移住する理由が、お金でも家族でもキャリアでもなければ何なのか?


メンバーが3人となった主夫会。存続の危機に立たされたと思ったら、なんと、新メンバーが現れた!しかも、これまでの主夫とは一味も二味も違う。

ドイツ人のハラルド(52歳)は話し好きのお調子者。165センチの身長で、髪の毛がなく、トルコ移民かと思うほど、顔のほりが深い。英語は日常会話はほぼ支障がないが、少し専門的な話になると「うーん、ちょっと辞書使うから待ってて」と少したどたどしい。

私が主夫会に入った時は、「先輩」たちに少し遠慮して聞き手に徹していたが、ハラルドは最初からずっと会話の中心にいる。知らない動物やスポーツが話題に上ったら、iPadですぐ調べ、「この動物の分布地図だ!北米に多いな」と、さっきまで知らなかったくせに、得意げに見せびらかす。

「なんでアゼルバイジャンに来たの?」といつもの質問をすると、「妻が理学療法士で、この国は理学療法の分野が遅れているから、来たんだ。私は、ドイツでの仕事を辞めて、こちらでは翻訳のバイトをしている」と言う。

「理学療法の分野が遅れている国なんていくらでもあるだろうに、なぜアゼルバイジャンなの?」と尋ねると、「妻がドイツで経営していたクリニックに、脳性小児まひの子どもが来たんだ。アゼルバイジャンの子どもで母親が『私の国ではこの子を治してくれる療法士がいないのです。助けてください』と言ってきた。妻は、その子どもが理学療法の治療を全く受けていなかったことにショックを受け、アゼルバイジャン行きを決めたんだ」

私は、思わず胸が熱くなった。他の主夫会メンバーの様に、国連やBPみたいな受け入れ団体があったわけでもない。「子どもを助けたい」という一心で、はるばる移住してきたという。私はハラルドに「彼女に会わせてくれないか」と早速、お願いし、次の日、二人の家を訪れた。

妻のゼリア(53歳)は、ハラルドと違い、背が高く、金髪で、英語が巧かった。ただ、話好きという点は、共通していた。「私、質問されるの好きだから、何でも聞いて」と言う。

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私が、「アゼルに来ることに決めたのは、ドイツで、アゼル人の脳性小児まひの子どもに出会ったからだというのは本当ですか?」と確認すると、ゼリアは「え??違うわよ」と言う。

私:あれ?ハラルドからはそう聞いていたのですが、、。それでは、なぜ、アゼルに来たのですが?

ゼ:「スピリチュアルティーチャー」に導かれたのよ。

私:スピリチュアルティーチャー??占い師みたいなものですか?

ゼ:、、。何て説明したらいいのかしら。私には、そういうお導きをしてくれる「お方」がいるの。8年前くらいに、ずっと同じ場所で同じ仕事をし続けていることに嫌気がさして、「私の理学療法士としての経験や技術が役に立つ場所が、この世界にはありますか?」とそのお方に尋ねたの。そしたらね、そのお方が「アゼルバイジャンという国がある。そこの首都、バクーに行けば、あなたを必要としている人がたくさんいるでしょう」と答えてくれたの。それで決めたのよ。

おいおいおいおい、、。全く予想していない方向に話が進んでいないか?脳性小児マヒの子どもを見て、移住を決心した妻はどこにいるんだ?

その導いた「お方」の名前はアグニーさんという男性。ゼリアは写真立てに入ったアグニーさんの顔写真を見せてくれた。50歳くらいで、ちょっと白髪がかかって、どこにでもいそうなおじさん。「新興宗教」という表現が正しいのかどうかわからないが、とにかく、お祈りをする団体で、世界に150の支部があるという(本当かな?)。ゼリアは10年前から入っており、様々な「訓練」を受け、すでに「指導者」の資格まで持っているという。

「どうやったら『指導者』になれるのですか?」と尋ねると「特別な訓練を受けるのよ」という。「その訓練は誰でも受けれるのですか?」と尋ねると「基礎の訓練をすべて受けた後ならね。ただし、受講費が150万円かかるけど」。「150万円!!高いですね」と言うと「一流企業の幹部になる訓練だってそれくらいするでしょ」とゼリア。

ゼリアが入信することになったきっかけは、一人娘(25歳)だった。「結婚」という形は取らずに16年間同居していた男性との間に生まれた子ども。その男性と別居(日本でいう離婚)する時、13歳だった娘が幻聴に悩まされ、「悪魔がいる」「天使が飛んでいる」などと独り言を言い始めた。

精神病院に連れて行こうか考え始めた時、友人がアグニーさんを紹介してくれた。「娘さんの現実を受け入れないあなたがいけない。『悪魔』や『天使』から目を背けてはいけない。娘さんが言っていることをよく聞いてあげなさい」などとアドバイスを受けた。それから、娘と対話ができるようになり、アグニーさんの訓練を受け始めた。依頼、「天からのお声」が聞こえたり「天使」が見えるようになった。

「明日の夜、町のバーに行けば、特別な人に出会う」。

2005年のある日、寝床についたゼリアはこんな声を聞いた。次の日、バーに行ってみると、そこでビールを飲んでいたのがハラルドだった。「この人が私の運命の人なんだ」。二人はすぐに意気投合した。

ゼリアは「話しておかなければいけないことがある」と改まった。

「私はあなたの事が好きで、ずっと一緒にいたいと思う。でも、私はアゼルバイジャンという国に近々、移り住まなければならない」

ハラルドは驚いた。「わかった」と答えはしたが、彼女がどこまで本気なのかはわからなかった。

ゼリアが精神世界に傾倒していることに、少しの違和感を抱きつつも、お金や地位でなく、自分の信念に基づいて行動する彼女の姿は、それまで出会った女性にはないもので、惹かれるものがあった。

2008年、2010年とゼリアは2回、アゼルバイジャンを旅行し、移住の準備を着々と進めていた。 最初は半信半疑だったハラルドも、彼女の意志と真剣に向き合わざるを得なくなった。

18歳で父を亡くしたハラルドは、ずっと近くで暮らしてきた88歳の母親から離れたくなかった。40代までは短期契約の仕事を転々としていたが、ゼリアと会ったころに初めて正社員の座を掴んだ。それらをすべて投げ出して、未開の地に行けるだろうか?再就職をするには厳しい年齢だ。しかも、他の主夫と決定的に異なるのは、アゼルで安定した収入が保証されていないことだ。不安ばかりが募った。

ゼリアに、「私たちの住んでいるところは良いところだ。君にも僕にも良い仕事がある。ここで一緒に暮らし続けないか?」と何度か話したが、ゼリアの決心は、ハラルドの頭で考えうる「論理」の域を超えていた。

ゼリアは、家や家具をすべて売り、16年間経営を続けた個人クリニックを閉めた。毎月70万円の給料は0になった。ハラルドには「付いて行くのか、行かないのか」という選択しか与えられなかった。ゼリアが出した唯一の譲歩案は「もし私が失敗したら、今度は私があなたに付いて行くわ」だった。

2011年1月、ゼリアはアゼルバイジャンに一人で旅立った。

ハラルドが移住の話をすると母親に泣かれた。3人いる兄たちからは「頼むから行かないでくれ」と請願された。(私がハラルドの兄でも同じことを言うだろうけど、、、)。同僚からは「そんな夢物語で仕事を辞めるなんて馬鹿だ」と貶された。

ゼリアと一緒になってから5年以上が経っていた。こんなに長い間誰かを好きになったことなかった。ゼリアの前に好きだった女性は、美しかったが、外見ばかり気にする人で、バーに行けば、他の男性の気を惹こうと必死だった。「ゼリアと会うまで表面的な人間関係しか作れなかった。彼女を失ったら、私は一生独りかもしれない」。

「まず、どんな国なのか見てみよう」。同年8月、アゼルバイジャンを初めて短期で訪れた。交通ルールを無視した運転。渋滞。小汚い道路。町を歩けば周囲から外国人ということでジロジロ見られた。外国で暮らした事のなかったハラルドにとってはすべてが新鮮だった。

「冒険してみるかな」。8年働いた会社を辞め、5ヶ月後、ハラルドは片道チケットでバクー国際空港へ降り立った。

新生活は苦難の連続だ。ゼリアが最初に働き始めた病院では、患者が集まらず、すぐ辞め、個人クリニック設立の準備を始めた。

その間の生活費を稼ぐため、ゼリアは外交官やBP社員などを顧客にマッサージをし、ハラルドはアゼル文化を紹介する出版社の翻訳バイトをした。

ハラルドが残して来たドイツのアパートとアゼルバイジャンの家の家賃だけで月15万円がかかる。 さらに、アゼル人の協力者を探し、営業許可証、就労許可取得など、ありとあらゆる事務手続きに莫大な時間と費用(賄賂)がかかった。ハラルドは3ヶ月の観光ビザしか取れず、毎回、ドイツに飛ばなければならなかった。 しかも、エイズ予防のため、ビザ申請時は毎回血液検査があり、移民局から囚人のように扱われた。(ちなみに私もスージンもこんな検査受けた事がない)

貯金はすぐに底をついた。「こんな国、来るんじゃなかった!もう帰ろう!」とハラルドは何度か説得にあたったが、「お願い。もう少しでクリニックが開業できるの。そしたら収入が入るから」とゼリアはお願いした。

ハラルドは兄から、ゼリアは姉から借金をし、クリニックの開業にようやく目途がついた。 私は「アグリーさんからの導きが大切なのはわかりますが、借金までしてやらなければならないことなのでしょうか?」とゼリアに尋ねた。
ゼリアは「私みたいな幼児専門の理学療法士というのは、ドイツでも珍しいの。この国では皆無よ。ここの人たちは『理学療法』がマッサージとか電気治療だと思っているけど、私のアプローチは全然違うの。例えば、生後間もない赤ちゃんが腰の動きに問題があったとする。そしたら、私は赤ちゃんの体のどの部分を押すと、どこの体の部分が動いて、それが『リハビリ』になるのか教えるの。そうすれば、この赤ちゃんは、自分の力で体を正常に戻すことができる。マッサージとか電気治療は一方的にやってあげるだけでしょ。だから、私がこの国でクリニックを開くのには大きな意味があると思うの」と言う。

ようやく来月、アパートの一室を借りてできたゼリアの個人クリニック「ドイツーアゼルバイジャン リハビリテーション センター」が開業する。(もっと良い名前ないのかなー)

お金のためでも、地位のためでも、家族のためでも、キャリアのためでもない。アグニーさんからのお告げから始まった二人の冒険は、これからどうなっていくのか。こうご期待!

一番の心配は、ゼリアの布教活動がアゼル当局の取り締まりを受けることだな、、。
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広島カープのせいで、何も集中できない日々、、、、


私が6歳の頃から応援し続けてきた広島カープが16年振りに3位以内(Aクラス)に入りそう。おかげで、最近は、私の頭の中はカープ一色。アゼルバイジャンは時差が4時間のため、午後2時がナイター試合開始の午後6時。午後はずっとヤフーの一球速報に釘付けになり、試合終了後は、ニュースやYouTubeに釘付けになる日々、、。

カープ1

カープ2
(今年7−8月に日本帰国した際、広島マツダスタジアムに観戦に行き、カープが大勝しました!)

カープが3位以内に入る事が、どれだけ凄いことなのか。

プロ野球にはフリーエージェントという制度があって、一定の年数、活躍した選手をお金で買い取ることができる。

これにより、お金のある球団が絶対的優位なシステムになっている。

それでは、各チームで今年活躍している選手(規定投球回/打席に到達している)の中で、他球団から引っこ抜かれた選手がどれくらいいるのか見てみよう。(今年活躍している選手に限ります)

巨人

1. 杉内 (先発投手の柱)
2. 村田 (4番打者)

阪神

1.西岡 (1番打者)
2.新井貴 (5番打者)

中日

1.和田(4番打者)
2.谷繁(正捕手)

横浜

1.ブランコ (4番打者)
2.中村 (5番打者)

ってな具合で、各チームとも主力選手が、他球団から来ていることが多いのです。

んで、広島カープは???

ゼロです。ゼロ!!!

全員生え抜き選手です!よく、ニュースで「この人は生え抜きです」とか言いますが、カープにはそんな議論必要ないのです。だって、全員生え抜きなんだから!

さらに!

現在、大リーグ名門球団のヤンキースで活躍する黒田投手。そして、上記に出てきた阪神の新井選手は、カープ出身です。つまり、ゼロどころか、「マイナス2」なのです。「マイナス2」のチームが、「プラス2」のチームと戦って、上位に食い込んでいるという、ミラクルが起こっているのです。(巨人は上原がメジャーで活躍し、横浜は内川がソフトバンクで活躍しているので、プラス1になるか、、)

15年も3位以内に入れなかったのは、そういうことなのです。しかし、今年は、若手と外国人選手の活躍で、3位確定が目の前まで来ています。3位以内なら、「クライマックスシリーズ」という、上位3チームがしのぎを削るトーナメントに出る事ができ、これを勝ち抜けば、「日本シリーズ」に出ることができ、「日本一」になる可能性も出てくるのです!

今回が16年振りということは、今年見逃したら、次は16年後の可能性もあります。カープには「マエケン」という絶対的エースがいるのですが、近い内に大リーグに行くでしょう。そしたら、3位以内はかなり難しくなります。

そこで、私は、妻に打診しました。

私:カープがクライマックスに行ったら、日本に帰って、試合を観戦したい。

妻:その時期は、こちらの祝日だから、グルジア(隣国)に行く約束だったでしょ。

私:今年見逃したら、10年以上待たなければいけなくなるし、その時は、私に仕事があったり、子どもがいたりしたら観に行けないかもしれない。「主夫」である、今だからこそ、観に行けるんだ。グルジアはいつでも行けるだろ。

妻:日本は先月行ったばかりでしょ。お金がかかって仕方ないわよ。

私:自分の貯金使うから。次、カープが3位以内になるのは、俺が48歳の時になるかもしれない。それまで生きているかどうかもわからんだろ。

妻:、、、、。もう、好きにしてよ。今日から、カープが勝たないよう、断食してお祈りする!

と、いうわけで、10月12日から始まるクライマックスシリーズを観るために、飛行機チケットを予約しました!カープが勝ち続ける限り、日本に居残り続けます。カープ頑張れ!!





 

主夫会が存続の危機に

9月1日、約2ヶ月振りにアゼルバイジャンに戻った私は、早速、主夫会メンバーのニュージョンに電話をした。しかし、電話は不通になっている。次の日かけても繋がらないため、フェースブックで「どこかに行っているのか?」と尋ねたら、驚きの返事が戻って来た。

「ヨーコーへ 私たち家族はもうアゼルバイジャンを去りました。思い通りにいかないことが重なり、自分たちの生活が色々なことに縛られ、積もりに積もったストレスが、私たちをこの決断に導いた。私たちはフロリダに移り、妻は、以前働いていた部署に、子どもたちは、前通っていた学校に、それぞれ戻る。私は、金曜日に、就職面接がある。みんな、新しい生活を楽しんでいるよ。もし、フロリダに来る機会があったら連絡くれよ。主夫会のメンバーによろしく伝えてくれ」

私はしばし言葉を失った。今年1月にアゼルバイジャンに来たニュージョン一家は、ここに3年いる契約だった。(ジョンについての詳細を知りたい方はここをクリック。) 

そして、7月初め、私がカンボジアへ発つ前に会った時、ここを去る兆候は微塵もなかった。喫茶店で知らない米国人に話しかけら、その人が語学学校を経営していると知ると、「仕事探しているんだ。アメリカでは大学に勤めていたんだ」と積極的に自分を売り込んでいた。それが、私がアゼルを離れた1、2ヶ月の間に何が起こったというのか。

一緒にドライブに出かけたり、プールで遊んだり、ボーリングやテニスをした仲なのに、去る前に一言も声をかけてくれないなんて、、、。「ストレス」「思い通りにいかないこと」とは一体何なのか。

ジョン立ち去る

9月5日、毎週木曜日の主夫会で、ロドニーとオールドジョンに事情を聞いても「俺たちも驚いているんだ。ニュージョンは何も言わないでアゼルを立ち去った」と困惑気味だ。

そもそも、突然、「アメリカに帰ります」なんていうわがままが会社で通るものなのか?オールドジョンは「キャリアの観点からしたら、大きなダメージだろう。もう海外に派遣されることはなくなるのではないか」と言う。私も一応、元会社員だ。どんな事情があったにせよ、会社に渡航運賃など多額の資金を払わせておいて、「来月去ります」なんて言ったら、間違いなくブラックリストだ。

さらに気がかりなのは、長男のリトルジョンだ。小学校5年生(11歳)で、これまで両親の転勤に伴い、アラスカ → カリフォルニア → フロリダ(2回) → アゼルバイジャン とすでに計4回転校を繰り返している。これが5回目の転校となるのだ。

子どもにとっても、妻のキャリアにとっても、プラスになることはない。

さらに、彼らがアゼルに転勤することに決めた最大の理由であった「お金」。住居、車、運転手、健康保険、子どもの教育費、すべて会社が負担する上、一時帰国手当(毎年一回、家族全員分の本国へのビジネスクラス往復航空券代に相当する現金支給)、僻地勤務手当、配偶者手当、レジャー手当(ジムや語学教室など)、などなどなど、大手石油会社の海外勤務というのは「ドル箱中のドル箱」なのだ。

BPで働く複数の友人らの話を総合すると、一月に入るお金は200万以上。 しかも、出費は食費とガソリン代だけ。

米国のBPに戻れば、「国内スタッフ」の身分になるため、あらゆる手当がなくなるため、入るお金は半分以下になる。(それでも十分だけどー)アゼルを立ち去ることに、一体、どんなプラス要因が考えられるだろうか?

私はジョンにフェースブックでメッセージを送った。

「元気でやっているの?皆心配している。一体、ここで何があって、去ることに決めたのか。子どもたちは元気でやっているのか」

返事はすぐ来た。

「みんな元気だ。去った理由は、色々ある。会社から割り当てられるはずの住居や車が割り当てられなかったり、そういった思い通りにいかないことに対するストレス。あと、妻の業務の激務さ。私たちは滅多に妻と話すことができなかった。給料は良かったけど、お金より家族が大事だ。アゼルバイジャンは私たちが住む所ではないという決断に至ったんだ。人生は短い。家族が一番幸せになれる所にいようということになった。長男はアメフトのチームに戻った。次男は野球を始める。私はある大学での就職面接をすでに二回した。妻は、前のように、2週間、アラスカの僻地で働き、2週間休むという勤務体系に戻る。これが一番私たちにとっていいんだ。アゼルに移る前に自分たちがどれだけ幸せな生活を送っていたのか、わかったんだ。ここでは大好きなアメフトの試合も見れるしね(笑)」

私もすぐ返事を出した。

「新しい生活をエンジョイできているようで良かったよ。野球が見れるのが羨ましい。それでも、まだちょっとわかりにくい部分がある。7月初めに話した時、ここを去る兆候は全くなかった。すでに車と運転手は割り当てられ、一軒家にもうすぐ移れるところだった。君は仕事を一生懸命探してた。アナマリア(妻)はそんな毎日遅くまで働いている感じでもなかった。だから、あの1—2ヶ月という短い期間で、『アゼルは俺たちの住む場所じゃない』という決断に至るきっかけになったことはなかったのだろうか?」

また、返事はすぐだった。

「誤解がある。妻はいつも遅くまで働き、週末も働くことがあった。一戸建ての家は7月末までに入居できる予定で、すべて荷物をまとめて用意していたのに、さらに1ヶ月待たされることになった。会社に対し、多くの不満があった。例えば、会社は私たちの住民登録をするのを忘れ、一からすべて書類を用意しなおさなければならなかった。こういうのが重なって今回の決断に至った」

一軒家というのは、子ども連れで来る社員のためにBPが買い取った住居群にある家のことだ。欧米のカリキュラムで教える国際学校が近く、塀で囲まれた中に、100軒近くの芝生付きの三階建て住居が立ち並んでいる。確かに、最高の住居環境だが、そこに移るまでに割り当てられる短期滞在用マンションだって、私からしたら超高級だ。「ハヤット」という五つ星ホテルに併設されるマンションで、3LDK(200平方㍍)に、屋内、屋外プールなどがある高級ジムが下にある。日本の大手商社の現地代表や外交官らが住むようなところだ。

一戸建てに移り住めないことが、そこまでのストレスになるのか、、。うーん。仕事が激務というが、前の部署だって大変だったはずだ。

石油会社の「現場」である産油地帯は僻地にあることが多く、イラクなど治安が悪いところもあり、特別な勤務体系がとられる。イラクなら、4週間働いて、4週間休む。ジョンの妻が働くアラスカの産油地帯は、2週間働いて、2週間休むというものだ。

年の半分休めるわけだから、聞こえはいいが、実はかなりしんどい。フロリダとアラスカは同じ米国といっても、日本からパキスタンくらいの距離がある。2週間ごとに、この距離を飛行機で移動するのは肉体的に相当辛い。アゼルバイジャンなら少なくとも毎日家族と一緒に過ごせ、飛行機移動はほとんどない。

アゼルバイジャンがジョンや子どもたちにとって最初の外国であり、色々井戸惑うことはあっただろうし、住み慣れた米国の方が「幸せ」だというのもわかる。に、しても、消えるように去るほどのことなのだろうか。

主夫会のロドニーもショックを隠せなかった。同じアメリカ出身で、しかも同年代。「ジョンは、『主夫』であることが耐えられなかったんだ。ジョンは俺と違って『自分が男』だという意識が高かったからな」と言う。

ジョンはよく「周りの男性から、自分が主夫だから『羨ましい』と言われるけど、俺は『仕事がないっていうのは、そんな楽なもんじゃないぞ!』って言っているんだ」と話していた。

確かに、海外の「駐在主夫」をネガティブに語ろうと思えば、いくらでも語れる。明確な肩書きがない。やる事がない(海外駐在の場合は家政婦が付いたりするから特に)。友達ができづらい。言葉が通じない。さらに、アゼルバイジャンの様に男女平等が進んでいない国では、「え?男なのに女のお金で食べているの?」と言われたりする。

私も、この夏、日本へ一時帰国した時は結構言われた。まず、男女平等を推進しているはずの姉から「今回の帰国費用はスージンのお金なの?」と聞かれた。(海外駐在する男性の妻に「ご主人のお金で帰国されているの?」って聞かねえだろー)さらに、10歳の姪からは「アゼルバイジャンには車あるの?」と聞かれ、「最近買ったよ」と答えると、「スージンも少しは払ったの?」と聞かれ、「全部、スージンのお金だよ」と答えると「ええ!普通、男が払うんじゃないの?」と驚かれた。

こういう一コマ一コマを「ストレス」ととらえてしまうと、確かに「主夫」は辛いかもしれない。私は「新しい時代を切り開いているんだよ」って適当に流しているが。

ジョンは、フロリダで最初に主夫になった時、親戚一同集まったところで、妻の親戚から「ああ!あなたが噂のハウスボーイなのね!」と言われたという。「あの時は本当に腹が立ったよ」と、まるで昨日の事の様に語気を強めていた。私が「単に、『珍しい』という意味だったのではないの?」と尋ねても「いや。あれは、完全に私の事を見下している目つきだった」と譲らなかった。

考えれば考えるほど、彼らの突然の退去には、ジョンの都合が色濃くあるように見えた。米国なら就職口はある。アゼルで3年間無職のままでいて、米国に帰れば、50歳近くなり、再就職は難しくなるかもしれない。さらに、希望就職先が大学機関であり、米国の新学期が9月から始まることを考えれば、空席が出やすい7−8月に帰った理由も説明がつく。

ジョンについて紹介したブログでは、ジョンが主夫であることをプラスに考え始めているようだったが、心の奥底ではモヤモヤがあったのだろう。

私は、再び、メッセージを出した。

「アメリカに行けば、就職口があることも、ここを去った理由の一つなのかな?」

ジョンは返事をしなかった。図星だったからなのか、それとも、私からの質問攻めに辟易したからなのかはわからない。

いずれにせよ、当初6人いた主夫会は、これで3人になり、存続の危機に立たされることになった。

ウンコをする場所を選べる楽しさ

私は昔からお腹を壊しやすく、突然の発作でトイレに駆け込まなくてはならないことが多々ある。トイレが近くにない時はいつも死にもの狂いで我慢しなければならない。

中学時代、スキー部合宿のミーティングでは全員正座で先生の話を聞いている最中に「発作」が起きた。先生たちは真剣な表情で「俺たちはな!お前たちをな!全国大会にな!連れて行きたいんだよな!」と説教なのか、激励なのかよくわからない話を延々と続けていた。さすがに、ここで「すいません、トイレに行きます」とは言えず、歯を食いしばった。

20分、30分と経ち、ようやく、先生が「それでは、ここで終わりにします」と言い、私たちは「ありがとうございました!」と頭を下げた、その瞬間、私の緊張の糸が切れ「ボム!」というガスが吹き出る音が私のお尻から出た。

50人くらい混雑した中に私が混じり込んでいたら「誰だ誰だ!」と騒いで、ごまかせたのだろうが、運悪く、私は一番角の隅に座っていた。一瞬で、全員の視線がこちらに集まった。私の気まずそうな顔を確認すると、皆、一斉に爆笑。先輩の女子部員は笑いすぎてお腹が痛いのか、額を床に伏せていた。
 
以来、「黒岩テロ未遂事件」として数ヶ月語り続けれることになってしまった。

そんなトラウマを抱えながら、私は14歳の時、家族旅行でアフリカのサファリに行った。象、キリン、シマウマなど、ありとあらゆる動物が、思うがままのところでウンコをしている風景に見とれてしまった。周りの外国人観光客が「おお!象のウンコはでかいな!」と喜んでいた。私は「動物はいいな。どこでも好きな所でウンコができる上に、歓声が上がるのだから」と思った。

そしたら、なんと、アゼルバイジャンで生まれて初めて「どこでもウンコができる」体験をした!5000メートル級の山々が連なり、湖や川が点在しているアゼルバイジャンはアウトドア好きにはたまらない場所。日本でも何度かキャンプをしたことがあった私たち夫婦は、すでに2回、キャンプをした。

日本と違うところは、トイレ、シャワー、炊事場などが併設されている「キャンプ場」がないこと。

適当に景色が良い所を選び、テントを立てる。 山岳地帯には数十人規模の小さな村が数キロおきに点在しているだけで、360度自然の絶景を楽しめる。人と会うのは、たまに羊やヤギの群れを連れる遊牧民と出くわすくらいだ。ウンコをしたければ、トイレットペーパー片手に、アフリカの動物の様に自分のお気に入りスポットで、垂れ流すのだ。

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これまで「ちょっとトイレに」とバツ悪そうに席を立ち上がる必要もない。トイレを探す必要もない。トイレが汚いかなどと心配する必要もない。考えれば考えるほど、人間は「トイレ」に支配された生活をしていると感じる。


「次はどこでウンコをしようか」などと考え始めると、浮き浮き気分になる。ウンコをするのがこんな楽しいことだとは知らなかった。

先週末は、ここに来てから、初めて夫婦水入らずでキャンプをした。首都バクーから車で4時間南下したところにある山中にテントを立てた。ヤギ肉や鶏肉を炭で焼き、食べた後、お楽しみのウンコの時間がやってきた。

キャンプ2

キャンプ3

「どこでやろーかなー?」と妻に尋ねると、妻は「どこでもいいわよ」と答えた。

私は「じゃあ、お言葉に甘えて」と適当な所でしゃがんで始めると、妻の怒鳴り声が。

妻:ちょっと、私の目の前でやらないでくれる?

私:だって、どこでもいいって言ったでしょ?

妻:でも、何も目の前でやらなくたっていいじゃない!

私:ごめん。もう出始めちゃった、、、。

妻:もう。最悪よ!気持ち悪い!

私:でも、地面をみてごらん。牛、ヤギ、羊の糞がそこらじゅうにあるじゃないか。そういう糞は気にならないのに、なぜ、私のは気になるんだ?

妻:あなた、動物なの?

私:人間は動物の一種だよ。

妻:人間は、頭使えるの。他の動物と違って火が使えて、他人に気が配れるの。あなた、動物なら、家の中で寝ないで、外で寝たら?

私:家の中で寝る動物だっていれば、外で寝る人間だっている。君は僕のことを愛しているんだろ。俺のすべてを愛してほしいんだ。

ウンコがたくさん出て、地面とお尻の距離がいまいちわからず、もしかしたら、お尻にウンコがついたらやばいと思い、すり足で、少し前に動いた。

妻:ちょっと!こっちに向かって来ないでよ!

私:だって、たくさん出たから、お尻に付いちゃうかも、、、。

妻:もう、早く家に帰りたい!

私:だったら、ちょっと、離れた所に行ってればいいじゃない?

 結局なんだかんだ言って、妻はその場を離れず、テントなどの後片付けを続け、私は、お尻を紙で拭った。

ウンコはそのままにしようかと思ったが、子どもの頃飼っていた子猫が、ウンコした後に、後ろ足で砂利をウンコにかけていたのを思い出し、「子猫でもウンコを隠すのだから、俺もやろう」とその辺の土を足でかき集めて、ウンコを隠した。

皆さんもどうですか?アゼルバイジャンに来たら、トイレに支配される生活から抜け出せますよ?

フリスビーを投げ続ける主夫


主夫会メンバーのロドニー(アメリカ人、42歳)は、毎日、一人で空き地へ出かけ、フリスビーを投げる。「フリスビーゴルフ」という、ルールはゴルフそっくりで、ボールの代わりにフリスビー、ホールの代わりに籠を使うもの。

「2週間後はフランスで大会があるんだ」と言いながら、家から持って来た26枚のフリスビーを鞄から取り出した。赤、青、黄色、茶色、などに色分けされ、「これはパター用(短距離)で、これはロングショット用」と得意げに説明する。

ロドニー1


周囲400メートルほどありそうな広い空き地で、ロドニーはレンガを三つ、それぞれ違う場所に立てた。「手前が70メートル、次が90メートル、一番奥が110メートル離れている」と言い、26枚のフリスビーを一つ一つ、レンガ目がけて投げ始めた。体を180度近くひねり、助走をつけ、腰の回転と共に、腕を振り、フリスビーが円盤の様に空中へ飛び立って行く。

ロドニー2

ロドニー3



フリスビーが100メートル近く飛ぶなんて知らなかった私は思わず目を奪われた。世界記録は200メートル以上だという。

アメリカ留学時代に2−3回、やったことがあったことを話すと「ええ!本当に!」とまるで同士を得たかの様に喜ばれた。おそらく、私がアゼルバイジャンで広島カープファンを見つけるのと同じくらい嬉しいことなのだろう。

「ヨーコー用にいくつかフリスビー持って来たぞ」と、さらに練習用フリスビーを8枚取り出した。「オラヨー!」と威勢の言いかけ声で、投げてみたが、ロドニーの半分の距離にも届かない。ロドニーは「オラヨー」のかけ声が気に入ったらしく、しばらく、「オラヨー、オラヨー」と真似していた。

ロドニーは毎日、正午から約2時間、この空き地で、フリスビーを投げ続ける。26枚投げ終わったら、一つ一つ広い集め、次は逆方向に26回、投げる。「今年だけで、アメリカやデンマークで3回、大会に出場したよ」と言う。すべてアマチュア大会で、交通費から参加費まですべて自費。プロ大会もあるが、それだけで食べて行ける人は「世界で10人くらい」とロドニーは話す。

米国テキサス州出身。両親は3歳の時に離婚。以降、母も父も3度、再婚を繰り返した。ロドニーは、母に引き取られ、母が工場の事務員などをしながら稼ぐわずかなお金で育てられた。継父もいたが、「酔っぱらって母を殴ったりして、どうしようもない奴だった」と苦笑い。一人っ子で、学校から帰っても家には誰もいなかった。貧しかったため、「お小遣い」というものをもらったことがなく、13歳くらいから、隣人の庭の草刈りなどをしてお金を稼いだ。「母親にお金がないことはわかっていたから自分から尋ねようと思わなかった。(実の)父親は警察官でお金はあったけど『自分が欲しい物は自分で買え』と子どもが何歳だろうと容赦なかった」と振り返る。

高校生になって、父親と時間を過ごすため、父が暮らすアラスカ州の高校へ転校した。プールの救護員のバイトをしながらお小遣いを稼いだ。高校卒業後、大学へ進学する同級生が多い中、ロドニーは父親に「大学に行きたいなら学費は自分で稼げ」と言われ、プールの救護員をいくつも掛け持ちし、学費を貯めた。「とにかく、大学出ないことには安定した仕事に就けないと思っていた」と、車社会のアメリカで一人、自転車を漕ぎながら、バイトに打ち込んだ。

4年後、母が暮らすテキサスの短期大学へ進学した。しかし、年間50万円の学費と毎月の家賃4万など、想像以上に出費が膨らみ、バイトをしながら勉学に勤しむのは容易でなく、中退。アラスカに戻り、プールの救護員のバイト生活に戻った。その後、本のセールスなどを転々とし、28歳の時、テレビのコマーシャル製作会社の雑用係の仕事を友人から紹介された。

車、ビール、ファーストフード、ありとあらゆるコマーシャルの製作現場で、「道具室からあれ持って来て」「これ空港まで運んで」「飲み物二つ!」「ちょっとここ掃除して」など、四方八方から来る指令を一つ一つさばいた。テレビでよく見るコマーシャルができる過程を目の当たりにし、次第にのめり込んだ。現場に知り合いができ、カメラの助手など、より待遇の良い仕事を任されるようになった。

そして、ロドニーが一番のめり込んだのが美術部門の物品調達の仕事だった。各場面、場面で必要になる機材を、決められた予算内で、締め切りまでにかき集める仕事。机、ベッド、電球からコップまで、その場面にあったデザインを考えて、選りすぐりの物を現場に持ち込んだ。雑用係の頃は1万円だった日給は、3—4万円にまで跳ね上がった。250万円する新型のトラックを買い、入ってくる仕事は増えた。

33歳の時、1ヶ月休暇を取って大型客船で旅行をした。船で、2歳年下のミッキーに出会った。彼女は、コロラド州の大学で地質学の博士号を取ったばかりで、アラスカのBP支社に就職したため、船でアラスカに向かう所だった。二人はすぐに付き合い始め、2年後に結婚した。

3年後、38歳で、娘が誕生した。夫婦は「どちらかが仕事を中断して育児に専念したほうがいい」と話し合った。ロドニーの中ではすでに決断は固まっていた。博士号まで取り、大手石油会社で働くミッキーの方が収入が多い上、将来性もある。医療保険など福利厚生もしっかりしている。一方、ロドニーの方は、日給だけみたら高給取りだが、短期契約の仕事ばかりで、「いつ仕事がなくなるかわからない」。福利厚生もない。

「俺が仕事辞めるよ」。ミッキーに伝えた。「俺が男だからっていう理由でミッキーに仕事辞めさせたらどうなるか?家族全員が苦しむことになる。収入が安定しないから、娘にまともな教育を提供できる保証もない。ミッキーは博士号まで取って、自分のキャリアを構築できないことに不満を抱く。私は私で、家族3人を幸せに養えないことを負担に感じる。良い事一つもないじゃないか」と言う。

「ベビーシッターを雇って、共働きを続けるという選択肢もあったのでは?」という私の質問に、ロドニーは「確かに、それもあった。でもさ、ミッキーの収入だけで十分私たち家族は暮らすことができた。だから、自分には娘とのかけがえのない時間を犠牲にしてまで、働く理由がなかった。ベビーシッター代で月10万、20万かかったとして、自分が働いて稼ぐ収入がそれより多かったとしても、娘との時間って、お金で計算できるものじゃないだろ?」

ロドニーは、2歳で娘が保育園に入るまで、付きっきりで面倒を見、保育園に入った後も送り迎えをし、夏休みは毎日遊んだ。「娘は絵や工作が好きでね、毎日、何が新しい発想で物を作ったり、絵を描くんだ」と自慢げに話す。ロドニーの家には、壁中に娘の絵が貼られ、段ボールのトンネルなどの工作もそこらじゅうにあった。

「自分は両親が離婚して、母とも父ともあまり過ごせなかった。大学に行く金さえなかった。だから、自分の娘には同じ様な想いさせたくないんだ。一緒にいたいし、高校卒業した時、娘が学びたいことを学ばせてあげたいんだ。そのためだったら、自分のキャリアを犠牲にするくらいなんてことないよ」と言う。

私が投げるフリスビーは必ず左によれ曲がっていくのに対し、ロドニーのは、真っすぐ飛び続けた。それは、ロドニーの家族への真っすぐな想いを象徴しているかの様だった。(私が妻へ曲がった想いを抱いているわけではないのですが、、、)

求められているのは解決策でなく、思いやりだった

バクー写真

カンボジアと日本に約2ヶ月滞在し、9月1日にアゼルバイジャンに戻った私。まずは、上写真の様に、カスピ海を眺めてリラックス。

次の日、久しぶりにATMでお金を降ろそうとしたら、降ろせない。日本でクレジットカードとして使おうとしてもできなかった。カードは妻の名義のため、銀行へは妻が行かなければならず、火曜日朝、妻は仕事を抜け出して、夫婦名義にしてもらうため、一緒に銀行に向かった。

午前9時10分、銀行に着くと、開館が午前9時半からということを知る。「じゃあ、その辺でコーヒーでも」と歩き、9時45分ごろ、銀行に戻ると、フロアはたくさーんのお客で溢れていた。日本の銀行同様、番号札を取って待つのだが、機械のボタンを押したら「138」の番号札が。妻は「うわー。まだ103番だよ。こりゃ、時間かかりそうだなー」と言う。しかも、問い合わせ内容に応じて、番号の種類が変わるため、中には「615」や「R50」などの番号も混じり、私たちの前に50人以上が待っている計算になる。

私たちは大のせっかち夫婦。半日も銀行で待つなんて考えられない。「なぜ、こんなことに?」と考えれば、考えるほど、妻を責めることばかり考えてしまう。

妻を責めてはいけない。笑顔で待てばいい。待つしかないんだ。ここで喧嘩しても何の意味もない。自分に頭でそう言い聞かせる。

しかし、妻が「前来た時も、ものすごい混んでたのよー」とか言うと、「だったら、コーヒーなんか行かずに、そのまま銀行の前で待つべきだった!」と言ってしまった。妻は「それは午後だったから、午前にこんな混むなんて思わなかった」と二人の間に殺気がみなぎる。

一度、文句を言い出してしまうと、次から次へと雪崩のように降ってくる。「そもそも、私が付き添う必要があったのか?」「夫婦の名義にする必要性もそこまでないのではないか?」などなど。

 番号札を呼ぶアナウンスが「105」から「106」へ。とても時間の流れが遅く感じる。スマートフォンを見て時間を潰そうとするが、すぐ飽きる妻は「ああー。30分で3人しか進んでない。この国は何でも遅いな!」と苛立ちを隠さない。

私は持って来た小説を読みながら「もう、落ち着こうよー。そんな焦っても、早く進むわけじゃないんだから」と宥める。しかし、妻は「私は今、勤務時間なのよ!」と言い、私は「それ、どういうこと?私だって、今日、やろうと思っていた『仕事』がたくさんある」と応戦。妻は「あなたは仕事がしたいの?」と尋ねてくる。私は「いや。今の言い方だと、私は仕事がないから、何時まで待っても大丈夫というように聞こえたんだよ」と応戦。

私は「ちょっと緊急の用があるから、特別に早く対応してもらえるようお願いしてみたら。このままだと12時を過ぎる可能性もあるよ」と妻に話した。

知らない人に何かを頼んだり尋ねたりすることが苦手な妻は、しばらく考えて、「じゃあ、ヨーコーが行ってきて」と言う。

私は考えた。どうにかして、番号札の順番よりも早く対応してもらい、妻をこの銀行から一分でも早く出してあげる方法を。

「111番の方、3番の窓口へお進み下さい」のアナウンスを聴き、111番の男性が窓口に座るのを観察した。 男性は番号札を窓口の女性に渡していない。「これだ!」私は、妻の耳元で囁いた。

「窓口で番号札は確認していない。だから、アナウンスされた番号の人が待ちきれなくて銀行を出ている場合、その番号札を持っている振りをして窓口へ行けばいい」と。妻は「ええ?」と苦笑いをしながら、「いいね」とも「いやだ」とも言わなかった。私は「我ながら完璧な案を思いついたものだ」と自分に酔っていた。

私は、番号が呼ばれる度に、周りをキョロキョロ見回した。毎回、ことごとく、アナウンスと共に、窓口へ向かって歩み始める人がいたが、「117番」の時、ついにその時がやってきた。誰も反応していない。3秒、5秒待っても、誰も立ち上がらない。

私は「今だ!行け!」と妻の体を揺すった。しかし、妻は「いいよー。番号札見られたら、どうするのよー」と動かない。私は「今行かなければ、後20人以上も待ち続けるんだよ!」と言うが、妻は腰を上げようとしなかった。

結局、「118番」のアナウンスが流れ、私は、妻の手にあった「138番」の札を握りしめて、妻に投げつけた。自分が頑張って考え抜いた案が廃案にされ悔しかった。

「なんで行かなかったんだ?絶好のチャンスだったのに」と私が言うと、「だって、それはルール違反でしょ。『渋滞だから、反対車線で行け』と言うようなものよ」と妻。私は「反対車線で行ったら誰でもルール違反だとわかるけど、存在しない番号札の振りをするのは、誰にもわからないだろ」と反論。

妻は「そんなこと言うなら、あなたが行ってくれたらよかったのに」と言う。私は「あなたの名義になっているのだから、あなたが話さないといけないでしょ」と言うが、「別に、あなたが先に行ってくれたら、私が後から付いて行くじゃない」と妻。「だったら、君が最初から行くのと同じじゃないか。それに、『時間かかるなー』と文句を言っていたのはあなたでしょ。私は別に待っているのはそんなに苦じゃないから」と言った。

そこで妻の表情は曇った。「『私は大丈夫だけど、あなたが辛いならあなたがやれば』というのが一番ムカツクのよ!私が辛かったら、あなたもその気持ちを共有してほしいの。私がそういうルール違反みたいなのを堂々とできる人間じゃないとわかったら、あなたが代わりにやってくれてもいいじゃない?私の問題はあなたの問題でもあるべきでしょ?」と言う。

私は「だって、これはあなたの銀行口座でしょ?」と繰り返し、妻は「私のは、あなたのものでもあるでしょ?」と繰り返し、堂々巡りが続いた。

結局、138番は午前11時半ごろにアナウンスされ、約2時間、銀行で過ごすことになった。

私は、帰り道、「もうお昼だし、何か美味しいものでも食べて行くか?」と笑顔で声かけたが、妻は「あなたとはいかない」とまだ怒っている。「今日はスージンと午前中、ずっと一緒に過ごせて嬉しかったなあ」と作り笑顔で話すが、妻は「全く、そんな風に見えなかったけど」と一蹴。私は「僕が悪かったよーー。スージンのこともっと考えて、私が窓口に行くべきだったよね。ごめんね。次からそうするから。スージンが困っていることは、私にとても困っていることでもあるのだから」と伝え、二人で「香港」という中華料理に立ち寄った。

酢豚と牛肉のオイスター炒めを食べながら、妻にようやく笑顔が戻った。

妻の問題に対し、解決策を出そうとする夫。解決策を出そうとする夫に、「思いやり」を求める妻。この「行き違い」は当分、続きそうだな。

次は「117番」の振りして窓口へ行けるよう、頑張ろうー。
プロフィール

seventh star 7

Author:seventh star 7
黒岩揺光  
1981年、新潟生まれ。7人兄弟の末っ子。15歳で米国留学して以来、住んだ国は計8カ国に。海外生活計17年。日本では毎日新聞記者、アフリカでは難民キャンプの工場長、アゼルバイジャンで主夫、ジュネーブで国連職員などを歴任。現在は中東ヨルダンで妊娠した妻に寄り添う専業主夫。
 著書に「僕は七輪でみんなをハッピーにしたい」(ユーキャン)「国境に宿る魂」(世織書房)。
メール連絡先 yokuroi×hotmail.com (「×」を「@」にしてください) ツイッター:@YokoKuroiwa

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