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主夫の海外出張


5月25—28日までドバイに「出張」。28日がアゼルの祝日のため、27日に妻が有給休暇を取り、4連休に。

「主夫に出張なんてないだろ?」と言う人がいるかもしれないが、大間違いだ。

ドバイ出張の目的は3つ。

1.大黒柱である妻の食生活を充実させるため、アゼルでは食べれない美味しい日本/韓国食を食べ、アゼルでは買えない日本や韓国の食材を仕入れる。

2.大黒柱である妻の7—8月にかけての日本への一時帰国を充実したものにするため、アゼルでは購入できない「JRパス」という、新幹線を含む、ほぼすべてのJR路線が一定期間乗り放題になるチケットを購入する。

3.大黒柱である妻のアゼルでの週末を充実させるため、風光明媚なアゼルでキャンプやハイキングを楽しむための道具(テントや寝袋など)を安く購入できる大型スーパーに行く。

「JRパス」とは、日本を旅行する外国人専用のチケットで、3週間なら5万6000円。本来なら外国人しか購入できないが、日本人でも、外国に永住権を持っているか、日本以外の国に住む外国人と婚姻関係にある場合は購入することができる。世界の有数都市でしか買うことができず、無論、アゼルバイジャンでは買えない。

アラブ首長国連邦のドバイは、バクーから飛行機で2時間半。気温35度と暑い。ナイロビで仲良くなった日本人のMさんが、よくドバイへ遊びにいっていたので、ドバイの空港に着くなり、彼に教えてもらった日本料理屋にタクシーで直行!

「ハヤットレジェンシー」という高級ホテル内にある「京(みやこ)」で、夫婦で「すきやき定食」を頼む。駐在と思われる日本人家族が隣に座っていたので、「すいません、観光で来ているのですが、美味しい日本料理屋を教えてください」と情報収集する。彼らによると、

日本人の駐在員が最も使うレストランが「友(とも)」。

ラーメンが一番美味しいのが「はなび」。

日本の食材を購入できる店が「グルメ」。

「トリップアドバイザー」という人気旅行検索サイトに出てくる日本料理屋とは全く異なる情報だ。おそらく、サイトのユーザーの多くが西洋人で、日本人とは趣向が異なるのだろう。

早速、25日夜は「友」に行く。ホテルの14階にあるレストランで、テラスに畳が敷かれ、ドバイの超高層ビルを眺めながら、お寿司を食べる。美味い!日本並み。スージンは目を閉じながら「外国で食べる日本料理で一番美味しい」と満足。


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旅行すると、大抵、私たち夫婦は「地下鉄じゃなくタクシーで行くべきだった」「一度ホテルへ戻らず、直接行くべきだった」「なんでここのホテルを予約したのだ」などと、行程についてたくさん喧嘩をする。このレストランに来るまでも、色々言い合いをしていた。しかし、食べ物が口に入った途端、喧嘩するような気分でなくなってしまうのだ。食べ物のパワーは凄い。

26日朝は、ホテル前のビーチでくつろぐ。

昼はレストラン「はなび」。西山ラーメンを食べる。おそらく日本の基準では「普通」か、もしかしたら普通以下のレベルかもしれないが、「ラーメン」がない所で長い間暮らしてきた私たちにとっては十分な味!感動。


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午後は、テント、寝袋などを安く購入できる大型スーパーで買い物。ドバイからバクーへの飛行機は1人46キロ積める!

夜は、再び「友」。コハダ寿司。黒ごま豆腐。ハゼ天ぷら。焼き肉定食を2人で食べる。


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27日午前、スージンが買い物中、私は日本航空の事務所でJRパスを購入。

27日昼は、再び「京」でビジネスランチ。だし巻き卵、アボガドとマグロの和え物、魚天ぷら、ミニちらし寿司、さばの塩焼き、卵とうふ、冷や奴、鶏肉の照り焼き。

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午後はマッサージ。

27日夜は、韓国料理店「アリラン」。なぜか日本料理と兼務で、日本語の店名は「将軍」。カルビをテーブルで焼く、韓国焼き肉が美味い!

28日朝、アジア食材店に立ち寄り、餃子の皮、納豆、生ラーメン、明太子、餅、柚子胡椒、キムチ、カレー粉、などを買う。冷凍物は、アイスボックスへ詰め込む。そのままタクシーで空港へ行き、あっという間に、「出張」は終わってしまった。

次の出張はいつだろうか?大黒柱が機嫌のいい時に、申請しなくては、、、。




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生まれて初めて料理教室を開催する


5月24日は朝5時半ごろに目が覚めてしまった。目をつぶって、もう一度眠りにつこうとしてもできない。結局、6時半ごろにベッドから起き上がり、ネットで新聞を読み始めた。

いつもの朝とは違う、胸の高鳴りがある。今日は、生まれて初めて主催する料理教室の日。教室は午前10時半からなのに、頭の中では「人参とキュウリと卵を買わないと。スリッパは足りるかな?」などなど、教室の事で頭が一杯。

二日前には、日本人の主婦仲間を呼んで、太巻きを作る「リハーサル」もした。準備は万端だ。

午前7時半、携帯が鳴る。「息子が風邪で今日参加できません」と受講者の一人からメッセージが入った。「オーケー。早く良くなる事を願います」と返事をする。
太巻きに入れるキュウリと人参を予め切り、人参を3分ゆでる。今日使う材料を一つ一つ、テーブルに並べておく。トイレが綺麗か確認する。アパートのドアに「寿司クラス」という張り紙をする。

本来なら寿司職人の格好をすべきなのだろうが、そんなものはない。仕方なく、ジーンズとケニアで友人からもらった青いアフリカ系ドレスを着る。普段、髭は週1ペースでしか剃らないが、昨夜はしっかり剃った。剃り残しがないかしっかり鏡でチェック。

午前10時15分、電話が鳴り「今、建物の前にいます」と受講者の一人が言う。部屋番号を伝える。間もなく、サンドラ(コロンビア人女性)とロレッタ(ボリビア人女性)が笑顔で入ってくる。「ようこそ!」と握手で迎える。並べておいた六つのスリッパを指差し、リビングルームへ案内する。「今日があなたにとっての初めての寿司クラスなの?」とサンドラが聞いてくる。「はい。緊張しています」と言うと、「大丈夫。きっとうまくいくわよ!」といきなり励まされる。

「アゼルバイジャンに来てどれくらいなの?」「ワイフが国連で働いているのね?」などと世間話をしていると、再び電話が鳴る。主夫会のメンバー、「オールドジョン」の妻、アリス(イギリス人)からだった。「今、下に来ている」と言う。エレベーターで下へ行くと、アリスの他に、主夫会メンバーのハンズ、アリスの友人のナイダ(アゼル人女性)がいた。3人をリビングルームへ通し、間もなくして、電話が鳴り、最後の受講者である、ビクトリア(アメリカ人女性)が到着。6人全員が揃った。

ナイダとアリス以外は、皆、BP(英国石油会社)従業員の配偶者。アリスは英語を教え、ナイダの夫も石油関連会社で働いているという。皆、40—50代。3週間前にアゼルバイジャンに来たばかりのビクトリアを除いて、全員顔見知り。改めて、アゼルバイジャンの外国人社会の狭さを思い知る。

「皆さん、ようこそ、我が家へお越し下さいました。改めて、私の紹介をさせてください。ヨーコーと申しまして、日本出身です。アゼルバイジャンには3ヶ月前に来ました。韓国人の妻が国連で働いています。

私たち夫婦はアゼルに来る前はアフリカのケニアで難民支援に従事していました。とてもやりがいのある仕事でしたが、仕事上、夫婦が離れ離れになることが多く、『これからは夫婦生活を優先しよう』ということになりました。 そこで、『より良い待遇の仕事を見つけた方に別の方が付いて行く』ということにし、お互い就職活動をした結果、私が完敗したわけです(受講者笑う)。

それで、私は専業主夫となり、韓国語を学んだり、ブログを書いたりする日々を送っています。

私が一番最初に寿司を作ったのは16年前です。15歳でアメリカに留学したのですが、全く英語が話せず、友人ができませんでした。当時、姉もアメリカの大学に留学していて、姉の所へ遊びに行った時、「アメリカで寿司を作るとスターになれるぞ!」と寿司の作り方を教わりました。

それで高校の友人に作って上げたら、本当にスターになりました。「今度は家で作ってくれ!」と誘いを受けるようになり、大学では日本料理屋で寿司を握りました。ヨーロッパやアフリカに住んだ時も、友人に寿司を作り、どの国籍の人にも愛されました。

この寿司教室が人気になれば、将来的に、社会的に弱い立場にあるアゼル人をアシスタントとして雇い、「寿司カフェ」みたいなのを家でやってみたいと思っています。彼らが作った寿司を、私の友人が食べ、アシスタントに「チップ」として代金を払う。これにより、石油景気から取り残されたアゼル人にわずかながらお金が流れるシステムを作ることができると思うのです。

なので、皆さんが今日、受講されてどう感じたか、私に正直に伝えてくれることがとても大事です。ネガティブな意見があっても、私は日本武士の様に割腹自殺などしません(受講者笑う)。
何も質問がなければ、始めたいと思います」

 リビングルームから台所へ移り、まず、アゼルバイジャンで購入できる寿司の材料を紹介した。酢、日本米と区別がつかないカリフォルニア米、海苔、ウナギ、だし、ミリン、などを見せる。

次に、すし飯の作り方。米を磨ぐという習慣がないため、「なんで、洗う必要があるの?」という質問が出る。私は、「ほら、少し洗うと水が白くなるでしょう?」と見せる。

予め炊いておいた4合のご飯を炊飯器から取り出す。酢、砂糖、塩を混ぜ合わせ、それを、電子レンジで少し温める。「なぜ、温める必要があるのか?」と当然ながら質問がでる。「ご飯にかけるとき、冷めないでしょう」と答える。

電子レンジから取り出した後、酢を米にかける。均等に酢が行き渡るよう、しゃもじをつたって酢がご飯にこぼれ落ちるようにする。そしてタッパの蓋で仰ぎながら、ご飯と酢を混ぜ合わせる。「さっきは、ご飯が冷めない様に、酢を温めたけど、今は、ご飯を冷ましているのは何で?」という鋭い質問がくる。先生ピンチ、、、。「ええー。一旦、酢とご飯が混ぜ合わさったら、はやく冷ました方が、すし飯の質が維持されるのです、、」と適当に濁す。受講生は「ほおー」と納得した様子。

混ぜ終わったら、ご飯が乾かない様に、塗れナプキンをご飯の上に置く。(二日前に日本人主婦仲間から教わったばかりの知識、、)

次はだし巻き卵。無論、一回で、普通のだし巻き卵の形を作るのは無理だし、私自身もうまく作れないため、ここは適当にオムレツの様に作る。六つの卵を一つ一つ割ってボールに入れると、ハンズが「変な卵の割り方をするのですね」と言ってくる。私が「何が?」と尋ねると、「テーブルの角で卵を割ったら、白身が床に落ちてしまうでしょ。ボールの縁で割ったらどうですか?」と言う。私は冷や汗をかきながら「ああ!そうですね。それはいい考えですね」と言い、教室に気まずい雰囲気が流れる、、、。

卵に「だしの素」、しょうゆ、砂糖、塩、酒を入れ、フライパンに広げて焼く。「本来なら四角い形にするのですが、それをここで教えるのは難しいので、適当にオムレツの様に作って下さい。寿司の中に入れば、どんな形をしていても、そんなに変わらないので」と言う。

卵が焼き終わり、冷凍ウナギを電子レンジで温める。

「それでは、下準備は大体終わりました。リビングルームに移り、寿司巻きをやりましょう」と促す。

寿司巻きに使う竹の「巻きす」を配り、海苔を一枚載せる。「すべすべした面とざらざらした面があります。ざらざらした方にご飯を載せましょう」と話す。「海苔に載せるご飯の量はそれぞれの好みです。私は、とても薄くご飯を海苔に載せ、中身の味を楽しみたい人です。ご飯でお腹が一杯になったら嫌なので。ただ、私よりもご飯を多く載せる人はいくらでもいるので、皆さんの好みに合わせてください」。

ご飯を載せたら、キュウリ、人参、卵、サーモンを載せ、一気に巻く。「巻く時、二回に分けて寿司を固めます。まず、すべての中身を海苔が覆いかぶせた段階で、一度、固めます。そして次に、最後まで巻き切り、再び、固めてください。固める際、側面だけに力をかけるのではなく、寿司の全面から均等に力をかけるように固めてください」。

皆、それぞれしっかり寿司を巻いている。中には、ウナギが飛び出す人もいたりしたが、全体的に、とてもよくできている。

一人、二本ずつ巻き終わったところでご飯がなくなった。「さて、これから一番、難しい、切る部分です。家から持ってきた、まな板と包丁を出してください」とお願いした。受講者には予め「とても切れる包丁を持ってきてください。もし、切れる包丁がない場合は私のを使ってください」と連絡していた。

まず、私が見本を見せる。「包丁の刃を端から端まで使って切ってください。決して、力で押してはいけません。寿司が潰れてしまいます。まず、2等分し、4等分、8等分していきます」と切ってみせた。黄色、オレンジ、緑、白と黒がうまくマッチングした太巻きを見て、受講生から「うわー」という声があがる。

 受講者たちは、寿司を均等に切れなかったり、一番端の寿司が潰れてしまったりと、いくつか失敗作があったが、大部分はうまい具合に切れていた。「一番端がうまくいかないことはよくあります。中身の具を置く時に、端まで均等に置かないと、切る時にバランスを崩してしまいます。後、切る寿司の母体が小さいほど、切るのは難しくなるので、できるだけ、包丁の上に手を被せて、切る両側の寿司を指で抑えながら、切ってみてください」とアドバイスした。

ハンズが「端の寿司の見栄えをよくするにはどうすればいいのか?」と質問してきた。確かに、端の部分は、両側に切れ目がなく、片面の中身が出っ張った形で見栄えがよくない。「お皿に置く時、切った面を上に向けて置けば、その部分が見えなくなります」と適当に答えた。

そんなこんなで、112個の寿司が完成。緑茶を入れて、お昼タイムにした。

私は、ノートとペンを持ってきて、自分たちの作った寿司を食べる受講者に感想を聞いた。

私:それでは、食べながらで恐縮ですが、今日の感想を聞かせてください。まず、全体としてどうでしたか?

ビクトリア:とても、簡単だった。説明もわかりやすかったし、実際に私たちが作ることができたのが良かった。

サンドラ:新しい事が学べて良かった。切るのが難しかったけど。次回は、詳細な説明書みたいなのを配布したらいいと思う。酢飯の作り方とか、卵の作り方。何をどれくらい入れるのかが紙であったら、受講生も学びやすいと思う。あと、寿司マット(巻きす)がもっと必要だと思う。

私:とても、良いアイデアです。ありがとうございます。それでは、次の質問です。この寿司教室を友人に薦めようと思いますか?

全員:勿論!(私が質問を言い終えた瞬間に反応があった)

私:それはなぜですか?

ビクトリア:これまで「寿司」と聞くと、高級レストランでしか食べられないものというイメージがあった。でも、実際、作ってみると、とても簡単だということがわかった。

サンドラ:そうそう。自分たちで寿司を作れるなんていう発想がなかった。でも、こうやって教えてもらえて、よかった。

ハンズ:寿司を作ったことがあったけど、色々、細かい部分を学べて良かった。寿司を巻く時に、寿司の母体全体に力を入れることとか、ご飯を冷ましたり、ぬれたナプキンを置いたり、知らないことが多かった。受講生の数も6人という少人数で良かったよ。

ロレッタ:後、どの店でどの材料が手に入るのか教えてもらえて良かった。これまで、店に行っても、日本語で書いてあったりして、何が何なのかわからなかった。

私:なぜ、寿司はこれほど人気なのでしょう?

ビクトリア:とても健康的で美味しいから。

ナイダ:でも、今日の卵は私の口に合わなかったわ。

私:ああ。そうでしたか?他に、口に合わなかったものはありませんでしたか?

ハンズ:特になかった。卵も私は良かったよ。

私:それでは、30マナト(約3000円)の受講料についてはどうですか?

ほぼ全員:これくらいの値段は普通よ。

アリス:特に問題ないと思う。バクーは、何でも高いから、これくらいの値段は安い方じゃないかしら。

ハンズ:うん。いいと思うよ。

ロレッタ:今回は、海苔が外側だったけど、ご飯が外側になるお寿司の作り方も学びたい。

私:そうですね。今回のは一番簡単なものでした。次のステップは、ご飯が外側にくる「カリフォルニアロール」。そして、最後に「にぎり」を学ぶ、3段階コースにしてもいいかもしれないと思っています。


約50個の寿司が余った。私は、それを想定し、「タッパを持ってきてください」と予め連絡してあった。「それでは、皆さんで分け合って、お寿司を持ち帰ってください」と伝え、アリスが「それでは、一人一個ずつ、好きなのから取っていきましょう」と提案し、タッパに寿司を入れ始めた。

そして、一人一人、財布からお金を取り出し、「今日は本当にありがとう」と30マナトを支払った。

私の手元には180マナトが残り、材料費を差し引けば、約130マナトの儲けになった。2時間の講習だから、時給にすれば65マナト(約65000円)だが、材料調達、講習準備、教室の宣伝、受講者とのメールでのやり取りなど入れれば、その数倍の時間を費やしている。

皆が家を去った後、滅多に昼寝をしない私だが、この時ばかりは疲れきり、ベッドにひれ伏した。そして、起きたら午後4時を過ぎており、ハングルの先生から不在着信が5回も!ハングル講座を寝過ごしてしまったことに気付いたのだった。

寿司教室2


寿司教室3


寿司教室1

私は女性の味方ではありません

5月21日のブログ「日本に馴染めない日本人」に、友人Sさん(30代男性)から、とても興味深い反響を頂いたので、紹介させていただく。


「やりたい」ということが前提となっている「仕事」ですけど、仕事ってそんなに楽しいんですか?そう思う人がうらやましいです。共働きしないと生きていけなければ2人とも働く、一人でいいなら収入が多く安定した方が働く。仕事しないでも生活できるなら働かない(最高)、と私は思います。また、いわゆるエリート層じゃなくて、育児・家事は誰かにしてもらい、自分は外に働きに出たいという女性が日本にどれだけいるのか興味があります。極地サンプルで恐縮ですが、うちの兄嫁は「外で働くの絶対にやだ」というタイプです。


読者の方たちが、「みんな仕事がやりたい」という前提で私が書いていると読み取ってしまったら、それは、私の表現力不足だ。Sさんが言うように、私は、「今の仕事に生きがいを持っているか?」「毎朝、仕事に行くのが楽しみか?」という質問に、「はい」と答える人は、とても少ないのではないかと思っている。そして「1年や2年、仕事を中断しても食べていけるなら、育児や家事、または趣味に没頭してみたいと思う事はあるか?」という質問に「はい」と答える人は、結構、いそうな気がする。(勝手な想像ですいません)。

「男が外で働き、女は家庭を守る」という考えを正当化する人が使う議論に「妻が仕事したくないって言うから」「女性だって寿退社したいって言うじゃないか」というものがある。実際、私も、日本で「早く結婚して仕事辞めたい」という女性に何度か出くわした。

他にも「女性の能力を活用するっていうけど、社会全体の利益のために、育児に生きがいを持ってやりたい女性の自由を奪ってはいけない」という男性もいた。

しかし、これらの議論は、問題の本質を突いてない様に感じられる。もし、「今の仕事に生きがいを持っている」「毎朝、仕事に行くのが楽しみで仕方ない」という人が少ない場合、「早く結婚して仕事を辞めたい」という人がいるのは、ある意味、自明のことではないか?

問題は、女性には「結婚」を理由に仕事を辞める権利が社会的に認知されているのに、男性には認められていないということではないだろうか?育児に生きがいを持ってやりたい男性だって潜在的にはいるのではないだろうか?

私は結婚する前から、妻の方が待遇の良い仕事に就く可能性があるだろうと思っていた。お互い難民支援という世界を渡り歩く仕事を志していたため「どうやって家族と仕事を両立するのか?」という質問を受けることがよくあった。親戚が集まった所で「妻の行く先に私が付いていくこともありえるかも」と言ったら、年上の従兄弟(男性)が失笑し、私の兄弟の方を見て「え?何か弟さんが言ってますけど、大丈夫ですか?」と言った。
また、ケニアにいる時、ある夕食会で、日本人の男友達が「実は、私も育児とか家事の方が向いていると思うから、女性に付いていきたいのですよ」と言った。それを隣で聞いていた別の日本人の男友達は「ええ?本当ですか?○○さんは仕事がない生活に耐えられないと思いますけどねー」と頭から否定しようとしていた。

男は家庭の大黒柱。男は常に仕事すべし。「女性は家庭を守る」という固定観念が、働きたい女性を束縛するのと同様、「男は外で働くべし」という固定観念が、「少し休みたい」「子どもと時間を過ごしたい」と考える男性を同じ様に束縛してはいないか?今月の朝日新聞の世論調査で、「男性も育休を取るべき」と考える男性が実に75パーセントもいることがわかった。しかし、実際、取っている人は2パーセントで、取得できない最大の理由が「職場の理解が得られない」だった(5月21日朝刊社会面)。

女性の友人から「ようこうは女性の視点で書いているね」という指摘を受けた。 しかし、私は、このブログを新タイトルで書き始めた時から、男性の「ちょっと休みたい」権利を擁護したい一心で書いている。

私の父が先週、脳梗塞で、一瞬、体半分が機能しなくなった。医師である父は、脳梗塞の時にどういう処置をとるべきかは熟知しているはずだ。にもかかわらず、「大丈夫。これから診療があるから」と仕事に行こうとし、同じく医師である兄が「手遅れになる前に検査しないと!」と無理矢理抱きかかえて病院に連れて行かなければならなかった。

なぜ、そこまでして仕事に行かなければならないのか?父の中にある「俺は家族の大黒柱。息子の前で弱音は吐けない」というプライドが、体半分動かなくなっても仕事へ行かせようとしたのなら、「男は外で仕事すべき」という固定概念が、どれだけ男性を不平等に扱っているのかわかる。

大学時代、ビルマ(ミャンマー)北部、カチン民族という少数民族が暮らす地帯の専門学校で、ボランティア講師として「社会学」を教えたことがある。16—25歳の男女70人と、「男女平等」などについて議論した。ある18歳の女子生徒は課題作文で「男女平等は、女性だけでなく、男性にとっても利益があると思います。私の父は、家族の問題をいつも一人で抱え込み、お母さんや私たちと相談してくれませんでした。だから、お父さんはいつも苦しんでいました。もし、男と女が協力して家族の問題を話し合うことができれば、お父さんはもっと楽になれたのだと思います」と。

「男女平等」は「女性の権利擁護」と同義語ではない。そして、私はあくまで男性の視点からこのブログを書き続けたいと思う。

病人の妻を怒鳴る主夫

 5月21日、BP(英国石油会社)の配偶者クラブ主催「アゼルバイジャンでキャンプをするコツ」の発表会に出席した。BPが従業員の配偶者の社会活動を推進するために賃貸している海岸沿いの高級マンションの一室に、約20人のマダムたちが集まった。勿論、私が唯一の男性。この部屋は、麻雀大会やお茶会が頻繁に開催され、アゼルの主婦の溜まり場になっている。マダムに囲まれたあの金曜日の「コーヒーモーニング」以来、こういうイベントからは足が遠のいていたが、キャンプ大好きな私は、どうしても発表会が聞きたかった。それで、日本人と韓国人の主婦仲間2人を誘って、初めてこの「溜まり場」に足を踏み入れることになった。

 60平方メートルはありそうなリビングルームでコーヒーとクッキーが振る舞われ、様々な国出身のマダムたちと挨拶をした。「今日は仕事を休んだの?」などと聞かれ、「いいえ。そこまでのキャンプ好きじゃありません。妻が仕事しているのです」と、これまで何十回としてきた説明をさせられる。司会役のアンが「レイディーズ!ウェルカム!」と私たちを呼んだ後、私と目が合い「あ!すいません。レイディーズ、エンド、ジェントルマン!ウェルカム!」と言い直した。

 発表会は11時半ごろ終わり、3人で近くの中華料理で昼ご飯を食べ、午後1時ごろ家に戻った。そしたら、誰もいるはずのない家にスージンがいた!「アレルギーがひどくなって、早退したの」と言う。鼻水をティッシュでかみながら、台所でうどんを作っていた。

スージンはアレルギー体質で、花粉だけでなく、新しい環境になると鼻水が止まらず、目や花がかゆくなることが頻繁にある。「プールで鼻の中に水が入って息ができなくなる様な気分」とかなり辛そうだ。アゼルに来て、アレルギーで会社を早退するのはこれで二度目。ちょっと心配である。

私:とりあえず、病院に行ってみたら?
ス:原因がわからないから、薬もらって終わりだよ。どの病院に行ったらいいかもわからないし。それに、もう発症しているから、薬もらっても仕方ない。
私:次、発症した時のために、どんな薬が良いのか、教えてもらうだけでもいいでしょ。とにかく病院に行った方がいいよ。

問題は、英語もまともに通じないアゼルバイジャンでどこの病院に行くべきか、である。私は、「アゼルバイジャンで暮らす外国人のためのガイドブック」を持ち出し、そこで推薦されている「病院」を調べてみた。「Urology」「Obstetrics」など聞き慣れない英単語を辞書で調べながら、アレルギー専門の病院を探したが、見当たらない。いくつかの病院に電話を入れても「英語が話せる医者が土曜日しかいない」などと良い対応をしてもらえない。

他人の病気のために病院を探すなどした事のない私は、苛立ち始めた。午後はハングルの勉強でもしようと思っていたのに、、、なんて考えながら。

リストにある別の病院に電話をかけた時、「花粉症」を英語でどういうか分からない私は、スージンが「ヘイフィーバー」(花粉症)と言っているのを「ハイフィーバー」(高熱)と思い違いをし、電話で「妻がアレルギーと高熱にかかっている」と言った。そしたら、スージンが「『高熱』じゃない。ヘイフィーバー(Hay Fever)。)」と、私が電話でやりとりしているそばから話してきた。私は「ちょっと、直接、話してくれる?」とスージンに携帯を渡そうとしたら「鼻が詰まって話せない」と言う。私は自分の英語力を見下された気分になり、心の中で「今、お前のために、色々調べて電話しているのだから、邪魔しないでくれ」と、さらに苛立った。

私は、仕方なく「妻がヘイフィーバーにかかっている」と話すと、スージンが、また電話口のそばから「ヘイフィーバーって言ったら、ハイフィーバーに聞こえるから、アレルギーって言わないとだめだよ」と話し、病院のオペレーターの女性の声が全く聞き取れなかった。私の堪忍袋の緒が切れ、「うるさくて何も聞こえないだろ!話せるなら、お前がやれ!」と電話をテーブルに置き、ガイドブックを閉じた。

スージンは、怒っているのか、悲しんでいるのか、よくわからない目で黙り込み、台所を出て行った。うどんはまだ半分くらい茶碗に残っている。

私は、気を取り直して、もう一度、その病院にかけ直し、「今、新しい患者の受付はしてません」と言われ、諦めた。

私は、電話を置き、「なぜ、病人の妻に大声を出す様なことをしてしまったのか?」と考えた。「色々お前のためにやっているんだぞ」という自負心か。妻に英語力を見下された屈辱感か。それとも、、、、。もしかしたら、「妻のためにここまでする夫は他にいないぞ!」という、胸の奥底にある男のプライドが一瞬、表面化したのかもしれない。「男なのに」料理をしてやっている。「男なのに」妻のために病院を探してやっている。「男なのに」、、、してやっている自分に対して、なんだその態度は??

「男女平等」とかたくさん書いているけど、結局のところ、私の中にも、無意識の内に「男のプライド」は植え付けられている。

少し冷静になった後、妻がいる寝室に行った。YouTubeで韓国のバラエティー番組を見ているスージンに「ごめんね。大きな声出しちゃって」と言い、肩をさすった。スージンは何も言わず、少し時間を置いて「夕ご飯、鶏肉の骨でダシを取ったスープが食べたいから、鶏肉買ってきて」と平常モードに切り替えてくれた。

次の日、スージンは元気になり、通常通り出勤した。

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日本に馴染めない日本人

5月1日ブログ「101位から4位の国へ」の続きです。まだ読んでない人はここをクリック

男女平等を推進する母親に育てられ、9年間、欧米で教育を受けた私は、「女性は家で家事をするべし」と半数の人が考える日本の男女観に馴染めず、人間関係のトラブルが相次いだ。


毎日新聞入社前、私は、大阪のビルマ難民支援団体の勉強会に招かれ、タイのビルマ難民について書いた自分の修士論文を発表した。団体関係者15人ほどが集まり、そこに、神戸在住の友人Uさんが聞きに来てくれた。Uさんとは、1999年、大学時代に韓国のハンセン病患者が昔、隔離された村でのボランティア活動で出会い、私がタイに住んでいた時に遊びに来てくれるなど、それなりの親交があった。

発表会の後、宿泊先であるUさんの家に一緒に向かう途中、Uさんは勉強会を主催した団体の代表を務める女性(40代)について話し始めた。

あの代表の人って、毎年2回、タイの難民キャンプまで視察に行くのだって?旦那さん、大変やろなー」。

人の話を聞くのは苦手な方だが、特定の事柄に関する発言は、一語一句が明確に聞こえてしまう。当然のことながら、Uさんに対する、私の尋問が始まった。


私:別に、彼女がやりたいことなのだから、それでいいじゃん。

U:でもさあ、別に、ボランティアやりたいなら、住んでいる地域でもできること色々あるでしょ。PTAでもいいしさ。

私:なんで、タイじゃいけないの?

U:自分の結婚した人が、毎年2回、タイへ行って家を空けるより、より近くにいてくれた方がいいじゃない。

私:なんで?

U:全くの未知の世界に行かれるより、自分の生活圏内にいてくれたほうが、安心するやん。

私:別に、その人が選んだ道に、他がとやかく言う必要はないでしょ。それに、新しい世界へ踏み込めば、家庭にも新しい空気が入るかもしれない。要するに、結婚相手には家に居てもらいたいということ?

U:そういうわけではないけど、子どもはきっちり育てたいやろ。

私:でも、相手が常に家に居なくては子育てができないわけじゃないでしょ。

U:ずっと保育所に預けるの?でも、そしたら、子どもと親が接する時間がなくなるやん。

私:男が家に居て子どもを育てたっていいでしょ。

U:え?俺の家は、お母さんに育ててもらったから、そういう発想ないわー。
 

その後、お互い感情的になって、どんなやりとりがあったのか覚えていない。


Uさんとは、それ以降も連絡は保ち続けてはいるが、これを契機に頻度はめっきり減ってしまった。

 まだある。


毎日新聞時代に仲良くなった同期の男性記者G。「読書会をやって、社会の事をもっと勉強し、良い記事書けるようになろうぜ」と入社3年目の時、Gともう一人の同期と妻(スージン)の4人で、四国の道後温泉の民宿で泊まり込み勉強会を開いた。

私たちは、当時話題になった「ワーキングプア」という本を読み、話し合った。私が、女性が男性よりも、非正規労働をしている割合が高いことについて書かれていたことを挙げ、 「これは、男性が育児や家事をしないから、女性にしわ寄せがいっているのでは?」と問いかけた。

すると、そのGは「育児や家事なんてのは、あくまで個人のチョイスでやっていることなんだから、仕方ないだろ」と言ってきた。普段、人懐っこい笑顔で、くだらない冗談を言って周りを和ますGの表情が一気に強ばった。

私:仕方ないだろって、特定の人たちがより弱い立場にあるのだから、何かできないものかな。

G:じゃあ、どうするんだよ?

私:男と女が、家事や育児を分担すれば、少しは変わるのではないかな。

G:お前、そんなこと言って、これから、本社上がって、バリバリキャリア積んでいけると思っているのか?(新聞記者は、まず地方支局から入り、数年後に本社に上がるシステム)俺は、はっきり言って、そんなことできねえ。子どものころから、母親に育てられてきたから、自分の子どもも、母親が育てた方がいいと思う。

 Gの話を聞きながら、毎日新聞の新人研修で、別の同期Sが、記者歴20年以上の本社デスク4人に「記者の仕事は忙しいと思うのですが、どうやって家族との時間を調節してきたのですか?」と質問をしたのを思いだした。26歳で入社したSは長男が生まれたばかりだった。私たち新人記者と対面に座った4人のデスクはしばらく沈黙し、数秒後、1人が「まごころだよ、まごころ」とだけ答えた。Sが「まごころって、どういうことですか?」と聞き返したが、それ以上、返答はなかった。

その後、全地方支局を統括する地方部長(記者歴25年)が、「S君が、家族との時間についてデスクに聞いていたけど、ああいう地位になった人たちっていうのは、それ相応の犠牲をしているということをわかってくれよな」と話した。私は、それを「出世したければ、家族とか甘ったるいこと言ってるんじゃねえ」と勝手に解釈し、「もし、家族を大切にしたければ、出世を諦めるか、会社を辞めるかのどちらかだな」と自分に言い聞かせた。


民宿の勉強会は、いつのまにか、勝ち負けモードの怒鳴りあう会に、変わった。Gは「お前の言っていることは、土井たかこと同じじゃねえか!」「そんな、オランダが好きなら、オランダ行けよ!」と怒鳴り、私は「産むのは女性にしかできないけど、育てるのは男性にだってできるだろ」「今どうこうじゃなく、どんな理想社会を目指すべきか話し合いたいんだよ!」などと、大きな声を出しているうち、木造の安民宿に声が響き渡り、女将が、「大丈夫ですか?」と心配して、部屋をのぞきにくるほどだった。

結局、Gが「まあ、お前が何を言おうと、俺の考えが今変わるわけじゃないから」と話を切り上げた。その後、みんなでカニを食べに出かけ、次の日は海岸で野球をするなど、盛りだくさんの勉強会だったが、自分の中にある「モヤモヤ感」は、消えることはなかった。Gとは、毎日新聞を退社した後も連絡を取り続けたが、ここ2年くらいは連絡を取っていない。

寿司でみんなをハッピーにしたい

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5月11日は友人を招いてのホームパーティをした。ギリシア、ペルー、アメリカ、韓国、ポーランド、ノルウェー、トルコ、日本の4大陸、8カ国から計13人が我が家に集まり、私が作った寿司とスージンが作った韓国料理(チャプチェ、チヂミ、サンギョップサル)を食べ、スクラブルという英単語を綴るボードゲームをしながら、楽しんだ。

 昔、アメリカの寿司屋でバイトしていたことがある私は、スモークサーモン、チーズ、人参、キュウリ、卵、エビなどを入れた太巻きを作った。日本人参加者から「中身がちゃんと真ん中になってますね」などとお褒めの言葉を頂いた。

 太巻きの写真をフェースブックで載せたら、ある友人から「寿司屋を開業したらどうか?」と書き込みがあった。おそらく、その友人は冗談で書き込んだのだろうが、私は、それを見て、頭の中にある壊れた電球がパッと明かりを照らすような気分に駆られた。

 アゼルバイジャンに来て2ヶ月半。この期間、自分なりにこの国の特徴を目で観察し続けてきた。

1.食パンが20円で買えるのに、日本料理屋の味噌汁一杯が700円。一般庶民向けのものと富裕層向けのもので価格の差がものすごい。

2.資源大国アゼルには、BP(英国石油会社)社員を筆頭に、多くの西洋人が暮らす。

3.西洋での寿司人気はものすごい。

4.寿司は作るのも教えるのも簡単(あくまで、アゼルの日本料理屋で出される寿司レベルを基準にした場合)

5.私の家近くにある日本料理屋の握りマグロ一貫400円。(食べたことない)

6.寿司の発祥国である日本出身の者はアゼルに20—30人のみ

7.ご飯、酢、海苔、わさび、マグロやサーモンの刺身などは、近くの輸入食品店で購入できる。

これらを踏まえ、私は、あるプロジェクトを思いついた。

 私の家に西洋人を招いて寿司を作る。「材料代」という名目でお金を支払ってもらう。ある程度の利益が出たら、私の家の「お手伝いさん」という名目で、石油景気から取り残され、社会的に弱い立場にあるアゼル人を雇う。私が、彼らに寿司作りを教える。そして、西洋人を「友人」として家に招き続け、お手伝いさんが作る寿司を振る舞い、「材料代」として払ってもらったお金を、「お手伝いさん」への給料として支払う。私は、実際の材料費だけを受け取り、利益は出さない。

これにより、富裕層から、貧困層にお金が流れる。日本文化が伝承される。私が暇でなくなる。

構想が何度も何度も頭を駆け巡る。できるかな?面白そう。でも、失敗したらどうしよう?でも、失敗して失うものって何?

何もないじゃん

 そう気付いた時には、私は、キーボードを打ち始めていた。「なぜ、寿司のために大金を支払うのか?」というタイトルで、「日本人の寿司職人から寿司作りを学べば、安く美味しく、いつでも寿司が食べれる様になります。アゼルで手に入るものだけを使った寿司教室にどうぞ」と案内状を書き始めた。

定員7人。

講習時間、2時間。

寿司の種類、エビやスモークサーモンの太巻き。

時間と場所。5月24日午前10時半。我が家。

私のプロフィール:アメリカ、スウェーデン、オランダ、ケニアで寿司作りの経験がある日本人寿司シェフ

講習料はどうするか?材料だけなら1人1000円で十分だ。しかし、利益が出るのかどうかわからなければ、「お手伝いさん」を雇うことはできない。需要を知るため、一人3000円と、少し高めに設定した。

案内状に私が作った太巻きの写真を張りつけ、フェースブックにある「アゼルに住む外国人グループ」(854人登録)に送った。そして、私に主夫会を紹介してくれるなど、アゼルの外国人への情報発信役を担うアンにも、送り、転送をお願いした。

そしたら、反応は私の予想をはるかに上回った。

定員7人は、2時間で埋まった。その後、フェースブックで「満杯になりました」という知らせを送った後も、メール、電話、フェースブックで多くの申し込みがあった。申し込み人数25人。「平日の昼では参加できないから、週末にしてくれ」という要請3件。その内、私の知り合いは2人だけだ。

寿司の需要が高いということがわかり、とりあえず、第一段階はクリア。第二段階は、寿司教室の受講者7人が、私を「寿司職人」として認めてくれるかどうか。

案内状を見た妻は「ちょっと新種の詐欺っぽいけど大丈夫?」と心配そう。詐欺かどうかは、実際に寿司教室をやってみなければわからない。頑張るぞー。

組織に属さなくなって一番困ること

組織に属さなくなって一番困ることは何か?

暇になること?

キャリアがストップすること?

周りから「ひも」「無職」「宙ぶらりん」「ニート」などと冷淡に見られること?

いろいろ困ることはあるが、私にとって一番困ることは「人から批判されることが少なくなること」です。

組織に属している限り、ほとんどの場合、批判してくれる上司や同僚がいる。特に毎日新聞では、たくさん怒ってもらった。その時は「なにくそ!」と思うこともあるが、後から冷静に考えると、それらはとてもありがたい忠告で、私の成長の糧になった。怒る人は怒りたくて怒っているわけではない。私が将来、会社の役に立つ人材になるにはどうすればよいか、親身になって考えてくれるからこそ。それが、組織に属さなくなると、そこまで私の事を真剣に考えてくれる人はいなくなるから、心の中で「黒岩、何やってんだ」と思っても、なかなか口に出してはくれないだろう。フェースブックやブログには「ライク」や「拍手」のボタンはあっても、「よくない」「だめ」のボタンはない。

しかし、私の前回のブログに、口を出してくれる貴重な友人がいた!この友人「K」さんからのコメントをここに貼付けさせてもらう。


4つの点については強く同感します。
でもどうしても気になったことがあるので、書かせて下さい。長々とすみません。一番大事なのは、2番目です。

1)まず、見本記事は事実と異なるので、残念ながら見本にはならないのでは…と思います。「あくまで例題として」と設定しないと書きにくいその側面にこそ、この問題を伝えることや、理解を得ることの難しさの本質があるのではないでしょうか。アイヌの例もよく分かりません、ね!?

2)自分の都合ではなく、他人のことを配慮するのが難民認定や受け入れることの要点だと思います。そうであるにも関わらず、日本人が困ることもある「かも」しれないから今助ける必要がある(見返りを期待する)、難民も「役に立つ」ことがある、という論法で説明するのは、国家の都合で不認定をするのと同根ではないでしょうか。日本人中心的という意味で、不安に思っている人の心配は解消されず、むしろ排除を助長することも懸念されます。

3)日本から出ることなど想像もしていない大多数の人に「日本から避難する」喩え話は、空想の世界でしかなく、想像することもできないでしょう。

4)難民の定義が厳格ってどういうことかでしょうか。定義は定義としてあるものと一般的には理解されています。国際条約を批准することと、それを運用することは別の話である、ということがポイントではないでしょうか。

重要なのは「役に立つ・立たない」という基準で判断しないこと、政府側の見解を紹介しつつも、それの何が問題なのかをきっちりと説明することではないでしょうか。

揚げ足とりみたいなコメントもあろうかと思います。たいへん失礼しました。

書面ではいろいろ誤解を招くこともあるので、私はこういう書き込みはまったくしないことにしているのですが、発信力のある黒岩さんへの期待を込めてコメントしました。

分かりやすく伝えるには、どうすればいいのか、ということを私もよく考えます。日本のことと結びつけながら、というのはそうかもしれませんが、わかりやすいことは単純化することではないように思います。限られた文章では、一つの「気づき」としての入り口をつくることなのかなと思います。



 数百人が読むフェースブック上で実名でこういうコメントを書くのは、それなりの勇気がいることだ。それは、Kさんが私と同様にこの問題に関して悩み、色々活動してきた証拠である。同年代のKさんとは8年前に出会った。大阪のある勉強会で私が、タイの難民について書いた修士論文を発表し、それを聞きにきてくれたのがKさんだった。その時も、私がビルマの少数民族について「○○族」と表現したことに「○○族と言うと、時代が遅れた人たちみたいなイメージがあるから、○○人や○○民族と言うべきです」などと、ストレートに批判して頂いた。それ以来、私は「○○族」という表現は避けてきている。

 さて、Kさんのコメントへの返答だ。
 
 一番大事だという2番目の点。まず、「役にたつ」の部分は、あくまで認定された後の話で、Kさんが、認定前の議論だと読み取ってしまったのなら、それは、私の表現不足だった。

 「見返り」の部分に関しては、本当にKさんのおっしゃる通りで、ぐうの音も出ない。
  
 結局、私はKさんの様な立派な姿勢で難民支援に臨んでいないということだ。私は学生時代から「日本はもっとたくさん難民を受け入れるべき」と言ってきた。その気持ちがとてもナイーブだと気付いたのは2001年、オランダ留学中に、大学の寮でスペイン人3人との共同生活を強いられた時だった。 彼らの生活習慣は全く異なり、午前3時でも友人を招いて家で大騒ぎ。普段でさえ、夜眠れないことがたまにある私の生活リズムは一瞬で破壊されてしまった。何度言っても、「週末くらい騒ぎたいだろ!」と全く改善されず、黙らせるために、私が野球のボールを壁に投げつけて、乱闘寸前までになった。

 この時、気付いた。日本政府に「難民を受け入れろ」と言うのは、外国人と話したことがない、日本の津々浦々で暮らす人たちに「言語と習慣が異なる人と隣り合わせに暮らしてください」と言うことと同等なことなのだと。

 それでは、ソマリア難民50人を、日本で受け入れ、四国の○村で住んでもらうことになったと仮定しよう。そこの住民にどうやって説得するか?

1。 「日本政府は、難民条約に加盟し、私たちは、母国で脅威にさらされ、どこに行く場所もない難民を保護する義務があるのです」と、「他人への配慮」だけを言った場合。

2。「1」に付け加えて、「それに、私たちも、災害があったら他国から助けてもらってきたし、これからも、世話になる可能性がある。世界は相互依存の関係だ」と、自分たちの「見返り」を入れる場合。

 私には、どうしても、二番目の方が説得力があるように思えてしまう。一番目だけを言ったら「他の市町村で受けれてくれないのか?」と言う意見が出てきてしまうのではないか?それは、私が自己中心的な人間だからだろう。常に他人のことを第一に優先に考えることができない。どこかで、自分の生活を守りたいという思いがある。難民条約は「他人への配慮」が第一原則でも、それを現場で伝えるとなると、どうしても私は「自己中心的」な部分に配慮してしまうのだ。

 Kさんの1番目のコメントに関しては、私は「見本記事」だなんて最初から思っていなかったし、読者に自由に判断してもらいたかっただけなので、Kさんがそういう意見だということで、とても参考になった。「見本」って、「これが正しい!」みたいなニュアンスが含まれている様な気がするので、、、。

 3番目については、その人それぞれの感覚の問題なので、あまり深入りはしない。少なくとも私は、福島の原発事故の際、自分が日本に居なかったことがとても幸運に思えた。そして、私があの近くに住んでいたら、原発と隣り合わせに暮らすことに恐怖を感じるだろうから津々浦々に原発がある日本から脱出したいと考えただろう。

 4番目については、私の日本語能力不足。「厳格な解釈」と記すべきだった。

というわけで、Kさんのおかげで、色々考える事ができた。本当にありがとう。どうか、これからも、よろしくお願いします。褒められることが大好きな私だが、人からの批判には謙虚でいるよう心がけている。妻には「心がけるだけじゃなくて、実践して!」と言われるだろうが、、、、、。
 

日本の難民問題を社会に発信する上での四つの留意点

 難民に関わって、かれこれ10年以上になる。学生として、記者として、援助関係者として、「難民問題」を、日本の社会全体へわかりやすく伝えようと試行錯誤してきた。その集大成として、ここに、難民問題について社会に発信する際の「四つの留意点」を共有したい。


① 私が「原子力発電」や「株取引」の仕組みがわからないのと同様、「難民認定」の仕組みを理解している一般人は少ない。

② そのため、単純に「日本は難民認定率が低いからけしからん」と言われても、一般人は共感しにくい。異なる言語や文化を持った人が近所に移住してくることに不安を持つ人ならなおさらのこと。

③ その人が難民かどうかを認定するのは他でもない「日本政府」であり、「難民認定率が低い」と批判する際、必ず、政府側の見解を含めることが必要。

④ 「難民問題」は、人権、経済、国際関係など、様々な分野と絡まっている。しかし、一つの記事ですべてを網羅しようとせず、焦点を絞って話さないと、理解しずらくなる。

 以上を踏まえ、以下の記事を読んでいただきたい。2013年5月6日朝日新聞朝刊オピニオン面「私の視点」に、難民問題についての提言記事が掲載された。

1 法務省が発表した昨年の難民認定に関する統計は衝撃だった。認定を受けたのは18人と10年ぶりの低水準であるばかりか、1次手続きでの認定率は0・2%と1982年に難民認定制度ができて以来最低だった。これでは難民を救う制度ではなく、申請者を退けるための制度だ。

2 故国での迫害を逃れ、日本で保護を求め難民申請する人々を取材してきた。他の先進国では同じ理由で家族・親戚が認定されているのに、日本では認められず、長く苦しい闘いを強いられている。

3 認定の8割がミャンマー出身者に偏り、彼らについても本国の民主化の動きで認定が出にくくなった。申請者の国籍では最多のトルコ出身者(ほとんどがクルド人)はこれまでに一人も認定されていない。日本とトルコのテロ対策での協力関係などが背景にあると見られるが、認定判断とは別次元であるべきだ。国際法の難民条約が掲げる「難民」の解釈でここまでの開きがある日本の姿勢は、国際法違反ではと感じてしまう。

4 申請中に受けられる支援はわずかで、働くことも医療保険を受けることもできない人が多い。滞在資格がない場合は入管収容施設に入れられ、いつ終わるとも分からない「中ぶらりん」を強いられている。「無我夢中で逃げ、行き先を選べなかった。こんなに閉鎖的だと知っていれば日本には来なかっただろう」という声も聞こえるほどだ。
 
5 彼らの多くが故郷では地位も教育もあり、社会を担う存在だった。東日本大震災では、「故郷を失う」ことに感受性の高い彼らは、被災地でがれき処理などボランティア活動を行っている。こうした人々を適正に評価して認定するのは、理にかなっている。

6 せめてもの救いは、民の動きが広がっていることだ。ホームレス化した申請者の当座の宿泊施設を見つけたのは難民支援NPOだ。申請結果を待つ間のメンタルケアを支えるのもNPO。ある大学病院はNPOと連携して保険のない申請者の歯科治療を無料で行い、子どもが学校で落ちこぼれないよう大学生の難民支援組織が専門家の指導を受けて教育支援に参画している。

7 参加者たちが同様に言うのは、困難を乗り越えてきた人々との触れ合いから学ぶことの大きさだ。才能や教養への驚きもある。難民受け入れはこれまで「人権推進」「国際貢献」の文脈で語られることが多かったが、「足元からのグローバル化」と「人材確保」を加えたい。認定行政をつかさどる官の人々にも、早く気付いてもらいたい。


 記事内容自体は素晴らしいもので、長年、難民に寄り添い続けてきた筆者の想いが伝わってくる。しかし、800万部の部数を誇る朝日新聞の読者のどれくらいが、この記事の内容に共感できるだけの予備知識があっただろうか?

では、これから、四つの留意点を基に、この記事を分析してみたい。

まず、段落1。 「1次手続きでの認定率は0・2%と1982年に難民認定制度ができて以来最低だった」 
 難民認定制度について予備知識がない人は「1次手続きとは何なのか?1次手続きがあるなら、2次手続きもあるのではないか?2次手続きでの認定率はどうなのか?1次での認定率だけを記載する理由があるのだろうか?」など、色々な疑問が湧いてくるかもしれない。

 次に段落2。 「他の先進国では同じ理由で家族・親戚が認定されているのに、日本では認められず、長く苦しい闘いを強いられている」 

 これを読んで、一般読者は「へええ」と思うかもしれない。しかし、「難民申請をする人」について具体的イメージが湧かないため、「具体的に、どんな例があるの?」と思うのではないか。つまり、アメリカではこういう人が申請して認められたが、日本では認められなかった。アメリカ政府はこういう理由で認めたが、日本政府はこういう理由で認めなかった。しかし、残念ながら、次の段落では、別の話に移ってしまう。

 段落3を読むと「これまで認定されてきた人の大半がミャンマー人で、そこで民主化が進んでいるのなら、昨年の認定率が過去最低なのは、当然の帰結なのではないか?」と考えてしまう読者がいるのではないか。そして、次にトルコのクルド人。果たしてどれだけの読者が、トルコという国から難民が発生しているということを知っていただろうか? そして、たまに新聞の国際面を読んでいる人なら、昨年からクルド人の武装組織がトルコ政府と停戦へ向けて動き出していることを知っているかもしれない。「停戦へ向けて動き出しているのなら、なぜ日本が保護しなくてはならないのか?」と思ってしまわないだろうか?
 そして、筆者は、トルコ人が認定されないことについて、

 「日本とトルコのテロ対策での協力関係などが背景にあると見られる

と記している。まず、日本とトルコがテロ対策で協力関係にあったことさえ私は知らなかった。さらに、認定者の多くはミャンマー人と記していたが、ミャンマー政府と日本政府も色々な面で協力していなかったっけ?あれ?さらに、この一文は、筆者個人の想像なのか、政府関係者が話した内容なのか?政府はトルコ出身者が一人も認定されてないことに何と言っているのか?難民申請却下の取り消しを求める訴訟を起こしたクルド人がいるならば、裁判所が出した判決文に政府の姿勢が書かれているのではないか?

 段落1を読んだ時、一般の読者は「ああ、この人は日本の難民の認定率の低さについて書くのだろう」と思ったはずだが、段落4では、「難民申請者の人権」へ話が変わってしまっている。どういう人が「難民申請」できるかわからない読者が「働く事も、医療保険も、、、」と言われても、いまいちピンとこない。そして、この読者が、少し調べてみて、「難民申請は外国人なら誰でもができる」ということを知ったら、「え??そしたら、難民申請者が就労できることになれば、不法で滞在している外国人は、皆、就労許可が欲しいために難民申請してしまうのでは?」と疑問を抱いてしまうだろう。

 「難民」の正確な定義を知らない読者は、段落5と7を読んで、筆者は「ボランティア活動をしたり、故郷で地位や教育もある外国人は、難民として認定するべき」と書いていると勘違いしてしまうかもしれない。段落5と7は、「認定された難民の人材活用」について書かれ、段落1の「低い認定率」とは、少し焦点がずれてしまっている。一般の読者は、「活用できる人材が欲しいなら、インドネシアから介護士を受け入れた様な制度があるじゃないか」などと思ってしまうかもしれない。

 「難民の認定率を上げろ」「トルコとの外交関係を認定基準に影響させるな」「難民申請者の人権を守れ」「認定した難民の人材を活用しろ」。私は筆者の意見にすべて賛成だ。しかし、1000文字という限られたスペースで、「難民」の定義や「難民認定」の仕組みを知らない読者からすれば、あまりにも多岐にわたるテーマではないだろうか。

  最後に、政府関係者のコメントを一つも入れず、 「認定行政をつかさどる官の人々にも、早く気付いてもらいたい」 と批判するのは、「ちょっと一方的なのではないか?」と感じる読者もいるかもしれない。

 私が、難民行政を司る法務省入国管理局の人間だったら、まず、「なぜ、この筆者は、難民認定はしなかったが、人道上の配慮を理由に在留許可を与えた112人に触れていないのか?」と思うかもしれない。日本政府は、難民申請をした者の中から、難民認定とは別に、2010年に363人、2011年に248人、2012年に112人に「特別在留許可」という定住ビザを与えている。(参考資料:法務省入国管理局ホームページ http://www.moj.go.jp/nyuukokukanri/kouhou/nyuukokukanri03_00094.html)

 難民支援者からすれば「在留特別許可」と「難民認定」では全く異なると言うだろうし、その気持ちはわかる。 しかし、一般の人が、「難民認定」も「在留特別許可」もどちらも更新可能な一定期間の定住ビザが発給されることを知れば、日本政府がその人たちを「保護」をしていると受け取る人もいるのではないか。難民支援者が「違い」を理解してほしいと言うなら、「在留特別許可ではなく、難民認定を」と題した別の記事で、議論を巻き起こしてほしい。
 
 繰り返し強調したいのは、記事の内容は素晴らしい。ただ、一般の読者には少し難しすぎるのではないかということだ。

 筆者は最初に「難民認定率の低さ」に衝撃を受けたと書いている。だったら、その「衝撃」に焦点を当て、 以下の様な流れで書いてみてはどうだろう。

 皆さんは「難民」という単語を聞いて、どんなイメージが湧くだろうか?飢えている人?テントで暮らす人?荷物を担いで砂漠を歩いている人?

 どれも間違ったイメージではないが、「難民」の定義の本質からは少しずれている。日本が加盟する国連の難民条約では、難民は、様々な理由で命の危険にさらされている人で、その国では命を守ってくれる人がいないため、他の国へ逃れた人のことだ。「様々な理由」とは「民族、宗教、人種、政治的意見、特定の社会集団など」で、その人の経済的状況は全く関係がない。(無論、ボランティア活動歴や教養も関係がない)

 例えば、ある国で政府の独裁体制を批判し、政府から命を狙われた人が、隣の国へ逃れる場合など。この人は、逃れた国で「難民申請」し、「祖国で脅威にさらされている」ことなどを証明し、その国の政府から「難民」と認められて、初めて、定住許可を得ることができる。証拠が不十分だったり、供述に信憑性がないと判断されれば、難民として認定してもらえず、正規の滞在資格がもらえない。

 日本でもアジアやアフリカ諸国出身の人が毎年1000ー2000人「難民申請」をしている。昨年、日本政府が認めた「難民」は18人。その他に、人道上の理由から在留許可を発給したのは112人。9割以上の難民申請者が日本政府から保護を拒まれているという現状がある。

 なぜ、日本政府が彼らを保護しなくてはならないのか?まず、難民条約に日本は加盟している。さらに、日本人も、今後、何らかの理由で命の危険にさらされ他国へ逃れ、難民申請しなくてはならない日が来るかもしれない。 その時、他国の政府から助けてもらうためにも、今、日本に保護を求めにやってくる人たちに手を差し伸べなくてはならない。


 日本で難民認定者が少ない理由として、日本政府が「難民」をあまりにも厳格に定義していることがあげられる。毎年、万単位の難民を認定するアメリカでは、ミャンマーで、国籍を与えられず、迫害を受け続ける少数民族「ロヒンギャ」を一律認定しているが、日本政府は「ミャンマーのある地域に暮らすロヒンギャは安全に暮らしており、ロヒンギャ民族全員が命の危険にさらされているという証拠はない」という理由で、認定を拒んでいる。

 しかし、九州に住むアイヌ人が出目を理由に命を狙われ、「北海道のアイヌは安全だから、そこに行け」というのはあまりにも厳しいのではないか?1000キロ離れた北海道までどうやって行くのか。行く途中で、命を落とす危険はないのか?

 政府の「難民」の定義を柔軟にするには、世論の力が必要だ。言語や文化が違う人と隣り合わせに暮らすことを不安に感じる人もいるかもしれない。しかし、これまでに日本政府から認定された難民の中には、教養が高い人も多く、被災地でボランティアに従事した人もいる。難民を受け入れることは決して重荷ではなく、その国にとってプラスにもなり得るのだ。


(注意:上の記事は、あくまで例題として出した記事で、アメリカや「ロヒンギャ」の部分などは、事実と異なっています)

主夫の職場復帰は可能か?


5月9日の木曜日はアゼルの祝日で学校が休みのため、私以外の主夫会メンバーは子どもの世話で忙しくなる。そのため、この週だけ、主夫会を8日の水曜日に変更した。午前9時、カフェにはグリムと私だけだった。ニュージョンは米国へ一時帰国中。ロッドニーはデンマーク旅行中。オールドジョンは夕飯の買い物をしてから来るとのことだった。

スコットランド人のグリムとは毎週、テニスをする仲で、それなりに打ち解けてきた感があったので、2人きりになった機会に色々、身の上話を聞く事にした。アゼル滞在6年のグリムは、来月、妻の転勤に伴い、祖国へ帰国する予定だ。妻のスーザンは、BP(英国石油会社)の従業員。

私:グリムはアゼルに来る前は、もともと、何をしていたの?

グ:ずっと銀行に勤めた後、いくつかの金融機関を転々としながら、コンサルティングみたいな仕事をしていた。

私:スーザンがアゼルバイジャンへの転勤のオファーをもらった時、行くかどうか決めるのに、2人で色々話し合ったの?

グ:そこまで深刻なやり取りはなかった。アゼルバイジャンに行けば、スコットランドで働くよりも待遇が良いからね。それに、2人とも海外に住んだ事がなかったから、新しい環境に身を置いてみたいという好奇心もあった。

私:待遇は、そんなに違うんだね。

グ:うん。スコットランドで、私とスーザンが両方働いて稼ぐ合計金額より、アゼルバイジャンでスーザン一人で稼ぐ金額の方が、圧倒的に大きい。海外に駐在すると色々な手当がつく。運転手付きの車、家、子どもの教育費とかね。

私:「主夫」になることへの抵抗みたいなのはなかった?

グ:、、。その時点で、私はもう20年以上も働き続けていた。特に仕事にやりがいがあったわけでもない。少し、休みたいという想いがあった。ただ、こちらに来て、仕事をしていない男性はあまりいないだろうから、友達ができるかどうか不安はあったよ。ただ、その時、2人の子どもが3歳と9歳だったからね。暇になることはないと思ったけどね。

私:それで、アゼルに来てみたら、オールドジョンに会ったわけだ。

グ:そう。その時は、2—3人でよくお茶をしたし、週末の夜に飲みに行ったりもしたよ。

私:スコットランドでは、「主夫」は珍しいの?

グ:個人的には知らないな。でも、今は増えているのではないかな。女性の方がたくさん稼ぐケースはたくさんあるだろうからね。

私:スコットランドに戻ったら、仕事を探すの?

グ:、、。ちょっとわからないな。6年のブランクもある。一体、どんな仕事が見つかることやら。

私:でも、20年の実務経験があれば、いくらでも仕事はあるでしょ。

グ:年寄りを雇用したい会社はあまりないよ。

私:グリンは今、何歳?

グ:50歳だ。

私:アゼルバイジャンで仕事をしようとは思わなかった?

グ:石油関連会社での経験があるならまだしも、私の経歴じゃ難しいよ。言語もわからないしね。就労ビザだって取るのはとても大変だと聞く。

ここで、遅れて来た、オールドジョンも加わった。

ジョ:私たち夫婦もアゼルバイジャンに6年もいることになるなんて想像がつかなかった。後2年くらいだとは思っているけど、それも定かじゃない。その理由の一つが、イギリスに戻ってからの私の身の振り方。もう6年もブラングがあるし、私のしていた仕事は、人的ネットワークを基盤にコンサルするものだったから、そのネットワークはもうすでになくなっている。仕事を再開するとしたら、一からのスタートになる。アゼルにいれば、家も車も提供されるけど、イギリスに戻れば、すべて私たちで支払わなくてはならない。悩みどころだよ。

実は、私も、スージンの現在の短期契約が、正規契約に切り替われば最低4年勤務となり、長期滞在する可能性がある。ここで、4年主夫をした後、日本に帰って就職活動する自分を想像して見よう。

まず、私の履歴書を見た面接官は間違いなく「4年の空白期間がありますが?」と尋ねてくるだろう。「アゼルバイジャンで主夫でした」と答えたら「アゼルバイジャン?どこですか?」と聞かれ、「グルジアとアルメニアの隣です」と言い、「グルジアとアルメニアってどこ?」と聞かれ、「ロシアの隣です」と言い、「ロシアの隣??フィンランド?モンゴル?ロシアって大きいから、国境接する国ありすぎてよくわからない。君は僕を馬鹿にしているのか?」とムカつかれて、まともな面接にはならなそうだ、、、。

改めて、海外駐在する夫に寄り添って、キャリアを犠牲にする主婦の立場が身にしみてわかる。しかも「主夫」の概念が浸透していないため、「空白期間」を正当化しづらいから、負担はさらに大きい。主夫になるのも不安なら、主夫後も不安で、不安ばっかりだな。








専業主夫は「パンダ」並みに珍しい

 新聞記者時代は「お前なんか会いたくない」と言われることが多かった。仕事上、事故や事件の犠牲者の遺族の家を訪問したり、午後11時ごろに帰宅してくる刑事の家の前で張り込みをしたりと、どう考えても嫌がらせとしか思えないことをしなくてはならなかったから。

 それが、専業主夫になって一転。「あなたに是非お会いしたい」と言われる様になった。妻が「パキスタン人の同僚があなたに会いたがっている」と言えば、ある飲み会で出会ったばかりのドイツ人外交官が「あなたに会わせたい元主夫(ペルー人)の友人がいる」と言い、さらにブログに、日本の某テレビ局から「主夫であるあなたに是非お話をお伺いしたい」と言ってくる。
 
 要するに、「専業主夫」というものが世界遺産のように珍しく、しかも、それが男女平等の分野では後進国の日本出身というのが、さらに驚かせるらしい。「パンダ」になった気分だ。

 妻の同僚のパキスタン人女性(30代)は、約3年前に夫の転勤に付き添ってアゼルバイジャンに来た。生後6ヶ月の長女と3人暮らし。私に会うなり「あなたが『主夫』ね?ああ、やっと会えたわ」と微笑んだ。女性の友人のカナダ人男性とルーマニア人女性カップルと共に家に招待してくれ、美味しいパキスタンカレーを堪能した。

 「なぜ、私に会いたかったのですか?」と尋ねると、女性は「子どもの頃から女性の権利に関心があったのです。私は、何でも論理的に理解できなくては気がすまない性格だった。だから、兄や弟たちが午前3時に帰宅しても怒られないのに、なぜ私が午後10時に帰宅したら怒られるのかとか疑問に思っていた。『女性だから』という理由は、どうしても論理的に思えなかった。パキスタンでは男性は外で働き、女性は家で家事、育児という考え方が根強いです。妻の稼ぎで暮らしている男性なんて会った事なかったし、いたとしても、その人は、おそらく人前に堂々と出ることができないでしょう。だから、そういう考え方に縛られない生き方をしている人に会ってみたかった」と言う。

 さすが、女性の権利に関心が高い女性と結婚したからなのか、同じくパキスタン人の夫は、せっせと、家事、育児を手伝う。赤ん坊のミルクをやったり、「誰か水を飲みたい人は?」などと私たちに尋ね、台所とリビングを往復する。しかし、女性は、夫が台所へ行ったことを確認してから、声を小さくして「彼は否定するかもしれないけど、夫だってアゼルバイジャンにいるからこうやって家事、育児を手伝っていると思うの。パキスタンにいたら、そういうことすること自体が『恥』みたいに見られちゃうのよ」と言う。

 女性は、パキスタンでテレビ局のアナウンサーだったという。お見合いで結婚した夫が、アゼルバイジャンに転勤することになり、テレビ局を退社した。アゼルバイジャンに来た当初は「本当に辛かった」という。友人は居ない。アゼル語もロシア語もできない。仕事はない。毎日、家に引きこもり状態になった。パキスタンでは日々忙しくしていたのに、突然、見知らぬ土地で肩書きのない不安定な生活に戸惑った。それでも「夫の収入はドル払いで、パキスタンの現地通貨でもらう私の給料とは比べ物にならなかった」と付き添った理由を打ち明ける。

 今は、昼間はベビーシッターを雇って、子どもの面倒を見てもらい、現地の高校で英語を教え、私の妻が働く国連事務所の通訳業務をこなす。

 彼女が発した「論理」という言葉は、自分の胸を突き刺すような力があった。私も、彼女と同様、すべての物事を論理的に考えようと心がけている。妻と喧嘩する時も、ソマリア難民と誤解が生じた時も、自分の脳みそで考えられる論理に沿って議論を進めようと努力する。

 しかし、奈良や広島で新聞記者をする私との関係を維持するため、妻はイギリスの大学院進学を諦め、新潟の大学院へ進学した。韓国や新潟から毎月、会いに来てくれ、日本語を一から学び、東京で就職したと思いきや、私は新聞社を辞めてケニアへ行った。妻は私と一緒になるために東京の仕事を辞め、ケニアで仕事を見つけた。この不平等な関係は、私が考えつくどんな論理に沿っても説明することができない「非論理的」なものだったが、深く考えることも、妻と話し合うことも避けてきた。それは、大学進学率など教育指数で男女の差はほとんどなくなっているにも関わらず、共働き世帯の7割以上で「家事は妻中心」となっている日本社会にどっぷりつかってしまった自分がいたからかもしれない。(参考文献:内閣府男女共同参画局ホームページ http://www.gender.go.jp/whitepaper/h21/gaiyou/html/honpen/b1_s00_02.html)

 「男のプライド」———。論理では説明しようがないものが、私の胸の奥底にも宿っている。今でも「仕事はないの?」と聞かれることがあるが、「主夫です」と胸を張って言う事ができず、頭をかきながら「最近本を出版したのですよー」とか、適当に濁している。まだまだ、主夫のプライドが宿るまでにはまだまだ時間がかかるようだ。

3年7ヶ月振りに毎日新聞に黒岩の記事がカムバック

毎日新聞全国版「みんなの広場』欄(5月4日)に掲載されました。これを読んだ父親が電話をしてきて、3分以上会話をしてくれました(笑)。


毎日声20130504

主夫の朝は忙しい


 主夫の朝は大変だ。

アゼルに来てから目覚まし時計をかけて寝ることのない私だが、なぜか、ほぼ毎日朝6時半から7時ごろ、自然と目が覚める。朝に弱い妻は、私が寝室にある浴室で、トイレを流したり、顔を洗っても、ベッドの上でピクリともしない。台所に行って、カリフォルニア米3合をゆすぎ、炊飯器にかけてから、パソコンで朝日新聞を読む。本当は毎日新聞の方が好きなのだが、知っている元同僚の署名記事を見ると、変な嫉妬心に駆られてしまう。

 一通り読み終えた7時半ごろ、妻がトイレに入る音が聞こえる。再び台所へ行き、鍋にお湯を沸かす。先日、妻の家族が住むカンボジアを訪れた際に仕入れた煮干しと昆布を鍋に入れる。

 毎週火曜日に中国人から購入するモヤシを冷蔵庫から取り出し、水で洗う。鍋が沸騰して数分してからモヤシを入れ、アゼルで市販されている日本の味噌をお湯で溶かしていれる。普段、味噌を売るスーパーは数軒あるが、最近、何度足を運んでも、品切れ状態。「後、何回、味噌汁を作れるだろう」と考え込む。

 昨日の昼ご飯に作った麻婆豆腐をフライパンで温めなおす。さらに、冷蔵庫から、タッパに入った「あんかけ豆腐ステーキ」を取り出す。これは一昨日の夕食に私が作り、昨日、妻の弁当にして持たせたのだが、あいにく妻の上司が昼ご飯を御馳走したため、会社で食べることができず、そのまま家に持って帰って来たものだ。1日中、常温で放置されたため、私は念のため、臭いをかいだ。ちょっと変な臭いがしたが、せっかく作ったものを捨てる気にもなれず、電子レンジで温めた。

 食卓に、ご飯、モヤシ味噌汁、豆腐ステーキと麻婆豆腐が並ぶ。私は適当に食べ始め、妻も洗面と着替えを終わらせて台所へ来る。「麻婆豆腐、弁当に持っていって。それで、朝ご飯は、豆腐ステーキを食べて」と妻に伝える。妻は「ステーキ、まだ大丈夫なの?」と聞くが、「大丈夫だよ。大体、私がせっかく作った弁当を食べなかったスージンが悪いでしょ」と責める。スージンは「それはもう説明したでしょ。上司が私の知らない間に昼ご飯を持って来てくれたのだから、食べないわけにはいかないでしょ」と反論しながら、タッパに麻婆豆腐とご飯を詰める。

 食卓での会話はもっぱら、5月の週末の予定。「28日が祝日だから、27日に休みをとれば4連休。どうする?」「ドバイでも行って、ビーチでリラックスしながら美味しい日本料理でも食べるか?」「11、12日に○○さん夫婦とどこか行こうと計画してたけど、向こうの都合が悪くなって、18、19日に変えられる?」などなど。

 そしたら、妻が席を立ち上がり、「麻婆豆腐を食べたい」と電気コンロ台へ向けて歩き出した。しかし、豆腐ステーキがまだ手付かずのまま残っている。「できたら、古いものからなくしてほしいのだけど?」と言うと、「あなたも麻婆豆腐食べているじゃない」と動じない。「私は、昼ご飯に麻婆豆腐が食べれないから今食べているだけ。あなたが持ち帰って来た豆腐ステーキを、責任持って食べてほしい」と言う。結局、妻はステーキを食べず、お皿を片付け始めた。私は、「豆腐を手に入れるのだけで大変な作業なのに、なんで、こうやって無駄にするの?」と問いつめる。「食べたくないのだから仕方ないでしょ。あんかけがなくなったから、豆腐に味がないし」と言う。「醤油でもかけて食べればいいじゃん」と言うが、「美味しく食べたいの。そんなに無駄にしたくないなら、あなたが食べたらいいじゃない」と言う。

 私は、仕方なく、自分が食べられる分は食べ、少し残った豆腐ステーキはゴミ箱に捨てた。 麻婆豆腐を作ったフライパンをコンロから流しに移そうとした瞬間、想定外の物が私の視界に入った。フライパンに麻婆豆腐の豆腐が二切れだけ残っているのだ!あんかけ豆腐ステーキは1日放置されたから食べたくない気持ちはわからなくもなかったが、麻婆豆腐の豆腐を二切れだけ残していく行為に弁解の余地はない。私は、感情の抑制が効かなくなり、言語をハングルから英語にスイッチした。

私:なんで、豆腐二切れだけフライパンに残っているの??弁当に持っていけばいいじゃん?なんで、人が作ったものをこうやって祖末にするの?もっと、作った人の気持ちとか考えてくれないかな?

妻:そんな声を上げる話じゃないでしょ。弁当に入れればいいんでしょ。(タッパを持ってきて、私が、豆腐をその中に入れる)

私:いつも、ちょっとだけ残すの止めてほしいんだよね。作る方の気持ちを考えてよ。

妻:「いつも」っていつ?

私:いつもだよ!

妻は、そのまま台所を出て、出勤の準備を始める。私は、ぶつぶつ言いながら、皿洗いをする。ケニアに居る時は、皿洗いを食事の直後にすることなんてなかったが、ここに来てから、直後にした方が、汚れが落としやすく、効率的だということを学んだ。

皿洗いを終えて、私がいつもの様に、14階の部屋の窓を開けて、外を眺めながら歯磨きをしていると、スージンが「じゃあ、行くね」と声をかけてくる。

私は、玄関へ行く。「クリーニングに出すものはどこだっけ?」と尋ね、「これ」とソファーの上に置かれた3着のコートを妻が指差す。私が「印刷物忘れないでね」と妻に念を押す。家に印刷機がないため、印刷はもっぱら妻にメールで送って会社でやってもらっている。「今日、何か買っておくものはないね?」と妻に聞き、「うん、特にない」と妻はドアを開け、出て行く。

15分後、私は、コート3着を持って、毎週木曜朝に開かれる「主夫会」に出席するため、出かける。

それにしても、料理したものを残されるのがこれほど腹立たしいということとは全く知らなかった。子どものころ、味噌汁に入ったワカメやキノコを残し、母親が「いやねえ」とこぼしていた気持ちが、今になってよくわかる。お母さん、ごめんね。あの時は無理してでも食べるべきだったよ。

101位の国から4位の国へ、そして再び101位の国へ、、、。


毎週木曜朝の「主夫の会」にはその後も欠かさず出席を続けている。「この前、映画館のチケット売り場で並んでいたら、横からアゼル人が列を飛ばして入ってきた」と文句を言うものがいれば、「君の行っているジムのプールの水にはどんな化学薬品が入っているの?」などと、生産性が極めて乏しい会話が主流だ。今までだったら「そんなこと話してどうする?」なんて馬鹿にしていただろうが、今は違う。生産性を気にしなくていいということは、社会が平穏な証であり、私はこれまでにない新しい種類の居心地良さを感じ始めていた。(例えば、昨年6月、私が働いていた難民キャンプで、一緒に飯食ったことある友人が突然武装組織に拉致された。そんな時、プールに化学物質が入っているかどうかなんて考えている精神的余裕なんてないのだ)。

その後、メンバーは一人増え、アメリカ人のジョン(40代)が加わった。イギリス人のメタボのジョンと区別するために、「ニュージョン(アメリカの方)」「オールドジョン」という呼称を使っている。さらにややこしくするのが、ニュージョンの10歳の息子の名前も、なぜか「ジョン」。「困惑するから、彼は『リトルジョン』にしよう」ということになった。ニュージョンのワイフもBP(英国石油会社)で働いている。

私を主夫会に招き入れたハンズが、私と同じオランダのユトレヒト大学院出身という事は記したが、ニュージョンの出身地が、なんと私が卒業した大学があるフロリダ州マイアミなのだ。出会った日に、ニュージョンがマイアミ大学のTシャツを着ているのを見て、私は驚いた。「マイアミ大学には行かなかったけど、スポーツ観戦にはよく行ったよ」と言う。(甲子園で出身県代表の高校を日本人が応援する感じで、アメリカでは出身州の大学チームを応援する)マイアミ時代によく行ったレストランやカジノの話で盛り上がった。

私は2002年に卒業して以来、多くのアメリカ人に会ってきたが、マイアミ出身の人に会うのは初めてだ。ハンズといい、ニュージョンといい、私はこの主夫会と運命的なつながりの様なものを感じた。見知らぬ土地で「専業主夫」という、超マイノリティーに属した私の居場所を提供してくれたのが、日本人ではなく、アメリカとオランダ人ということが、私が歩んで人生をそのまま象徴しているかのように思える。日本で兄姉より成績が悪いことにいつも劣等感を抱いていた自分は、15歳で交換留学生として渡米し、自分が名字ではなく、ファーストネームで呼ばれることにたまらない開放感を覚た。日本で在籍していた高校に退学届を出し、そのまま大学院まで欧米で9年間過ごした。

 国連が算出したデータを基に、どの国がどれくらい男女平等なのかを示すランキングが毎年発表されている。日本は135カ国中、101位。アメリカ22位、オランダ11位、そしてスウェーデンは4位。ちなみに、アゼルバイジャンは99位で、日本と競っている。この指標は、「経済活動」「教育」「健康」「政治への関与」の四つの点数の平均で競っているのだが、教育と健康は、日本もトップクラスに属する。問題は、経済活動と政治への関与。つまり、他の先進国と比べ、日本では雇用や昇進の機会で男性が優遇され、国会や地方議会の議席の多くを男性が占めているという現状が示されている。

 私は、101位の国で生まれ、15年過ごした後、1996年からトップクラスの国で9年間過ごした。その時の「カルチャーショック」は凄まじく、再び、2005年に101位の国へ戻った時の「逆カルチャーショック」は、さらに凄まじいものだった。

 アメリカの高校の野球部には「マネージャー」というものはなく、水汲みなどの雑務はチームメートで手分けしてやっていた。「日本にはマネージャーがいて、道具を運んだり、スコアブックをつけたり雑務をしてくれるのだけど」とチームメートに言うと「誰がそんなのをやりたがるの?」と首を傾げられた。「生徒がボランティアでやり、多くの場合は女子生徒。私が通った日本の高校では、応募者多数で面接で選ばなければならないほどだった」と言おうとしたが、断片的な情報だけで「だから日本は、、、、」と評価したがるアメリカ人が多いことに辟易していた私は黙っていた。

 出身地、新潟で通った私の中学校は、私が入学する5年前に女子バスケ部ができたばかりで、それまではバレーボールだけが、女子生徒ができる団体球技だった。(この女子バスケ部が創設されたのも、私の三姉が「バスケがしたい」と言ったため、母親が学校へ電話をしたことが始まりだったという)。一方、米国の高校では、この二つの他に、女子サッカー部とソフトボールがあり、中でもサッカーが女子生徒の間で一番の人気スポーツだった。

 私が通った日本の中学や高校で、昼休みに男女が交わってご飯を食べる風景は皆無だったが、米国では当たり前。同じグループの女子生徒が出場するサッカーの試合を、男子生徒たちが観戦しに行ったりもしていた。

 オランダでは、当時、付き合っていた彼女に「私の家でご飯にしましょう」と言われ、行ってみると、台所に材料が置かれたままになり、「私が部屋の掃除するから、あなたが料理して」と言われ、「え?招待してくれたのじゃなかったの?」と聞くと「だって、あなたの方が料理するのが速いから、その方が効率的でしょ」と言われ、ガックリした。

 オランダは、今年のワールドベースボールクラシックで韓国やキューバを倒し、日本同様、準決勝進出したヨーロッパの野球大国だ。私は大学院時代、オランダのアマチュア二部リーグのチームでプレーしていたが。チームの監督は、5分でも選手が練習に遅刻したら、容赦なく次の試合のスタメンから外すような厳しい人だった。そんな監督だが、「6歳の息子の野球試合を観戦に行くから」という理由で公式試合を休んだ。しかし、チームの誰もが、それは誰にでも与えられた当然の権利として、驚かなかった。日本で、高校野球の監督が、県予選の試合に同じ理由で欠席したら、どうなるだろうか。

 オランダやスウェーデンでは、男女だけでなく、社会のあらゆる面が平等だった。学生は大学教授をファーストネームで呼び、講義は、原則、少人数で討論式。(米国で教授をファーストネームで呼ぶのはご法度)教授からレクチャーを受けるということがあまりなく、学生が教授の意見に異を唱えることなど、日常的な光景だった。(私は日本の大学に通ったことがないので、日本と単純比較はできないが、、、)

 大学院で、私が「難民」をテーマに発表した時、かなり気合い入れてやったのに、思った様な成績が取れなかった。教授に尋ねると、「発表はとても興味深くて、ヨーコーの想いが伝わったけど、あまり感情的に話されると、聞いている方が、自分たちの思ったことを率直に言いづらくなるから、できるだけ、自由な議論を促せるような発表を心がけて」というアドバイスを頂いた。それまで、「発表」とは他人を説得するためのものと思っていた私にとって、とても新鮮な発想だった。 教壇に立って話す人も、それを聞く人も平等だということなのだろう。

 同性愛の男性が手をつないで街中を歩き、大学院の卒業式に、担当教授がノーネクタイで出席したり、自分や他人の肩書をあまり気にしなくてよかった。フランスや日本の友人が「オランダに来て、初めて、周りの目を気にせず、自分らしい格好や言動ができるようになった」と言っていた。

 男女平等を徹底した母親に育てられ、その文化が日本より根付いている欧米で9年過ごし、2005年に日本に帰国した私は、大きな「逆カルチャーショック」を受けることになった。(続く)

プロフィール

seventh star 7

Author:seventh star 7
黒岩揺光  
1981年、新潟生まれ。7人兄弟の末っ子。15歳で米国留学して以来、住んだ国は計8カ国に。海外生活計17年。日本では毎日新聞記者、アフリカでは難民キャンプの工場長、アゼルバイジャンで主夫、ジュネーブで国連職員などを歴任。現在は中東ヨルダンで妊娠した妻に寄り添う専業主夫。
 著書に「僕は七輪でみんなをハッピーにしたい」(ユーキャン)「国境に宿る魂」(世織書房)。
メール連絡先 yokuroi×hotmail.com (「×」を「@」にしてください) ツイッター:@YokoKuroiwa

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