紐はビジネスクラスに乗れるか?

「紐」になると決めた私に、早速、大きな試練が降りかかってきた。国連職員が公務で飛行時間が9時間以上かかる所に行く場合、ビジネスクラスに乗ることができる。無論、配偶者も同等の権利がある。(人を助ける国連職員が贅沢するな!という意見もあると思うが、これについては、私も色々考えるところがあり、後日、共有させていただきたい)

しかーし!航空券を手配する担当者の勘違いで、妻の分しか予約がされておらず、それに気付いた時は、時すでに遅く「ビジネスは満杯で、エコノミーしか取れなかった」と言う。一緒の飛行機で行かなければ、ビザ申請ができない。渋々、エコノミーの予約をしてもらい、ビジネスはキャンセル待ちにした。

ナイロビの友人たちに、「私だけエコノミーになりそうだよ」と言うと、予想通り、「紐」バッシングが始まった。

「そもそも、スージン(妻)のおかげで、ビジネスに乗る権利があるのだから、いいでしょ」

「働くのは妻の方なのだから、仕方ない」

そうだろう、そうだろう。どれも、ごもっともな意見だ。しかし、紐側の意見も聞いてもらいたい。

見知らぬ土地へついていく者は、ついていかれる者よりも、多くの犠牲を強いられる場合が多い。当然だが、キャリアは犠牲になる。そして、行き先が、ニューヨークやロンドンなど、日本人が多くいる所ならまだしも、アゼルバイジャンは、日本語はおろか、英語もあまり通じない。日本人はたったの30人。妻は昼間働き、職場を通して人間関係ができるが、私は、昼間一人ぼっちで家に引きこもり、出歩いても「仕事は何をしているの?」と紐バッシングを受けるのが落ちである。日本でさえ希薄な「専業主夫」という概念を、イスラム教徒が9割の国で受け入れてもらうのは難しい。

妻は、「ビジネスが一席しか取れない場合、どうする?」と私に尋ねた。私は、「公平に、ボーリングで勝負し、勝った方が、ビジネスに座るというのはどうか?私のアベレージが120で、スージンが70くらいだから、ハンデとして50ピンあげるから。」と提案したが、「取れないことがわかってから、話し合いましょう」と却下された。

最後の望みは、ビジネスを予約した人が、土壇場でキャンセルすることだった。午前4時40分の便だったため、約3時間前に空港に着き、「ビジネスに一つでも空席ができたら、アップグレードしてくれ」と係員にお願いした。「午前3時40分になって、来ない人がいたら、発券します」という。私たちはカウンターの前に座り、待ち続けた。午前3時10分、「席が一つ残っている」と言う。出発まで一時間半。「これなら行けるかもしれない」と期待が膨らんだ。

一人、一人とチェックインカウンターに急ぎ足で入ってくる。彼らの足が、ビジネスクラスカウンターではなく、エコノミーカウンターに向かうたび、心が躍る。午前3時30分。「もう、発券してもいいでしょ」と詰め寄るが、「まだまだ」と係員。もう、妻の隣でビジネスクラスの大きな席に横たわる自分を想像する。午前3時40分、お金を持ってカウンターに行こうと立ち上がると、係員が両手を上げて、「×」を描いている。何の意味か?と駆け寄ると、「残念です。最後の一人がチェックインしました」。

私は、あまりの脱力感で言葉を失い、「オーケー」の受け答えさえできなかった。天国から地獄へ一瞬で落とされた私を見て、妻が「ビジネス座っていいよ」と言う。今さら、何を言うか?ボーリング勝負を断ったくせに。

「ビジネスクラスの方、小さなお子さまをお連れの方は搭乗してください」のアナウンスが、これほど残酷に聞こえたことはなかった。妻は「じゃあ、私行くね」と立ち上がった。私は、エコノミーの最前列の席のため、搭乗は最後になった。チケットカウンターを通過し、機体への通路には、50人以上の列ができており、10分、15分と立ち往生した。やっと機体へ入ると、妻が最前列の大きな席で、目をつぶって、くつろいでいる。小学生の時、平泳ぎ100メートルで、ゴールした後、水面上に顔を出したら、すでに全員、プールの外でくつろいでいた時に受けた以上の、屈辱感があった。この時、気付いた。私が、ビジネスクラス取得に執着したのは、贅沢をしたかった以上に、この屈辱感を味わいたくなかったという、男のプライドがあったからだということに。
妻の横を通りかかると、「席変えようか?」と妻が小声で話しかけてきた。たくさんの観客の前で、妻からビジネス席を奪い取るなんて事が、できると思うのか?

エコノミーに座ると、慣れているはずなのに、なぜか狭く感じる。飛行中、トイレに行くと、二つあるうちの一つが壊れており、長く待たされる。16席しかないビジネスなら、こんな事はなかった、とか考えてしまう。

紐は辛いよ。
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紐のプライド

昨年末にダダーブでの仕事を終え、ナイロビの国連事務所で働く妻も今年2月で契約が終わり、二人で次の行き先を探さなくてはならなかった。出会って7年。結婚して4年。これまでお互いのキャリアを優先し、年平均したら100日前後しか顔を合わせない遠距離夫婦だった。

妻30歳、私32歳。そろそろ、夫婦生活を優先した上で、お互いのキャリア構築を考えていこうということになった。どれだけキャリアが充実しようが、10年、20年、30年先、喜びや悲しみを常に分かち合える存在が横にいなければ寂しい。

しかし、難民支援現場は世界に散らばり、多くは治安が悪いため、家族同伴が不可能な場所だ。常に、二人とも同じ場所で働くのは難しい。だからこそ、難民支援業界の離婚/独身率は高い。知り合いのカナダ人女性は、夫と子ども二人を抱えながら、難民支援現場を渡り歩き、現在はジュネーブ(スイス)の国連本部で出世街道を突っ走っている。彼女に「キャリアを構築しながら、家族生活を維持する秘訣は何か?」と尋ねたら、「家族同伴が可能な場所しか応募しないこと。そして、片方がキャリアを妥協し、もう片方について行く事」という答えが。彼女の場合、夫が自分のキャリアと妥協し、彼女の行く先々で英語を教えるなどしながら、娘二人を育てているという。

確かに、家族を優先するなら、この手しかない。妻と二人で話し合い「次に応募する先は、すべて家族同伴可能な場所にし、待遇がより良い方に、相方がついていく」という約束をし、妻との「対決」が始まった。

まず、私が先手をかけた。東京の国連事務所から広報担当の空席が出た。新聞記者とダダーブの経験が活かせそうだ。書類選考、筆記試験と通過し、最終面接へ。たまたまその日は、日本に帰国しており、事務所に午前10時半に来るように指示された。ケニアとの時差は6時間で、午前5時(ケニアは午後11時)ごろ目が覚めてしまい「よーし。やるぞー」と意気込んだ。新聞を読んでいるうち、うとうとし始め、「数分だけ横になるか」とソファーに体を倒した。次の瞬間、妻の「よーこー!!」という叫び声で、意識が戻った。時計を見ると「午前10時35分!!!」。あまり、パニックすることがない私だが、この時ばかりは、さすがに気が動転し、しばし呆然と立ち尽くした。どうしよう、どうしよう、、。とりあえず、ケニアから持ってきたスーツを着て、タクシーに飛び乗った。事務所に電話をかけても繋がらない。(私の字が汚すぎて「7」が「1」に見えたから繋がらなかったことが後で判明)。

午前11時10分に到着し、一応、面接はしていただいたが、落選。先手必勝とはいかなかった。ちなみに、この空席の座を掴んだのは、全国テレビの元アナウンサーで、私が遅刻していなくても、合格は難しかっただろうということが判明。

その後、妻は、インド、マレーシア、マラウイ、トルコなど、いくつかの国連事務所に応募し、結果を待っている時、私に、「タイで難民支援の仕事をしないか」と日本のNGOから話が来た。タイは私と妻が出会った思い出の場所で、「いつか一緒にタイで働きたい」と言っていた。治安よし、食べ物よし、気候よし。難民はビルマ(ミャンマー)からで、ケニアに行くまで、私がずっと追い続けてきた人たちだ。タイなら、多くの援助機関があるし、妻も仕事を見つけられるかもしれない。「一緒にタイに行こう」と妻と盛り上がった。

しかし、、、。その数日後、勤務中の妻からメールが届いた。「バクの国連事務所からオファーが来た」。バク???どこだ?グーグルで調べると「ア、ゼ、ル、バ、イ、ジャ、ン」の首都ということがわかった。

名前は聞いた事があるが、おそらく、口で発したことがあるかないかわからないほど、未知の世界だ。旧ソ連で、世界最大の湖といわれるカスピ海に面し、イランやロシアなどと国境を接する。

タイとアゼルバイジャンの待遇を比べてみたら、高校野球で言うと、5回コールド負けレベルの差でタイが負けた。国連職員の待遇と、日本のNGOでは、勝負にならない。

これから、家庭を築いていくことを考えれば、給与だけでなく、教育手当などが手厚い国連の方にどうしても傾いてしまう。

「この度、妻がアゼルバイジャンに駐在することになりまして、付いて行くことになりました」と自分を紹介する日本人男性は、私が最初で最後かもしれない。「『ひも』ですか?」と心の中で馬鹿にされるかもしれない。

それでも、仕方ない。英語、韓国語、日本語、スペイン語を使いこなす妻のキャリア発展を、私は、これまで何度も邪魔してきた。英国の大学院進学しようとしていたが、私と出会い、日本の大学院に進学し、日本語を一から学び始め、2年後には東京の難民支援団体で日本語で仕事ができるまでになっていた。そして、私がケニアに来た後、倍率100倍以上の超狭き門である、韓国政府が実施する国連試験に合格。行きたかったビルマからのオファーを蹴り、私がいるケニアの国連事務所に来てくれた。

私に付いてきながらも、妻は自分のキャリアを伸ばした。今度は私の番である。昨年末の内閣府の調査で、日本人の半分が「男は外で仕事をし、女は家庭を守るべきだ」という考え方に賛成しているという。そんな社会からしたら、私はかなり「異質」かもしれない。毎日新聞記者から、難民キャンプの工場長になり、「アゼルバイジャンの紐」になった。そんな人間に、どんな「プライド」が残されているというのか?こうご期待。

私の提言記事が新潟日報(2月1日朝刊)に掲載されました

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北アフリカ・アルジェリアで起きた武装勢力による外国人人質事件は、拉致や爆弾事件が繰り返される東アフリカの難民キャンプで先月まで3年近く働いていた私に衝撃を与えた。欧米諸国はテロリスト掃討に力を入れると言うが、軍事的解決に頼るだけではなく、人道援助や投資を通して、どう現地住民と関わっていくべきか問い直すべき時に来ている。

 東アフリカ、ケニアのダダーブでは、内戦が20年以上続く隣国ソマリアからの難民ら約46万人が暮らしている。教育や雇用の機会が限られ、アルカイダと同盟関係にあり、ソマリア南部を実効支配するイスラム武装組織「シャバブ」の予備軍がいると、国際社会から長年懸念されてきた。

 2010年、私がダダーブの国連事務所で働き始めた頃は、拉致や爆弾事件は皆無だった。しかし、11年10月にケニア軍がソマリアでシャバブ掃討作戦を開始したことによって、その後、ダダーブのケニア警察などを狙った爆弾事件が多発し、20人以上が犠牲になった。また、シャバブを敵視する欧米諸国に本部を置く援助機関スタッフの拉致事件も3件起き、私の友人ら計7人が連れ去られ、内3人はいまだ行方不明だ。

 つまり、長年「予備軍」はいたが、彼らが犯行に及ぶ「動機」ができるまでは、ダダーブの治安は比較的安定していたのだ。それでは、なぜ、20年間、食料、医療、教育を無料で提供し続けた援助機関スタッフを、受益者である難民が狙うのだろう? 無論、お金で勧誘されたのだろうが、自分を世話してくれた親をお金と引き換えに殺そうと思う人は少ない。

 援助機関と難民が共に暮らす中で、十分な信頼関係を築けなかったことが「予備軍」に動機を与えてしまった一因ではないか。キャンプには、難民自身で作った大きな市場があり、インターネットカフェやホテル、レストランなどが立ち並ぶ。難民にそれだけの能力があるにも関わらず、援助機関代表が隔週に集まってキャンプの運営方針を決める会議に難民の姿はない。

 また、キャンプ内には英語や現地のスワヒリ語など多言語を使いこなす難民が多くいる一方、文字の読み書きができない難民も多く、教育格差は激しい。失業率も前者は4割で、後者は8割。にも関わらず、援助機関が提供する職業訓練や研修などは、告知や実施が英語で行われることが多く、高等学校を卒業したエリート難民が機会を独占してしまっている現状がある。

 今回の事件現場は海外の投資先である天然ガス施設。私たち外国人の存在が、現地の一部の人間にしか富をもたらさない場合、予備軍に新たな「動機」を与えることになりかねない。折しも、今年は5年に1度のTICAD(アフリカ開発会議)が日本で開かれる。植民地時代の影がいまだに残るアフリカで、中立に見られる日本だからこそ、住民主体の開発について再考する機会を作ってほしい。(元NGO職員)
プロフィール

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Author:seventh star 7
黒岩揺光  
1981年、新潟生まれ。7人兄弟の末っ子。15歳で米国留学して以来、住んだ国は計8カ国に。海外生活計17年。日本では毎日新聞記者、アフリカでは難民キャンプの工場長、アゼルバイジャンで主夫、ジュネーブで国連職員などを歴任。現在は中東ヨルダンで妊娠した妻に寄り添う専業主夫。
 著書に「僕は七輪でみんなをハッピーにしたい」(ユーキャン)「国境に宿る魂」(世織書房)。
メール連絡先 yokuroi×hotmail.com (「×」を「@」にしてください) ツイッター:@YokoKuroiwa

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