東京で出版記念トーク『専業主夫は世界を救う」開催ー8月20日

8月20日午後8時から、東京、下北沢の本屋『B&B』(ブック アンド ビア)で、トークイベントがあります。ビールやジュースを飲みながら、私の活動についてざっくばらんと語り合いませんか?皆様の参加をお待ちしております。

詳細はここをクリック
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浜松でも講演します

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「なぜ、子どもを産まないのか?」

韓国語が少しできるようになって、改めて、韓国と日本の違いを感じ取ることがある。

私も鈍感で、人から「よく、そこまでプライベートな事聞くねえ」と言われる事があるが、韓国人は私と比ではない。

両親の友人と食事をすると、必ず、「子どもはいるのか?」という話になる。そこまでならまだいい。私が「いません」と答えると、「何か理由があるのか?」と必ず聞いてくるのだ。

結婚したら子どもという固定概念があるのはわかる。しかし、子どもを作りたくても作れない夫婦が珍しくないこの時代に、初対面から「なぜ子どもがいないのか?」と聞かれるのには戸惑いを隠せない。

勿論、私たちの場合は、これまで離れ離れな上、お互い短期契約の仕事しかなかったから子どもを作ろうとは考えなかった。しかし、もし、私たち夫婦が健康上の理由で子どもが作れないのだとしたら、「なぜ子どもがいないのか?」という質問は、精神的ダメージになりかねない。

義母と義父はもっとすごい。「コンドームばかり使っていると体に良くないのよ」「この夏、北海道旅行するなら、そこで作ればいい」。「お願いだからほっといてくれーーーー!!」と叫びたくなるのを堪える。しかも、それが毎日毎日の様に続くのだ。

そりゃ、11人目の孫がもうすぐ生まれる私の両親と比べたら、妻の両親にとっては初孫になる私たちの子どもの顔がみたい気持ちはわかる。さらに、両親が生まれた1950年代の韓国は、2−300万人の犠牲者を出した朝鮮戦争で国土の大半が廃墟となり、義父は20歳まで年に1、2回しか肉が食べれないほど貧しかった。家族や親戚がお互いに「おせっかい」をしなくては生き延びれない時代だったのだ。


それでも、いくら、2人が騒いだ所で、私たちの子どもが生まれるタイミングが早まるわけでもないわけだし、一番、それを重荷に感じるのは私ではなく、妻のスージンだ。

ある夜、家族4人での食事中、私が「いやあ、いつも美味しい物ばかりで嬉しいな。次は3ヶ月くらいいたいですね」と冗談を言った。

そしたら、義父が「子どもができたら3ヶ月いていいよ。もし、子どもができないなら、ここには来ないでくれ」と言ってきた。

冗談なのはわかる。義父は水泳帽を被って海水浴をしたり、突然、歌い出したり、お茶目で可愛いところがある。だから、私も、義父とはかなりストレートに話し合いができている。それでも、「ここには来ないでくれ」発言は、ちょっと、冗談にしては、たちが悪すぎる。これまで「早く子ども産め」と言われ続け、溜まりに溜まった、ストレスが一気に吹き出た。

私:わかりました。それでは、子どもができるまではここには来ない事にします。なぜ、そこまで、我々夫婦が子どもを産まなくてはいけないと言い続けるのですか?

義母:韓国では結婚したら2、3年で子どもが産まれるのは普通なのよ。

私:でも、私たちがこれまで子どもを産める環境じゃなかったじゃないですか。もし、これから、何年かして、本当に私たち夫婦が子どもが産めなかったらどうするのですか?今、産みたくても産めない夫婦なんてざらですよ。

義母:その時はその時よ。あなたたちが一生懸命やってできないのなら仕方ないと思うわ。

私:でも、今、これだけ言われてプレッシャーをかけられ、本当に子どもが産めなかった時、今、お二人から言われ続けて来た言葉は私たちを大きく傷つけることになりかねない。

義母:私たちはあなたたちの幸せを考えて言っているだけなのよ。家族は子どもがいた方が絶対幸せだわ。

私:それはよくわかります。ただ、お二人にとっての「幸せ」と、私たちにとっての「幸せ」は異なる可能性もあるということをわかっていただきたいのです。子どもがいなくても幸せにしている夫婦はいくらでもいます。

義母:でも、子どもがいない夫婦より、子どもがいる夫婦の方が多いわ。

私:、、、。多数派がやることをすることが幸せだということですか?

義母:、、、、。

私:お二人が私に「早く産め」「産まないなら家に来るな」と言うのを、隣にいるヘジンがどういう気持ちで聞いているか想像したことがありますか?

義母:ヘジンはまだ結婚もしていない。

私:だから言っているのです。結婚しなければ「なぜ結婚しないのか?」、子どもがいなければ「なぜいないのか?」とずっと聞き続けられたら、「結婚しなければ、俺は駄目な子どもなのか?」「子どもを産まなければ、俺は駄目な子どもなのか?」って考えちゃうじゃないですか。

ヘ:そうそう。(ヘジンは少し恥ずかしがり)。

私:ヘジン、私は、ヘジンが結婚しようがしまいが、子どもを産もうが産むまいが、死ぬまでずっと私にとって大事な「妹」だよ。(ヘジンの肩に手をやる)

ヘ:おおー。お父さんより、お義兄さんの方が優しいよ。

義母:私たちは子どもを産まなければだめなんて言ってないじゃない。

私:子どもを産まなければ、家に来るな、とお義父さんが言いました。

義母が義父の腕をパシッと叩く。

義母:お父さんは冗談が下手なのよ。

と、いつもの話し合いは終わり、「毎週金曜日夜は夫婦水入らずで夜のドライブに行くんだ」と義父が言い、私が「2人きりでずるいですよ。私とヘジンも連れて行ってください」とわがままを言い、「わかった。じゃあ、一緒に行こう」と言ってくれた。

車の中で、お義父さんは「ヨーコー。あんな事言って悪かったね。ヨーコーが家に来るのはいつでも大歓迎だよ」とつぶやいた。

親を「お母様」「お父様」と呼ぶ韓国社会において、義息子が父親に反論するのは掟破りだ。にもかかわらず、お義父さんは、私の意見をいつも笑顔で聞いてくれる。自分の考えていることを伝えないと気がすまない私みたいな人間にとっては、本当に素晴らしい両親だ。ちょっとおせっかいだけど、それも私への思いやりがあってのことである。





広島大学で講演します

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この度、広島大学で講演することになりました。

以下はチラシから抜粋。

原発、障がい者支援、老人介護…様々な場面で本来一番大切なはずの
「現場の声」が、なかなか届かないことってありませんか?難民支援の現場も
例外ではありません。
国際協力に関心がある人は必ずぶつかる「現場の声」という大きな壁。

日時:  2013年7月 30日(火)午後6時半ー午後8時。

場所:広島大学東広島キャンパス 西第1福利 多目的ホール1 (東広島市鏡山1−3−2 ローソン横)http://www.hiroshima-u.ac.jp/add_html/access/ja/saijyo4.html
参加費:無料 申し込み不要。
共催:(特活)ピースビルダーズ 、 L’harmonie~ラルモニー~
お問い合わせ:hiroshima.yuoth@gmail.com 携帯080 1646 1509(赤澤)

「思いやり」と「煩わしさ」は紙一重

妻家族は本当に思いやりに溢れた方たちだ。

私が家で着る半ズボンや外で着るポロシャツなどの夏服を買おうと思っていたら、義母が「これ、お父さんにはサイズが小さすぎるから、ヨウコウどう?」と私が買おうと思っていた物を何着か持ってきてくれた。

お父さんは私に携帯電話、家族全員の電話番号が書かれた紙、韓国語先生の名刺など一式を用意しておいてくれた。

私が一人で出かける際は、毎時間の様に電話がかかってきて「どこにいる?」「大丈夫か?」などと気にかけてくれる。

私も、しっかり「親孝行息子」を演じるため、7月10日夜、自分で買い物した材料でカレーを作った。11日は両親が他の宣教師と一日会合で出かけたため、昼は妹ヘジンを連れ出して日本食レストランで御馳走し、午後は一緒に喫茶店で時間を過ごした。帰りに鶏肉を買って、夜ご飯はヘジンに親子丼を作った。

そしたら、「お義兄さん、昼食べたものに似ているけど?」と言われ、「あ!しまった!私は味噌ラーメンだったけど、ヘジンが昼ご飯カツ丼を食べたことを忘れていた」と心の中でつぶやき、表向きは「豚肉と鶏肉で全然違うだろ!」と押し通した。

朝ご飯もできるだけ負担にならないよう、自分が作った残り物や、日本食材店で買ってきた納豆などを自分で用意して食べた。妻家族は毎朝ハンバーガーを食べる習慣らしく、義母が「ヨウコウはご飯派だからどうしようかしら?」と心配していたからだ。

義母は元高校教師。結婚して主婦になったが、自分のことを「主夫」と言うのが恥ずかしいほど、義母は素晴らしい主婦だ。料理が美味い。気が利く。料理、掃除、洗濯など、ずっと何かしら仕事している。さらに、自閉症のヘジンのお世話をしてきたのだから、本当に頭が下がる。

義父は、とにかく、何でも私と一緒にやりたがる。朝6時は散歩。午後9時は神へのお祈り。食後のサウナなどにも誘われるが、さすがに全部は付き合いきれない。

一番深刻なのが針灸師だ。妻家族は、なんと毎日、韓国人の針灸医院に通っている。3人とも、それぞれ体に針を打ち、お灸をしてもらっている。別にそれはそれでいい。問題は、それに私まで付き合わせようとするのだ。記者時代から鍼灸の経験がある私は、「まあ、一度くらいは」と10日午後に付き合った。

針灸師の医院は、家から車で30分かかるため、全員の治療時間を合わせれば、2—3時間はかかる。

毎朝3時間、ハングルレッスンがある私は、さすがに毎日2—3時間、鍼灸に付き合うことをためらった。

日本よりも東洋医学が盛んな韓国。これまでも私が韓国の実家へ遊びに行く度、針灸師に連れて行かれた。5センチほど長い針を刺されて発熱した経験もあれば、「ヨーコー特性漢方」という深緑色の液体の袋60個を3万円で買わされたこともあった。

12日朝、朝ご飯を食べながら、私は「今日は針灸師に行きたくありません」と両親に伝えた。そしたら、予想以上に2人は驚いた。

義母:なんで?

私:毎日2時間、鍼灸に時間を費やすのはきついです。色々やることがあるので。

義母:でも、これはあなたの健康のためよ。健康より大事なことなんてないのだから。

義父:そうだよ。体が動かなくなったら、何もできなくなる。

私:しかし、ハングル教室に3時間。さらに鍼灸に2時間費やしたら、一日が終わってしまいます。

義母:鍼灸の先生はあなたの体を見て、「あまりよくない」とおっしゃっていたわ。アゼルバイジャンでは鍼灸はできないのだから、今しかないわよ。

義父:そうだよ。せっかく無料でやってくれるのだから、一緒に行こう。

私:こんなに時間のかかるイベントがあるということを、なぜ、私が来る前に話してくれなかったのですか?

義父:、、、。

義母:ようこうの体の状態がわからなかったからよ。二日前に行ったら、先生が良くないというから、それなら毎日行って治さないといけないと思うの。

私:私は8年くらいまえから色々な鍼灸師に治療してもらっていますが、背中や首のこりが完全に治ることはありませんでした。今回だって、この先生が完全に治してくれるという保証はありませんし、そこまで体は悪くありません。

義母:でも、先生はヨウコウに特別にやってくれているのよ。何の見返りもなしによ。私たちはヨウコウの健康を思って言っているの。

ここで私の迎えのタクシーが家に到着し、話し合いは中断。

私は部屋に行き、歯磨きをし、荷物をまとめ、玄関から出ようとした。そしたら義父が「今日、針灸医院には何時に行く?」と尋ねてきた。まるで、それまでの会話を聞いていなかったかのような義父の態度に驚き、私は「行きません」と言った。義父が「なんで?」と尋ねてきたため「行きたくないからです」と答え、家を去った。

ハングルレッスンを終え、12時半に恐る恐る家に戻ったら、さすがに両親はあきらめたらしく、普通に和気あいあいと昼ご飯を食べた。午後、3人で針灸医院へ出かけて行った。

そしたら夜、寝る前、義母は私に言った。

「針灸師、ヨーコーが忙しいなら仕方ないけど、せめて週に3回は行きましょうね」

あーあ。親から「あれやれ」「これやれ」言われた経験がない私は、ストレスで肩と首がこりそうだった。このままだと、本当に鍼灸医院に行かなくてはならなくなるかもしれない。

結婚5年目で初めて義母と直球勝負


その話し好きの義母だか、言語の壁のせいで、これまで私に対する質問/愚痴はすべて妻に話していた。

「新婚旅行になんで難民キャンプに行くのよ?ちょっとヨーコーに考え直す様に話してくれないか?」

「あまり人前でイチャイチャされると、ヘジン(妹)に悪影響が出てしまうから、ヨーコーに伝えて」

などなど。「直接話してくれよー」と言いたいところだが、なにせ共通語がないわけだから仕方ない。
 
しかし、私のハングルが上達しても、義母の対応は変わらなかった。

「ちょっと、ヨーコーはカンボジアに日本人の友達とかいるのかしら?」(3週間も毎日お世話するのが大変という意味)

「ヨーコーは朝ご飯、ハンバーガーとか食べれるのかしら?」

などなど、「直接来いやー!」と思うことが度々あった。私から電話しても「スージンはどこにいる?」「スージンに変わって」「お父さんと変わるは」などと、何故か私との直接対話を避けるのだ。

7月8日、カンボジアでの滞在初日の夜、妻と電話したら「お母さんが『ヨーコーがスクーターをレンタルしたいって言っているのよ。ちょっと危ないと思うのよ』って言っていた」と言われた。私がここにいるのに、なぜアゼルバイジャンの妻に話さなくてはならないのか理解ができず、9日朝、私は義母に申し出た。

義母が用意してくれた、モヤシの味噌汁、ハンバーグ、キムチ、レンコンなどを食べながら、私は切り出した。

私:なぜ、お母さんは、私についてスージンに色々尋ねるのですか?

義母:どういうこと?

私:例えば、私がハンバーガーを朝ご飯に食べるかどうかとか、スージンに尋ねてませんでしたか?

義母:食習慣のことだからね。男性よりも女性の方が良く知っているのよ。それが韓国の習慣なの。

私:いや、そうじゃなくて、私がカンボジアに友人がいるかどうかもスージンに尋ねていませんでしたか?お母さんは、私と初めて会った時、何て言ったか覚えていらっしゃいますか?

義母:、、、。

私:「私はとても話し好きな人間だけど、あなたがハングルを話せないから何も話せない」と言いました。だから、私は一生懸命勉強して、今、こうしてお母さんと話せる様になった。それなのに、なぜ、私に直接尋ねられることを、妻に聞くのです?私はお母さんと話すためにハングルを学んでいるのですよ。

義母:わかったわ。ごめんね。これからは直接話すようにする。

義母からしてみたら、妻を通した方が、伝わりやすいと思っているのだろう。私がソマリア難民キャンプで、難民従業員に伝えたいことを、信頼できる腹心を通して伝えようとした時の事を思い出した。

それでも、やっぱり、私は直接対話したかった。

義母は、私の実の母とは対極の人間だ。 子どもの自由意志の尊重を第一とした私の母は「迷惑をかけあおう」「子どもには何も教えず自由に育てよう」という方針で、私を育ててきた。だから、私が「やりたい」と言った事に対して、「だめ」と言われた記憶がほとんどなく、あったとしても、そこには必ず「説明」があった。そのおかげで、私は10歳で同級生と2人で新潟から沖縄へ旅行し、12歳で広島に行き、15歳で渡米した。

義母は「子どものしつけは親の義務」というのが信条で、妻は子どものころ、「学校で一番の成績をとれ」と言われ続けてきた。親から「宿題をやれ」と言われたことのない私が、そんな義母と同じ屋根の下で暮らし始めたのだ。

だから、私がハングルを話せるようになるということは、考え方が大きく異なる2人が直接、意思疎通できるようになることを意味し、正直、複雑な心境でもある。もしかしたら、義母も同じなのかもしれない。

とにかく、3週間も私を受け入れてくれた妻家族に感謝の気持ちを忘れることだけはしないよう、気を付けよう。

親子水入らず生活幕開け

カンボジアへ旅発つため、7月7日夜、アゼルバイジャンのバクー国際空港に着くと、出発カウンターに10人ほどで固まる女性旅行者たちが視界に入った。

身長150センチくらい。
麦わら帽子。
小さいリュックサック。
大きなスーツケース。
麦わら帽子に付いている同じ柄のバッジ(旅行会社の)。

50メートルくらい離れていたが、日本人のツアー客だとすぐわかった。日本のツアー旅行は世界をまたぐとは聞いていたが、まさか、こんな辺境地にまで足を伸ばすとは思わなかった。

「ご旅行ですか?」と背後から尋ねると、向こうも「あら!」と驚いた様子。「一人で旅されているの?」と聞かれ、「いえ、ここに住んでいるのです」と言うと「ええ!」と再度、驚かれる。さらに、私が妻に寄り添う「専業主夫」で仕事がなく、妻の両親が住むカンボジアへ向かっていると言うと、「主夫で、アゼルバイジャン在住で、今はカンボジアへ妻の家族に会いに行っている、、、。なんだか、ややこしいのね」と言われ、「はい、ややこしいんです」と苦笑い。

皆、50—70代くらいで、なんと、中には90歳の方までいた!私の予想通り、「もう、世界のあらゆる所に行ったから、コーカサス(アゼルバイジャンがある地方の名前)しか残っていなかった」と言う。ある方は世界地図に行った事がある国を塗りつぶしており、その数、なんと90近く。今回はアゼルバイジャン、アルメニア、グルジアの三か国を1週間で回るという行程。「これで三つ、国が増えた」と嬉しそう。まるで「行ったことがある」という自慢をするための旅行みたいで、少し白け感は否めないが、その行動力と好奇心(と財力)には頭が下がる。ちなみに、気になるツアー料金は40—50万!!!

カタールのドーハまで2時間半。ドーハからバンコクまで7時間。この飛行機が少し遅れ、バンコクからは別の航空会社だったため、荷物を取り出して、一度出国し、再度チェックインをしようとすると、すでに「チェックイン時間を過ぎております」と門前払いされそうになった。私は「まだ、出発時間まで40分もあるじゃないですか?兄の結婚式なんです。どうかお願いします!」と頭を下げ、何とか通過。

カンボジアの首都、プノンペンには8日午後3時半に着いた。空港を出ると、義母が「パンパンパン」と拍手をして出迎えてくれた。「思ったより早く到着したのね?」と笑顔で手を差し伸べた。義母の隣には義妹のヘジン(25歳)がいつもの様に寄り添っている。体格は義母の2倍くらい。私が「元気だった?」と尋ねると「うん」と微笑みながら、いつもの様に私とは目を合わせようとせず、答えた。

車の中では早速、ハングル会話レッスンが始まった。義母はとにかく一方的に話すタイプで、ほとんど質問はしない。とにかく、話す。こちらから話しかけない限り、ずっと一人で話すことができる人間だ。車中でも、家族の近況や、カンボジアで携帯電話をなくした話を延々とし、私のアゼルバイジャンでの生活や日本にいる家族については全く尋ねようとはしない。

空港から15分ほどで家に着いた。食卓にはカニ味噌チゲ、サンギョプサル(豚の三枚肉)、エビ天ぷら、キムチなどの野菜がずらっと並んだ。どれも美味しく食べていると、義父がカンボジア語レッスンから帰ってきた。

義父はほぼ毎日、カンボジア語学校に通い、2年間で言語を習得し、その後、宣教活動をする予定だ。義母とヘジンは毎日朝1時間だけ通っている。生活費は韓国で所属する教会からの支援などで成り立っている。

義父は、口数は義母ほど多くないが、義母と違って「アゼルバイジャンは暑いのか?」などと色々尋ねくる。ものすごーい世話好きで、私の韓国語学校を探し、先生を手配し、学校を下見し、通学するために英語ができるタクシー運転手を探しておいてくれた。とにかく、隣人のためにできることは何でも喜んでする。

その「世話好き」も時としてうっとおしくなることもある。頼んでもいないのに、私のために、カンボジアの名所への一人旅行計画を立て、「ここなら3泊4日は必要だ。ここを午後1時に出ればいい」などと詳細なプランがメールで送られてきた。もっと厄介なのは「自分がこう決めたらこう!」というタイプ。

私が「色々やっていただきありがとうございました。旅行計画は自分が決めるので、お父さんは心配しないでください」と返事をしても「それなら2泊3日か?いつ行くのだ?」などと聞いてきた。

家が市内から約20分と遠く、毎日、トゥクトゥクと呼ばれるタクシーで通学すると、お金がかかる上、不便だから、「スクーターをレンタルしたい」と言うと「それは危険だ」と言う。

さらに、私が空港に着いた4時間後に、韓国語の能力診断テストが用意されているという。私が「長いフライトで、まだ頭がフラフラです。テストを受けられる状態じゃないので、明日お願いします」と言うと、表情が一変し「でももう先生にお願いしちゃったよ。先生は準備しているんだ」と言う。義母が「ヨウコウが疲れたって言っているんだから明日にしたら」と言い、やっと納得してくれた様子。

食後、私が寝室で就寝していると、突然ドアが開き「ヨーコー?」と義父が入ってきた。「ああ、寝ているのか?」と私を見ると、ドアを閉め、去って行った。世話をしてくれるのは大変ありがたいのだが、せめて、ノックくらいはしてほしかったな、、、。

とにかく話し続ける義母。世話好きで頑固な義父。ヘジン。そして私。誰一人として定職に就いていない4人の家族生活は、今後、どうなっていくのやら。




カンボジアへ3週間出張に行く



今日から3週間、カンボジアへ出張する。主夫の大きな役目の一つは、姑と舅(妻の両親)と仲良くすること。妻の家族は今年初めから、カンボジアの首都、プノンペンに宣教師として滞在しており、私は一人で妻の家族と3週間暮らしながら、韓国語学校へ通う。

日本人同士でさえ、嫁と姑の関係というのは様々な軋轢が生じるのに、言語や文化も違えばなおさらである。結婚して4年半、私と妻の両親は、これまで譲歩に譲歩を重ね、お互いの間にある壁を乗り越えようと努力してきた。

まず、日本と韓国の間にある歴史問題。2005年、私が妻に初めて出会った時、妻は「日本人の男性で好きな人ができた」と義母に伝えた。そしたら「忘れなさい!」と義母は一蹴。義母の祖父は、戦時中に日本軍に殺されていた。それで、妻は、私との交際をずっと秘密にした。韓国から日本にいる私に会いに来る時も「インドで学生ボランティアしてくる」と嘘を付き、東京のインド雑貨店でお土産を買っていた。

当初、イギリスの大学院進学を予定していたが、私との交際を続けるために日本の大学院へ進学した。その時も、パナソニックから学費と生活費が出る奨学金をもらい、「この大学院なら一銭も出さなくていいのよ」と両親を説得した。

秘密の交際が3年以上たち、ようやく妻の両親の耳に入った時、義父は「日本人と娘が結婚するなんて恥ずかしくて親戚に言えない」と反対した。しかし、その時、妻は25歳。私と出会うまでは、妻が長い恋愛をしたことがなかったことをを十分承知している義母は、「すでに3年以上経過した関係を断ち切らせたら、娘は一生、結婚できないかもしれない」という不安を抱いた。「娘が一生独身でいるよりは、日本人でもいいから結婚した方がいいのではないか。とりあえず、彼に会ってみよう」ということになり、2008年6月、妻の大学院の卒業式に合わせ、両親は来日し私と面会した。

歴史問題の次は、言語。義父は日常会話レベルの英語は話せるが、義母は韓国語のみ。出会った時から「私は話し好きなのに、あなたのせいで全く話せない!すぐハングルを学んで!」と言われていた。



歴史問題と言語だけでも十分なのに、私と妻の両親の間には、もう一つ大きな壁がある。宗教だ。義父が宣教師と書いたが、妻の家族はものすごーい敬虔なキリスト教徒だ。両親共に生まれた時から毎週数回教会へ通い、親戚、知人はほぼすべてキリスト教徒だ。教会での活動が常に生活の中心だった。ご飯前のお祈りは勿論、寝る前に家族で集まってするお祈りも欠かさない。

初めて出会った日、義母からは「祖父が日本軍に殺された」と言われ、義父からは、ハングルと日本語で書かれた大きな聖書を頂き、突然、喫茶店内で「お祈りの会」が開かれた。会では、私とスージン家族、そして義父の友人の牧師5人がテーブルを囲み、手をつないで、「私のこれまでの人生は自分中心でした」「これからは神中心の人生を歩んでいきます」と5人全員で声を揃えて私のために読経した。

結婚のために姑/舅が出した条件が、ハングル語習得とキリスト教への改宗だった。「こんなの宗教の押しつけだ!」と最初は心の中で反発もあった。でも、食わず嫌いはいけないし、現在でも「ヨウコウのご両親にしっかり布教はしているの?」と尋ねてくる義母を見ると、非キリスト教徒の私を家族として迎え入れるということが、彼らにとってどれだけ大きな譲歩だったということがうかがえる。

結婚許可が降りてからは一転、それまで反対していたということが信じられないくらい、私のことを可愛がってくれた。妻と私が韓国に遊び行くと、必ず、新しい靴下、パンツ、セーター、パジャマなどが用意され、カニ味噌チゲやカルビなど、義母の得意料理がとてつもない量でもてなされた。義父は2泊3日で韓国の景勝地に連れて行ってくれ、私にスーツなどをプレゼントしてくれた。日本と韓国の歴史問題に関しても、私のキリストへの信仰心に関しても追求することはほとんどなかった。

当時、私は毎日新聞の尾道支局(広島県)勤務で、週1回、隣の福山市にあるNHK文化センターの韓国語教室に通い始めた。そして、日曜日には尾道や福山にある教会にも通い始めた。

私がアフリカに行ってからは、ハングルを学ぶことができなくなり、義母からは「全然、韓国語上達していないじゃない。娘との結婚は取りやめにするわよ!」と冗談を言われるほど、ハングルが話せなくなった。

それで、専業主夫になったいま、長年の課題だった韓国語修得に向けて、週に2—3回、1時間半の家庭教師をつけて勉強している。アゼルバイジャンには韓国人が200人前後いて、大学などで韓国語を教える韓国人先生も10人以上いる。最近は妻との会話の半分以上をハングルでするようになり、義父ともハングルでメールのやりとりをするようになった。

 韓国のキリスト教は布教活動がものすごい盛んで、世界の至るところに韓国人教会がある。ケニアにもいくつかあり、なんと、アゼルバイジャンにも一つあり、毎週日曜日には30人ほどが集まって礼拝をしている。

妻の両親は、カンボジアでも大きな韓国人教会に通い、現地の人に布教するためにカンボジア語(クメール語)を学んでいる。義父は59歳。この年齢で異国の地に住み、新しい言語を学ぶのは容易ではない。義父の強い信仰心の裏返しでもある。

義母と直接ハングルでやり取りするのはこれが初めてとなる。一体、どんな3週間となるのか、楽しみだ。おそらく、妻の両親は不安で一杯だろうけども、、。

「私は主夫です」と胸を張って言える社会に


主夫歴半年となり、ようやく「私は専業主夫です」と胸を張って、自己紹介できるようになった。しかし、今でも、友人が自分の事を他人に紹介する際は、「元新聞記者です」とか「ライターです」などと言い、決して「主夫」とは言わない。

「黒岩さんは本出しているし、主夫じゃないじゃないですか」

「『主夫』ではなく、『ジャーナリスト』とか言ったらどう? 」

と、まるで私を慰めるかの様に話しかけてくれる人もいる。

でも、何故か腑に落ちない。

確かに本は二冊出し、印税収入があるから「作家」や「フリーライター」と自己紹介しても通るかもしれない。しかし、それが食べていけるだけの収入になっているかどうかと聞かれれば、間違いなく「ノー!」である。

まあ、そんなことはどうでもいいとして、何故、自分が「主夫」と主張することを周りは否定したがるのだろう。「ジャーナリスト」や「作家」が「主夫」よりも格上の様な扱いになっているのが気になる。

主夫会のメンバーも誰一人として、「私はハウスハズバンド(主夫)」と言う者はいない。ニュージョンは「今年初めまでは大学院の論文を書いていて、3月、4月はアメリカに帰国していて、色々忙しい」とかだらだらと自分の肩書を濁す。主夫だけじゃなく、主婦もそうだ。先週会ったアメリカ人女性(30代)は夫がBPで働く。「ここではマッサージとか英語を教えたりしている」と自己紹介。私が「ハウスハズバンド」と言うと、「実は私もそうなんだけど、はっきり言えないのよね」と言った。

なぜ「主婦/主夫」であることを胸を張って他人に言うことができないのか?
 私が子どものころよく見たテレビドラマに出てくる「主婦」は、よく、平日昼間、美容室で髪の毛をくるくる巻きにし、ファッション雑誌を読みながら他の主婦と雑談を交わしたりしていた。

私がアゼルバイジャンに来て間もなく、毎週金曜午前にある「コーヒーモーニング」に参加したら20人の婦人に囲まれた話をある男性外交官(先進国出身)に話したら「ああいう婦人たちはね、贅沢することしか頭にないから、付き合わないほうがいい」と言われた。

ケニアで知り合ったある日本人男性(子育て経験なし)は「主婦の人って、自分勝手だと思うんですよ。お金稼がないくせに『女性の権利を認めろ!』とか言ってね」と言っていた。

実は、私自身、このブログを始める時、副題に「新聞記者から主夫になり下がった体験記」と記していた。妻に「なり下がったってどういうこと?」と尋問され、変更した。無意識の内に、自分の中にも「主夫/主婦」に対して否定的なイメージがあったのだ。

しかし、主夫になって半年になり、他の主夫の体験を聞くうち、「主夫」とは胸を張れる肩書きだと思える様になった。主夫/主婦になるということは、家族のために、自分のキャリアと妥協し家事や育児に専念するという、他者を思いやる気持ちに溢れた行為だ。「新聞記者」や「援助機関職員」など肩書きがあると、どうしても、その肩書を守る「エゴ」が出てきてしまう。特ダネたくさん書きたい。立派な成果を出して、社会に認められたい、など。

私はこれまで、アメリカ、スウェーデン、オランダ、タイ、ケニアと移り住んできたが、何度、移住を繰り返しても、新天地に住み始める時に襲われる孤独と不安から逃れることができなかった。でもアゼルバイジャンでは、妻が一緒だったため、それほどの精神的負担はなかった。おそらく、それは妻も同じで、私が付き添ったおかげで、よりスムーズに新天地に馴染めたはずだ。

そして、主夫が抱えるのは単なる家事だけでなく、異国ならではの問題への対処がある。水/電気が止まる。呼び出し音が壊れる。お湯が出ない。シャワーの排水口から変な臭いが出る。門番の人と言葉が通じない。見知らぬ人が呼び鈴を鳴らすが、言葉が理解できないからドアを開けられない。これらの問題を、仕事を抱えながら対処するのは大変だと思う。

男性と女性の教育水準(大学進学率など)は、先進国ではほとんど同水準になっている。一方、グローバル化が進めば、国をまたいで仕事をする転勤族の需要は増え、それに付き添う「主夫/主婦」の需要も増える。ということは、付き添う側が、付き添われる側と同等の教養レベルを有している可能性はこれまで以上に高く、付き添う側の「妥協度」もこれまで以上に高いものとなる。 アゼルにいる主婦の人たちの経歴は、ざっと「小学校教諭」「政府系機関職員」「役場職員」「大手石油会社職員」など。

家事/育児の役割が、これまでずっと特定の社会集団(つまり女性)が担ってきたために、「主婦」という言葉に虐げられたイメージが付きまとってきたのかもしれない。人と人との絆が薄れていると言われる今日このごろ、絆を守るために自分のエゴを捨てる人たちを、私は心から敬いたい。

朝日新聞朝刊(7月2日付け)「私の視点』に掲載されました

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 ケニアの難民キャンプで私が携わった音楽コンテストが2010年6月、ニュース番組で報道された時は、とてもうれしかった。キャンプを訪れた音楽グループ「ゆず」のメンバーが「音楽で難民の夢を開きたい」と国連と協力して企画したものだ。難民の歌声がインターネットなどを通して日本で流され、投票によって、スーダン人の10代の女性3人組が優勝した。

 私は10年3月から約3年間、ソマリア人など約45万人が暮らすこの難民キャンプの国連事務所やNGOで人道援助に携わった。音楽コンテストでは予選の審査員も務め、出場した若者たちと親交を深めた。優勝者は、キャンプの様々なイベントで歌を披露して、鼻高々だった。

 音楽コンテストを通して日本で難民問題に関心を抱く人が増え、寄付金が集まったことは大きな成果だったと思う。ただ、本当にあのコンテストが、難民にとって最も必要とされる支援だったのか、今では疑問を抱いている。

 コンテストが終わって数カ月たったら、出場した若者たちが話題になることはなくなってしまった。そして、生活は改善されていない。現在もキャンプにある売店で働くなどして、月に数千円を稼いでいる状態だ。

 支援の方法は様々ある。トルコの団体は違うアプローチで支援した。ソマリア人は結婚する際、男性側が女性側に贈呈品を渡すのが慣例なのだが、仕事がないために用意できない多くの若者に「結婚奨学金制度」を創設した。数十人の難民の若者の結婚を支援し、「この恩は一生忘れない」と歓迎された。

 私がキャンプで実施した1300人の若者対象の実態調査で、「一番学びたいもの」にあげられたのは「経営学」や「英語」だった。キャンプにはレストランやホテルなどが立ち並ぶ大きな市場があり、そういった所で働くための能力を身につけることこそが彼らの本当の「夢」なのだ。

 一番大きなレストランのシェフの月収は3万円。ケニアの国家公務員並みだ。アジア料理をつくる技能を伝授すれば、キャンプで働く欧米出身の援助関係者数百人を顧客にビジネスができる。

 キャンプに住む難民の人たちは、よい仕事について幸せな家庭を築きたいと思っている。「難民の夢を開きたい」と考えるなら、現場の声を第一に考えてこそ、その効果が最大限発揮される。現場の視点こそが、支援に持続性をもたらすのだと思う。
 (くろいわようこう フリーライター)

何をもって「主夫」と言うのか?

妻の事務所の勤務時間はとても奇妙だ。本来は、午前9時から午後6時で、午後1—2時が昼休憩なのだが、昼休憩を取らなければ、午後5時で帰宅できる。このため、皆、早く帰りたいから、昼休憩を取る職員はほとんどおらず、机でサンドウィッチなどを食べながら、ぶっ通しで仕事をするという。(基本、残業はほとんどなく、6時には事務所は空っぽになる)

さらに、事務所周辺には昼ご飯を注文できる適当なレストランがなく、午後5時に帰宅したい妻は毎日、弁当を持っていかなくてはならないのだ。

これは、主夫の私にとってそれなりの心の負担だった。前の日の昼ご飯や夜ご飯を多めに作ることはできても、朝早く起きて、朝ご飯の他に、妻の昼ご飯まで用意するのは辛い。夕ご飯に外食をしたり、多めに作ることができないメニューの時もある。

なにより、本来取れる昼休憩を取らないという選択をしているのは妻なのだから、昼ご飯問題は、妻自身で解決してほしいといつも心の中で思っていた。だから、時をみて「事務所周辺に食堂あったけど?」「昼休み取ったら」などと話しをしてみたが、「ないものはないの!」「昼休み取っている職員なんて一人もいない」と、一蹴された。私としては、妻に一言「弁当は私がやるから気にしないで」と言ってほしかったのだが、残念ながらそれが発せられることはなかった。

そして、7月1日、ついに、お互い日々貯まった鬱憤が爆発した。

6月29—30日と、一泊二日で友人らとキャンプに出かけた私たちはヘトヘトに疲れて帰り、7月1日朝、私は弁当はおろか、朝ご飯さえ作れなかった。妻は出勤前「朝ご飯は?昼ご飯は?」などと私に尋ね、それが私の心の負担をさらに増幅させた。

午後6時、妻帰宅後、いつもの様に2人で夜ご飯の準備に取りかかった。私は「今日、昼ご飯どうしたの?」と尋ねた。妻は「スーパーでパン買って食べた」と返答し、私が「運転手に頼んだら、どこかでサンドウィッチとか買ってきてくれるのじゃないかな?」と言うと「また?なぜ、あなたはいつもそうやって私に昼ご飯をどこかで買わせようとするの?何を説得しようとしているの?」と聞き返してきた。私が「毎日、弁当を用意するのは大変だから」と言うと、妻の声のトーンが一気に上がった。「あなた、毎日、弁当なんて作ってないでしょ!それなのに『大変』とか言わないでほしいわ!」。

私は、妻の変容振りに戸惑った。

私:なぜそんな感情的になっているの?

妻:別に感情的になんてなっていない。あなたこそ。

私:あなたの声のトーンが上がったのわからなかった?

妻:あなたが変なこと言うからよ。

私:何て言った?

妻:毎日、弁当を用意するのは大変。

私:それの何がいけないの?

妻:あなたは、毎日、弁当なんて用意していない。週に1回とかじゃない?

私:毎日、弁当を用意しているかどうかなんて関係ないでしょ。私にとって、毎日、弁当を作るのは難しいという事実は変わらないのだから。

妻:あなたは、何のために私にそれを話したの?

私:弁当を持っていく以外に昼ご飯を食べる選択肢があるかもしれないという提案をしたかった。

妻:なんで、そんなことする必要があるのよ?別に毎日弁当作っているわけでもないのだから、いいじゃない。

私:自分の妻の健康を気遣って提案をしているだけだ。提案をする権利は誰にでもある。

妻:提案に聞こえない。事務所近くで昼ご飯を取らない私を責めている様にしか聞こえない。

私:別に責めてない。ただ、前から言っているように、あなたが昼休みを取って、昼ご飯を事務所周辺で食べてくれたら、こちらの負担は減るのは事実だ。

妻:だから、事務所周辺には食堂がないのよ!

私:でも、あなたの上司はいつもどこに食べにいっているのかな?

妻:本人に聞いてみたら?

私:なんで、そんな感情的になるのか、さっぱり理解できないな。

妻:あなたは毎日弁当を作っているわけじゃないのだから、とやかく言う権利はないの。

私:心理的負担の問題だよ。今日だって、スージンが昼ご飯どうしたのか心配していたし、罪悪感もあった。

妻:そんな心理的負担になるほど、あなたは弁当を作っていないわ。先週だって、ほとんど毎日、私が自分で作った物を持っていっていたと思うわ。

私:それは違う。金曜日、あなたは、私が作った雷豆腐炒めを昼ご飯に食べたはずだ。(ちなみに、この日、妻は弁当箱を家に忘れ、私が事務所まで届けなくてはいけなかった)

妻:それでも週に一回だけでしょ。

私:一応、自分はできる範囲内でスージンのために身を捧げているつもりだ。それでも、限界はある。

妻:「限界」ってどういうこと?

私:あなたの家族と会話ができるようになるために、ハングルの勉強をしている。それに、ブログなどの執筆活動だって、ほとんどお金にはならないけど、自分にとっての大事な「キャリア」なんだ。そういうものを大切にしつつ、スージンのためにできることはやっているつもりだ。

妻:だったら「主夫」なんて言う資格はないわ。夕食だって2人で協力してやっているじゃない。

私:「主夫」の定義なんて色々あるさ。家事は、あなたより私の方が多くやっているのは事実だ。弁当だって、昼ご飯と夜ご飯にできるだけ多くの量を作って、次の日にスージンに持たせるよう心がけている。でも、あなたはそれを感謝するどころか、「『弁当』ではなく、残飯を箱に詰めているだけです」 と私を人前でこき下ろしたりする。そんな事言われたら、弁当作る気になんてなれない。

妻:あなたが人前で「私は主夫です。毎日、妻の弁当作っています」って胸を張ったりするからよ。実際は、毎日弁当作っていないし、週に一回、家政婦に掃除をしてもらって、夕食は妻と2人で作って、「主夫」の仕事、あまりやってないじゃない。

私:「毎日作っている」なんて言った覚えはない。私なりにスージンが昼ご飯を食べれるように頑張ってきたのに、あなたは友人たちの前で「残飯を持っていかせられるだけ」と愚痴を言っていた。もう少し、人前で私に感謝することはできないものだろうか?

妻:「弁当」っていうのは、ご飯、卵焼き、唐揚げとか色々入ったものを言うの。残飯をタッパに詰めたものをいうものじゃないの。

私:それは、人それぞれの定義でしょ。実際、あなたは時々、私が作ったものを昼ご飯に食べているよね?

妻:それはそうだけど。

私:そこにある私の努力になぜ感謝しようとしないの?なぜ、人前で「夜、朝、昼と3回連続同じもの食べさせられることもあります」なんて言ったりするの?あんなこと言われたら、誰だって良い気はしない。

妻:あなたが「自分は主夫です」って自分を紹介するたびに、偽善っぽく聞こえるのが、我慢ならなかった。

私:でもさ、それをわざわざ人前でさらけ出す必要がどこにあるの?2人だけの時に話し合えばいいじゃない。なぜ、人前で私が立派な主夫か、だめ主夫なのか、判断する必要があるの?なぜそこにそこまでこだわらなければならないの?

妻:こだわっているのはあなたよ。もともとあなたが「毎日弁当を作るのは難しい」って言ったから始まったのよ。

私:あなたに一言「事務所での昼ご飯問題は、私が昼休憩を取らないと選択して発生していることだから、あなたは一切心配しないで」と言ってほしかった。その一言で、どれだけこちらの負担が減ることか。

妻:あなたと私だったら、あなたの方が時間を柔軟に使えるわよね?私は朝から夕方まで拘束されるわけだから。それに、夕方、仕事を終えて帰ってきても、私は必ず台所へ行って、夕食作りを手伝っているわ。一般の働く夫より、よっぽど家事をやっているはずよ。

私:一般の働く人は夕方5時半に帰って来れないからね。(私が毎日新聞で働いていた時の様に)あなたが午後11時まで毎日働かなければいけないのなら、毎晩ご飯作るよ。でも、こんなことはどうでもいいんだ。問題は、私があなたのためにしていることが、あなたから感謝されていないと感じていることなんだ。

妻:掃除は家政婦。夕食は2人で分担。家事はほとんど五分五分じゃない。なんで、そんなに感謝されたいの?

私:五分五分じゃない。家探し(今のアパートから新しい家に移ろうという計画がある)。車探し(今月中旬購入予定)。家政婦とのやり取り。水、電気、ガスの支払い。家に問題があった時の大家さんとのやり取り。食料や日用品の買い物。間違いなく、私の方が、あなたより家のことはやっている。それにね、私にとっての「主夫」の定義は、家事をする以上のことが含まれている。私が毎日新聞で働いている時、あなたは私に付いて来ることなく、東京で仕事をし、キャリアを優先した。私は、今、キャリアよりも家族を優先してあなたに付いてきた。家族が一緒に暮らせるように、肩書きをすべて捨てた。私にとっての「主夫」とは、キャリアを諦めた瞬間から始まっている。だから、掃除や料理だけを見て「主夫」かどうか判断するのは間違っている。一応、これでも大手新聞社の記者だったんだ。それが今じゃ、肩書きなしだぜ。自分で選択したことでも、将来、色々不安になることだってある。それでも、プライドは持ち続けたい。自分なりに頑張ってみても、妻から人前で「夜、朝、昼と同じ物を食べさせられるの」なんて貶されたくないんだよ。

気付いたら、妻は顔をタオルで覆っていた。涙を拭っている。時計を見ると、やり取りが始まってから1時間近くが経過していた。切り始めた豚肉を見て、私は「肉が駄目になる前に、とりあえず料理しちゃおう」と、ニンニクを刻み始めた。数分後、妻も黙って、フライパンを取り出した。私が、エビとチンゲンサイの中華スープを作り、スージンがマーボードーフを作った。お互い、何も話さないまま、食卓を囲んだ。食べ始める前、私がスージンに「いただきます」と言うと、妻に笑顔が戻った。「これからは人前でもっとヨウコウを褒めるようにするね」とハングルで言った。人間の感情というのは燃え上がるのも一瞬なら、鎮火するのも一瞬。本当に不思議なものだ。


プロフィール

seventh star 7

Author:seventh star 7
黒岩揺光  
1981年、新潟生まれ。7人兄弟の末っ子。15歳で米国留学して以来、住んだ国は計8カ国に。海外生活計17年。日本では毎日新聞記者、アフリカでは難民キャンプの工場長、アゼルバイジャンで主夫、ジュネーブで国連職員などを歴任。現在は中東ヨルダンで妊娠した妻に寄り添う専業主夫。
 著書に「僕は七輪でみんなをハッピーにしたい」(ユーキャン)「国境に宿る魂」(世織書房)。
メール連絡先 yokuroi×hotmail.com (「×」を「@」にしてください) ツイッター:@YokoKuroiwa

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