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母と祖母の確執

母が祖母へ書いた手紙は4000字に及ぶ。幼少の頃から「家庭的な女性」に母を育てようとした祖母に反発していた母は、祖母が亡くなった時に「悲しい」という感情さえ見いだせなかった胸の内を明かしている。

祖母は、幼いころに両親が離婚し、母子家庭の家で育てられた。小学校時代の通知表はすべて「甲」(3段階の一番上)だったが、女学校の月謝が払えず、2年で中退した。そのせいか、祖母の学歴への執着はものすごく、孫を紹介する際、一定レベル以上の大学に通う孫のみ、大学名を紹介するような人だった。

裕福な家庭で育った祖父が、祖母と結婚した理由が、自分が解けない数学の問題を祖母が解いたからだった。母を身ごもった際、祖父は「男じゃなかったら絞め殺せ」と言ったという。

母が3歳の時、祖父は戦場から手紙で祖母に離婚を申し出た。祖母は祖父の兄に泣きつき、離婚撤回をお願いしたという。

幼少時代から活発だった母は、祖母の理想としていた「女性象」からほど遠く、「あなたなんか、私の子どもじゃない」と時には暴力でしつけされたという。祖母は「女らしくなりなさい」と母に言い続け、積極的、行動的、追求的な母は、自分の良い所をすべて否定されていると感じた。女子が過半数を占める高校への進学を薦められたが、祖母のような専業主婦にだけはなりたくないと決めていた母は、男子が7割の進学校へ入った。

離れて暮らしてからも、祖母は母に「仕事を辞めて子育てに専念」を要求した。「卓夫さん(父)がかわいそうでしょ」「7人の子どもたちがかわいそうでしょ」が祖母の言い分だった。

祖母が80歳になった時、新潟の私の実家近くのケアハウス(高齢者が共同生活する施設)に東京から移り住み、60年振りに、二人は近くで暮らすことになった。亡くなるまでの9年間、母は毎日の様に祖母を訪れ、祖母を受け入れようと努力した。

祖母の痴呆が始まり、外を徘徊し始め、施設のスタッフに「銀行にお金を預けにいく。秩子(母)はあてにならないから」と言い、母は「私が受け入れてやれないことを見抜かれた」と振り返る。 亡くなる一ヶ月前、祖母の痴呆はかなり進行していたが、施設でのイベントで母が歌と踊りを披露すると「○○大学を出た人が、そんなことをして恥ずかしくないの?」と言い、 母は「自分のいる場所もわからなくなっていた彼女の頭の中に学歴だけが残っていたということに驚かされた」と記した。

 私は、母に感想を送った 。

「その時代にある様々な制約の中で、母は娘に楽な人生を送ってもらえるよう努力し、娘は自分の信念を貫こうとする姿に涙が出ました。

お母さんは十分におばあちゃんを愛してあげていたと思う。痴呆になった母のために、9年間も毎日の様に足を運び、今、こういうラブレター を書こうと思う人はなかなかいない。おばあちゃんが銀行にお金を預けにいこうとしていたのは、活発に行動するお母さんに迷惑をかけたくなかったからではないだろうか。本当に「受け入れられていない」とおばあちゃんが感じたなら、「新潟から出て行く」と言うと思う。そして、亡くなる寸前に「○○大学を出た人が」と言ったのも、学歴への執着というよりも、「自慢の娘」の存在が、最後の最後まで胸の奥底にあった証拠だと思う。

これは、勝手な推測だけど、一度離婚を言い出され、おじいちゃんの様な学歴もないおばあちゃんは、「良い妻」でいなければ、おじいちゃんから見放され、子どもたちに安定した生活を保障できないと思った。だから、お母さんにも、夫から認めてもらえる「良い妻」になり、安定した生活を送ってほしかった。それが結果的にお母さんの人格を否定するようなことになったのは、不運というしかないよね。

だから、おばあちゃんもお母さんも、お互いの信念に基づいてお互いを愛していた。自分もお母さんみたいに、親に愛を注げる子どもにならないといけないと思ったよ」

娘に専業主婦になることを望んだ祖母、それを拒み続けた母。今、私が「専業主夫」になることは、ある意味、祖母と母、双方の意志を受け継いでいるようで、妙な使命感を抱いてしまった。
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ヒモになることを決めた理由

半数の人が「男は外で仕事をし、女は家庭を守るべきだ」(昨年末、内閣府調査)という日本で育った自分が専業主夫を選ぶ人間になった背景には、母親の存在が大きい。

私が生まれた当初、母親は私に「鈍太(どんた)」と名付けようとした。周りからの雑音に対し鈍く太く、自分の信念を貫いてほしいという願いで。しかし、(ありがたいことに)周囲から鈍く太くなれないレベルの雑音があり、結局、父親が「七番目の子だから、北斗七星の七番目の星からとって『揺光』にしよう」ということで収まった。
そんな母親が子どもに抱き続けてほしかった信念の一つが「男女平等」だった。家では、「主人」「家内」「旦那」「奥さん」「亭主」など、女性蔑視ととられる言葉使いはすべて禁句だった。だから、今でも、私はファーストネームで呼ぶように心がけ、それが馴れ馴れしく聞こえるような関係の場合、「ワイフ」や「ハズバンド」などと濁すようにしている。
保育所に入る前、持っていく鞄を買いに母親と行った。なぜか、私は赤い鞄を選び、母親は大喜び。そして、5歳の誕生日に姉からスカートをもらい、スカートに赤い鞄をぶら下げていたため、男子トイレに入ると「間違えるなよ」と追い出されたこともあった。

無論、両親は共働きだったから家事は分担。父は、朝ご飯と高校生の弁当作りを任されていた。私が米国留学した時、受け入れ先のホストマザーが手紙で、私の好きな食べ物を両親に聞いた際、父親から返事がきたことに驚き「日本は進んでいるのね」と話していた。
小学校の時、親子キャンプで、先生が男女混合の6人グループに児童を班分けする際、「じゃあ、Aグループは○○さんの所に集まって」と指示した。その、○○さんが、すべて男児だったことに、母親は違和感を抱き、「そうしたら、自動的にその○○さんがリーダーみたいになってしまうのでは?」と先生に尋ねていた。実際、各班とも、その○○さんが、グループ班長に選出されていた。卒業アルバムの顔写真も、なぜ男児が先で、女児が後になるのかまで、少しでも女性蔑視と思われるサインがあれば、とことん追求していた。

私が紹介した本にアフリカのルワンダという国の経済発展について数ページ割かれていたのを見て、その部分に下線を引き「ルワンダが世界で一番、女性国会議員の比率が高いことが書かれてない」とメモをしていた。日本国憲法に男女平等の条項を入れたアメリカ人女性のドキュメンタリーを世界各地で上映する活動もしており、4年前は、アフリカのブルキナファソという国を訪問していた。現在、73歳というのが信じられない行動力だ。

姉3人が3人とも夫婦別姓にしているのも、名字を変えるのがほとんど女性側という現状に違和感があった母の影響が少なからずあったのだろう。毎日新聞時代、2007年に能登半島を襲った地震で被災した夫妻についての私の記事で、夫を名字で記し、妻を名前で記したことに対して、「なぜ両方、名前で記さないのか?」と家族メール(黒岩家では家族全員をつなぐメーリングリストがある)で批判を受けた。記事の本質とは全く関係のない部分で批判を受けたことに苛立ち、「アドバイスをありがとう」と返すことができず「読者が分かりやすいように書きたかった」という返事をしてしまった。それにより、状況は悪化。記事を読んでいない姉らも「その考え方自体に偏見がある」と続き、私もさらに頭に血が上り、メールで乱闘騒ぎになってしまったこともあった。

今でさえユニークな発想なのだから、40年前、50年前からこの姿勢を貫き続ける事は、容易ではなかっただろう。新潟の南魚沼という片田舎だったらなおさらのことだ。私に「鈍太」と名付けたくなるのも、少しわかる気がする。

そこまで革新的な考えを行動に移すバイタリティーは一体どこから来たのか?一度も、母親にそれについて尋ねた事はなかったのだが、最近、母親が2008年に亡くなった祖母(母方)へ手紙を書き、それを、私たちにメールで送って来た。それを読み、母の信念の源泉を垣間みることができた。(続く)

台所での国際試合

「専業主夫」と偉そうなことを書いているが、肝心な夕食作りは、妻に手伝ってもらう。私の本の編集作業やハングルレッスンを「仕事」として扱ってもらい、二人とも家に居る時は、家事は分担することにしている。

しかし、この「協力」が、なかなかうまく噛み合ない。外食の時はどうしても肉、魚中心になるため、家では、野菜を多く取りたい私と、何でも肉や魚を入れたがる妻で挌闘する。妻によると、韓国ではキムチなどの漬け物が必ず5品以上出るため、100パーセント野菜料理というのが少ないという。確かに、それだけ豊富な漬け物が家にあれば、私も、そこまでこだわらないだろうが、ここではキムチさえ手に入らない。

ある日、「じゃあ、今日はスージン野菜料理お願い」というと、ジャガイモのベーコン巻が出てきて、「これ、どう見ても肉料理じゃん」という私に「野菜入っているから野菜料理でしょ」という妻。

昨日は、焼き魚、野菜炒め、スープの献立。私が、ご飯、焼き魚、大根おろしを担当し、妻が野菜炒めとスープを担当する。そしたら、妻はいきなり、冷凍庫から豚肉の細切れを出してきた。韓国料理では、キムチチゲなど、豚肉を入れるスープが多い。私が「焼き魚でタンパク質は足りてるから、肉はやめよう」と言うと、「じゃあ」と言いながら、今度は冷凍イカを取り出してきた。「いや、野菜だけにできないかな」と私が言う。妻は「韓国では、肉や魚を入れてダシを取るのよ」とぶつぶつ言いながら、大根、ズッキーニ、なす、ネギで野菜味噌チゲを作り始めた。

食べ終わり、後片付け。私は、食べ終わってすぐ後片付けができないタイプで、リビングのソファーで横になっていると、妻が「後片付けは?」と聞いてくる。数分後に台所に行くと、流し台に、野菜炒めをしたフライパンの中に水が溜まり、その中に、ご飯やスープに使った茶碗が入っていた。私は、片言のハングルで(最近は、簡単な会話はハングルでやることにしている)「フライパンに油があります。他の茶碗には油はありません。一緒にすると、大変ですね。私が話していること、わかりますか?」(ハングルだと敬語形しか習っていないため、妻にも敬語になってしまう)とゆっくり話すと、妻は静かに頷いた。油物の食器を別にすることは、何年も前から話しているのだが、なかなか、変わってもらえない。

そして、今朝。一昨日に私が作ったカレーを妻が弁当に詰め、職場に持っていこうとした。私は、パソコンで朝刊を読んでから台所へ行くと、カレーを作った鍋の中に、ジャガイモ一切れとエビ一匹が残っていた。私は「なんで、全部、持っていかないのですか?少しだけありますけど?」妻は「すべて食べることができないの。必要なければ捨てればいいでしょ?」と言ってくる。私は、「あなたのために私が料理したのですよ。もう一度、こういうことをしたら、もう料理しませんよ」と、知っている限りのハングルの単語を使って話す。「残す」という単語がわからなくて、「残すって何て言うっけ?」などと妻に聞いてしまい、迫力を失う。

結局、ジャガイモとエビは、私が食べ、妻は、そのまま職場へ行った。本来なら、「すべて鍋からすくい取り、皿洗いしやすいように、水につけておいて」と言いたかった。しかし、ハングルでは厳しい。次から日本語でやろう。台所での「国際試合」はしばらく続きそうだ。(注:油物食器を分けないことや、食べ物を残すのが韓国の習慣というわけでは決してありません。あくまで主人の個人的なものです)

喧嘩しない日連続記録ストップ

遂に、夫婦喧嘩しない日連続記録が「16」でストップした。顔を合わせれば喧嘩する私たちが、アゼルバイジャンに来て、今日まで一度も大きな喧嘩をしてこなかったのは、奇跡としかいいようがない。

おそらく、その最大の要因は、私が「主夫」になったことだ。料理、洗濯は勿論、引っ越したばかりの家で、ガスや電気の手続き、必要な家具の手配、日本米や手に入りづらい豚肉(アゼル人はイスラム教のため)などの仕入れなど、など。さらに、義母と話せるようになるため、週3回、1日1時間半、マンツーマンのハングル講習があり、毎回、10ページ以上出される宿題をこなす。さらに、来月、出版予定の本の編集。焼きそばや麻婆豆腐など、自分で食べる昼ご飯は多めに作り、次の日、主人(スージン)が職場に持って行ける様にする。これはすべて昼間の話だ。

夜は、「主夫」として、主人に付き添わなければならない行事がたくさん。韓国大使館員との会食、同僚宅での食事会、そして上司のホームパーティー。日曜午前は、アゼルの韓国人教会の礼拝。

そんなこんなで、昨日なんか、ハングルの宿題を終わらせたのが午後9時半。月に10本以上、ブログを綴っていたダダーブの時間が懐かしい。

スージンに出会って7年。初めて、生活の大半を妻に捧げる日々を送っている。そのおかげで、これまで喧嘩するような「ささいなこと」が、本当に「ささいなこと」だとお互い思える様になったのかもしれない。

で、今日はなぜ、喧嘩になったのか?

原因は、私が、まだまだ「主夫業」に徹することができないことにある。アゼルのガスは前払い式なのだが、大家さんが主人にやり方を説明していたから、てっきり、主人がやってくれるものと思い、金曜夜にガスがなくなった。支払いは銀行でしかできず、土曜、日曜は閉まり、三日間、ガス暖房とお湯なしの生活だった。(アゼルの気候は日本とほぼ同じで、今は冬。気温は5度くらい)料理は幸い、ガス爆発事件のおかげで、電気コンロに変わっており、大丈夫だった。飲み水の購入や電気代の支払いを忘れ、台所には、いつも汚いお皿がいくつか並び、勉強机には、飲み残しのお茶が入ったマグカップが二つある。

そんな事が続き、今日、夕方、一緒に買い物に行く途中、喧嘩は起こった。家の近くのスーパーに行こうとしたら、スージンが「もうちょっと歩いた所に、もっと大きなスーパーがあるよ」と言い、そちらへ行こうと歩いたが、道に迷い、引き返す事になった。私は少し苛立ち、それが表情に出てしまう私に、妻も苛立った。

主:電気代は支払ったの?
私:、、、、、、。忘れた。
主:止められたら、どうするの?
私:スージンがやってくれてもいいでしょ。
主:仕事があるからできないでしょ。
私:仕事は5時に終わるなら、帰り際にもできるでしょ。
主:ヨーコーは仕事ないでしょ。
私:何を「仕事」っていうのかにもよるよ。昨日、宿題が終わったの9時半だったよ。
主:もう、「主夫」とか言いながら、何もやってくれないのね。これじゃあ、ケニアに居る時と変わらないじゃない。

この一言が私の逆鱗に触れた。すでに、スーパーの中に入っていたが、店員や客の目を気にせず、私は、スージンの目を直視して問いつめた。

私:へ?どういうこと?俺が何もやっていないってこと?今日と昨日の昼飯、何食べたの?
主:今日は焼きそば。昨日は麻婆豆腐。
私:それは誰が作ったの?
主:、、、、。焼きそばは私が作り直した。
私:それは、あなたが、私の作った焼きそばにキャベツを加えたかったからでしょ。もともとのは私が作った。ガス代払うのだって、買い物だって、色々やっているでしょ。夜だって、スージンに付き添っているでしょ。

主:それとこれとは話が別でしょ。

そのまま、会話は中断。買い物の後、私は「今日だって、豚肉買うために、数キロ離れた市場まで行って来た。韓国の友人が付き添ってくれて、市場で待ち合わせして、中を案内してもらい、家まで送ってもらうまで2時間かかった。スージンが豚肉買って来てって言うから、やったのだけど」と蒸し返した。

スージンは「ごめん。今回のことは、私が全部いけなかった。もう忘れましょう」と言った。

夜ご飯は天ぷらラーメン。麺は、先日の「主婦/主夫お茶会」のメンバーから購入した乾麺。スージンが手伝うのだが、せっかちな性格で、お湯が沸騰しきれてないのに「もう、麺入れていい?」と聞いてくるので、「ぐつぐつお湯が沸騰してから」と私が言ったのを無視し、2分後に麺を入れてしまった。それでさらにお湯が冷め、鍋がぐつぐつ始めたのは5分以上経ってからだった。私は「なんで、私の言うことを聞かない?自分が韓国料理作る時に私が勝手に料理手順決めたら、凄い怒るくせに」と、再び苛立つ。

しかし、エビ、イカ、タマネギ、なす、ズッキーニの天ぷらを口に入れると、二人とも「美味しいねー」と上機嫌に。麺もどうなるかと思ったけど、普通に美味しかった。

「喧嘩しない記録、止まったね」と言うと、スージンは「また、これから延ばす様に頑張ろう」と言う。果たして、さらなる記録更新はなるのか。

平日の昼間にお茶をして何が悪い?

ケニア滞在中、「駐在の奥様たちは、平日の昼間からカフェでお茶しているのよー」と、知り合い(会社員)が話していたのを覚えている。仕事もせずにいい暮らしをしている「奥様」の日々を皮肉ったつもりだろう。しかし、今こそ、その知り合いに言いたい。「平日の昼間にお茶して何が悪い?」

アゼルバイジャンに来て、専業主夫とは、時として命がけの仕事になりうるということがよくわかった。2月24日に新天地に到着し、アパートを探し、28日にホテルから新居に身を移した。3月3日午前、朝ご飯にそばを食べようと、麺つゆを作るため、小鍋に昆布と水を入れて、ガスコンロのネジを回した瞬間、「ボン」という音と共に、目の前が真っ白になった。

リビングからスージン(妻)の「キャー!」という悲鳴が聞こえ、「ドンドンドン!」と台所へ向かう彼女の足音が続いた。

鍋は吹き飛び、昆布は床に落ちた。コンロ下にあった棚は崩れ落ちていた。ようやく、ガス栓が爆発したということに気付いた。幸い、私にけがはなかった。ただ、気が動転し、スージンが崩れ落ちたコンロと棚に顔を近づけて検証する間、私は、壁によりかかり、立ち尽くすことしかできなかった。結局、原因はわからぬまま、大家さんに「当分、ガスコンロで料理はできない」とお願いして、電子コンロを買ってもらった。

アゼルバイジャンは治安こそ良いが、まだまだ、インフラは発展途上で、 こういった危険は常に付きまとう。今回は、週末でスージンが家にいたから良かったが、平日に起きていたら、さぞ、孤独だっただろう。そんな時、「台所が爆発してさー」と外でお茶しながら、愚痴を言い合える友人がいたら、どれだけ心強いか。

そんなわけで、3月4日月曜日、アゼルバイジャン主婦/主夫会に初参加した。家から徒歩5分ほどの所にあるカフェで開かれ、参加者は6人で、全員日本人。男性は私のみで、後は、英国、米国、日本大使館と民間会社で働く夫を持つ方たちと、4歳の子ども一人。

地図を二つ持ち歩いているにも関わらず、道に迷った私を、二人がかりで喫茶店の外まで出迎えてくれた。英語やトルコ語など多言語を話し、日本では公務員や小学校の先生だったという。

台所爆発事件には「それは、大変でしたねー」と同情してくれ、「私の家もガスがうまく使えなくて、コンロでお湯を湧かして、シャワーをしている」など、お互いの苦労話をする。

さらに、「箸や米、豚肉の薄切りはどこで買えるか?」という私の質問に、「箸と米ならガストロノミー」「豚肉の薄切りは、(地図を指しながら)市場で買える」などと、教えてくれる。

そして、豆腐、白菜、大根など、スーパーで手に入りにくいものを、郊外で中国人が栽培し、事前に注文すれば、購入できるという。
 
 食生活の次は、週末の過ごし方。どの人ならテニスができるか。野球やソフトボールをしたければ、どこに連絡すればいいのか。また、アゼル在住の外国人向けのニュースレターも頂き、そこには、同国初のスキー場がオープンした情報など、雪国出身の私にはたまらない情報があった。

それは、単なるお茶会ではなく、異国の地で、美味しいものを食べ、充実した週末を過ごすための情報交換の場だったのだ。もし、小さい子どもがいたら、どこの病院/保育所/学校なら安心できるか、どこならベビー用品が買えるかなど、さらに、情報の重要性は増すだろう。

ケニアのダダーブで2年8ヶ月暮らし、食生活の充実が異国の地で仕事をする上で欠かせないことだと痛感した。毎日、ヤギのシチューやキャベツ炒めだけでは、食べる気が失せる。食べなければ、病気になる。病気になれば、仕事ができなくなる。だから、私は、ナイロビの韓国人食材店などから、米、味噌、調味料、冷凍魚などを買い、ダダーブへ持ち運び、毎日の様に料理をした。治安が悪く、行動制限がかけられるダダーブでは、精神的にも追いつめられ、体調を崩し、数ヶ月で帰国する者までいた。そんな日々に「今晩はカレーを食べよう!」という楽しみがあるかないかは、大きな違いだ。

さらに、喫茶店を出た後、Nさんの家に皆で行き、最近、日本へ帰国された方が残していった冷凍ウナギ、銀ダラの奈良漬け、ダシ、カレー粉、料理酒、七味唐辛子などなど、日本食を分けていただいた。「これはどうですか?」と次々と差し出される食品に、「いやあ、悪いですよ」と口で言いながら、腕はしっかり、食品を掴み、もらった紙袋へ突っ込んでいた。

さらに、箸や日本米を売る店に連れて行ってもらい、「大使館や国連関係者は免税される」と言う。しかし、私はまだ証明書が発行されていなかった。が、「『私は外交官』って言えば、大丈夫」と教えてもらい、実際、「アイアム、ディプロマット」とレジで告げると、日本米10キロが、48マナト(約5000円)から38マナト(約4000円)に引かれたのだ!恐るべし、情報力!

おかげで、その晩、ウナギと銀ダラを食べたスージンは上機嫌。それまで体調を崩していたが、次の日からは元気はつらつだった。

平日昼間のお茶会は、異国の地で働く駐在員の生活を下支えしている。ロシア語かアゼル語ができなければ、就職口が限られるアゼルバイジャンで、平日昼間にお茶する以上の仕事があるなら、逆に教えてほしい。

ちなみに、このお茶会。実は、「おとめの会」という名前だったらしいが、「黒岩さんが来たから、名前を変えなくちゃね」と別れ際に提案が。「専業主夫」の出現で、「おとめの会」はその長い歴史に幕を閉じなくてはならなくなった。

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プロフィール

seventh star 7

Author:seventh star 7
黒岩揺光  
1981年、新潟生まれ。7人兄弟の末っ子。15歳で米国留学して以来、住んだ国は計8カ国に。海外生活計17年。日本では毎日新聞記者、アフリカでは難民キャンプの工場長、アゼルバイジャンで主夫、ジュネーブで国連職員などを歴任。現在は中東ヨルダンで妊娠した妻に寄り添う専業主夫。
 著書に「僕は七輪でみんなをハッピーにしたい」(ユーキャン)「国境に宿る魂」(世織書房)。
メール連絡先 yokuroi×hotmail.com (「×」を「@」にしてください) ツイッター:@YokoKuroiwa

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