妻の仕事を理由に3回仕事を辞め、計2万キロ移動した男

主夫会メンバー6人の内、ハンズとグレムがアゼルバイジャンを去り、オールドジョンは夏休みでイギリスへ一時帰国。6月20日の主夫会は、私のニュージョン(44歳)だけとなった。が、学校が夏休みに入ったため、ニュージョンの息子2人、リトルジョン(11歳)とジェイク(5歳)も加わった。

ニュージョン

ニュージョンはマイアミ出身。12歳で父親を糖尿病で亡くし、母子家庭で育てられた。「それまでは母が家で家事、育児をして、父が外で働く、ごく普通の家庭だった。でも、父が亡くなり、母が働き始め、私と五つ上の姉も家事を手伝うことになった」と言う。

大学で心理学を学び、非行少年の保護施設で働いた。その後、マイアミの2年制カレッジで進路相談員となった。スポーツ好きのニュージョンは、地元のソフトボールリーグで毎日の様に試合をした。チームが人数不足に陥った時に友人の紹介でアナというコロンビア人女性がチームメートになった。「最初会った時は、身長150センチの女性がスーツ姿で来たから、『この人、本当にソフトボールできるのかな?』って不安だった」と言う。

アナがセカンドを守っていたから、「セカンド狙って打て!」と相手チームベンチから声が上がった。「それで、アナが、センターへ抜けそうなゴロをバックハンドで捕って一塁へジャンピングスローで投げた瞬間、相手チームが黙ったんだ」と誇らしげに話す。
一つ年下のアナと、3年後の2001年に結婚。長男のリトルジョンが生まれた。アナはコロンビアの大学で化学工学を勉強し、石油大手「カストロル」のマイアミ支社からオファーをもらい、米国へ移住していた。
2002年、BPがカストロルを買収し、アナはBP社員となる。

その年のニュージョンの誕生日、アナに「ヒューストン」という名前のステーキ店に招待された。そして、ヒューストンにあるスポーツチームのロゴが入った誕生日ケーキが出てきた。ニュージョンは、ヒューストンにBPの大きな支社があることに気付き「ひょっとして、異動になったのか?」とアナに尋ねたら「当たりー!」とハイタッチされた。

アナにとっては地方から本社へ昇進する様なもので、口では「おめでとう!」と言ったが、心中複雑だった。

数日間、アナと自然体で話すことができなくなった。自分が積み上げたキャリアをすべて捨てて、1000キロ以上離れたヒューストンで一からスタートできるのか?マイアミにはすでに自前のヨットも購入していた。
2人の当時の収入はあまり変わらなかったが、「大学勤務より、大手石油会社の方が、将来的に収入が高くなることは簡単に想像ができた」と言う。
さらに、マイアミを出たい理由が2人にあった。アメリカでは、公立学校のレベルの地域間格差が激しく、マイアミは低い方だったという。進路相談をしていた大学の学生が中学レベルの算数問題が解けなかったりした。そして、石油会社と違い、大学はどこにでもある。「自分が新しい就職口を探すのは、アナと比べたらそこまで難しくない」とニュージョン。
誕生日から約1週間後、アナに伝えた。「アナのために、俺はヒューストンでキャリアを一からスタートする。ヨットも売る。その代わり、一つ条件がある。ヒューストンに行ったら、出張はしないでくれ」。マイアミ勤務の時、アナは、国内外に長期出張が多く、あまり一緒にいることができなかった。「ヒューストンに付いて行って、見知らぬ土地で独ぼっちにされたらたまらない」とニュージョン。アナは「大丈夫。新しい部署で、出張はほとんどない」と答えた。

私が「アナに『異動を断って』と言うことは考えなかった? 」と尋ねると「それはなかった。彼女はコロンビアから自分のキャリアを伸ばすためにはるばるアメリカへやってきた。その彼女が目を輝かせて『異動が決まった』と言ってきた。それを『断れ』なんて自分に言う権利はないよ」とニュージョンは言う。

ヒューストンに着いてからが「人生で一番辛かった」。米国で人口が4番目に多いヒューストンには多くの大学があったが、いくら履歴書を送っても、なかなか返事が来ない。当時、銀行口座は夫婦別々にしており、収入がなければ、クレジットカードの返済が滞ってしまう。アナは「お金に困ったら、私のカードを使って」と言ってくれたが、男のプライドがそれを許さなかった。「妻にお小遣いを求める男にだけはなりたくなかった」と言う。

朝起きても、何もすることがない。リトルジョンを保育所に預け、パソコンに向かって、仕事を探すだけ。退屈と孤独とプレッシャーの三重苦だった。アナの帰りが数分でも遅れたら、電話をし「どうしたんだ?遅いじゃないか?」と苛立った。1ヶ月半後、2年制カレッジの進路相談員として就職した。

3年半後、アナは、ヒューストンからアラスカに異動となった。大学まで毎日1時間半運転して通勤していたニュージョンは「もう少し条件の良い職場が良かったから、この時の異動話はすぐ受け入れられた。それに、アラスカは風光明媚で、大好きなハイキングやキャンプができるからね」と言う。

ニュージョンはアラスカ大学で働き、2008年、次男のジェイクが生まれた。4年後、アナは、家族が同伴できないアラスカ州の僻地勤務となった。キャンプ暮らしの劣悪な生活環境のため、2週間勤務したら、2週間休むというスケジュールだった。これにより、アナが僻地へ行く2週間は、ニュージョンが仕事をしながら一人で子ども2人の面倒をみなければいけなくなった。地元の学校で野球のコーチもやり、さらに、大学院の通信教育も受講していたニュージョンは、一気に多忙になった。

ある日、ジェイクが保育所で転んで唇を切るケガをした。ニュージョンは野球のコーチ中で電話に出れず、僻地勤務中のアナに緊急電話がかかってきた。

アナは「どちらか片方の親ができるだけ子どもと一緒にいるようにしたほうがいい」と強く感じ、ニュージョンに一つの提案をした。
「仕事を辞めたらどう?」。

ニュージョンは怒った。「ふざけるな!」

それまで貯め続けてきた「不公平感」をぶちまかした。「これまで俺が家族のためにどれだけキャリアと妥協してきたと思っている?自分勝手なことばかり言いやがって!」。

次の日、アナは冷静に夫に語りかけた。

「お互いにとってプラスに考えられないかしら?あなたは修士号を取りたいと前から言っていた。仕事を辞めれば、勉強に集中できるじゃない?子どもにとってもどちらかの親が常に一緒にいた方がいいわ。経済的には私だけの収入で生きていけるのだから。大学院に行く奨学金を得たと思って考えて。仕事、育児、勉強、スポーツ、一度にすべてをやろうとしているあなたが楽しそうに見えないの」。

ニュージョンは考え直した。「アナは私を虐げようとしているのではない。あくまで家族にとって何が一番良いか考えようとしているだけなんだ」。1週間後、上司に退職願を出した。

通信教育のため、アラスカで暮らす必然性がなくなり、それまで旅行した中で一番好きだったサンディエゴに1年、そしてフロリダ州の海岸沿いの小さな町に1年暮らし、アナはそこから毎2週間、アラスカに飛んだ。
フロリダでは、家の裏が海で、毎週末、ボートに乗って釣りに出かけた。朝起きて海を見ると、ドルフィンが飛ぶこともあった。「夢の様な生活だった」と言う。

そして、1年半後、アナへ海外駐在の話が来た。選択肢は三つで、スコットランド、アンゴラ(アフリカ)、そしてアゼルバイジャン。天気が悪いスコットランドはだめ。アンゴラは子どもの教育設備が整ってない。行くとしたらアゼルバイジャンだった。全く国のイメージができなかったが、同僚にアゼル人がいて、「とても良い所よ!」と言われ、グーグルで検索してみた。四季があって風光明媚で治安も良く、教育設備もしっかりしている。確かに悪いところじゃなさそうだった。
契約は3年間。ニュージョンは、「アメリカ国内なら仕事は見つけやすいが、英語が通じないアゼルバイジャンは話が別だ。3年間も俺は何をすればいいのだ?2年、通信教育を受け、3年、仕事がなければ、計5年のブランクになる」と拒絶した。

アナは言った。「あなたがそこまで働きたいなら、私がこの仕事を辞めるわ。でも、一つだけ言わせて。アゼルバイジャンに行けば、医療保険、家、車、子どもの学校が無料で提供され、さらに海外駐在手当が出る。支出は食費だけになるのに、収入は増えるのよ。私たちがアメリカで10年共働きして貯まるお金が、アゼルバイジャンでは2、3年で貯めることができるのよ」

ニュージョンは悩んだ。毎回、毎回、アナに良い様に言いくるめられている様な錯覚にとらわれた。しかし、アナの言っていることを頭の中で繰り返せば繰り返すほど、それが「全うな判断」という結論しか引き出すことができなかった。母子家庭で育てられ、奨学金がなければ大学には行けなかった自分の苦しみを、子どもに味わせたくない。

2012年8月、会社の招待で、アゼルバイジャンに「下見ツアー」に家族で来た。(海外駐在前に支給される手当の一環)。BPにとってアゼルバイジャンは世界で最も大きなプロジェクトの一つ。アナは事務所の規模や様々な国籍の同僚に会い、「一気にやる気が出た」。

一方のニュージョン。街で人に話しかけても英語が通じない。スーパーで買い物をすれば列に割り込んでくる人がいる。初めての国外生活。友人もいない場所で、家に取り残される生活を想像できなかった。二日目の夜、ニュージョンは「こんな所で3年も住むことはできない!」とアナに言った。アナは「もう下見ツアーまで来て、何言っているの?会社にどれだけのお金をかけてもらっていると思っているの?」と怒鳴り返した。「おそらく、これまでで一番大きな喧嘩だったかもしれない」と2人は振り返る。

2013年1月、アゼルバイジャンに家族4人で到着。会社からすぐ割り当てられるはずの車と家が、なかなか支給されず、短期滞在用の3LDKのマンションに暮らした。

アナは新しい仕事へ慣れるため、毎朝、引き締まった顔で家を出て行く。一方、ニュージョンは、友達もいない。英語も通じない。車もなく、移動の自由もない。 見知らぬ土地へ連れられ、牢屋に入れられた気分だった。アナが家に帰って来ても、アナの顔を見て話す事ができない。 アナが「何かあったの?」と尋ねても、無視するか、「何かあっただと?こんな知らない国に住まわされて、何もない方がおかしい!」と感情的に返した。

アナの同僚の妻に「料理教室やるからいらっしゃいよ」と誘われ、平日の昼間に行くと、そこには50人の「マダム」がいた。男性一人ぼっちで「宇宙人の気分だった」と言う。

朝6時に起き、朝ご飯の支度をし、子どもを学校へ送る。スポーツセンターで汗を流し、昼ご飯を食べ、午後1時半にジェイクが、午後2時半に、リトルジョンが学校を終え、迎えに行く。午後は、子どもたちの世話をし、夕ご飯の支度をする。アナは残業がほとんどなく、夜は家族4人で映画を見たり、海岸を散歩したりして過ごす。

木曜日の「主夫会」の存在は一ヶ月経ってから知り、同じ境遇の男たちに出会って「救われた気分だった」と言う。毎週楽しみに通い続け、日々のあらゆる愚痴を言い合い、鬱憤を晴らした。

子どもとバスケをしたり、日曜日はアゼル人少年に野球を教えたり、支給された車で、週末に風光明媚な地方都市へ出かけたりするうちに、「自分は『仕事ができない』のではなく『仕事をしなくても良い』恵まれた環境にいるんだ」って思えるようになっていったという。
「自分は12歳で父親を亡くした。それまでは毎日、学校から帰ると母親が家で待っていてくれた。海に散歩に連れて行ってくれ、菓子を買ってくれた。最高の思い出さ。でも、父が亡くなって、母は毎日仕事に行かねばならず、私は一人ぼっちだった。気付いたら、今、自分は、母親が自分にしてくれたことを、自分の子どもたちにやっていたよ。いつもアナのために自分のキャリアと妥協してきたと思ってきたけど、自分が仕事を辞めた本当の理由は、もっと別の所にあったのかもしれない。

自分の母親が一生懸命働き、私は子どもとして家事を手伝った。そこには誰が男で誰が女とかなかった。そんなこと考えている余裕なんてなかった。だから、今、こうして、自分とアナが「男」か「女」かというよりも、夫婦として、家族のためにどう貢献できるか考えられたのだと思う」とニュージョンは話した。

アナの母国、南米コロンビアは未だに「男は外で働き、女は育児家事」の考えが根強いと言い、「夫がコロンビア人だったら、私は今頃離婚していたか、育児に専念させられていた」とアナは言う。子どもの頃、夏休みになると、父親から「洋裁教室」に通わされ、「良い妻、良い母親になりなさい」と言われ続けた。「理系が得意な自分は常に親から否定されている気分だった。だから、コロンビアを出ることが子どものころからの夢だった」と言う。

先週の「父の日」に、アナは子ども2人に「あなたの父親は世界で最高の父親よ」と伝えた。「夫が仕事を辞めて子どもと接してくれるおかげで、リトルジョンは、スポーツが大好きになった。それまでは、私と美術館に行くのが好きだったのよ。他の親からは『あなたの子どもはコンピュータゲームやらないのですね!』って感心されるの」と鼻高々だった。




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講演会「現場の声を聞けない私」開催

  特別講演会「現場の声を聞けない私—世界最大のアフリカ難民キャンプでの1000日—」が8月2日、青森県南部町で開催されることになった。

生活のあらゆる部分で本来、一番大事なはずの「現場の声」が排除されて物事が進められていくことはないだろうか?私は約3年間、アフリカの難民キャンプで支援活動をしていたにも関わらず、一番大切な「難民の声」に耳を傾けることができないことが多々あった。それにより、難民にとってそこまで必要でない支援を実施してしまうどころか、難民の人の生活を脅かしかねない事までしてしまった。

なぜ、私は現場の声を聞く事ができなかったのだろう?それは自分が抱く「支援」のイメージや理想が、現場とかけ離れたものだったから。

7月末から8月末までの一時帰国中、他の地域でも、講演会開催の可能性があるので、どうかよろしくお願いします。詳細は後日、お知らせします。

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周りがどう思うかでなく、家族にとって何が大事か考えろ


主夫会メンバーのスコットランド人、グレム(50歳)がアゼルバイジャンでの6年間の「主夫生活」を終え、家族と帰国することになった。

グレムは地元の大学在学中に隣の席に座ったスーザン(49)と恋に落ち、卒業後に結婚。グレムは、地元の銀行に就職し、首席で卒業したスーザンは大学院で経営学を学び、石油大手のエクソンモーバイル社に入社した。

その後、グレムは15年働いた後、証券会社に転職し、3年後には市役所でコンサルタント業務に就いた。スーザンは、5年後に大学の講師になり、長男出産と同時に、フレックスタイムができるエクソンモーバイル社に舞い戻った。そして3年後、BPから誘いを受け、再び転職した。

2007年、スーザンにアゼルバイジャン駐在のオファーがきた。父親の仕事の関係で10歳までインドで過ごしたが、それ以来、海外暮らしをしたことがなかったスーザンは、新しい環境で仕事をしてみたいと思っていた。が、グレムが乗り気になるかどうか不安だった。グレムはそれまで一度も海外に住んだことがなく、アゼルバイジャンに行けば、おそらく仕事に就くのは難しい。年老いた母親の世話もある。

しかし、グレムは「いいね!」とあっけなく了承した。「海外で生活できる機会なんてそうあるもんじゃない。海外で暮らしたことがない自分は、何か新しい刺激を欲しかった。当時、2人の子どもが3歳と9歳で、まだ新しい環境に移れる柔軟性があると思った。2人が思春期に入って、成人するまで待ったら、私たちの体が老いて動かなくなるからね。この機会を失ったら、もう二度と来ないと思った」と振り返る。

「アゼルバイジャンに行ったら、仕事ができると思った?」と私が尋ねると「石油関連会社で働いたり、英語を教えるなどの経験があれば仕事は見つけられると聞いたけど、私にはそれがなかった。就労ビザ取得も難しいと聞いていた。だから、私が仕事ができるチャンスはとても小さいことはわかっていた。でも、考えてみたんだ。『私が仕事を見つける必要性って、どこにあるのだろう?』ってね。

まず、スーザンが安定した稼ぎがあるから、経済的に私が働く必要性はない。それに、私は、仕事は嫌いじゃないが、そこまでキャリアを生きがいに思ったことはない。20年以上働き、少しくらい仕事以外の人生を楽しんでみたいという思いもあった。『男だから働かなくてはいけない』っていう伝統的な価値観を大事にする人もいるけど、私は『家族にとって一番大事なものは何か?』を第一に考えた。スーザンは、大学卒業してからずっと私より高い給料をもらっていた。そこで、私が『男だから』という理由で、彼女のキャリアをストップさせたら、私も気まずいし、彼女も気まずくなるだろ?お互いの関係にとって良くないじゃないか。だから、『私にとって何がベストか?』ではなく、『2人にとって何がベストか?』を常に考えた。

私たち2人だけじゃなく、アゼルバイジャンに行けば、駐在手当が付いて、貯蓄が増えるから、子どもたちの将来の教育費を貯めることができる。未知の世界への不安もあったけど、『家族4人のうち誰か一人でも気に入らなかったら、戻ってくればいい』という前向きな気持ちで向かった」と話す。

アゼルバイジャンに着いて、すぐ、子どもたちは友達ができた。BPの社員が多く住む住宅街の一戸建てが割り当てられ、近所には同僚の子どもたちがたくさん暮らしていた。住宅街の中に、BPが作ったすべて英語で教える学校があり、通学も楽だった。

スーザンはすぐ仕事にのめり込んだ。人事部の部長として、様々な国出身の同僚と新しい人事管理システム作りに携わった。

そしてグレムは「スーザンと子どもたちが楽しく暮らせるということが自分にとっては一番」と言い、スーザンの同僚の妻たちと写真教室に通ったり、音楽クイズ大会に出場したり、テニスをしたりして時間を過ごした。朝は子どもたちの朝ご飯を用意し、サンドイッチやパスタなどの弁当を持たせる。昼はスポーツセンターで汗を流し、主夫会メンバーとコーヒーを飲み、夜は夕ご飯の支度をし、夕食後は子どもの宿題を手伝った。

そして、もう一つ、グレムには大きな役割が与えられた。家族旅行の企画、運営だ。スーザンには年間40日の有給休暇と、アゼルバイジャンには18の祝日があるため、年に3、4回は家族で海外旅行に行った。6年の滞在の間に、メキシコ、フランス、トルコ、イタリア、オマーン、シンガポール、タイ、インド、オーストラリア、南アフリカ、ウクライナ、ブルガリアに出かけた。「行き先の選定から、ホテルや飛行機の予約まで、全部、グレムがやってくれた」とスーザンは言う。「スコットランドにいたら、年間有給休暇は28日だけで、手当も出ないから、こんなに海外旅行に行く事はできない」とグレム。

最初の契約は3年だったが、それを4年に、さらに6年に延長を重ねた。グレムは「家族が皆幸せそうだったから、スコットランドへ戻る理由が見つからなかった」と言う。「ブランクが長くなれば長くなるほど、再就職が難しくなるとは考えなかった?」と尋ねても「繰り返しになるけど、自分にとってはキャリアが第一じゃないんだ。スーザンが仕事を辞めたいというなら別だけど、彼女がバリバリ働いているうちは、家族が飢えることはない。私が仕事をしたければ、ブランクが何年あっても、何かしら見つかると思う」と楽観的だ。

「専業主夫になって得るものはあった?」と尋ねると、「娘は私の事が大好きなんだ」と満面の笑みを見せて話した。「エイミー(9歳)は母親よりも、私と多くの時間を過ごしている。3歳でここに来てから、私ができるだけ彼女のそばにいるように心がけたからね。学校で困ったことがあったらすぐに駆けつけた」と言う。スーザンも「エイミーは本当にグレムが大好きでね。近所の人たちから『またあの2人一緒にいるよ』なんて羨ましがられるくらい、仲良しなのよ」と、少し嫉妬気味に話した。

グレムは「主夫会のジョンとも6年の付き合いになるけど、私たち2人には驚くほど共通点がないんだ。彼はスポーツ嫌いで、真面目な話が好き。私はその逆。だけど、『主夫』という共通項で仲良くなった。ジョンだけじゃなく、スコットランドでは出会うことができない多くの外国人と仲良くなり、家族の様な関係になれたのも良かった」と言う。スーザンも「グレムは、アゼルバイジャンに来て、すごい社交的になった。スコットランドにいた時は、パーティに行くといっても『何話したらいいかわからない』とか行って、あまり乗り気じゃなかったけど、ここではそういうことはなくなった。突然、近所の人が家にワインを持って立ち寄ってきたりするのをとても楽しんでいたわ」と言う。

「スコットランドでは、毎日、忙しかった。仕事があって、家事があって、育児があって、週末は子どもの部活の送迎があって、毎日、『次はこれ、その次はあれ』と頭がぐるぐる回転していた。でも、ここに来て、本当にゆったりできた。何も急ぐ必要はなかった。スコットランドでは隣人の名前も知らないことがあるけど、ここは、皆知り合いで助け合う。スローライフで、人と人との繋がりの大切さを学んだよ」とグレムは言う。


私が「専業主夫であることで、周りから変な目で見られたことはなかった?」と尋ねると「そういう風に考える人もいたかもしれないけど、他が自分をどう思っているかなんて気にしないよ。一番大事なのは、自分たちにとって何が一番大事なのか考えることじゃないかな」とグレム。スーザンも「2人の子どもたちも、グレムの様に、周りの目を気にするのではなく、家族にとって何がベストか考えられる様になってほしい」と話す。

グレムは「スコットランドにも『地位』とか『昇進』とか気にする人は多いよ。でも、自分は、そういうのに対して鈍感というか、固執したことがない。私は未だに自分が心の底からやりたいと思う仕事に出会った事がない。だから、仕事に生きがいを持てる人が羨ましい。でもね、自分に仕事がなくても、それで家族が幸せでいられるなら、それが私にとっての幸せだと思う。そう、アゼルバイジャンに来て強く実感したよ」と言う。

結婚して30年になるが、これまで2人が離れ離れになった最長期間はスーザンが出張で出かけた2週間だという。年間100日前後しか顔を合わせなかった私たち夫婦とは対称的だ。

アゼルバイジャンのBP支社は約4000人の社員を抱える。その内、アゼル人以外の外国人は350人で、女性は20人にも満たない。スーザンは「石油会社は理系職が多いから、男性が多いのは当たり前だけど、それでも女性が1割以下になるのは、専業主夫として女性に付いて行く男性が少ないのも一つの要因だと思う」とスーザンは言う。

私が「自分の夫が専業主夫ということで、アゼル人からは驚かれた?」とスーザンに尋ねると「驚かれるどころか、羨ましがられたわ。BPでは多くのアゼル人女性も働いていて、そのほとんどが夫よりも給料が高いのに、家事、育児は100パーセント彼女たちがやっている。だから、すごい大変そう。私は、グレムのおかげで仕事に集中できるから本当に恵まれているわ」と鼻高々だ。

グレムとスーザンの話は、私の心に大きく響くものがあった。これまで、「私は男女平等主義」と言う多くの日本人(男性)に会ってきたが、彼らの言っていることがどうしても偽善的に聞こえてしまう。「俺はね、妻が好きなようにどんどん働いてほしいと思っているよ」と言いながら、家事、育児はほとんど女性に任せきりの人。「サッチャー(元英首相)は、よく女性の権利向上の象徴だって言われるけど、結局のところ、彼女は『男性の役』を演じた女性なんだよ」と何が言いたいのかよくわからないことを言う人。いつも「ああ、この人、俺とは違うな」と心の中でつぶやいていた。でも、グレムとスーザンの話は、針灸師に凝っている部分に針を刺されたときの様な「あ、それそれ!」という爽快感があった。

グレム一家がアゼルを旅経つ前日の6月15日、私は一家と、スポーツセンターのプールで一緒に遊んだ。グレムの身長は168センチで、スーザンより10センチ以上低く、一緒に歩くとスーザンの存在感が圧倒的に勝る。「グレムは運転嫌いだから、普段は私が運転するの」とスーザン。娘のエイミーは、グレムの右腕にピッタリとくっついている。日光浴が好きなスーザンは日向で同僚と寝そべり、日陰が好きなグレムは少し離れたところで寝そべった。子どもたちはそれぞれの友達と水遊びをしている。

午後5時ごろ、私が荷物をまとめて帰ろうとすると、グレムも「俺もそろそろ」と立ち上がった。スーザンは「もうちょっとここにいる」と友人とプール際で水に足を入れながら話し続けた。エイミーは「パパが行くなら私も」と、私たちは3人でプールを出た。

スポーツセンター前で、私は「じゃあ、これでお別れだね。今度スコットランドに遊びに行くよ」と手を差し出すと、グレムも右手を差し出し「うん。メールでもくれよ」と答えた。エイミーと手をつないで歩くグレムを見て、私に子どもができたら、あれくらい懐かれる父親になりたいと心から思った。

世界から愛される日本の食文化


5月24日の第一回寿司教室が成功に終わり、その後、6月5日、8日、9日、11日と続き、5回の教室に計28人が参加した。受講者の出身地は、アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、南アフリカ、コロンビア、ボリビア、カナダ、オーストラリア、ルーマニア、イラン、アゼルバイジャンの世界全6大陸、13カ国と多岐に渡る。年代も20—50代までと様々で、平日はほとんどが女性だが、週末には男性参加者も5人いた。改めて寿司人気の凄さに驚き、日本の食文化の偉大さを肌で感じた。

 5日の第二回授業では、ご飯にかける「酢」を電子レンジで温める理由を聞かれ、「やべ、何だったっけ?」と心の中でつぶやく。「、、、、。ええーと。冷たい酢をご飯にかけると、ご飯の味が変わるみたいです、、」と適当に答え、受講者たちは「へえ!そうだったのかー」と納得してしまった。後から、インターネットで調べると、「砂糖と塩を溶けやすくするため」ということがわかり、「こんな簡単なことだったのか!」と思わず手を叩いてしまった。

これ以上、失態を晒してはいけないと、YouTubeで本物の寿司職人が太巻きを教える姿を見て勉強し、それを、そのまま寿司教室で真似させてもらった。著作権とかないよな、、。

例えば、ご飯を海苔に付ける際、受講者の多くは手を水で濡らしすぎてしまう。それによって、ご飯が濡れすぎたり、海苔が濡れてヘナヘナになったりし、寿司が変形する原因となる。そこで、YouTubeの職人を真似して「すし飯を海苔に付ける際、ご飯が手に付かないよう、水で濡らすのですが、濡らしすぎないように注意してください。濡らしすぎるとどうなるかわかりますか?」と対話形式を取り入れ「海苔に水が付いてしまうから?」と正答が出てきたところで「そうですね。日本の寿司屋に行くと、職人がよく、手をパシッって叩きながら寿司を握るのですが、それは別に気合いを入れているわけではなく、手についた余計な水分を取り除くためにやっているのです」と手を叩いてみせると、受講者は「おおー」と喜ぶ。

慣れないせいか、大半は、海苔にご飯を付けるのに多くの時間を擁する。そうすると、濡れた手が海苔と接触する時間も多くなるから、寿司が変形する可能性がさらに高くなる。「できるだけ短い時間で、ご飯を手で延ばすというよりは、指先で置いていく感じにすると、海苔が濡れにくくなります」とアドバイス。

さらに、受講者の何人かは、巻きすで寿司を巻く際、エビやサーモンなどの具をこぼしてしまうことがあった。YouTubeのおかげで、これは、具の置き方に問題があるということがわかった。「具を置く時、エビなどのこぼれやすいものは手前に置き、人参やキュウリなど安定しやすい物を奥に置くと、巻く際に、人参やキュウリがエビの『支え』の役割をしてくれます」と話すと、受講者たちは「おお!さすが先生だ」と感心してくれた。YouTube最高!

他にも、すし飯を扇ぐのは冷ますよりも、余計な水分をはじき飛ばす役割があることがわかり、第一回寿司教室が誤った情報で一杯だったことが判明した(汗)。

教室の運営も、回を追うごとに進化した。寿司巻きを披露する際、私がまず見本を見せたあと、受講者に一斉にやってもらうのではなく、見本の後、受講者一人にやってもらい、その受講者に私がアドバイスするのを見てもらうことで、さらにわかりやすくした。寿司を強く押しすぎて具が出てしまう人や、包丁で切る際に、寿司を力強く抑えすぎて、形が変形したり、具を端から端まで置かずに巻こうとしたり、、、。

寿司を食べる際には、必ず、受講者の声を聞く。「巻きすは小さい方がやりやすい」「日本の音楽と流したらどうか」など、有益なアドバイスを頂く。「寿司の歴史とか知りたいな」という声があれば、早速、YouTubeで映像を探し出し、それを、次の授業の冒頭で流す。それによると、寿司の原型の発祥は日本ではなく、東南アジアで、今の寿司の形にしたのが日本だという。それを見ながら、私は受講生の1人の様に「へえ」と頷き、映像終了後「どうですか?寿司の歴史は深いということがわかっていただけましたか」と、得意げに尋ねた。(ちなみに、第一回教室の様に、最初の自己紹介で、私がアメリカで寿司で友達を作ったことや、私が専業主夫になった経緯を話すと、必ず笑ってくれる)

受講生一人一人が寿司を持った姿を写真に収め、それをメールで「受講証明証」として送る。そうすると「とても楽しかった!ありがとう。別の授業があったら必ず連絡して」「私が美術を教える学校でも教えたらどう?」「夫がホテルの支配人だからあなたのこと、しっかり伝えておくわ」などと連絡があった。

社会的立場の弱いアゼル人を雇って「寿司カフェ」を運営するアイデアには、ほとんどの受講者が「よい考えね!」と賛同し、ボランティアで様々な活動する人たちの連絡先を教えてくれた。

そして、6月12日は、ハンズから、「レベッカ(長女)の学校での年度末パーティがあるから、そこで寿司を作ってくれないか?」とのお願いが。 学校の講堂で、高校1年のレベッカの同級生30人が、スーツやワンピースなどを着てステージで歌やスピーチを披露するパーティに私の寿司が並んだ。生徒たちも寿司が大好きなようで、両手の親指を立てて、私に「美味しい!」と喜んでくれた。

結局、6月5日から12日までの8日間で5回寿司を作ることになってしあった。これで、寿司プロジェクトは、「社会的に弱い立場にあるアゼル人」を探し、寿司作りを教えるという第3ステージに突入することになった。

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日本に馴染めない日本人 その2 男女平等は達成されている?


毎日新聞時代は本当に良い上司に恵まれた。私の書きたい記事に応じて、全国色々な所へ出張に行かせてもらい、たくさんわがままを聞いてもらった。

それでも、広島の尾道に勤務していたころの上司、Yさん(当時40代)とは、私の記事の掲載を巡り、一度だけ対立した。記者が持ち回りで好きなテーマで書くコラムに、私が男女平等をテーマに書いたら、「20年前とか30年前ならわかるけどさあ、もう、21世紀だよ。男女平等なんてとっくに達成されているじゃないか」と言い、掲載を拒んだ(記事の詳細な内容は残念ながら、どうしても思い出せない)。

私:だったら、なんで、私が料理することを知ると、「え?料理するの?」って驚く人がたくさんいるのですか?色々な国に住んできたけど、男が料理することにこれだけ驚かれるのは、日本くらいです。

Y:その驚く人って、何歳くらいの人なの?

私:すべての世代でいます。この前、支局でシャブシャブしましたけど、残りの肉を私が家に持ち帰ろうとしたら後輩(女性)が「え?それ何にするのですか?」ってマジ顔で聞かれて、答えに困りました。私が、あの肉を家で茹でて、シャブシャブの垂れに付けて食べることに、それほど違和感があるものなのでしょうか? 同じ年代の一人暮らしの男性でも、家のガスコンロを触ったことがないなんていう人、結構いますよ。

Y:俺は毎日ガスコンロつけているよ。

私:男女平等が達成されているなら、なんで、会社内で育児休暇を取る男性が少ないのでしょうか?

Y:何年か前に、育児休暇を取った男性記者がその体験を記事にしていたけどな。

私: 記事にするってことはそれだけ珍しいっていうことじゃないですか。男性社員の育児休暇取得率はどうなんですか?

Y:、、、。確かに、そういう意味では、まだ男女平等は達成されていないのかもしれないな。わかりました。

ということで、記事は翌日掲載された。

Yさんは、当時、読売新聞の地域面が「活躍する女性」の連載をしていたのを見て「いつの時代の話だかなあ。もう、男性とか女性とかいう違いなんてないだろうに」と首を傾げていた。

そのYさんは、数ヶ月後にめでたく結婚。相手は、広島県福山市でこじんまりとしたコーヒー店を経営していた女性Tさん。その結婚式で、Yさんは、結婚への想いを涙ながらに出席者の前で語った。

「一番最初にTさんの手を握った時、とてもざらざらしていた。仕事柄、コーヒー豆を洗ったりするために、手に負担がかかる仕事なのだと実感しました。その時、彼女がこんな大変な仕事をせずとも楽に暮らせるよう、私が守ってあげたいと心から思いました

Yさんの目からは涙が出ていた。Yさんの先輩記者(男性)は「これまでお前がした話の中で一番感動したぞ!」と拍手し、他の約40人の出席者も続いて手を叩き、感動した様子だった。

私は、1人ぽつんと、周回遅れのマラソンランナーの様な気分だった。同じ日本人なのに、発せられている言語の意味が理解できない。

私の目からは、Tさんが女性という特定の性別に属するがゆえに、キャリアの自由を奪われてしまった可哀想な人にしか見えなかった。Yさんは、別にどこかに転勤することが決まっていたわけでもないし、Tさんが妊娠していたわけでもない。
Tさんのコーヒー店にはYさんに何度か連れて行ってもらったことがあったが、カウンター10席くらいの小規模な店で、一杯400円の本格的なコーヒーを楽しみにくるお客さんでいつも賑わっていた。

私が寿司教室を始めた理由の一つに、将来、田舎でこじんまりとしたカフェやペンションなんかやってみたいなあ、という憧れがあったからだ。もしかしたら、Tさんにだって同様の憧れがあって始めたコーヒー店だったかもしれない。

無論、TさんがYさんに「もう、こんな仕事辛くて早く辞めたい」と言っていたのかもしれない。だとしても、Yさんの演説に聴衆が拍手喝采で感動するのは、どうしても理解できないし、明らかに感動を誘うように話していたYさんにも共感できなかった。「女に辛い仕事をさせる男はだめ」みたいに考えているのだとしたら、Yさんが常日頃言っていた「男女平等はすでに達成されている」という文言とも大きな矛盾があるように思えた。

私が記者2年目のころ、毎日新聞大阪本社初の女性部長が誕生するなど、出世していく女性が増えつつあったが、その梯子にのっかる女性は、ほぼ例外なく独身だった。本社のある部長(男性)と飲んだ時「若い女性記者に育休取られると、その後の扱いが困るねん。年次は5年目でも、実際の経験は3年か4年目で、しかもブランク付きやろ」とぼやいていた。私が尊敬するある女性先輩記者は子どもを産むかどうか悩みつつ「女だからって使えないって思われるのだけは嫌なんだよね」と打ち明けた。

内閣府の昨年末の調査によると、「女性は家庭にとどまり家事や育児に専念し、男性は外に出て働くべき」と考える人が5割に達し、1992年以来初めて増加に転じた。しかも、20代での増加幅が一番大きく、「若者の保守化」が懸念された。

しかし、毎日新聞の様に出世していく女性が独身ばかりだったら、自然と若い女性記者は「キャリア」か「家族/出産」かの二者択一を求められることになる。そして、私同様「どんなに偉くなっても、喜びや悲しみを隣で共有できる家族がいないのは寂しい」と考えるなら、その結果として「女性は家庭」と、現実を見据えた選択をしているだけなのかもしれない。

Tさんのコーヒー、美味しかったなー。

夫がいない方が料理の効率があがるというのは本当か


「夫には台所にいてもらわない方が仕事の効率がいい」と、何人かの主婦が話していた。確かに、私たち夫婦も、台所ではよく喧嘩をするから、たまに「これなら一人でやった方が早い」と思うことがある。

例えば、2人で料理している時、まだ作業が終わっていないのに、妻が突然、食卓の椅子に座り込んで携帯電話を覗き込む時。「ちょっと、流しにある皿、洗ってくれない?」と頼むと「ちょっと休むくらいいいでしょ?」と言う。「だったら、リビングに行ってよ。台所でくつろがれても、気が散るから」と言うと「ここは私の家なの。私がどこにいてもいいでしょ!」「邪魔なんだよ!」と感情のぶつかり合いが始まる。

その他にも、水を沸騰させる時に鍋に蓋をしないこと、冷蔵庫に入れる野菜をビニールでカバーしないこと、野菜の切り方から、炒め方まで、ありとあらゆる部分で言い合いになってしまう。

しかし、2人でやるより1人でやる方が早いなんて論理的にありえない。そんなの私が望む理想な夫婦像でもない。ここは、自分の感情を押し殺し、妥協できる部分は妥協し、主張する部分は冷静かつ友好的に主張するように心がけてみよう。

6月5日、「酢豚が食べたい」という妻のリクエストに答え、午後のうちに、ピーマン、人参、タマネギなどの買い物を済ませておき、冷凍庫にある豚肉を取り出して解凍しておいた。午後6時10分ごろ、私がスポーツセンターから帰ってくると、妻は既に帰宅していた。

まずは平和的な雰囲気を醸し出すため、台所に音楽を流す。曲は、ZARDの「負けないで」。

妻が「まず、何をすればいい?」と聞いてくる。私は「人参を乱切りにして茹でてくれ」とお願いする。そこで妻が「ようこうが野菜を切って、私が肉をやったほうがいいのではない?」と聞いてくる。

この場面こそ、夫婦で何かする場合、言い合いになってしまう要因の一つだ。つまり「明確な司令塔の不在」である。本来、私が買い物から下準備をすべてしたわけだから、私の指令に、妻が従えばいいのだが、妻は「女のプライド」があるからなのか、台所で私に主導権を握られるのをなぜか嫌がる。嫌がっていないのかもしれないが、口出しをしたがる。

そこで私は「とりあえず、今日は私を司令塔としましょう」と言い、妻が黙って人参を切り始める。

私は豚肉を切り始める。妻が人参を茹でるために鍋に水を入れ、電気コンロにかけた。いつもの様に、鍋には蓋をしていない。

ここが、喧嘩になりうる第二のポイント。いつもなら「なぜ、鍋に蓋をしないんだ?余計な電気を使ってしまうだろ!」と私が言い、台所業務で男に何か言われることがしゃくに触る妻は「細かいこと言うな!」と言い合いになる。しかし、ここは我慢。私は妻に何も言わず、そっと鍋の蓋を取り出し、鍋に置く。

私はショウガをすりおろし、醤油と酒で肉に味を付ける。妻は野菜を一つ一つ切る。私が、冷蔵庫を開けて、ケチャップを探すが見当たらない。「ケチャップどこにある?」と妻に尋ねるが、「冷蔵庫にあるはずかだら、よく探して」とぶっきらぼうな返事がくる。いつもなら「ないから言っているんだよ!」となるところだが、私は黙って探し続けると、妻が冷蔵庫を覗き、本当にないことを知る。妻は別の所を探し始め、コンロ傍に醤油やミリンと一緒に並べられているケチャップを見つける。

ケチャップ、砂糖、鶏ガラ、塩、酒などを混ぜ合わせるが、ケチャップが足りない。妻は「オイスターソースでも美味しいのでは?」と提案し、私は黙って受け入れる。

私が野菜を炒め始め、妻は肉に片栗粉をまぶし、油で揚げ始める。「肉、少し大きく切りすぎたんじゃない?」という妻の質問にも沈黙を保つ。私には全く問題のない大きさだが、そんなこと主張したところで、もう揚げ始めているのだから、言い合いをしても仕方ないのだ。

私は、野菜をフライパンで炒める合間に、味噌汁を作るため、人参を茹でた鍋を荒い、水を入れる。昆布を入れ、コンロにかける。味噌汁にいれる人参と長ネギを切る。
酢豚の野菜がしんなりしたところで、椎茸と人参を入れ、ケチャップなどを混ぜたものを入れる。そして、片栗粉と水も入れる。そのころ、丁度、妻が肉を揚げ終えるころになる。肉の油をとる紙がもうべちゃべちゃになっており、あきらかに、油を取り切れていない。いつもだったら「それじゃあ、油が取れないだろ!」と言うところだが、ここは黙って、新しいナプキンを取り出し、皿と一緒に、妻の隣にそっと置く。

揚げ終わった肉を、野菜と混ぜ合わせる。そしてピーマンも30秒ほどからっと揚げ、本体と混ぜ合わせた。「ようこうが片栗粉を早く混ぜすぎた。肉が完全に揚げ終わるまで待たないと」という妻からの忠告も、謙虚に受け止める。

昆布が入った鍋も沸騰し、味噌と混ぜ合わせ、ネギを入れる。

時計を見る。6時45分!なんと、酢豚と味噌汁、そしてご飯を35分でやり終えた。

そして、妻が酢豚を口にした瞬間、「うーん」と目をつぶって唸る。私も豚肉を口に入れる。どの中華料理で食べる酢豚よりも美味しい。台所での「イライラ」はすべて吹き飛ぶ。

 私たちは食べるのも早く、7時には、後片付けを始めていた。「今日は早かったね」と言うと、妻は「うん」と頷いた。

「夫が台所にいない方が早く料理ができる」というのは、夫の能力不足も原因かもしれないが、夫婦間のコミュニケーションにも問題があるのかもしれない。是非、料理の楽しさを皆が体験できるよう、「あなたが台所にいてくれた方が助かるの」と言い合えるようになれないものか。

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履歴書に空白期間があったらなぜいけないのか

前回の記事で紹介したハンズは「履歴書のブランク期間が2年以内なら、次の就職活動にそこまで支障は出ない」と話していた。日本はどうだろう?

私が昨年末、アフリカでの仕事を終えることを決めた際、友人たちから色々な声があった。外国人からは「次のステップまで少し休めるね」「良いリフレッシュができるね」というポジティブなものが多かった一方、日本の友人からは「履歴書に少しでもブランクがあると、就職試験でマイナスになる」「それって、ヒモになるってこと?」などなど、肩書きがなくなることへのマイナスイメージが強かった。

国際協力業界は1年や2年の短期契約が多く、不安定な労働形態がマイナスに語られることが多いが、私はそれがこの業界の魅力でもあると思っている。勤務地の多くは発展途上国で物価が安いため、貯金が溜まりやすい。短期契約が多いということは、契約と契約の間に数ヶ月の自由時間を取ろうと思えば簡単に取れる。溜まった貯金で「パー」と数ヶ月間、世界を放浪したり、留学したりしようと思えば、できるのだ。

しかし、なぜか、「パー」と行った話をあまり聞かない。「今の仕事を辞めることにしました」と言う人は、ほぼ必ず、次の就職口が決まっており、ほとんど休みなしで、そのまま次の仕事へ向かう。

今年初め、ケニアで開発業界の日本の友人と食事をした際、共通の知り合いについての話になった。「ああ、○○さん、新しい仕事決まったらしいよ。前回の仕事を辞めたのが3月だったから、冬の期間は9ヶ月くらいだったね」。

私は、思わず「え?冬の期間ってどういうこと?その人にとっては夏の期間かもしれないじゃない」と、いつもの尋問口調になってしまった。

確かに、短期契約が多い開発業界で、新しい仕事が見つからず「宙ぶらりん状態」に苦しむ人はいるだろう。ただ、その期間が「冬」なのか「夏」なのか「春」なのか、他人がとやかく言う筋合いはないと思う。もしかしたら、その期間は、その人にとって、溜まった貯金を使って人生をリセットする大事な時間かもしれない。

 そもそも、なぜブランクがあってはいけないのか。「仕事をしなければ、その期間、仕事をしていた人よりも能力が落ちる」ということかもしれないが、それは少しおかしい。高校から野球を始めた人が、小学校からやっている人よりうまくなるなんて話はざらにある。人それぞれの適正にあった「仕事」なら、少しのブランクがあっても、短期間で他人とそこまで差がつくとは思えない。

じゃあ、何が理由なのか?組織に属さないと「ニート」や男性の場合は「ヒモ」などあらゆるネガティブレッテルがあり、「仕事しない奴はだめだー」みたいな社会的通念なのだろうか。しかし、それこそが契約と契約の間の「宙ぶらりん状態」の人を苦しめている最大の要因なのかもしれない。

ちなみにこの「ブランク」という言葉。英語で「空白」を意味するが、英語ではキャリアでの「空白期間」としては使用されないため、「3年のブランクがあった」と言っても通じない。それでは、なぜ、日本で「ブランク」と言うようになったのか?履歴書で職歴と職歴の間に情報がない部分を「ブランク」と呼び始めたのがきっかけだという。肩書きがなければその時間は「空白」と決めつけていいのだろうか、、。

ある発展途上国で人道援助に携わる友人の給料は手取りで二十数万円。生活費は家賃と食費合わせて二万もしない。精神的に辛い住環境で、仕事の愚痴が多いが、なぜか契約を更新し続けている。「だって、更新しなければ、 宙ぶらりんだもん」が彼の返答。余計なお世話だとわかっていても、彼の貯金は一体、いつ使われるのだろうかと、考えてしまう。

主夫歴3年半を振り返る


主夫会メンバーのオランダ人、ハンズ(50歳)が6月中旬にアゼルバイジャンを去る。BPで働く妻、デボラの契約が満期を迎え、スコットランドの支社へ異動になる。5月29日、ハンズの車で、バクーから30キロほど離れた風光明媚な山道へドライブへ出かけ、「主夫体験」について色々尋ねた。

前にも書いたが、ハンズは私と同じ、オランダのユトレヒト大学出身。大学院で地質学の修士号を取得した後、化学製品の会社に就職した。妻のデボラとは大学で出会い、デボラは地質学の博士号を取るため、アメリカに留学し、離れ離れになった。

1995年、デボラが博士号取得後、ロンドンのシェル石油で就職が決まった。ハンズは、東南アジアの支社への異動の話を断り、会社を辞め、オランダに買った家を売り、デボラと一緒になるためにロンドン郊外のプラスチック製造会社で働き始めた。「女性に付いて行くために、会社を辞めることに抵抗はありませんでしたか?」と尋ねると、「全くなかった。まず、博士号まで取ったデボラが自分のキャリアを諦めて、私の所に来るというのがありえないと思ったし、私も、海外で生活をしてみたいという好奇心があった。私は16歳まで海外に行った事がなかったからね(小国オランダではとても珍しいこと)」

1年半後、有能な人材を大企業に紹介する人材派遣会社から「エイブリーデニソン」という世界に1万5000人の従業員を擁する多国籍企業のロンドン支社を紹介された。会社のロゴマークなどを専門に作るなど会社だ。

ハンズの手腕はすぐに認められ、1999年、ドイツ支社への配属を打診された。50人の部下を抱える部署のリーダーのポストで、年収は1千万。97年に長女を、99年に長男を出産したデボラは「誰か子どもの世話をする人がいた方がいいし、夫にとっては大きな昇進話だったから応援したかった」とシェル石油を辞め、一緒にドイツに移り住んだ。

ハンズはすぐ仕事に夢中になったが、ドイツ語が話せないデボラは就職活動がうまくいかず、友人もなかなかできなかった。なにより、博士号を取得し、大手石油会社の社員から、一瞬にして「無職」になり、日々、家にいる生活が耐えられなかった。子育てママグループなどに参加したが「大学を卒業して多言語を使いこなす有能な女性たちが駐在員の妻になり『良い母』になろうとしている姿にとても違和感があった」と振り返る。

精神的に不安定になったデボラは、英語圏の会社に願書を出し、BPのスコットランド支社から内定をもらった。ハンズは、「デボラや子どもと離れ離れになってまで、キャリアを大事にしたくない。家族は一緒が一番」と、再び会社を辞め、デボラと共にイギリスへ戻った。

ハンズは5歳と3歳になった子ども2人を世話するため、「専業主夫」になった。「保育園が遠かったから、私かデボラのどちらかが子どもの送り迎えをする必要があった。それに、子どもたちを朝から晩まで保育所詰めにしたくなかったしね。私の父親は、専業主婦だった母の家事手伝いをよくしていた。当時のオランダではとても珍しいことだった。だから、自分も家のことをやるのが当たり前だという意識が芽生えていたのだと思う」とハンズは説明する。

年収1千万円から無職へ。「子育てサークル」に顔を出せば、そこには女性ばかり。突然、「サークルのチェアマンになってほしい」と勧誘され、戸惑った。ある夜、サークルの夕食会で、他のメンバーを車で迎えにいったら、その家の夫から変な目で見られた。「俺の妻に手を出すなよ、みたいな感じだったな」と苦笑い。

男の友人と集まれば、決まって仕事の話になった。「周りの人は皆、それぞれの仕事があって、とても輝かしかった。『新しいプロジェクトが始まった』『これをしたらこんな利益が出た』とかね。一方、私は『洗濯機が壊れた。新しい包丁を買った』とか、そういう話しかできなくて辛かった」と振り返る。

「ブランクが2年以上になると、その後の就職活動に悪影響が出る」と思い、1年半後に就職活動を開始。現地の大学の求人広告に応募し、大学と民間企業の連携を担当する部署の面接試験に招かれた。「特定の民間企業に、『なぜ私たちの大学と連携する必要があるのか』発表してください」と言われ、それまで民間企業で働いた経験を活かし、大学と連携することで、どう利益につながるかわかりやすく解説し、採用が決まった。

子どもの送迎をするため、午前10時から午後4時のフレックスタイムを認めてもらった。 給料はドイツ時代に比べたら3分の1に減った。

デボラは出張が多かった。月に一度はアゼルバイジャンに飛び、2年間は、週4日、800キロ離れたロンドン勤務となった。月曜朝にロンドンへ飛んで、木曜夜にスコットランドに戻ってきた。ハンズは子育てと仕事を一人で掛け持ちしなくてはならなくなり、「休む余裕なんて全然なかった」と振り返る。

2011年、デボラがアゼルバイジャンへ異動する内示をもらった時、ハンズは仕事を辞め、デボラに付き添った。家族の為に仕事を辞めるのはこれで3回目だったが、「アゼルバイジャンに行けば、デボラの出張も減るし、家族が一緒にいれる時間が増える」と快く受け入れた。

アゼルバイジャンでは少し就職活動をしたが、いい話はなかった。「就労ビザを取得するのも難しいし、そこまでして仕事をしなければいけないという重圧がなかった」と言う。

BP社員が多く住む高級住宅街の一戸建ての家が無料で会社から割り当てられ、車と運転手が付き、さらに子どもの学費も100パーセント出してもらえる。学校も家から歩いて2分。

「最初は子どもたちが新しい環境に慣れるのに時間がかかるだろうと思ったけど、家に着いて15分で、呼び鈴が鳴り、『隣に住んでいる○○です』って同年代の友達ができちゃった。運転手が買い物もやってくれるし、お手伝いさんが掃除もしてくれる。会社からのレターには『電球が壊れるなど、家で問題があったら、ヘルパーに電話してください』って書いてあるんだ。電球の交換くらい自分でできるだろ?」

火曜日と木曜日はアゼル語を学び、木曜朝は主夫会に参加する。朝と晩は料理をし、週に2—3回はスポーツセンターで泳ぐ。月に一回は国内外に旅行に出かける。「ピアノの練習をしようかと思ったけど、結局、5回くらいしか触っていない。時間ってのは、簡単に過ぎ去っていくね」と言う。

4月最後の週末は15歳の長男と2人で、ドライブ旅行に出かけた。私は、自分が中学の頃、同級生が父親と日曜日に2人で車に乗っているのを見て「○○の奴、親父と2人で出かけてたぜ!」と友人たちとからかったのを思い出した。それほど、私が父親と2人で出かけるということがなかったし、「ファザコン」みたいに見られるのも嫌だった。

ドライブ中、ハンズが「私が何も仕事をしないから、子どもたちが学校で馬鹿にされたりしないか心配したことはあった」と言った。それで、私は3日後、ハンズの家で食事会に招待された時、17歳の長女のレベッカに「お父さんが仕事をしていないということで、同級生から何か言われた事はある?」と尋ねた。レベッカは「アメリカ人の友人が『ええ!お父さん仕事していないの?』と少し驚いていた。すごい古い考えの家族みたいで、、、」と答え、ハンズは「他にはないのかい?」と尋ね返していた。レベッカは「それ以外はないな。その友達も特にからかっているようでもなく、ただ驚いている感じだった」と答えた。父親と娘のこういうストレートな会話も羨ましい。私がレベッカだったら父親を気遣って「特にない」と隠すか、「お父さんのせいでいじめられた」と感情的になるかのどちらかだろう。

ドライブ中「これまでしてきた人生の決断に後悔したことはない?」とハンズに尋ねると「ないね。一度も。一つ一つの決断には必ず、予期しない結末が待っているだろ?それがわくわくさせるんだよ」。

私たちは、360度小山に囲まれた凸凹道で道に迷い、出くわした村人に方向を尋ねながら走った。対向車はほぼゼロ。聞こえるのは鳥のさえずりだけ。「こんな素晴らしい景色に巡り合えたのも、私の決断のおかげだろ?」ハンズは胸を張って答えた。

「これまでの決断で、何か自分の中で譲れない原則みたいなのはあったの?」と私は尋ねたが、ハンズは「、、、。特にないかな」と答えに困っていた。それでも、ハンズがデボラと冗談を言い合って笑い合う姿や、子どもたちとストレートに接する様子を見て、言葉にならない「原則」がそこにあるように思えた。

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主婦で賑わう平日昼間のカフェで、主夫会メンバーと談笑するハンズ(左から2人目)

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アゼル語で地元住民に道を尋ねるハンズ

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首都バクーから車で20分もすれば、何もない平地が広がる

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プロフィール

seventh star 7

Author:seventh star 7
黒岩揺光  
1981年、新潟生まれ。7人兄弟の末っ子。15歳で米国留学して以来、住んだ国は計8カ国に。海外生活計17年。日本では毎日新聞記者、アフリカでは難民キャンプの工場長、アゼルバイジャンで主夫、ジュネーブで国連職員などを歴任。現在は中東ヨルダンで妊娠した妻に寄り添う専業主夫。
 著書に「僕は七輪でみんなをハッピーにしたい」(ユーキャン)「国境に宿る魂」(世織書房)。
メール連絡先 yokuroi×hotmail.com (「×」を「@」にしてください) ツイッター:@YokoKuroiwa

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