだけを考えました。1995年、父親から紹介された女性と結婚し、息子を授かりました。しかし、間もなく父親が胃がんで亡くなり、妻とも離婚しました。そしたら、突然、左足が腫れ始めました。激痛に悩まされ、病院に一ヶ月入院しました。何が原因なのかは、わかりません。

父の死後は、仕事が大変になりました。大工でしたが、日雇い労働なので、数ヶ月仕事がないこともありました。そういう時は、弟や妹に満足に食事を与えることもできませんでした。どうしようか考えた時、近所の人たちが、サウジアラビアへ出稼ぎに行った親戚からの送金で、大きな家を建てているのを見ました。内戦は一向に終わる兆しもなく、私は「これしかない」とソマリアを出ることを思い立ちました。

しかし、ソマリアからサウジアラビアへ行くには、アデン湾を船で渡り、イエメンに密入国しなければいけません。私同様、イスラムの聖地で、裕福なサウジアラビアを目指すソマリア人は多く、定員超過状態で海を渡る密入国船が多く、転覆事故が毎年数十件あり、たくさんの同胞が命を落としていました。それでも、「母との約束を守るには、ソマリアにいてはだめだ」と自分に言い聞かせました。

20ドルを密入国業者に支払い、わずか長さ6メートルのボートに290人が詰め込まれました。体を寄せ合うこと12日間、ようやくイエメンが遠くに見えかけてきた時です。船長が、「イエメンの海上保安船がこちらに向かっている。密入国がバレたら、全員捕まる。ここから、泳いでイエメンまで行ってくれ」と私たちにお願いしてきました。イエメンは軍事独裁政権で、捕まったら終わりです。私たちは、「泳げる分けないだろ!」と船長たちと言い合いになり、拳銃を突きつける者まで出てきました。ボートの上で乱闘が始まり、船体はバランスを失い、そのまま転覆しました。

皆、お互いの体を掴み合いながら、必死に生き延びようとしました。私のシャツは隣にいた女性に脱ぎ取られました。私も、何か捕まるものを求め、がむしゃらに泳ぎました。そしたら、幸運にも、船体の一部に捕まることができたのです。他の6人とそれに捕まりながら、2晩、海の中で過ごしました。喉がからからになり、意識がもうろうとしていく中、大きな船体が目の前に現れ、救助されました。290人中、助かったのは私たち7人だけでした。

多くのソマリア人が暮らすイエメンでは、友人の紹介で、パン屋で働きました。しかし、アラブ系のイエメン人は、肌が黒いソマリア人を見下しています。店長は、私の給料を2ヶ月以上支払わず、「もし、この工場を出て行くなら、お前の不法終了について警察に届け出るぞ」と脅されました。仕方なく、私は、お金が溜まってから行こうと思っていたサウジアラビアを目指すことにしました。お金がないため、車や飛行機で行く事ができません.山間部を密入国ルートを1人5日間歩いて越境しました。サウジアラビアに入って間もなく、左足の痛みがひどくなり始めました。あまりにも激痛が続き、歩けないくらいになりました。近くのモスクへ助けを求め、国家警察に保護されました。私が不法で入国したことを知り、警察は、ソマリアへ私を強制送還しました。

ソマリアに戻っても、左足は治らず、病院からは「ケニアのダダーブ難民キャンプなら、医療施設も充実しているから、治してくれるかもしれない」と忠告を受け、2006年、ダダーブへ来ました。ナイロビの病院に入院し、足の痛みは和らぎました。

しかし、キャンプでは仕事がなかなか見つかりませんでした。援助機関は、文字の読み書きができないと難しいし、キャンプ内の市場で働くには、親戚や知り合いがいないと難しい。私は、ソマリアでの少数部族の「バントゥ」部族(ケニア、タンザニアなどから、ソマリアへ奴隷として送られた人たちの子孫で、『アラブ系』のソマリア人から蔑視の対象とされる)に属するため、それほど大きなツテがありませんでした。

ミシンを借りて、小さな仕立て屋をやりましたが、ミシンと場所の賃貸料が高く、売り上げが追いつかず、半年で辞めました。市場を歩いても、私の膨れ上がった足を見て、子供たちは逃げ出します。私は、途方に暮れました。

2011年秋、身体障害者を支援する団体から、ライフラインという団体が、インターンを募集していることを聞きました。私は、「どうせ、英語が話せなければ、だめなのだろう」と半ば諦めていましたが、工場に行ってみると、ほとんどの従業員が文字の読み書きができず、私の部族から3人の雇われていることに、驚きました。バントゥの同胞から、「ここで、一生懸命働けば、雇ってもらえるぞ。頑張れ」と励まされ、毎日毎日、働きました。そして、一ヶ月後、正式雇用の通知を頂いた時は、本当に嬉しかった。生まれて初めて、しっかりした組織に受け入れてもらった瞬間だった。

初めての給料で、他のバントゥ出身の若者たちにサッカーのユニフォームを買い、「ライフライン」というサッカーチームを結成しました。他の援助機関と違って、その人の教育レベルや部族、障害の有無など関係なく、誰でも快く受け入れてくれるライフラインのことを、1人でも多くの人に知ってもらいたかった。

その後の給料で、家を立て直したり、台所道具を買ったり、ソマリアの家族に送金したりしました。やっと、母親との約束を果たす事ができたと思っていました。

ライフラインでは、動物と植物が、酸素と二酸化炭素を交換して、相互依存の関係とういことを学びました。それで、七輪配布による森林保存の重要性を学び、この世界には、自分みたいな障害者でも、何か社会の役に立てることがあるのだとわかりました。木々が私たちに酸素を与える様に、私も、他の同胞たちのために七輪を作る事ができる。

でも、工場閉鎖で、私の一番幸せな時間は、長く続きませんでした。私の人生は、とことん、ついてないですね。

今年2月に私たちがストライキをしたことがありましたね。本当は、私は働きたかった。工場長を裏切るようなまねはしたくなかった。でも、皆がストライキをするって言うから、仕方なく追従しました。1人だけで働いても仕方ないですから。私は、あの時、工場長は何も悪い事はしていないと思っていました。あの時、ストライキなんてして、本当に申し訳なく思っています。

少しの間だけでも、幸せな時間を頂いた事、とても感謝しています。また、工場が再開できたら、一緒に働きたいですね。仕事がしたいです。ライフラインの活動は、もっと、色々な人に知れ渡るべきです。工場長、こんな自分を受け入れてくれて、本当にありがとうございました。母親も喜んでいると思います」
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なぜ、特定の難民を狙う事件が増えているのか

今回の、外国人援助スタッフの拉致未遂事件と、昨年10月のスペイン人拉致事件は、外国人を狙ったという意味で同じだが、キャンプの住民は、この二つの事件に、全く異なる受け止め方をしている。

昨年10月の事件では、外国人が狙われた事から、難民たちは「私たちには関係ない」という態度だった。しかし、昨年末から、援助関係者だけでなく、難民を狙った事件が増え始めたため、今回の拉致未遂事件も、その延長線上ととらえ、難民たち自身も全体の治安悪化の延長ととらえ、大きなショックを受けている。

キャンプ内では、何年も前から、店荒らしや強盗事件はあったが、以前は無差別に店が荒らされていたのが、最近になって、特定の難民を狙った事件が起き始めた。今年4月、モウリドが「キャンプに住んで20年、こんなこと初めてです」と声を震わせながら話した。ある電気店を経営する難民宅に、拳銃を持った若者たちが押し入り、男性の店へ連れ出し、現金200万シリング(約200万円)を奪い取った。

特定の難民が狙われたことで、「次は自分が狙われるのでは?」という恐怖心を、モウリドを含む富裕層の難民すべてが抱き、「体感治安」が一気に悪化した。一方、私がショックを受けたのは、200万シリングという大金を、ダダーブの住民が所有しているという事実だ。ケニアの大学卒業したエリートが5年以上働いて稼ぐ金額であり、ダダーブの経済規模は、私の想像していたものより、遥かに大きいものだった。

キャンプ全体の治安が悪くなった要因はいくつか考えられるが、ケニア政府や新聞が挙げる要因は主に二つ。
——昨年の飢饉で16万人の難民がソマリアから押し寄せ、中には、20年続く内戦で戦っていた元兵士が含まれている
——ケニア軍がソマリアに侵攻したことから、その報復行為として、ケニア警察や軍を狙う犯行が増えた

上の二つは、事実だろう。でも、これだけでは、裕福層の難民が狙われる事件の増加について、説明する事ができない。

各キャンプには、「チェアマン」と「チェアレイディー」という、男性と女性の「難民首長」がいるのだが、6月には、あるキャンプのチェアレイディーが乗った車が路肩爆弾で爆発し、彼女は重傷を負った。明らかに金銭目的の事件ではないため、彼女に「恨み」がある者の犯行であり、上記の二つの要因でも、説明がつかない事件だ。

私の難民の友人たちの話では、このチェアレイディーは、ダダーブ地区選出のソマリア系ケニア人の国会議員と親戚関係にあり、彼女に嫌われた援助機関はダダーブで活動ができなくなるため、援助機関は彼女と蜜月関係を保つためなら何でもするという。例えば、援助機関が井戸を掘る事業をするにあたり、工事の請負業者を決める際、彼女が推薦した業者に仕事がいき、彼女が仲介料を徴収するという仕組みだったという。

それにより、彼女は大きな資産を蓄え、ダダーブで唯一の鉄筋コンクリートの自宅を昨年築き、住民を驚かせた。前章でも書いたが、この20年、援助機関は、特定の難民を優遇してきた。そして、昨年の飢饉で16万人の「貧困層」がダダーブに押し寄せ、格差が一気に拡大し、それまで築かれた援助機関と裕福層の難民の馴れ合い関係のツケが、今、こういった事件の増加という形で現れてきているような気がしてならない。

 ライフラインにナイフを持った若者たちが訪れ、お金を要求してきたのも、こういう歴史の延長線上にあるのかもしれない。しかし、それにより、七輪製造はストップし、本当に援助が必要な人たちに援助が行き届かなくなってしまった。皮肉としか言いようがない。

拉致未遂事件が私たち援助機関に突きつける問題

先月29日に武装集団に拉致された友人たちが、3日後、無事に生還した!ソマリア国内を歩いて移動している途中に、ケニア軍が見つけ、実行犯は銃撃戦の末、殺されたという。

友人らはそのまま直接ナイロビへ行き、母国へ戻ったため、私は会うことはなかったが、無事帰還の知らせを聞いた時は、皆、抱き合って喜んだ。ケニアの新聞は勿論、BBCやアルジャジーラなど大手メディアは、この「ミラクル救出劇」を大きく報道し、友人たちは一躍、有名人になってしまった。

しかし、無事生還したからといって、ダダーブの治安が良くなったわけではない。そして、今回の事件は、大きな課題を、私たち援助関係者に突きつけた。

まず、先進国出身のスタッフが人質に狙われやすいということ。実行犯は身代金目当てのため、比較的お金がある国の出身者を狙っていると思われる。今回は4人とも、非黒人で、しかも、彼らが所属する団体「ノルウェー難民委員会」(NRC)の事務総長(組織のトップ)を乗せていた車両群が狙われたことから、実行犯は、より地位の高い人物を狙うことで、より多くの身代金を要求しようとしていることがうかがえる。(だから、某国の政府系機関の方が、以前、ネクタイ、スーツ姿でダダーブに来られた時は、「なぜ、わざわざ、狙われるような格好をするのか?」と同僚は首をかしげていた。昨年、訪れた国連事務総長でさえ、ネクタイはしていなかったのに)

次に、NRCの事務総長を乗せた車両群を、実行犯は待ち構え、計画的に狙っていたことから、日帰りでダダーブを訪れていた一行の行程が、内部の者から漏れていた可能性があること。「内部の者」というのは、同団体で働く難民従業員の可能性もあり、何らかの「報酬」の見返りに、協力したのではないかと指摘されている。

最後に、拉致が実行された場所である。「ダダーブ難民キャンプ」という呼称は、しばし、東京ドームくらいの大きさに人が引き締め合って暮らしているというような、謝ったイメージを外部の人に与える。実際は、五つのキャンプが散らばっており、端から端までの距離は30キロ以上、車で1時間以上かかる。つまり、「ダダーブ難民居住地区」という呼称の方が適切なのだ。
なぜ、このことを、ここで強調する必要があるのかというと、拉致が実行された場所は、昨年設立されたばかりの「イフォ2」キャンプで、昨年の飢饉で逃れた人が主に住んでいるところだ。1991年からある、他のキャンプとは違い、大きな市場もなく、ほとんどが、その日食べる物を調達することで精一杯の日々を送っている。要するに、居住地区の貧困層が暮らしている地区なのだ。

「難民は皆、貧困なのではないの?」と思うかもしれない。しかし、他の古いキャンプには大きな市場が形成され、送金業者、インターネットカフェ、ホテル、レストラン、電気店などなどが並び、車やテレビを所有している難民も珍しくなくなっている。私のアシスタントのモウリドも、ライフラインで働く前からパソコンを所有していた。アメリカに住む友人たちにお金を借りたのだという。

昨年10月に起きた拉致事件も、同じキャンプで発生しており、貧困地区の方が、「協力者」が得られやすいからではないかと推測される。

新聞は、今回の拉致事件を「ソマリア南部を実行支配するイスラム武装組織『アルシャバブ』のシンパによる犯行」と書いている。「シンパ」とは、「同調者」を意味する。しかし、ダダーブに住んで2年以上になるが、アルシャバブの過激的な「イスラム」の解釈に不満をぶちまけるソマリア人には大勢会ったが、それに同調するという人に会ったことはなく、もし、協力する人がいるとしたら、それは、食べるものがない故、数少ない収入源を確保するためだと、私はみている。

もし、このダダーブ内にできた難民間の「格差」が、今回の拉致事件と関連があるとしたら、私たち援助機関はこの格差是正のために何をしてきたのだろうか?食料配給は、20年間、すべての難民に一律に支給されており、平均月20日分の米、豆、トウモロコシ、油などが支給されるのみで、野菜や肉はなく、10日分は、自分たちのお金で購入しなければならない。自分が、貧困な難民で、テレビを所有している人が同じ分の生活保護を受けていたら、どんな思いがするだろうか?

それだけじゃない。援助機関が実施する若者対象の職業訓練や研修は、本来、文字の読み書きができない貧困層の難民が優遇されるべきなのだが、現実は全く逆だ。募集の張り紙が英語で書かれていたり、研修自体が英語で行われたり、援助機関で働くエリート層の難民従業員を通して告知がされる傾向があるため、自動的に、学校に行けず、日々、肉体労働でわずかな賃金を稼ぐ若者たちには、そういった機会が与えられないのが現状である。昨年2月に私が実施した調査では、若者全体の2割にも満たない高等学校卒業者の9割が、何らかの研修を受けた事があるのに対し、文字の読み書きができない人に限れば、1割だけだった。

本来、弱者に寄り添うべき、私たち援助機関が、逆に格差拡大に貢献してしまっている実態があるのだ。そして、そこから取りこぼされた人たちが、貴重な収入源確保のために、テロ行為に加担しているのだとしたら、自分のダダーブでの存在意義って、何なのだろう。

20年間、「緊急援助」の現場とダダーブは位置づけられてきた。だから、「難民」にはすべて、食料、医療、教育が一律、無料で提供され続けている。一方、その間、ダダーブは大規模の経済活動の拠点となり、貧富の格差が拡大した。それでも、果たして、一律に支援し続ける必要ってあるのだろうか?

今回の事件を受け、すべての援助機関の代表が集まって対策を練った。誰も、私が指摘する「格差問題」について言及する者はおらず、私自身、言うことができなかった。同僚が拉致されショックを受けている時に、「悪いのは私たちです」と言えるだけの度胸は私にはなかった。結局、何も言えない私は、誰を責める権限もなく、ただ、大きな流れに身を委ねたまま、日々を送っている。

人を「助ける」って、一体、何なのだろう。

武装した若者、工場訪れる (最終章)

地元住民との対話後、私は、これからの方針を決めるために、工場Aをとりまく、いくつかの要因を紙に書いた。

1.従業員の安全が脅かされている。
2.地元住民は統率がとれておらず、彼らと交渉したところで、従業員の安全は保障されない。

上の二つだけでも、すでに、工場継続は困難だ。

さらに、追い打ちをかけるような通達が本部から届いた。「資金不足で、七輪生産数を、月1000個から、500個に減らしてくれ」と言う。これは、今回の事件とは全く関連がなく、最近の物価の高騰によるものだった。ケニアの通貨であるシリングが高騰し、昨年10月に4ドルで購入できた七輪の外部を囲う鉄枠が、6ドルになっていた。それにより、全体の費用が跳ね上がり、コスト削減を強いられる事になったのだ。

生産を半分に減らすということは、要するに、二つある工場のうち、一つを停止させるということだ。幸か不幸か、ライフラインの財政難と、地元住民との対立が同じタイミングで起こっていた。

私は、本部に、これらの要因を説明した上で、8月から工場Aを全面停止することを提案し、了承された。実際は、すでに停止されているのだが、従業員にとってライフラインの給料は生命線であり、突然、解雇するのではなく、7月末まで給料を支払い、それ以降は一時解雇という形をとることにした。

問題は、これを従業員にどう伝えるかだ。2007年から働いてきた者にとっては、いきなり収入源を失うわけで、大きなショックだろう。しかも、ほとんどの従業員は文字の読み書きができないため、他の就職口を見つけるのは簡単ではない。昔、ドラマか映画で、廃業寸前の会社の社長が「申し訳ない」と従業員に頭を下げるシーンを見た事があるが、まさか、自分がそんなことをするとは夢にも思わなかった。怒鳴られたりするのだろうか?

 7月12日、治安悪化のため、工場ではなく、国連事務所の一室を借りて、従業員とミーティングをした。複雑な思いを抱きながら、私は、いつもの様に、1人1人と握手をした。皆が座ったことを確認し、できるだけ穏やかな表情で、1人1人の目を見ながら話し始めた。

「私たちは先週、地元住民の代表たちと話し合いました。ライフラインの活動について簡単に説明し、6月初旬から工場で起こった事を時系列で確認し合った後、向こう側の要望を聞きました。要望は、従業員の半分を、地元出身者にするというものでした。また、工場に鍵がかけられた件で、代表者たちは一度、『もう、工場には手を出さない』と言ったにもかかわらず、鍵をかけた者に対し、何も行動を取ることはありませんでした。それについて尋ねても、彼らは質問をはぐらかすばかりで、真剣に、皆さんの安全について考えているとは思えませんでした。

ですから、皆さんの安全が保障されないこと、また、彼らの要望が非現実的なものである事を考え、ライフラインとしては、工場を一時閉鎖することに決めました。皆さんの給料は今月末まで支払われますが、それ以降は、一時解雇という形になります。今後、地元住民側が結束し、本気でライフラインの活動を支えて行く姿勢を見せる事があり、現実的な交渉ができた時、工場を再び開けることにしたいと思います。

皆さんには、大変、申し訳ない結果となってしまいました。これは、すべて、私の監督者としての力量不足です。皆さんは、とても一生懸命仕事をしてくれた。それなのに、こんな結果になってしまい、残念です」

従業員たちは、表情を変えることなく、真剣に私の話に聞き入っていた。感情を表に出すこともなく、それでいて、そこまで落ち込んでいる様子もなかった。

「何か質問はありませんか?」

と、私が尋ねると、リーダー格のバレが手を挙げ「工場が再開できるよう、色々やっていただき、感謝しています。地元住民に雇用の機会を与えることは難しいのでしょうか?」と尋ねてきた。アシスタントのファラが、「向こうの要望は9人を雇用しろというもので、それは到底できません」と私に代わって、ソマリア語で答えてくれた。

他の従業員は何も話すことはなかった。ショックで言葉を失っているのか、私の言っている事を理解したからなのか、わからなかった。「地元住民ともっと真剣に話し合え!」などの罵声を浴びせられると予想していたのに、完全に肩すかしを食らった。

卑怯かもしれないが、私は、資金不足の事については彼らに話さなかった。責任をすべて地元住民に押し付けることで、従業員のライフラインに対する不満を抑えるという目的だが、実際、資金不足とは関係なく、従業員の安全を守ることができないのは事実だった。

私は「皆さん、来月から収入源を失うわけですが、大丈夫でしょうか?」と尋ねてみると、「私たちには神様がついています。すべては神様の導きなのですから、大丈夫です」という答えが返ってきた。さすが、信心深いイスラム教徒だ。現実を受け止める力がある。しかし、だったら、これまで「給料挙げろ!」と文句を言ってきたのは何だったのか?「あなたたちの今の給料も神の導きなのです」と答えてあげれば良かった、、、。

私は、「今日、この通達をすることで、皆さんから怒られると思っていたのですが、そんなことはないようで、安心しました」と言った。

副主任のドウボウは「そんな事を言われるのは、私たちとは心外です。私たちは、工場長から言われた事に忠実に従うだけです」と言う。私は「とにかく、一日でも早く工場が再開できるよう、善処します。地元住民たちも、本心は、私たちが閉鎖するのを望んでいないはずです。だから、私たちが本当に閉鎖したのを見て、態度を軟化する可能性もあります」と伝えた。

ミーティングは30分という短さで終わった。 終止、雰囲気は険悪になることはなく、 私が「給料は支払えませんが、工場に残ったレンガを一個10シリングで売ってもらうのはいいですよ」などと冗談を言っても、従業員たちはいつもの様にケラケラ笑えるだけの余裕があった。女性従業員たちが笑顔で「それでは失礼します」と私に手を振り、いつも文句が多いハサンは「ヨーコー」と握手を求めてきた。

アシスタントで通訳をしてくれたファラは「今回の件で、従業員は工場長に非がないことはよくわかっています。それに、自分たち自身、危険な目に遭っているわけだから、工場長の説明はより説得力があったのでしょう」と分析した。

それにしても、ラホの件で全面ストライキがあったり、賃上げ要求など、これまで「強情」なイメージだった従業員たちが、ここまで素直に聞き入れてくれるとは思わなかった。工場長になって1年以上になるが、まだまだ、従業員たちの知らない部分があるのだと、改めて思い知らされた。

結果的に、ナイフを持った若者たちの願い通り、工場は閉鎖されてしまい、敗北感は否めない。しかし、長期的に考えた時、私たちが閉鎖することで、地元住民と難民とが、ライフラインの活動が本当に必要なのかどうか考え、何かしらの行動を起こしてくれるのではないかと、ひそかに期待もしている。

武装した若者、工場訪れる (その8)

翌日、再び、工場に鍵をかけた地元出身の若者から電話が来た。「私は鍵を開けた。だから、仕事をくれ」と言う。「鍵は開いていないと、アヤレからは聞いている。鍵を開けてくれない限り、交渉はしない」と伝えた。そもそも、この若者は、自分が勝手に鍵をかけた組織が、自分を雇ってくれると、本気で思っているのだろうか?

翌々日の朝、「今から鍵を開けに行く。話し合いの準備はできているね?」と携帯メッセージが届いた。

こちら側は、鍵を開けてもらうことが交渉再開の条件だった。しかし、交渉相手が、地元住民全体の「代表」でなければ意味がない。鍵を閉めた若者だけと交渉して、和解したとしても、第3、第4のグループが現れる可能性があるからだ。

だから、私は、「最初に謝罪したグループと、鍵を閉めたグループ、さらに他の主要メンバーが一緒でなければ、交渉のテーブルには座らない」と伝えた。そしたら、鍵を閉めた若者は「そんなの聞いていない!鍵を開けたら話し合うと言っただろ?他のメンバーと話し合いたいなら、自分で連絡してくれ」と電話を切った。

そしたら、7月5日、「地元住民側が全員一緒に交渉に参加するということです」とファラから連絡が入った。ファラは、工場Bの主任に5月に昇格し、7月からは、モウリドと共に、私の補佐役になった。治安悪化で、私は国連の敷地から出ることはできないため、地元住民に交通費を支給して、約6キロ離れたキャンプから出向いてもらった。

私は国連のゲートで彼らを出迎えた。地元住民側は9人。20—50代の男性だ。 ファフィ地区の地方議員2人、長老、そして、鍵を閉めた人を含め、特に役職のない若者6人。全員、身体検査、持ち物検査を受け、ゲート内に入ってきた。私は、精一杯の作り笑顔で出迎え、全員と握手をした。ゲートから、会議室まで約300メートルの距離があり、私が一緒に歩こうとしたら、若者たちが「車はないのですか?こんな長い距離歩けません!」と文句を言ってきた。本来、ソマリア民族の大半は遊牧民であり、毎日数キロ、数十キロを歩く彼らが、こんな距離を歩く事さえ文句を言うなんて、理解し難いものがあった。
 
 会議室に座った私は、ファラを横に、そして、9人と対面となる形で、話し始めた。冷静に、低姿勢で、と自分に言い聞かせながら。

「本日は、遠いところをわざわざお越し頂き、ありがとうございました。私は、ライフラインのプロジェクトマネージャーのヨーコーと申します。今日の会議では、まず、こちらから、ライフラインの紹介をさせて頂き、その後、地元住民とライフラインとの間で起こった一連の事柄を時系列で確認し合い、最後に、皆さんからライフラインへの要望をお聞きすると言う形で、進行させてもらってもよろしいでしょうか?」

と尋ね、地方議員と長老の3人は、深く頷いた。

「ライフラインは、米国に本部を置く非政府組織で、森林保全を目的に、七輪を製造、配布しています。ケニアだけでなく、ハイチ、ウガンダでも活動しています。ケニアでは、2007年に活動を始めました。きっかけは、難民による森林伐採が深刻化したことです。皆さんは、ヤギ、牛、ラクダを飼育して生計を立てていますが、難民の大量流入で、木々がなぎ倒され、皆さんの生活が脅かされていることに危惧しました。数十万の難民を受け入れ、さらに、難民に無料で提供されるサービスを受けることさえできない地元住民の生活改善のため、ライフラインはケニアにやってきました。

私がライフラインに入った昨年、従業員たちは、地元住民に対して良いイメージを抱いていませんでした。なぜなら、彼らの地元住民についての知識は限られており、薪を拾い集めに行くと、襲ってくる人たち、というぐらいの認識しかなかったからです。

しかし、七輪を作ることで、地元住民たちの苦しみに共感するようになり、『自分たちの住んでいる所に突然46万人の人が押し寄せ、木々を伐採したら、誰でも良い思いはしない。地元住民の人たちも、難民と同じ様に苦しんでいる』と劇などでキャンプの住民に訴え始めました。

確かに、ライフラインは難民しか雇っていませんが、プロジェクト自体は、地元住民の生活改善だということを忘れないで下さい。

本来なら、2007年に活動を始めた際、皆さんに挨拶をするべきでした。それについては、大変申し訳なく思っています。これで、簡単な紹介を終わりますが、何か、質問はあるでしょうか?」

特に質問は出なかった。

「それでは、次に、これまで、私たちの間で起こった事柄を時系列で確認し合いましょう」

6月4日に最初のグループが訪れ、「工場を1時間以内に閉鎖しろ」と命令し、6月7日にナイフや斧を持った若者たちが訪れ、6月14日に工場再開したが、17日に再び閉鎖、19日には鍵がかけられたこと、を確認し、地方議員たちは「間違いない」と事実を認めながらも、反論した。

地方議員の1人は「私たちは、ずっと、あなたとの面会を希望してきた。しかし、あなたは、これまで一度も姿を見せなかった。ナイフを持った若者たちが工場を閉鎖したことに関しては、もう何度も謝ってきたが、もう一度謝らせてもらう。私たちは、彼らがナイフを持って行くなんて知らなかった。後から知らされて驚いた」

私は、「6月14日、地方議員のお二人は工場で私の従業員に謝罪し、『もう、皆さんの活動の邪魔は誰にもさせない』と約束しましたね?」と尋ねた。

議員は頷いた。

私は続けた。

「それでは、なぜ、そこに座っている若者が鍵をかけ、私たちがあなたに電話をした時、鍵を開けるよう、彼に命じることができなかったのですか?」

議員は、「警察に連絡しろと、伝えたはずだ」と言う。

別の議員も「私自身も警察へ届け出た。後は、ライフラインが警察に届け出て、警察が彼を捕まえるよう説得するものだと思っていた」と言った。

私は、議員らが鍵をかけた若者を、本気で警察に捕まえてほしいと考えるなら、なぜ、今、ここで一緒に仲良く座っているのか、全く理解できなかった。「だったら、警察へ今、突き出したらどうですか?」と言うのをこらえた。

私は、「もし、警察に頼ることができるなら、私たちは、始めから、警察に連絡をしています。 しかし、ここでは、警察がうまく機能せず、皆さんこそが、地元住民を統率する力を持っていると信じたからこそ、皆さんにお願いしたのです」

議員は「もう、過去のことを掘り下げても仕方ない。これからの事を話し合おうじゃないか」と開き直った。

私は、はぐらかされまいと、粘った。「この点は、私たちにとって、とても重要な点です。なぜなら、今、この場で、皆さんと和解したとしても、皆さんに、住民全体の統率力がなければ、第3、第4のグループが現れる恐れがあるからです。最初に、『もう邪魔は誰にもさせない』と約束したのに、そこに座っている鍵をかけた張本人を、鍵を開けるよう説得できなかったのか。説明していただけませんか?」

50代くらいと思われる議員は、腕を組み、私と目を合わせようとせず、「もう、鍵のことはいいだろう?今は、もう鍵は閉まっていないのだから!」と声を少し荒げて返答した。

この時点で、私は確信した。彼らとどんな交渉をしようとも、従業員の安全が確保されることはないと。そもそも、何の力もない、役職のない若者6人が連れてこられたのは、議員2人が、彼らの雇用機会をライフラインから提供してもらい、彼らに支払われる給料の1—2割を議員が「斡旋料」として徴収することで、出席者全員が利益を得ようとしているとしか思えなかった。彼らは、ライフラインの活動も、ライフラインの従業員の安全も、本気で考えようとはしていない。

 もう1人の30代くらいの若い方の議員は「そもそも、私たちは、初めから、あなたとの面会を求めていた。しかし、あなたは、これまで一度も顔を出すことをしなかった。今回の問題の原因はあなたにあるのではないですか?」と私を非難し、会議での優位な立場を取り戻そうとした。

私は、「6月5日、私は、工場に行き、地元住民の代表と名乗る2人と面会をしました。その時、あなたたちはそこにいなかった。そして、その2日後、武装した若者たちが工場を訪れ、『工場長はどこだ?』と叫んだのです。どうか、皆さん、想像してみてください。皆さんが、中国にいて、工場を経営しています。そこにアフリカ出身の人はあなたしかいません。周りはみんな中国人です。ある日、あなたの工場に15人の中国人がナイフを持って、あなたを探していました。あなたは、この人たちと面会をする勇気がありますか?」

年寄りの方の議員は「ない!」ときっぱりと認め、若い方の議員は、言葉を失った。

その後、住民たちの要望を聞いた。その間も9人の足並みは揃わず、統一した要望を出すのに時間がかかった。鍵をかけた若者は、「今すぐ、私たちを雇用してくれ」と要望し、議員たちは「最低、従業員全体の半分を地元出身の人に割り当ててくれ」と要求した。結局、後者に落ち着き、私は「本部と話し合い、一週間後に返答させていただきます」と伝えた。

怒鳴り合うことなく、何とか、会議は円満に終わりかけていた。最後に私は、皮肉を込めて尋ねた。「私は、就職したい組織に願書を出すことは聞いたことありますが、その組織の建物に鍵をかけるという行為をあまり聞いた事はないのですが、それは、こちらの習慣なのですか?」と。鍵をかけた張本人は苦笑いをし、他の若者たちは「ここの習慣ではありません」と気まずそうに答えた。彼らの表情から、それが恥じるべき行為だという認識はあるということが垣間見え、少し安心した。

最後に、再び、全員と握手をし、記念撮影をした。

最初に工場を閉鎖してから1ヶ月になろうとしていた。そろそろ、工場長としての長期的な決断を出さなければいけない時期に来ていた。

武装した若者、工場訪れる(その7)


工場が再び閉鎖されてから3日後の6月20日、私は、工場Aの従業員全員を集めた。一連の事件が起きてから、従業員との初めての対面になった。

まず、「今回の件、何の罪もない皆さんを危険な目にあわせたことについて、とても申し訳なく思っています。私の工場長としての力量不足としか言いようがありません。これから、もう二度と、あんな事が起こらないよう、最前を尽くさせていただきます。特に、両手を掴まれて引きずり回されたマガラ(仮名、女性)には、本当に怖い思いをさせてしまいました」と、謝った。

マガラは、「けがもなかったし、大丈夫です」と淡々と答えた。

従業員たちも、今回の一連の事件の原因については、私の分析とほとんど同じで、「昨年まではライフラインの存在自体、誰も知らなかったけど、最近になって、知名度が上がったことで、地元住民が自分たちの利権を得ようとするようになった」と口を揃えた。「最近は、全く知らない人から、『ライフラインはどうだ?』と聞かれることがあるくらい、団体の活動が知れ渡るようになった」と従業員たちは誇らしげに答えた。

これからの事については、「地元選出の国会議員とか、有力者と話し合って、活動が継続できるようにしてほしい」との事だった。その後、全員を連れて昼ご飯を一緒に食べ、笑顔でしばしの別れを告げた。従業員たちは、そこまで気落ちしている様子はなさそうで、少し安心したが、今後、工場が再開されなければ、彼らの仕事がなくなる可能性を考えると、とても後ろめたい気持ちになった。

その後、アヤレと2人きりになった時、アヤレの電話が鳴った。「先日、工場を訪れてきた別の地元の若者が、工場に『鍵をかけた』と言っています」。

鍵??つまり、「鍵を開けてほしかったら、俺に仕事をくれ」ということか。とことん、舐められたものだ。もう、ここまでされて下手にでることはない。私はアヤレに伝えた。「この世界には、七輪が必要な人はたくさんいる。私たちは地元住民のため、森林保全をするためにこの活動を始めた。彼らがその工場に鍵をかけるということは、私たちの活動が必要ないということだ。だから、もし、このまま鍵がかかったままだというなら、私は、工場Aを閉鎖する。もし、彼らが私たちと話し合いをしたいというのなら、まず、工場の鍵を開けることが条件だ。アヤレ。君はこれ以上、交渉の窓口にはなるな。彼らには、『鍵を開けない限り、交渉はしない』と言い、工場に入れるようになった時点で私に電話をくれ」と伝えた。

そもそも、最初に謝って来た地元住民の代表とやらも、このグループの暴走を止めることができなかったのだから、「代表」とはいえないのではないか。つまり、結局のところ、アヤレから金を引き出すことしか頭になかったということか。援助依存症も、ここまで来たら、こっけいですらある。

その後、私の予想通り、こちらの持久戦に対し、地元住民側は焦りを見せ始めた。何度か私のところに電話があり、「1人か2人を雇用してくれるだけでいいんだ。そうしたら、工場を開くから」「郷に入ったら郷に従え、という諺を知らないのか?」「とにかく話し合いをして、それから、一緒に工場を開けよう」などなど、とにかく、地元住民に便宜をはかる約束を取り付けようとした。しかし、私は一切取り合わず、「とにかく、鍵を空けてくれ。話し合いはそれからだ。鍵が閉まったままなら、私たちは、どこか別の場所で活動をするから」と伝えた。

電話で、「それでは1人雇用します」と約束でもしたら、一体、何本の電話が私にかかってくることになるのか。さらに、『郷に入れば郷に従う』という諺を彼らは使ったが、気に入らないことがあったら、その人の家に鍵をかけるような『郷』なら、私は入ろうとは思わない。

アヤレの支払いのおかげで、地元住民を勢いづかせてしまった。今度は、こちら側が威勢を張る番だ。私たちが活動を取りやめれば、一番困るのは彼らで、それは本人たちが一番良く知っている。このまま工場に鍵がかかったまま時間が経てば、彼らは必ず折れる。私は、確信していた。

7月3日、アヤレから「今朝、彼らは、工場を開けると言っています」と報告があった。私は、「開いたことを確認してから、私のところへ来てくれ」とお願いした。そして、再びアヤレから電話があり、「これから工場を出て、そちらへ向かうところですが、地元住民も連れて行ってよろしいでしょうか?」と尋ねてきた。私は「だめだめ。その人たちが、本当に地元の代表なのか、吟味してからじゃないと」と伝えた。

そして、午後3時、アヤレは私の事務所にやってきた。私は第一声に、「鍵は開いたのだね?」と改めて尋ねた。そしたら、アヤレの表情が少し曇り、「今朝、地元住民3人と一緒に工場に行きました。鍵をかけた長老が、たくさんの鍵を持ってきていました。それで、扉の前で、その鍵の束から、一つ一つ鍵を取り出し、開錠を試みました。しかし、長老が持っている鍵は、どれも合いませんでした。どうやら、かけた鍵を家に忘れたとの事で、彼らは、『私たちはこの鍵を開けようとしたのだから、もう、開いたも同然だ。君が斧を持ってきて鍵を壊してくれても構わない』と言いました。だから、もう、工場を再開しても大丈夫です」と私に報告した。

私は、一気にうなだれた。もう、ほとんど笑い話の域に入っている。またもや、アヤレに裏切られた。椅子から立ち上がり、首を振りながら、私はアヤレを見下ろした。アヤレは、地元住民から完全に舐められているということを理解していない。

私: 私は、何度も、「鍵が開かない限り、話し合いはしない」と君に伝えた。

ア: 彼らは開けようとしたのだから、もう、開いたも同然じゃないですか。

私: 私は今、工場に入ることができるのか、できないのか?

ア: 、、、、。

私: 施錠されたままなら、なぜ、そうだと報告してくれなかった?

ア: 私の中では、もう、これで大丈夫だと思ったからです。

私: 大体、自分たちで斧で鍵を壊すくらいなら、始めからそうすれば良かったじゃないか。アヤレは、自分の家に鍵をかけてくる人と話し合いをしたいと思うのか?せめて、鍵を外してもらってから話し合いをしようとは思わないのか?

ア: 、、、、。

私: 鍵を彼らが忘れたのなら、出直して、開けてもらえば良かったじゃないか。なぜ、そんなに急ぐのだ?しかも、君は、鍵を開けていないのに、彼らをここに今日、連れてこようとした。それも、私には全く理解できない。

ア: 彼らは、地元住民代表たちと話し合い、鍵を開けることで合意したのです。

私: それは誰から聞いた?

ア: その長老からです。

私: その他の代表たちに直接、確認はしたのか?

ア: いえ。

私: 君が工場を再開したい気持ちはわかる。工場が閉まれば、君の仕事がなくなるわけだからね。だから、私は、君にもう交渉はするなと言った。君の役目は、工場が開いたかどうか確認することだけだった。しかし、君は、それさえできなかった。

ア: 私は、もう、すべてこれでうまくいくと、確信しているのです!

私: 私は、最初、あなたが言っていることを信じた。一番最初、君が大丈夫と言ったから、工場の活動を継続したけど、次の日、ナイフを持った人間が工場にやってきた。そして、彼らが謝罪してきた時。君はもう大丈夫だと言ったが、また、別のグループが尋ねてきた。君が「もう大丈夫」と言うことが、私にはどうしても信頼することができないのだよ。

ア: わかりました!私のことが信頼できないのなら、もう、私は、これですべて終わりにします。私は、工場のために自分の財布から2万シリング払ったのに、まだお返ししてもらっていません!もう、十分です!

 アヤレは、そのまま、テーブルの上に開いていたノートを閉じ、立ち去って行ってしまった。残念なことに、彼を追う気にはどうしてもなれなかった。本来なら、彼が勝手に2万シリング払った時点で、解雇するつもりだったが、私は「彼は悪気があってやったわけではない」と自分に言い聞かせ、注意文書のみで、起死回生のチャンスを与えた。しかし、今回の件で、私は、アヤレと一緒に仕事をしていく自信がなくなった。

もともと、交渉結果と利害関係があるアヤレを、交渉の窓口にさせたのが過ちだった。彼は、自分の仕事を守るために、なんとしても工場を再開しなければいけない立場にあった。そのある意味「弱い」立場を、地元住民たちに利用されていたのだ。「アヤレは、工場を再開させたいから、どんな要求でも飲むだろう」と。

だから、本来なら、アヤレではなく、全く、第三者か、工場Bで働くモウリドらを先頭に立たせるべきだったかもしれない。アヤレとは、国連勤務時代からの知り合いだが、モウリドと違い、一緒に密接に仕事をすることはなかった。ただ、工場長になってから、何度か、通訳をお願いしたことがあり、その時の振る舞いが頼もしかったから、一本釣りで雇ってみた。しかし、それが、完璧に裏目に出た。

とにかく、アヤレはライフラインを去った。これからは、新しい体制で交渉に臨むことになるが、まずは、工場の鍵を開けてもらってからだ。先は長いなあ。

武装した若者、工場訪れる (その6)

地元住民側からの金銭の要求に対しては、本部も即断を下すことはできなかった。「8月に本部の者がダダーブを訪れる時まで待てないのか?」と尋ねてきた。

それをアヤレに話したら、「そんな時間はありません。これでも、かなり金額は抑えられているのですから」と、私をせかした。アヤレが何故、そこまで焦っているのか理解ができず、何かしっくりこなかった。

そしたら、3日後、アヤレから電話があった。「今度は別の地元住民グループが工場を訪れてきました。同じ様に、仕事をくれと要求しているようです。後、金銭を支払うなら、その分け前を欲しいとも言っています。もう、私は、何が何だが、わからなくなりました」と疲れきった声で話した。

謝罪してきた地元住民の代表は、「もう、活動の邪魔はしない」と約束したはずなのに、なぜ?彼らがメンバーを統率できていないのか、それとも、金銭の要求に私たちが応じないことへの嫌がらせなのか。とにかく、従業員の安全を第一に考え、「明日から工場は閉鎖してくれ。君と私の2人でゆっくり話をさせてくれないか」とアヤレにお願いをした。モウリドは長期休暇に入っており、不在だった。

工場が再開できたと思ったら、再び閉鎖することになり、私の精神的疲労はピークに達していた。これでは、体がもたないため、それまでの「1日でも早い再開を」というスタンスを変え、気持ちを落ち着けることを優先させた。1ヶ月、2ヶ月、工場が稼働しないからといって、損をするのは、私でなく、地元住民自身なのだ。

私は、アヤレに改めて、事の経過を詳しく尋ね、これからの作戦を練ることにした。

私: 謝罪してきた地元住民を交渉相手に選んだ経緯について聞かせてくれ。

ア: 私の知っている地元の青年組織の友人らに誰に話を通せばいいのか聞き、紹介してもらった長老たちです。ファフィ地区は四つの町があり、各町選出の地方議員が1人ずついるのですが、謝罪したのは、工場がある町と隣の町の2人の議員、そして青年組織の幹部たちです。

私: 謝罪の後、彼らとは接触はあったのか?

ア: 2回、会いました。謝罪した日の午後と、その3日後です。『私たちの要求について、どういう回答なのか?』と聞かれました。私は、『工場長に話はいっているから、待ってくれ』とお願いしました。

私: 彼らと接触する際は、私に必ず連絡をしてくれ。それで、昨日、訪れたグループというのは?

ア: 会ったことのない、若い男性2人が、『ライフラインの工場が、私たちの地方議員の力で再開されたと聞いたけど、あの地方議員を選出したのは俺たちだ。だから、俺たちには、ライフラインから仕事をもらう権利がある。私たちを雇用しれくれたら、誰もライフラインに嫌がらせはしないよ』と私に言ってきました。

私: それで、彼らについて、その謝罪した地方議員には連絡したの?

ア: いえ。

私: その地方議員は、工場の邪魔は誰もしない、と約束したのだろう?だったら、何かあったら、その地方議員に頼むのが筋なのじゃないかな?

ア: わかりました。

アヤレはすぐに電話をした。

私: 何だって?

ア: 『心配するな。彼らはどの組織にも属さない、関係のない人間だ』と言っています。

私: そんなこと言われても、また、従業員に何かあったら、困る。その地方議員が、本当にこの土地の有力者なら、私が直接話しをさせてもらえないだろうか?

ア: わかりました。(電話をする)明日の朝に国連事務所で会えるとのことです。

私: 問題は、彼らの現金の要求に対して、何の結論も出ないまま、会っていいのだろうか、ということなのだけど。

ア: 議員は、間違いなく、お金の支払いを期待して来るでしょう。

 私は、一連のアヤレの言動について腑に落ちないものがあった。なぜ、こちら側が現金を支払うか支払わないか名言もしていないのに、そこまで確信を持ったことが言えるのだろうか?さらに、なぜ、その地方議員は、金銭の要求をし、それを受け取る前に、謝罪をし、工場再開に同意したのか?私は、アヤレに、聞きたかった質問を、ストレートにぶつけてみた。


私: なぜ、そんな確信がもてるの?まさか、支払いの約束なんてしてないよね?

私の質問に、アヤレは目をそらした。それは、私の質問が核心を付いていることを意味するものだ。

私は、アヤレの返答に、自分の聴覚を集中させた。アヤレがうつむきながら発したその答えは、私の想定の範囲を大きく超えるものだった

「実は、もう、2万シリング支払っているのです」

私は、自分の耳を疑った。これまで一生懸命、完成しようと努力してきたジグソーバズルが、一瞬にして破壊されたような気分だった。

本部でさえ即断することができない、とても敏感な対外交渉について、先月工場に入ってきたばかりのアヤレが個人の判断で、相手側からの金銭要求に応じていたとは、夢にも思わなかった。

私: なぜ、そんなことをした?

私は、半分理性を失い、声のトーンが格段に上がっていた。

ア: 。。。。工場を再開するために、自分が出した決断でした。

私: 誰のお金なんだ?組織のお金を自分の判断で使っていいのか?そのお金はどこから手に入れたのだ?

ア: 友達から借りました。

私: なぜ、そこまで急ぐ必要があった?

ア: 支払わなければ、工場が再開されないのですよ?工場長はそれでもいいのですか?

私: 組織としての判断が出るまで、工場を閉鎖することに、何の問題があるのだ? (私は、興奮してテーブルを手で叩いた)

ア: 。。。。

私: 君がした対外交渉が、今後、私たちの組織にどんな影響を与えうるかわかっているのか?別のグループが、従業員たちや別の団体を脅すことだって、ありえる。

ア: あくまで、私は、自分の個人のお金で支払ったつもりです。

私: そんな言い訳は通用しない。君はライフラインの代表として彼らと交渉をしていた。君が支払ったお金について、相手側は、君個人のものと受け止めるのか、組織のものと受け止めるのか?

ア: 、、、、、。組織のものと受け止めるでしょう。

私: もう、明日のミーティングはキャンセルだ。向こうが、お金を要求してくるのは明白で、私たちにはその用意はないからだ。アヤレ、教えてくれ。なぜ、そんなに急ぐ必要があったのか?

ア: もう、この話はやめましょう。これは私個人のお金で支払ったということにして、忘れましょう。私は、モウリドが工場長に報告しているものだと思っていました。

私: モウリドは関係ない。これは、君が交渉役を努めると言って、やったことだ。工場Aは君の担当でもある。

声のトーンが次第に大きくなり、周りのテーブルに座っている人たちの視線を感じたため、私は、私の宿舎に場所を移した。

 私は、アヤレが憎くて仕方なかった。出口のない迷路に投げ出された気分だ。一体、アヤレと地元住民の間で、どんなやりとりがあったのか。詳細について、アヤレに話してもらう必要があった。



私:支払いは、いつ、誰に、どこで行ったのか?

ア:まず、6月11日、最初に、この地域を統括する地方議員Sを紹介されました。そしたら、「10万シリングくれたら、地元の若者たちが工場に手を出さないよう、指示するよ」と言われました。私は「10万シリングなんてありません。どうにかなりませんか?」と何度もお願いし、5万シリングまで要求額は下がりました。それで、私は、一日も早く工場を再開できるように、友人からお金を借り、1万シリングを彼に支払いました。そして、工場で謝罪した日、Sから「もう1万シリング必要になった」と言われ、再び、友人からお金を借り、支払いました。私は、「これは、私個人として支払うものです」と念を押しました。

私:Sから脅されたりはしなかったのか?お金を支払わなければ、身の危険を感じたりはなかった?

ア:それはありませんでした。話し合いはいたって冷静に進みました。

私:じゃあ、なぜ、支払う前に一言相談することができなかったんだ?そこが理解できない。なぜ、そんなに焦る必要があったのか?

アヤレは、答えることができなかった。彼は6月1日からライフラインに見習いとして入り、工場Aの統括主任として適切なようなら、7月1日から正式に雇用するという契約だった。だから、考えられる原因は、アヤレが、見習い期間に成果を出そうと、工場再開を急いでいたということか。

私: モウリドは、支払いに立ち会ったのか?

ア: いえ、支払う時は、私1人でした。

私: じゃあ、モウリドは、あなたが支払うことを事前には知らなかったのだな?

ア: はい。でも、支払った後に、モウリドに報告はしています。

つまり、モウリドは事前相談をすることはできなかったが、事後報告を私にすることができたとうことだ。私は、休暇中のモウリドに電話をした。

私: アヤレがお金を支払ったことは、君は知っていたのか?

ア: はい。でも、それは、あくまで、彼個人のお金だという認識でした。

私: わかった。また、連絡する。

休暇中のモウリドに電話で小言は言いたくなかった。事後報告をしなかったモウリドの失態は、現金支払いを事前に相談しなかったアヤレの失態とは、比べ物にならないくらい小さい。

間違いないことは、今回、工場に来た別のグループは、アヤレが現金支払い要求に応じた事を聞きつけ、「ライフラインに要求すれば達成される」と勘違いしたに違いない。

これにより、交渉の継続どころか、交渉窓口の一本化さえ困難になった。一番最初、地元住民との接触後、アヤレが「彼らは私の知り合いです。ここは私に任せてください」と力強く言った言葉を、私は簡単に信じすぎていた。私は早速本部に連絡し、「アヤレは見習い期間が終わり次第、契約を打ち切る方向にします」と伝えた。本部は、「とにかく、時間を置いて様子を見よう。工場閉鎖期間が長引くことは、特に問題じゃないから」と言ってくれ、少し気が楽になったが、出口が見えない迷路に入り込んだことだけは確かだった。
プロフィール

seventh star 7

Author:seventh star 7
黒岩揺光  
1981年、新潟生まれ。7人兄弟の末っ子。15歳で米国留学して以来、住んだ国は計8カ国に。海外生活計17年。日本では毎日新聞記者、アフリカでは難民キャンプの工場長、アゼルバイジャンで主夫、ジュネーブで国連職員などを歴任。現在は中東ヨルダンで妊娠した妻に寄り添う専業主夫。
 著書に「僕は七輪でみんなをハッピーにしたい」(ユーキャン)「国境に宿る魂」(世織書房)。
メール連絡先 yokuroi×hotmail.com (「×」を「@」にしてください) ツイッター:@YokoKuroiwa

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