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「あなたは主夫に向いていない」と妻に言われる

今日はこの一年で一番の怒鳴り声を上げてしまった。最初に謝っておく。スージンごめん。

いつもの様に二人で朝ご飯を食べている時、スージンが「グランドマートに行くことがあったら、牛肉買ってきて。今日じゃなくていいから」と頼んできた。私はいつもの様に、「紙に書いておいて」と言い、スージンがメモを残した。私はそれをリュックに入れ、韓国語教室の帰り道、グランドマートに立ち寄った。しかし、スージンが書いた「Bristick」という種類の牛肉がなく、「今日じゃなくてもいい」と言っていたのを思い出し、もう一度、スージンに詳しく説明してもらおうと決め、他の買い物をして立ち去った。

午後6時ごろ、私は、海岸沿いのジョギングから戻り、すでに帰宅していたスージンに「今日は麻婆豆腐をしよう」と言い、私がシャワーを浴びている間、スージンは冷蔵庫から材料を取り出し始めた。

グランドマートから買ってきた野菜や肉やらが冷蔵庫に入っているのを見たスージンは「私が頼んだ牛肉は?」と、バスルームでシャワーを浴びている私に尋ねた。私は「買えなかった」とだけ答えた。

そしたら、スージンは、バスルームの入り口まで来て、頭を洗っている私に質問を始めた。

ス:なんで買えなかったの?書いた紙忘れたんじゃないの?

私:紙を持っていったんだけど、見つからなかったんだ。今日必要じゃないんでしょ?

ス:毎日、グランドマートに行くわけじゃないでしょ?店内に牛の部位が書かれたポスターが貼っていたでしょ?それ見なかった?それを見ればBristickの肉がどれかわかるはずなんだけど。

私:別に今日必要じゃないんでしょ?

ス:ポスターを見たのかどうか聞いているのだけど?

私:見てない。Bristickっていうのがアゼル語だと思って、その表示がある肉を探したけどなかった。

ス:英語だよ。(苦笑いをして立ち去る)

私は、裸で頭を洗いながら、今の会話が頭の中を駆け巡り続け、こみ上げてくる怒りが抑えられなかった。「その肉は今日必要なのか?なんで、そんな文句を今言わなければならないんだ?」と台所にいるスージンに怒鳴った。

そしたら、スージンも負けじと、再び、バスルームの入り口に姿を現した。

ス:何が?ただ、なんで、買えなかったのか聞いただけでしょ?

私:いや、文句を言っていた。ポスターを見たのかどうか、聞く必要がどこにある?買えなかったという事実だけで十分でしょ。今日必要な物じゃないのだから。(声のボリューム上がる)

ス:グランドマートに行ったのに、頼んだ物を買ってもらえなかったから、何故か聞きたかったのよ。(さらに上がる)

私:今日買えとは言わなかった。グランドマートは、韓国語教室からの帰り道にあるから、いつでも立ち寄れると判断し、後日でも大丈夫だと思ったんだ。なんで、大きな声を上げる必要があるんだ?(さらに上がる)

ス:大きな声を上げているのはあなたでしょ。(さらに上がる)

私:いや、あなたが先に上げた。私は最初、「買えなかった」と答えたのに、さらに説明を求めてきた。ポスターを見たのかどうかなんて、全く重要な情報でもないのに。私を責めようとしているとしか思えなかった。(さらに上がる)

ス:あなたはいつもそうやって、、

私:とにかく、私がシャワーを終わるのを待ってから、話してくれてもいいだろ!!!!!(手でバスタブを「バン」と叩く)

私は完全に感情のコントロールを失っていた。頭にシャンプーをつけながら、怒鳴る私を見て、スージンは哀れみの表情を見せ、その場を立ち去った。

なぜそこまで感情的になったのか理解できるまで時間はあまりかからなかった。シャワーで体を流し、体を拭いた後、ソファに座ってテレビを見ているスージンに「スージン。ちょっと話そう」と英語で歩み寄った。シャワーでは韓国語だったが、真剣な話をする時は英語が一番だ。スージンは、「今、あなたと話したくない」と同じく英語で返し、台所に向かった。私は「大事な話なんだ。ちょっと座ってくれ」と言うが、「私はあなたと話したくないの」と言う。私は「二人で一緒に暮らしているんだから、話し合うという努力を怠れば、暮らし続けることも難しくなるよ。さあ、座って」と言い、スージンは少しためらった後、ソファではなく、少し離れたダイニングテーブルの椅子に座った。

私:ソファーに座ったら?(手招きする)

ス:ここでいい。ここでも聞こえるから。

私:2年くらい前、私がスージンの国連での仕事振りについて「まあ、そんなに焦らなくてもいいんじゃないって他の人は言っているよ」って言ったら、「私は、私の仕事をやっているだけでしょ!」って苛立ったの覚えているかな?人は、自分が真剣にやっている仕事について、周りから非難されたり、尋問されたりすることを嫌う。昨日、スージンが私に「今週は家政婦さん、月曜じゃなくて、水曜に来てもらって」って言った時、私は苛立ったよね?英語を全く話せない家政婦さんに、「明日でなくて水曜に来て」というメッセージを伝えるのがどれだけ大変なことかわかる?私が苛立ったのは、スージンが、私が毎日真剣にこなしている「仕事」に理不尽に口を挟もうとしていると感じたからなんだ。

さっきも全く同じ事だ。毎日の買い物は私の「仕事」だ。いつ、どうやって、どこで買えば、効率よく仕事ができるのかいつも考えてやっている。人に頼まれたものを正確にすべて買いそろえるって、結構難しい。だから、いつもスージンに紙に書いてもらっている。今日だって、その紙を持ってスージンの肉を買おうとしたけど、その名前の肉が見当たらなかったから「今日じゃなくていい」ってスージンが言っていたから、後日にしようと判断した。

それなのに、スージンは、私がシャワーを浴びている時に色々質問をしてきた。なんで、私が裸で、自分の股間を洗っている時に、頼まれた牛肉を買えなかったのか説明しなければならないのか。スージンの声のボリュームは明らかに必要以上に大きかったから、私は非難されているように感じた。

私がスージンの難民に対する接し方に関して、とやかく言ったら、スージンは怒ると思う。それと同じで、「主夫」である私にとって、買い物や家政婦の監督は「仕事」なんだ。家政婦なんて、毎回、電話しても来ないことがあるし、頼んだ事を忘れることなんて日常茶飯事だ。色々大変なことがあるなかでも、自分なりに頑張ってやっている。だから、スージンには、私が「仕事」としてやっていることに疑問を投げかける時は、それなりの配慮が必要だということをわかってもらいたいんだ。

ス:あなたの「仕事」がどうこうというよりも、私が頼んだ事を、あなたがしなかったのだから、それについて尋ねるのは当然でしょ?

私:でも、スージンが「頼んだこと」を「私がしていない」というのは間違っているでしょ。スージンは「今日までに牛肉を買って」とは言っていないよね?「今日じゃなくてもいい」と言った。だから、私は今週のいつか買えばいいと思った。もし、今日までだったら、スージンに電話してでも、今日、買いそろえようとしたはずだ。

ス:、、、、、。

スージンはいまにも泣きそうな表情だったため、私は、スージンの方に歩み寄り、「スーージーーン、そんな悲しい顔しないでよー」といつもの、日本語の甘えん坊口調に切り替えた。スージンはソファに座り「ものすごい大きな声出されて本当に怖かった。もし、私が近くにいたら殴られていたんじゃないかと思うくらい。このままいったら、5年後には暴力振るい始めるんじゃないの?」と震えた声で話した。

私はスージンを抱きしめ「ごめんねー。大きな声出して。スージンみたいな可愛い顔を殴れるわけがないでしょ?」と宥めた。スージンは「今日は女性に対する暴力没滅の日で、国連が記念イベントやった日なのよ。そんな日にあんなに怒鳴られるなんて、、、」と冗談っぽく言った。

それから、私はお茶を入れ、屋上テラスに上がって、夜景を眺めながら、スージンに「今日の議論についてはどう思った?」と改めて尋ねた。スージンが何故、あんな行為に出たのか知りたかったのだ。

ス:色々思う所はあるけど、言ったら喧嘩になるから言わない。

私:なになに。言ってみてよ。

ス:うーん。なんかとても小さいことを大きくしているような気がして。確かに、シャワー中にしなくても良かったかもしれないけど、それはそんなに大きな事じゃないでしょ。私が「ここでなく、こちらで買い物をしたら」って言えば、それはヨーコーの仕事への干渉になるかもしれないけど、私は、ただ、頼んだ事がなされていなかったから、その理由を聞きたかっただけなのよ。

私:でも、さっきも言ったけど、「今日まで」とは頼んでないでしょ?

ス:でもさあ、グランドマートに行ったら買っておいてと言ったものがあって、今日、グランドマートに行ったのに、買われてなかったら、「なんで?」って思うでしょ。何が原因なのか知りたいし、原因がわからないと、次、ヨーコーが行っても、買えないかもしれないでしょ。

私:原因を探ることは全く問題じゃないんだ。問題なのは、その「マナー」なんだ。何も、私がちんちん洗っている時に、スーパーの店内のポスターを見たのかどうかまで説明を求めなくてもいいと思うんだ。こうして二人で座っている時に、スージンが書いてくれた紙を見ながら、話し合えば良かったんじゃないかな。

ス:でも、シャワー中に質問したというのは、一つの要因であって、ヨーコーが単に、批判されたくなかったから苛立ったというのもあるんじゃないの?ヨーコーが私に、「このデパートに行くことがあったら、これ買っておいて」ってお願いして、私がデパートに行ったのに買わなかったら、同じ様に尋ねるでしょ?

私:スージンがお風呂に入っているときには尋ねないよ。

ス:でも尋ねるでしょ。アフリカにいる時だって、私に色々頼んでいたけど、必ず「なぜやらなかったんだ?」って尋ねていたじゃない。

私:うーん。スージンが「主婦」になったことがないから、私の気持ちがわからないんだと思うんだ。「主夫」っていう仕事は、とても不規則なものだから、やらなければいけない仕事をできるだけ効率的にこなして、自分の時間をできるだけ多く確保しようと努力するんだ。だから、「スーパーで特定の牛肉を買う」という業務を、いつ、どこで、どうやってするのかじっくり考えるんだ。韓国語教室に行ったついでにやろうとかね。そういったプロセスの一環にあるということを理解しないと、なぜ、私が怒ったのかは理解できないと思う。

 スージンにとっては難民支援が仕事。私にとっては家事が仕事。お互いの「仕事」が何なのか考え、それについての失敗を指摘する時は、お互いの気持ちに最大限配慮してやらなければならない。今日、スージンが冷蔵庫を開けた時、私がグランドマートに行ったのに、頼んだ牛肉を買ってないことに気付いたら「何かしらの行き違いがあったんだな」と悟って、シャワーを浴びている時に問いつめるのではなく、二人でゆっくり話している時に、「私の書き方に問題でもあったのかな?」みたいなアプローチにできないかな?

ス:なんか、最近のヨーコーって凄く敏感。家政婦のことだって、今週土曜日にホームパーティやるから、月曜でなく、水曜か金曜に変えようって言っただけじゃない。アフリカにいる時は、よくやっていたことなのに、今はとても敏感に反応するね。

私:アフリカの時は英語が通じたからね。英語が話せない家政婦の指導/監督がどれだけ大変なことかスージンが知らないで言っていると思ったから、感情的になったんだよ。

ス:それに、ヨーコーが記者やってたころ、私は大学院の夏休み中、一緒に暮らして毎日料理してたけど、私はそんなに敏感にならなかったけどな。

私:スージンが大学院の夏休み中に、私の家に住み込んで料理するのと、私がキャリアを途中でストップして、アゼルバイジャンで1年主夫やるのと、同じにしてもらったら困るよ。

ス:確かに同じではないけど、なんか、ヨーコーは主夫に向いてないんじゃないかなーと思って。小さいことですごいピリピリしている感じがする。ストレスになっているんじゃないかって、心配。

私:主夫に向いてないならどうするの?

ス:仕事したら?

私:仕事できてたらとっくにしているよ。言語の壁とかビザの問題でできないから、主夫やっているんでしょ。それとも、スージンが仕事しながら、料理もやってくれるの?

ス:、、、、、。

私:そりゃ、私が少し敏感になっているのは認めるよ。あんなに大きな声出したのも悪かったと思っている。でも、私たち夫婦が一緒にいるためには、どちらか片方がキャリアと妥協するしかないって決めたじゃない。キャリアと妥協して家事を毎日やるということが、そんなにスムーズにいくと思った?じゃあ、私が仕事をして、スージンが「主婦」になったら、問題なくスムーズにいくと思う?違うでしょ?私には少なくとも、「執筆」っていう趣味があるから、仕事なくても、暇にならないけど、スージンはそういうのないでしょ?今まで仕事なしの生活したことないでしょ?もしかしたら、私よりストレス抱えるかもしれないよ。

「主夫」の仕事の辛い所ってさ、仕事のミスを指摘される機会は山ほどあるのに、相手の仕事のミスを指摘することってできないんだよな。私がスージンが国連でどんな仕事をしているか観察することはできないけど、スージンは私がどんな主夫業をしているのかは日々見る事ができるもんね。だから、とても不公平なんだよ。だから、褒めれる所はできるだけ褒めてくれよ。

ス:ヨーコーはよくやってくれていると思うよ。

私:そう?じゃあ、これからも頑張るよー。

ス:牛肉買ってきてくれたら、「ユッケジャン」(韓国料理)作ろうねー。

私:今日の喧嘩の話、ブログに書いてもいい?

ス:いつもそんなこと聞かずに書いているでしょ!

こんだけプライベートばらされても大丈夫な妻も珍しいだろう。本当に私は幸せな人間だ。

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「週末」なのに、週末な感じがしない主夫生活


毎日のご飯作りと買い物だけでも結構大変なのに、それに引っ越しと交通トラブルが一緒になるともうドタバタだ。

ご飯作りの何が一番大変って、メニューを考える事。月曜はこれ、火曜はこれ、朝ご飯はこれ、お弁当はこれ、そして、夜ご飯はこれ。一つの仕事が終われば、すでに次のご飯が待っている。次の日が待っている。ずっとメニューに追われる日々になる。私は朝ご飯をがっつり食べないといけない体質なので、他の人の様に、朝ご飯を食べないとか、パンだけで大丈夫だったら、どれだけ楽なことか、と考えてしまう。スージンも朝ご飯は食べなくても大丈夫なはずだったのに、私が主夫になってからは、なぜかがっつり食べるようになってしまった(涙)。

先週の献立はこんな感じだった。

11月18日

朝ご飯。 日本から持ってきた讃岐うどんに白菜とベーコンで。

お弁当。 日曜夜に作ったインドカレーの残り。

夜ご飯。サバの煮付け。大根の味噌汁。パセリサラダ。白菜の浅漬け。

11月19日

朝ご飯。カリフラワーを醤油/酒で炒めもの。前の晩のサバの煮付け。海老と卵の中華スープ。

弁当。 茄子、タマネギ、ベーコンのオイスターソース炒めとご飯

夜ご飯。友人とレストランで食事。

11月20日

朝ご飯。ベーコンと白菜の炒め物。モヤシと豆腐の味噌汁。

弁当。 海老のお好み焼き。

夜ご飯。トンカツ。ポテトサラダ。キャベツの千切り。カブの味噌汁。

11月21日

朝ご飯。韓国の辛ラーメン(妻のリクエスト)

弁当。前の晩のトンカツとカリフラワーのサラダ。

夜ご飯。鶏肉、豆腐、白菜、大根、ネギの寄せ鍋。

11月22日

朝ご飯。前の晩の寄せ鍋のスープでうどん。

弁当。オイスターとタマネギのたらこ風スパゲティー

夕ご飯。友人宅へ招かれる。

スージンは3ヶ月前から、ロシア語を火曜と木曜の午後5時半から学んでいるため、基本的に、夕ご飯も私一人が担当することになった。

16日、17日の週末は引っ越し作業でバタバタだった。さらに、新居に移ってからは、洗濯機に問題があったり、お湯がでなかったりなど、様々な問題を、片言英語の家主に話さなければならない。
さらに、19日夜、新居前の駐車場から車を出そうとしたら、駐車中の別の車に軽くぶつかってしまい、20日は一日中、警察署や保険会社に行かなくてはならなかった。さらに、その日、家に帰ってきたスージンの第一声は「朝の通勤中、お弁当箱をバスに忘れてしまった」と謝る。誰を責めることもできない無力感が全身を襲う。

21日は、アゼルに住む中国人が配達する豆腐やもやしを取りにいき、夕食後は、スージンからキムチ作りを教わった。22日は、約4キロ離れたスージンの事務所に日本から届いた荷物を取りに行った。もちろん、週4回の韓国語講座に通い、毎週木曜日の主夫会にも参加している。
 
そんな多忙な一週間を終え、土曜日朝を迎えた。しかし、なぜか、全然「週末」の気分になれない。なぜなら、正午にスージンが友人を一人家に招待し、「酢豚」を作る予定になっているからだ。朝ご飯を食べなくては一日を始められない私は、午前9時ごろから、台所に立ち、酢豚のための豚肉を冷凍庫から取り出し、ニラとニンニクを切り、フライパンに溶き卵と一緒に入れ、無添加の「野菜だしパック」とかき混ぜる。

30分後に起きてきたスージンは「今、朝ご飯作っているの?12時から昼ご飯にするのだけど?」と言い、私は「俺が朝ご飯を必ず食べなければいけないということは知っているでしょ」と少し苛立つ。ニラ卵炒めとモヤシと豆腐の味噌汁が出来上がり、「朝ご飯食べるの?」と聞くと、 スージンはYouTubeで韓国のテレビ番組を見ながら「メニューは何?」と尋ねる。私は、「自分の目で確かめたらどう?」と、食べるつもりのくせに手伝おうとしないスージンに苛立つ。

数分後、スージンが「私も食べようかな」と食卓に来た。私は、「週末くらいゆっくり休みたいよな。平日は朝ご飯、弁当、夜ご飯と作って、週末まで台所に立ち続けるのって、辛いよ」と愚痴をこぼした。それに対し、スージンは「私だって毎日遊んでいるわけじゃないでしょ?働いているでしょ?」と苛立つ。スージンも、10日前にタイ出張から帰ったばかりで、引っ越し作業もあり、疲れているようだった。

私:週末に友人呼びたいなら、スージンが料理してほしいよ。
ス:別に、あなただけに料理させてるわけじゃないでしょ。私も一緒にするでしょ。
私:でも、酢豚ってことは、私が主体的にやるってことだよね?
ス:ヨーコーが酢豚を食べようって言っていたから、じゃあ、土曜日に友人が来る時にしようっていうことだったでしょ。

私:今週は引っ越しとか交通トラブルとかあって、大変だったでしょ。

ス:もう、朝から文句ばっかりで、食べる気なくした。

スージンはそのままお茶碗をテーブルに置き、二階に行ってしまった。私は、いつもの様に、20分ぐらい時間を置いてから、

私:スーージーーン。怒る事ないでしょー。

と甘い声で、妻の肩をさすりながら、ご機嫌を取ろうとした。

ス:朝から文句ばっかりでムカツクでしょ。

私:週末くらい休みたいって言っているだけだよ。スージンが朝ご飯食べるつもりなら、台所に来て手伝ってくれたっていいでしょ。

ス:私だって週末休みたいのよ。そんなに辛いなら主夫なんてやめたらいいじゃない。

私:主夫辞めて何するわけ?仕事探せる環境でもないでしょ。

ス:夜ご飯作るのは私が手伝っているでしょ。

私:手伝うたって、週に2回だけで、買い物と献立作りは私でしょ。とにかくさ。週末はお互い休めるように気を使い合おうよ。友達呼びたいなら、呼びたい人がご飯は準備すればいいと思う。

ス:でも、これまで、週末に友人を呼んだら一緒に作ってきたじゃない。ケニアにいる時なんて、ヨーコーが「韓国料理を食べましょう!」って友達誘って、私が韓国料理作っていたじゃない。

私:スージン、その時何て言ったか覚えている?「次からヨーコーが呼びたい友達がいたら、ヨーコーが作って」って言っていた。それに、ケニアにいる時は二人とも働いていたわけで状況が違うでしょ。どちらか片方が家事専門になるのは、今が初めてなのだから。

ス:アゼルに来てからだって、友人が来る時は一緒に作っていたでしょ。

私:でも、その時はスージンがロシア語を学んでいなかったし、毎日、新しいメニューの弁当なんて作っていなかったよ。

ス:先月、友人4人が来た時だって一緒に作ったじゃない。

私:だから、今週はちょっと色々あって疲れたわけ。それで、ちょっと愚痴りたかったんだよね。これまでこうしてきたから、こうすべきとか、そういう解決方法を探しているわけでなくてさ。お互い、疲れているなーと感じたら、友達を呼ばずに、外でお茶にするとかさ、色々できるでしょ。

ス:じゃあ、これから、友人を家に招待する時は、その人が料理をするってこと?

私:そういうことがあってもいいじゃないのか、という話。

ス:でも、私の友人はあなたの友人でもあるべきだから、私たちの友人が家に来るなら、一緒に料理すべきよ。それが普通よ。

私:スージンの両親は、一緒に料理するの?

ス:私の両親なんて関係ないでしょ?(義父がガスコンロの火を付けるところを見たことがない)

私:主夫会のメンバーと比べたって、私より家事している人なんていないよ。

ス:男だからって、何が特別なのよ。

私:アゼルにいる主婦の人たちだって、毎日、夫の弁当作っている人なんて、なかなかいないよ。多くの人は、週2−3回、家政婦が来ているし、買い物を運転手に頼んでいる人だっているよ。

ス:今日、友人が来る事は、もう一週間前から話していたことでしょ。

私:でも、その時は、私が作らなきゃいけないなんて思わなかったし。

ス:週末は基本、二人で料理するんだから、同じことじゃない。

私:いや、でも、やっぱり、お客さんが来るのと来ないのでは、全然違うよ。二人だけなら、簡単な食事でもいいけど、お客さんがいたらそうはいかない。

ス:じゃあ、もう、家には誰も呼ばないってこと?

私:だからさ、黒か白かとか、解決策を求めているわけじゃなくてさ。愚痴りたいんだよ。こんなこと愚痴れる人、他にいないんだからさ。韓国語を週4日やりながら、料理、弁当作り、買い物、皿洗いをやり、そして、引っ越しに交通トラブル。今週はとても疲れていて、さあ、土曜日になったと思っても、週末の感じがしない。朝ご飯作って、食べて、皿洗いしたら、今度は、酢豚作って、食べて、友人と話して、皿洗いしたら、午後3時くらいになり、ああ、もうすぐ1日終わっちゃうみたいに感じちゃう。

そんなやりとりをしていたら、もう11時20分。あと40分で、友人が来る時間だ。二人で酢豚作りに取りかかった。私が豚肉を切り、醤油と酒に付けて、片栗粉をまぶし、揚げていき、スージンが野菜を切った。そしたら、スージンの携帯が鳴り、友人が土壇場キャンセルしてきた。あーあ。これ以上、愚痴っても仕方ないから、私は黙って、そのまま作り続け、屋上テラスで酢豚を食べた。カスピ海を眺めながら食べる酢豚は最高に美味しく、「ま、この素晴らしい景色を眺めながら暮らせるなら、少しくらい辛くても頑張ろう!」と思えた。

興味深いのは、いつもは愚痴に共感してほしいスージンに私が解決策を与えようとして、喧嘩していた私たちが、今度は、愚痴に共感してほしい私にスージンが白か黒かの解決策を与えようとして、言い合いになってしまったことだ。ひょっとしたら、これは「男」と「女」の違いというよりも、会社などの組織に属して働いている者とそうでない者の違いなのかもしれない。会社では、「特ダネの数」「七輪の生産量」「従業員数」など、白か黒かの数値で成果が計れるのに対し、家事の成果は数値では計れない。家族が幸せに暮らしているかどうかにのみ、成果を見いだすことができる。(だったら、いつも喧嘩してんじゃねーよ、と言われそうだが、、)

 それにしても、一般の「主婦/主夫」の人たちは、こういうのを当たり前にやっているのかと思うと、本当に頭が下がる。私には子どももいないし、掃除と洗濯は週1回、家政婦さんにやってもらっているにもかかわらず、こんなに大変に感じるのだから。まだまだ一人前にはほど遠いな。

自分の時間を捧げられる主夫になるために


母との対話で、母が「自分の時間に固執していた」と過去を振り返ったのは、私の心に大きく響いた。それこそ、まさに、私自身の弱点でもあるからだ。誰かに何かを頼まれる時、必ず先に来るのは自分の時間。「ああ、あれやろうと思っていたのにー」となり、顔に出てしまう。会社員時代は「そんな嫌そうな顔しないでくれよ」と先輩に言われ、妻には「あなたに物を頼むのって、とても勇気がいるのよ」と何度も言われた。

母が自分の弱点と素直に向き合おうとしているのを見て、私も頑張らなくてはならないと思っていた矢先、早速、私の「主夫度」を試す機会が来た。スージンが出張でタイに行くという。出発は11月2日金曜日午後8時半の飛行機。空港までは車で30分くらいだが、金曜夕方は一番道が込む時間だ。従来の私なら間違いなく、空港までの送迎なんて考えない。タクシーなら2000円くらいで行けるし、おそらくその分の経費は出るはずだ。スージンも、超自己中心的な主夫である私が送迎するなんて夢にも思わないらしく、「送って行ってくれる?」と尋ねようとさえしない。

出発二日前、私は「金曜日は何時くらいに家を出る?」と尋ねた。「2時間前に着けばいいから、6時くらいかな」と言う。「ちょっと遅いんじゃないか?金曜夕方は渋滞凄いぞ」と私が言うが、「心配ないわよ。この前日本に行く時、同じ飛行機だったけど、それくらいに出たじゃない」と言う。私は「まあ、あなたが乗る飛行機だから、あなたが決めて」と伝えた。

そして次の日の朝、私は心を固め、「明日、空港まで送るよ」と伝えた。スージンは「ええ?本当にー?」と微笑んだ。

午後6時に出発するには、午後5時半に夕食を始めなければならない。サバの味噌煮を作るため、午後3時ごろに買い物に行き、午後4時半ごろから支度に入った。大根の味噌汁、焼きブロッコリーのサラダも用意し、午後5時半にスージンが帰宅した時には、食べれる状態になっていた。

午後5時50分、スージンが食べ終わり、着替え始めた。私は、茶碗を流し台に運ぼうとした時、味噌汁のお椀に大根が一切れ、残っているのに気付いた。いつもだったら、その瞬間に「大根が残っているぞ!」と大きな声を上げるところだが、「抑えろ!ヨーコー、抑えろ!離れ離れになる直前に喧嘩なんかするんじゃない!」と自分に必死に言い聞かせた。

私は、「スージンちゃーん」とできる限りの優しい、お茶目な声で呼んだ。スージンが台所に入ってくると、私は、お茶碗をスージンに見せ、「あのさー。スージンが6時に出発できるように、頑張って、準備したわけ。それでね、こうやって大根一切れ残されるとさー、作った方としては辛いんだよねー」と作り笑顔で語りかけた。主夫になって、「さー」とか「ねー」とか語尾に付けると、より友好的な会話ができるようになることを学んだ。

スージンは、いつもだったら「そんな細かいこと!」と言うところだろうが、今回は、空港まで送ってもらう手前、「ああ、わかった。ごめんね」と素直に言うしかなかった。大根事件は、なんとか、平和に乗り切った。

さあ、車に乗って出発だ。市内地図を広げ、渋滞回避するため、一番空いていそうな道を選び、スージンのiPhoneでナビゲーションをお願いした。アゼルで運転を始めたのが2ヶ月前で、基本、週末しか運転しないから、市内の道路事情にはまだ疎い。

私の予想は的中し、出発して間もなく渋滞に出くわした。全く進まない。お互いの苛立ちが募り始める。普段なら3分で着くホテルが、10分以上かかり、空港に6時半到着は難しくなった。

ここで、私は超非論理的、かつ超非生産的な議論をしかけてしまう。「だから、二日前に、もうちょっと早めに出た方がいいと、私が忠告しただろ。スージンは私の忠告を全く聞かない。しかも、私たちが日本に出発した日は祝日だったから、渋滞がないのは当たり前じゃないか」。

スージンは、「あ、そうか」と言いつつ、数秒後、「でも、今、その議論をして、どうなるの?」という、私の非論理性をすぐ見抜く。

そこで、何故か反撃しなくてはならない性格の私は「そもそも空港までの交通費は支給されないの?」と尋ねた。スージンは「もうもらったよ。現金で」と言う。「だったら、タクシーで行けば良かったなあ」と言うと、スージンは「これから離れるんだから一分でも長く一緒にいたいでしょー?」と可愛い声で、私を宥めようとする。私は黙るしかなかった。

私たちには、さらなる試練が待っていた。通行できると思って選んだルートが、途中から対向車線の一方通行に変わり、右に曲がらなくてはならなくなった。iPhoneの地図にはそこまで詳細な記載はない。スージンは「ああ!どうしよう!この道が行けないなら、すごい遠回りになる」と嘆く。

すでに6時45分。バクー国際空港での搭乗手続きはとても時間がかかるにもかかわらず、まだ市内中心部からも出ていない。募りに募った苛立ちをどこにもぶつけることができないことで、さらに苛立った。

スージンは自信を失い、「とりあえず、その辺に車を停めて」と言う。改めて、地図を広げ、私は、「これ以上、道に迷うことは許されない。渋滞がどうかとか気にせず、一番、私たちが知っている道で行こう」と伝え、スージンにルートを示した。スージンはそれを承諾。車を再発進した。

スージンは「次は左に曲がって」と言い、曲がり終わった後、私は「とりあえず、この道をしばらく真っすぐだね」と確認すると、スージンは「そう」と返事をした。

そしたら5秒後、スージンが叫んだ。「何やっているの?そこ左でしょ??」と言う。この瞬間、私の苛立ちを放出するターゲットが定まった。「何言ってんだ!さっき、しばらく真っすぐって確認しただろ!」。スージンは「あそこを左に曲がることくらい知っていると思っていたのよ。曲がってからはしばらく真っすぐよ」と説明した。確かに、そこは私たちが何度か通ったことがある場所で、冷静に考えれば、左に曲がることくらいはわかったかもしれない。でも、苛立ちで冷静さを失い、すべてスージンのナビに任せてしまいたい自分がいた。

「とにかく、正確にナビをしてくれ」と言い、スージンは「オーマイガット!なんで、そんな大声を出したの?とても小さなことでしょ」と問いただした。私は、「声を最初に上げたのはスージンの方だろ?」と収まることができなかった。

車は再び渋滞に飲み込まれ、しばらく、車内は静寂に包まれた。私は心の中で「落ち着けー。落ち着けー。これから10日間、離れ離れになるんだ!笑顔で優しく、スージンに語りかけろ、ヨーコー、頑張れ!」と必死に自分に言い聞かせた。しかし、残念ながら、その想いは私の唇には届かず、言語化されることはなかった。

出発1時間半前の午後7時を過ぎたが、まだ市内から抜け出せない。スージンは時計を見ながら、落ち着かない様子だ。

こんな微妙な雰囲気で別れを告げるのは嫌だ、とお互い思っていたようで、スージンは「ヨーコー、送ってくれて、本当にありがとうね。大きな声とか出してごめんね」と語りかけてきた。が、私は、何も言えなかった。あれだけ大きな声を出した手前、今更「いいんだよー。こちらこそごめんねー」なんて、お茶目な自分に切り替える精神的余裕がなかった。そんな自分が情けなく、それが、さらに私の唇を硬直化させ、悪循環に陥った。

午後7時10分、ようやく市内を抜け出し、片道4車線のバイパスを80キロで飛ばすことができるようになった。

午後7時半、空港に到着。スージンはトルコ航空のカウンターに走り、私も、車を停めてから、後を追った。カウンターで、スージンが発券された搭乗券を手に持っているのを見て、ようやく一安心。

隣のカウンターでは、重量制限をオーバーしたスーツケースの機内持ち込みを拒否られた男性客が「俺は外交官だぞ!外交官なんだから、30キロでも大丈夫なはずだ!」と大声を出し、担当者を困らせていた。大声を出すというのはこんなに醜いことなんだなあ、と改めて思った。

出発ゲート前で、スージンに、「じゃあ、気をつけてね」と声をかけた。スージンは笑顔で、「うん。離れ離れになるの寂しいね」と答えた。器の小さい私は、最後の最後まで100パーセントの笑顔を見せることができなかった。

空港を出て、駐車券支払いゲートで、駐車カードを提示したら、「これは空港で清算しなければならない」と言われ、約500メートル、一方通行道を逆走して、100円の駐車代を払わなければならなかった。さらに、帰り道も渋滞で、家に着いたのは午後9時半だった。サバの味噌煮を作り始めてから約5時間が経過していた。さらに、妻が食べた後の食器の片付けがまだ残っていた。改めて「主夫」の重労働さを思い知った。

それから10日間、妻がいなくなって、一人で執筆や語学勉強に専念できるなあ、なんて思っていたのが大間違い。朝ご飯作り、夕ご飯作りなどの日課がなくなったため、生活リズムが一気に崩壊。深夜の2時に寝たり、朝9時半に起きたり、午後3時に昼寝したり、午後9時半に夕食を食べたりと、散々だった。その上、なぜか、毎日新聞時代の同期に自分の記事を酷評されるなどの悪夢を3回も見てしまった(汗)。

スージンの存在の重要性を改めて思い知り、当初、空港までの送迎はもうご免だと思っていたのだが、スージンの飛行機が到着する11月12日、私は、その日の韓国語の授業時間を変更してもらい、空港まで車を走らせていた。

主夫会メンバーが過去最高を記録


一時はメンバーが3人になって存続の危機に危ぶまれた主夫会が、先週木曜日には参加者が9人となり、7年前に立ち上がって以来、最多記録になった!

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創設メンバーのジョン。今年2月に入った私とロドニー。ジョンと共通の知り合いを通して入ってきたハラルドとマット(59歳米国人)。マットは、ポーランドで8年間、図書館員をしていたが、そこでスイス人外交官と結婚し、今年7月に妻の転勤に寄り添って来た。

元々、数ヶ月に一度足を運んでいたノルウェー人のクリス(46歳)が、「前より自由時間が増えた」と、ほぼ毎週参加するようになった。クリスの妻はハンガリー人で大手石油会社(トータル)で働いている。

さらに、私が、人に会う度に主夫会の宣伝を続けた結果、雑誌の取材を受けたり、外国人向けのニュースレターに「主夫会に興味のある方は、ヨーコーに連絡を!」みたいな広告まで勝手に載せられてしまった。

3週間前に一緒にご飯を食べたドイツ大使館で働く女性が「私の上司の夫も『主夫』だから連絡してみるわ」とつなげてくれ、中国系マレーシア人のサングウィン(62歳)が参加。

そして、私は、自分のアパートのエレベーターの同乗者に「ハウアーユー?」と必ず声をかけるのだが、3週間前に同乗した40代くらいの男性がアメリカ人だということがわかった。それで「アゼルで何をしているのですか?」と尋ねたら、「妻が働いているのです」とうかない顔で言うではないか!!私は、「え!私もです!あなたも『主夫』なのですね?」と声のトーンを上げると、男性の表情が少し和らいだ。

彼の名前はジェシー。なんと、私と同じ14階で、私たちの部屋の隣の隣で暮らしている。今年5月から住んでいたというのに、今まで一度も顔を合わせたことがなかった。早速、先週末、家で熱いお湯が出なくなったので、ジェシーの家でシャワーを浴びさせてもらった。

妻が生物学者で、米国政府のテロ防止プロジェクトの一環として、アゼルを含む旧ソ連諸国で生物兵器の管理、指導をしている。私が主夫会について話すと、「へえ」と言う顔をし、主夫会前日に彼の家に行って「明日来る?」と尋ねたら、「うん。行けるよ」と答えた。物静かで、表情に強弱がないから、乗り気なのか、仕方ないから行くという感じなのか、ちょっと掴めない。

正直、私が主夫会に参加した当初は、「そんなのどうでもいいよ」と思うような内容の話が多く、そんなに楽しむことができなかった。しかし、毎週通い続けるうち、自然と引き込まれていき、いつのまにか毎週木曜日を楽しみにするようになっていった。

何でだろう?そこには、うまく言葉に説明できない「何か」があった。私たちの間には、妻の仕事を理由にアゼルに住んでいるということ以外、何一つ共通項がない。年齢は私の32歳から、60歳前後まで。国籍は、日本、ドイツ、マレーシア、アメリカ、イギリスと多岐に渡る。教養も、ロドニーの高卒から、大学院卒までいる。所得も、自営で理学療法をするハラルドの妻と、大手石油会社で働くロドニーの妻では10倍以上の開きがある。海外経験だって、私やクリスの様に10年以上から、ロドニーみたいに半年の人もいる。

そんな人たちが、毎週木曜日、仲良く肩を並べてコーヒーを飲み、楽しい時間を過ごしている。こんな経験したことがある人は世界でも稀なのではないか?所得一つとっても、自分より10倍以上裕福な人と、毎週会うなんていう人がどれくらいいるのだろう。

先週末、マレーシア人のサングウィンの家に遊びに行った時、「来週の主夫会も来る?」と私が尋ねると、彼は顔をしかめた。「なんかねー。よもやま話をしているだけで、ちょっと退屈なんだよな。色々な能力を持った人たちばかりなのだから、もっと生産的なことをしたらいいのに」と言うのだ。

その瞬間、私の頭の中の電球に「パッ!」と光が灯った。

生、産、性、な、こ、と

これまでの私の人生で、特定の人と定期的に会ってきた場面を振り返ってみた。学校、職場、部活、同じ業界(援助やマスコミ)。何かしらの「生産性」を前提にしてできた人間関係ばかりだった。それによって、競争心が高く、嫉妬深い私は、自分と周りを比べてしまい、常に肩に力が入ってしまっていた。

例えば、今年8月、日本に一時帰国した歳、毎日新聞の元同期たちと会った。「まあ、黒岩じゃあ、会社に残っても本社には上がれなかっただろうな」「いや、○○でも本社に上がったんだから、大丈夫だろ」と、すでに本社に上がった二人が言った。私は「4年前に辞めた奴の人事について話して、そこから何を得ようとしているの?」とちょっとムキになった。

しかし、よく考えてみれば、私自身、元同期に会う度、「○○は今どの部署/支局にいるの?」などと尋ねていた。それを知って、何かを得られるわけでもないのに。

主夫会には生産性が必要ないから、情報伝達ラインとかもない。当初は、メンバー全員から別々に、私の携帯へ「明日九時ね」というメッセージが来たこともあった。2週間前は、ジョンが「明日10時からね」と私に連絡し、9時半ごろ出かける準備をしていたら、ロドニーから「どこにいるんだ?待っているんだけど」と電話が来たりする。ハラルドが連絡先を一人一人に尋ね歩いている隣で、サングウィンとマットが、全く同じことをやっていた。誰も、自分の連絡先を3回書き続けることに文句を言わない。「私が一つにまとめて、みんなにメールするよ」と私が言うと、「ああ、そりゃいいね」と、やっと動きを止めた。誰一人として効率性を問わない。それがたまらなく嬉しいのだ。

私だけでなく、主夫会は、他のメンバーの心の支えになっているようだった。出会った当初、「失業者なんだよ」とうつむき加減で自分のことを話していたロドニー。アゼルの交通マナーの悪さなどについての愚痴ばかりだった。「アゼルに来たのは間違いだと思ったこともあった」と振り返るくらい、新しい生活に馴染めていなかった。9月に、主夫会メンバーで金曜夜に飲み会をした時が、ロドニーにとって、「アゼルでの初めての飲み会」だったという。すでに、アゼルに来て7ヶ月が経っていたにも関わらずにだ。私たち夫婦で3週間前、ロドニー宅に遊びに行った時、「アゼルで初めてのお客さん」と歓迎された。

2週間前には「来週木曜朝の主夫会はうちでやろうぜ!」とロドニーが私たちを家に招き、コーヒーを入れてくれた。その場で「やっと、フリスビーゴルフ場設置の許可が下りたんだ!」と嬉しそうに言い、自宅近くの空き地に建設中だという。「これができれば、地元の子どもとかにフリスビーゴルフを教えられる」と意気込む。「将来は、アメリカに戻って、農場兼フリスビーゴルフ場を経営しながらのんびりと家族と暮らしたいな」と目を輝かせた。そこには、7ヶ月前に見た、肩をポンと叩いたら、そのまま倒れちゃいそうなロドニーの姿はなかった。

先週の主夫会、私はジョンに「今、妻が出張でいないんだ。今週末にでも、また、飲み会できないかな?」と打診。ジョンは「いいね」と応じ、土曜日夜、おっさん7人でメキシコ料理を食べ、バーに夜1時ごろまでいた。今年5月にアゼルに来たジェシーにとって、アゼルで初めての「飲み会」だった。

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 11月12日、私はジョン宅近くに所用があって出かけ、午前10時半ごろ、用事を済ませ、ジョンの家のドアベルを鳴らしてみた。そしたら、右手にマグカップを持ったジョンが出て来て、「おお!お茶でも飲んでくかい?」と家に招き入れてくれ、パートナーで英語教師のジェシカも、丁度休みで家におり、「あら。ヨーコーが来たなら、ジムに行くのやめようかしら」と歓迎してくれた。(結局、ジムに行ったけど、、)お茶を飲んでから、ジョンと二人で1時間くらい、近くの海岸沿いを散歩した。

平日昼間にアポなしで訪れることができる友人なんて、いつ以来だろうか。実は、学生時代からずっと続いていた歯ぎしりが、今年になって止まった。ひどい時は一晩に10回くらい起こされていた妻は、とても喜んでいる。

夫婦一緒に暮らし始めたからだと思っていたが、ひょっとしたらこの主夫会も一つの要因かもしれない。だとしたら、こんな「生産的」なことって、他にないのではないか?

生まれて初めて母との対話 その2

家族写真


私:アゼルの主夫仲間と時間を過ごす内、夫婦どちらかの稼ぎで家計が支えられるなら、もう片方が育児に専念した方が、子どもにとって、ひいては家族全体にとって良いのではないかと思い始めた。うちの場合、お父さんの稼ぎだけで生活はできたわけだけど、お母さんは、なんで、私たちを生後間もなくベビーシッターさんに預けたの?

母:当時、育休制度っていうのがなかったからね。あなたが生まれた時はあったから、2ヶ月取った。それに、子どもは親だけでなく、他の子どもと時間を過ごすのってとても大事なのよ。生後6ヶ月だともう人見知りが始まるから、生後2ヶ月から他の幼児と時間を作ることが大事だと思っているの。

後、私は、自分にキャリアがなければ、夫婦の対等関係が維持できないとも思っていたの。私の父親は、母親に対し好き勝手していたけど、母親から離婚は絶対言い出せなかった。生活ができなくなるからね。父親が母親に「嫌なら出てってもいいんだぞ」と言う姿は痛ましかったなあ。でも、自分の子どもが本当に私を必要とするなら、いつでも仕事を辞めるつもりでいたけどね。

私:なるほどね。でも、他の幼児との時間は、自分で面倒を見たとしても、確保できるよね?近所にいる幼児たちと遊ばせればいいだけのことだからさ。私が生まれた時は育休制度があって、1年休んでも良かったのに、2ヶ月だけしか休まなかったよね。男女平等の観点からはとても喜ばしい制度なのに、なぜ、それを最大限使わなかったの?

母:なんで、育休が男女平等につながるの?

私:だって、育児を理由に仕事を辞めなくてもすむようになったってことでしょ?

母:そうね。制度ができたばかりのもので、必要悪だと思っていたのかな。どうしても必要じゃないかぎりは使う物でもないと思っていた。私にとって、家で一対一で子どもの相手をするということが退屈だった。みはえ(二女)の時、1年くらい専業で育児をしたけど、辛かったわ。子どもが一人で遊んでいる時は、こちらは基本的に何もすることがないからね。作家だったり、文学的素質があったら、それを見ながら文章を考えることもできたのかもしれないけど、そういう素養がなかった。

私:最初の1年くらいは付きっきりでいる親が結構いると思うのだけど、そういう人たちは大丈夫なのに、なぜ、お母さんは退屈になってしまったのだろう?

母:専業主婦にはなりたくないという想いがとても強かった。みはえの時は、保育士の資格がなくて仕事ができなかったから、主婦になっただけ。

私:いつから主婦に対しての抵抗があったの?

母:小学校のころから。私の母は、毎日、同じこと(家事)をするのを嫌がっていた。いつも「ああ家事なんていやだいやだ」って言ってた。彼女が亡くなる寸前、生まれ変わったら何になりたいか尋ねたら、「研究者」と言っていた。母は小学校の成績が良いことだけが自慢で、「女」であるがゆえに、それ以上、教育を受けることができなかったの。大学卒の父が解けなかった数学の問題を解いたから、父が母に惹かれたのよ。

私の友人の中には、主婦でいるのを楽しむ人もいる。色々な物を手で作ったりね。「母親」として、「妻」として誰かを支えるという仕事にやりがいを感じる人だっていると思う。でも、私は、どうしても「私」が直接社会と関わりたかった。障がい者差別、男女差別、そういう関心がずっとあるから、その社会とのつながりを断つ生活は考えられなかった。 1年の専業主婦生活を終えて、保育園に勤務するようになった時、「奥さん」から氏名を持った一人の人間になれたような気がしたわ。

私:社会的関心への原点は何?おばあちゃん?

母:小学6年で国会議員になりたいと思っていた。社会を良くするんだって、漠然と考えていた。「女らしくしろ」とか言い続ける母親にも反発していた。

私:お母さんは、若い頃から子どもが欲しいと思っていた?

母:いや。子どもはあまり好きじゃなかった。やすのぶ(弟)の世話もあまりせずに、いつも遊び歩いていた。だから結婚する時も子どもは産まないと話していた。でも、姪や甥が生まれるにつれ、子どもが可愛いと思うようになり、社会人になって「子どもがいないのは半人前」みたいな風潮もあったから、産むことにしたの。

私:それで、産まれて来たのが男と女の双子だった。(私の長兄と長姉)

母:そう。とても可愛くてね。男と女の子を同じように育てたら、男女の違いはどう出てくるのか実験をしてみたくなったの。それが楽しくて楽しくて、男女のカップルをもう二組欲しくなった。この時、高校教師から、保育園の保母になることに決めたの。そうすれば、より多くの子どもたちの成育が観察できるでしょ。

私:それで、6人子どもができ、私が予定外で生まれたわけね(笑)。家で、一対一で子どもの面倒を見るのは退屈だけど、保育園で複数の子どもを見るのは退屈じゃないんだね。

母:そうよ。だって、日々、園内で色々な問題が起こるでしょ。

私:主夫の友人たちは、「自分の子どもとの時間はお金に返られないものだ」って言っていた。お母さんにとって、私たちとの時間はどうだったのか?

母:昼間は預けて、夜一緒にいればそれでいいと思った。

私:なんで、そう思ったの?

母:昼間は別の子どもたちと一緒にいるわけだからね。

私:でも、その子どもたちとお母さんは一生、一緒に過ごすわけではないでしょ。自分の子どもたちは、死ぬまで一緒だからね。今、主夫になってみて、自分の人生を振り返ると、色々な疑問が浮かび上がってきた。なんで自分はこんなに競争心に満ちた人間なのか。なんで、家の兄弟はみんな違うプロ野球のチームのファンにならなければならなかったのか。全員で同じチームを応援する家族だって一杯いるはずだ。なぜ、自分はいつも兄姉より勝らなければならないと思い込んでいたのか。他人から認められるために必死だったのか。なぜ、自分は妻のスージンに対して思いやりを持って接することができないのか。もしかしたら、私が生後2ヶ月でベビーシッターに預けられたということと、何かしらの因果関係があるんじゃないかと思い始めた。要するに、私は、お母さんからの愛情を求めていた。でも、お母さんには、私よりも大事なものが常にあった。だから、私は、他の兄や姉よりも多くの愛情をもらうために、彼らと違うことをし、お母さんから認めてもらいたかったのかもしれない。

母:そう、、、。ようこうがそんな風に話してくれるの初めてだから嬉しいわ。確かに、ようこうは中学時代、とても静かだった。家の中では、いつも表情を強ばらせていたね。私は、ようこうが話をするのが好きでないのだと思っていた。

私:悩みがあってもお母さんには恥ずかしくて話せなかった。まあ、お母さんに何でも話せる中学生もあまりいないと思うけど。今でも、お母さんのささいな行動が気になることがある。例えば、今年の8月に、重い荷物があるから、車でお父さんの診療所まで送ってもらう時、車の中で「あなたが一人でこの荷物を運転して運んで、車を家に戻してから、歩いて診療所まで行くことができたのではないか?」と尋ねていた。そんな事は車に乗る前に言ってほしいし、もっと言えば、診療所は家から車で一分もかからないわけだから、それくらいの時間を息子のために捧げてあげようという想いはないのかと、少し苛立った。

その一週間前、私の友人が6人、東京から遊びに来ていて、車が2台必要だったから、お父さんの診療所から車を一台借りて、お母さんにもう一台の運転をお願いしたことがあったよね。友人たちを駅まで送り届けた後、私は、車を返しに、診療所の駐車場に車を停めて出て来たら、お母さんの車がいなくなっていた。携帯に電話をしたら「なんか、駐車に手こずっているようだったから、先に行ったのよ。そこからなら歩いて帰れるでしょ?」と言った。 確かに歩いて15分の距離(上記の診療所とは別のもの)だったけど、8月の真夏日で外の気温は35度。一緒にいたスージンは日差しに弱いから、それなりの負担になる。せめて一言「先に行っているわよ」と言うことができなかったのか、と、とても心を痛めた。

とにかく、お母さんにはやらなければいけないこと、やりたいことがたくさんありすぎて、私の入る隙がなかった。お母さんに褒められたという記憶もなかった。お母さんは、私の学校の成績とか気にする親じゃなかったから、それはそれで嬉しかったけど、スポーツに関しても、成績に関しても、褒められたという記憶がない。

私が小学4年の時、お母さんは保母を辞めて、自宅を改装して、登校拒否児や障がい者の駆け込み寺を作った。私も、たまに学校をズル休みして、そこに来る子どもたちと遊んだ。それで、ある日、私が、一つ年下の男の子とビリヤードをしたことがあったけど、その時、お母さんは、私と彼、どちらを応援したと思う?

母:年下の方を応援しただろうね。

私:そう。その子が玉を入れたら喜んで、外したら、残念がっていた。俺はそれがすごい辛かった。

母:ああ、そう、、。

私:なんで、お母さんは、別の人の子を応援するのだろうって。 私は、その時、妙な嫉妬心にかられた。おそらく、そんな小さいことが積み重なって、自分の中で、「お母さんには、私よりも大事なものがある」って思っていたのかもしれない。だから、必死に競争に勝って、誰かから認められてほしかった。

母:そうなのね。私は、たくお(父)とたかひろ(長兄)に対しては、徹底的に褒めなかったのよ。「男は褒めたらもっと威張る」って思っていたのね。だから、たかひろなんて、「俺は親から褒められない駄目な子どもだってずっと思ってた」って言ってたわ。7人の子どもたちの競争意識は本当に高かった。特に、上の双子。(長兄と長姉は双子)どっちがどんな成績で、どんな作品を作っていて、どんなことをしているのか逐一監視し合っていた。家族によっては、子どもが全員医者になる家もあるのに、私の子どもたちは、全員、違う職業についた。私は「子どもはそれぞれ違う色を出せばいい」と思っていたから嬉しかったけど、まさか、みんな違う道を選ぶとはね。

私:そう考えたら、私は末っ子だから一番大変だった。だって、生まれた時に、すでに6人もライバルがいたわけだから(笑)。一番上の二人は少なくとも、一時期はお母さんを独占できた。まあ、上の兄姉に言わせれば、私が一番甘やかされたと言うだろうけどね。
でも、そんな競争意識の高い双子がいて、片方は男だからという理由だけで褒めなかったの?たかちゃん(たかひろ)は大変だっただろうね、、、。

母:そうよ。大変だったと思う。母乳する時、赤ちゃんを見ながら母乳するのが良いと言われたけど、私は、本を読みながら母乳していたのよ。

私:本を読みながら?そしたら、赤ちゃんは、おっぱいを飲みながら、お母さんを見上げても、お母さんは本を読んでいるから、自分よりも本が大事だって思っちゃうんじゃない?お母さんだって、セックスする時、相手が本読みながらだったら愛を感じないでしょ(笑)?

母:本を読みながらセックスなんてできないでしょ!田舎に来るとね、なかなか、自分の知的好奇心を満たしてくれる物がないのよ。(両親は東京で結婚し、父が新潟の南魚沼の病院に招かれたため、母は仕事を辞めて父に付いて行った)それに、夫に家事/育児をやらせるために、戦う準備をする必要があった。だから、「女」と名のつく本は片っ端から読んで、たくおに論理的に説明する必要があったのよ。

私:お父さんは最初は家事はやりたがらなかったの?

母:貧しい家庭に育ったから、「僕は高校時代にたくさん家事はやったからもういい」って言っていた。共働きになってからも、「僕の仕事の方が忙しいし、収入が高い」と言って、家事はやらなかった。確かに、保母よりも医師の方が収入は高いし、忙しい。でも、私は、保母の職がほとんど女性で占められ、給料が低く抑えられている現状とかを話し、なんとか説得しようとした。口で言うと喧嘩になるから、手紙で伝えた。そしたら、洗濯や弁当作りはやってくれるようになった。

私:子育てをライフワークといいながら、2ヶ月で自分の子どもを預けるということについて、何か負い目はなかったの?

母:義母は「チヅコさんは、生みっぱなしで、子どもは全員預けている」と言っていた。でも、私は、ちゃんと育てていると思っていた。昼間預けるということは育児放棄だとは思っていない。これについては、松田道雄さんの本が私の支えになった。 その本は、子どもは社会の中で育つのだから、親との一対一の世界では、子どもは退屈だと言う。今でも、3歳までは母親の手でとか、保育所に預けるのは可哀想と言う人がいたけど、松田さんは、保育所でも子どもは幸せになれると書いてあった。

私:それは統計に基づいているもの?

母:そのうち、統計でわかってきたことは、育児ノイローゼは、勤めている母親ほどかかりにくいということ。

私:でも、それは、母親側の都合じゃない?まあ、母親がノイローゼになったら、子どもも困るけどさ。

母:そうよ。子どもにとっても大変よ。虐待にもつながるし。

私:子どもが2歳まで母親に育てられた場合と、数ヶ月で預けた場合、子どもに違いはでるのか?そういう統計はあるのかな?

母:預けられた先にもよるでしょ。テレビを見せっぱなしの所もあるし。私立の保育所なんてピンからピリまであるからね。

私:私たちが預けられた先は、しっかりした所だと思っていたの?

母:うーん。確信はできないよね。自分の子どもが劣悪な環境になったら、別の保育所に移すという選択肢もあると思う。でも、保母が悪くても、友達と遊んで楽しけりゃ良いやということもあるよね。

私:お母さんは、自分の本にも書いているけど、他の保母さんとは育児の考え方に違いがあったよね?それは、お母さんとこの町全体の違いでもあると思うのだけど、だとしたら、自分の子を他の人に預けるということに抵抗はなかったの?しかも、生後数ヶ月という一番大事な時期に。

母:なるべく、子どもがやりたいことはやらせてくださいってベビーシッターさんに伝えていたけどね。子どもがその預け先を嫌がるなら、それは考えないといけないけどね。

私:子どもが嫌がっているのかどうかって、わかるもんなのかな?

母:そうね。ヨーコーが、小学校の担任を嫌がっていたことなんて私全然知らなかったもんね。

私:お母さんは、「子どもが私を必要とするなら、いつでも仕事を辞める気でいた」とか「子どもが嫌がるなら預けない」とか言うけど、子どもの意志を汲み取るのって難しいのではないかな?少なくとも、ビリヤードでお母さんが他の子を応援した時、私は「私を応援して」とは言えなかった。だから、お母さんは子どもが必要な時は駆けつけるっていうけど、それを察するのは難しいんじゃないかな。やっぱり、子どものころから専業主婦っていうものに抵抗感があったのが一番大きいんだね?

母:そうね、、。自分の親が専業主婦を楽しんでいたら違っていたかもしれないけど、私の母は、本当に行動力があった。だから、主婦であることを楽しめなかったのよね。

私:専業主婦を1年やった時、精神的不安定になったりした?

母:毎日文句を言っていた。そんなに文句を言われるくらいなら、働いてくれた方がいいって夫は思っていた。

私:それをみいちゃんは感じ取っただろうね。近くで嫌々やっているの。

母:そうかもね。

私:大事な娘との大事な時間とは思えなかったの?

母:彼女にとって私といることがどうかっていうことをあまり考えなかった。やっぱり、かなり自己中心的に、「私にとって」を第一に考えていたな。母親としてかなり未熟で、他の母親たちは一人目から、子どもが病気になったら、自分が代わりに病気になってあげたいって思うけど、私は5人目くらいまでそんな考えはなかったな。

私:社会を変えたいという気持ちが強かったということ?

母:生まれた時から女であるがゆえに住みにくかった。積極的なこと、行動力があることは、男であればプラスなのに、女であればプラスに評価されなかった。

私:小学校では評価されなかったの?

母:友達いなかったね。いつも周りをいじめていたし。他の子のテスト用紙を見て「こんなのもわからないの?」って言ったりしていた。他の子の気持ちがわからない子だったな。

私:生後数ヶ月で預けるということが、何かしら、長期的にマイナスに転じるとは思わなかった?

母:子どもにとって、集団でいる時間がどれくらい必要かっていうのは、子どもによって違うと思う。今の保育時間は、親の労働時間に合わせられていて、8時間となっている。それは子どもにとって長いと思うの。4時間とか6時間とかにした方が、子どもにとって、家族と一緒にいる時間になったと思うのだけど。

私:だったら、それこそ育児休暇を取って、子どもと一緒に過ごした方がよかったじゃない。そこに矛盾は感じないの?

母:まあね。

私:(笑)いや、まあねじゃなくてさ。

母:家族でっていう時、一対一ということじゃなくて、家族全員ってことでしょ。

私:育児休暇をとっても、それでは、特定の子どもとの一対一の時間であって、7人の子どもとの時間ではないから、家族との時間ではないということ?

母:ううん。

私:でも、別に、一対一でもいいよね?

母:まあ、そうだけどさ。子どもとの一対一っていうのは退屈なのよ。

私:6時間労働になって家族との時間が増えるのがいいけど、一対一は退屈ということね?

母:(笑)うん。

私:意味わかんねえな(笑)。

母:母親としては欠陥人間だったってことよ。子どもたちは私を良く受け入れてくれたと思うよ。私自身が母親から無限の愛みたいなのを感じていないからね。困った時に母親のところに行くというのがなかったからさ。私の子どもに取っては大変だったと思うよね。

この人は7人くらい子どもがいないと、ちゃんとした母親になれないと思われたから、神様から7人授かったのかと思う。一番上の双子に対してなんて、本当にひどかったと思う。

私:どういうところがひどかったの?

母:一番上二人の時は、「早く寝なさい」って叩いたのよ。私が本が読みたいから、という理由だけでね。

私:叩いたの?寝かせるために?

母:そうよ。叩いたら寝ないよね(笑)。たかひろ(長男)のことはどれだけ叩いたことかわからないくらいよ。彼らからしたら母親とは思えなかったんじゃないかな。もえちゃん(長女)なんか、おばあちゃんの方が好きだったしね。

私:自分も、自分の時間が大事で、スージンを悲しませてしまうことがよくあるよ。この前、スージンの事務所に日本から荷物が届いたから、車で取りに来てとお願いされた。タクシーなら3−400円の距離だから、「タクシー呼んだら」と言ったら、スージンは「20分という時間を妻のために捧げられない夫なら、離婚した方がいい!」と怒ってしまった。それで、離婚されたら収入源がなくなると思い、真っ先に車で駆けつけたけどね(笑)。

母:そういう時は、あなたが謝るの?

私:うん。

母:そうなの。似た者同士なのね(笑)。私が執着するのって「時間」なのよね。最近は結構時間のゆとりが出て来て、こうやってあなたと話すこともできるようになった。読む本が溜まっているわけでもないし、書きたいことがあるわけでもないし。

私:それは喜ばしいこと?

母:微妙ね。

私:何かしらしないと落ち着かない?

母:今も、しえ(孫)のDVDを借りに行くと、選ぶのに時間がかかるのよ。だから、待っているが嫌なのよね。

私:なんで、自分の時間に執着するようになったの?社会変革のために一分も無駄にできないということ?

母:読書時間かな。読むのが遅いから、人が読んでいる本を自分が読んでないことがあって、たくさん本を読まなきゃなって感じだったな。なんか、本から追っかけられている感じだった。あれも読みたい。これも読みたい。読まなきゃ。人に伝えたいって思いもあるしね。

時計は午後1時15分になり、私たちは席を立った。「インタビューさせてもらったからここは俺が払うね」と私が2300円をレジで払った。母は財布を出すそぶりはしたものの「あ、そう」とだけ言った。

話し合いは終始穏やかだった。母が父と長兄を褒めなかったと話した時、少し、目が潤んでいたくらいで、たまに笑いが起きるくらいスムーズに行った。母は次の日に家族メール(家族全員が入ったメーリングリストがある)に「ようこうから色々インタビューされて面白かった。皆さんも次実家に来る時は、何か質問を用意してきてね」と送った。

間違いなく、32年の人生で、母親と最も深い話をした日だった。母親の一言一言が自分の肩に長年入り続けてきた力を、ポンプの様に吸取っていった。

成績優秀だったのに「女」であるがゆえに「主婦」になり、夫の好き勝手な行動に文句を言えなかった祖母。そんな不平等な社会を変えるべく、7人の子どもを産みながらもキャリアを持ち続け、一分一秒を惜しんで、読書に励み、執筆や講演で変革を訴え続けた母。そんな忙しい母から認められるために、15歳で日本を出て、計6カ国13年にも及ぶ海外生活を経て、キャリアよりも家族との時間を優先するため、「主夫」になった私。

霧で視界が悪い山を登り切り、霧が晴れて、振り返ると、これまで歩いて来た山道が見えた時の様な、清々しさがあった。

母はミーティングから戻って来たら、「これから(障がい者が働く)パン屋で売れ残ったパンを、売歩いてくる」とまた出て行ってしまった。あと何年、こうやって駆け巡り続ける母の姿を見ていられるのかと考えたら、初めて私の目が潤んでしまった。

生まれて初めての母との対話 その1


「主夫」になり1年近くが経ち、アゼルの主夫と接するうち、私は自分の両親の育児方針に疑問を持つようになっていた。

今年の夏に日本に帰国した際は、実家で2週間ほど過ごし、北海道、滋賀に住む兄姉の家を初めて訪れ、親や兄姉と時間を過ごすことができた。これも主夫になったおかげである。実家近くに住む次男とは二人きりで夕飯を食べ、「二人きりでのご飯なんて12年振りだな」なんて話をした。別に仲が悪いわけではないのに、私の海外暮らしが長い上、それぞれに家族ができると、兄姉とはいえ、なかなか二人だけの時間というのは取れない。

両親と一緒に美術館へ出かけた日、母親と昔話になり、「ヨーコーは子どもの頃、甘えん坊で、ベビーシッターさんに預ける時は、母乳が欲しくてずっと大泣きしたのよ」と言った。私が「何歳から預けられていたんだっけ?」と尋ねたら、「生後2ヶ月」という答えが。

私は、自分の耳を疑った。この32年間、自分がベビーシッターや託児所に預けられていたことは知っていた。でも、まさか、生後2ヶ月という早い段階で母親の手元を離れていたなんて、、。

アゼルバイジャンで、様々な「主夫」と交流をし、父と息子がレストランで肩を組んだり、日常的に映画やキャンプに出かけたりと、私が自分の親とはありえなかった関係を構築しているのを目の当たりにした。それで、「夫婦どちらかの収入で家計が支えられるなら、子どもが小さい時は、片方が育児に専念した方が、家族全体にとっては良いのではないか」と思い始めるようになった。

しかし、私の周りは、夫婦どちらかの収入だけで家計が支えられるのに、夫婦共働きの家庭が多い。例えば、新潟の実家近くに住む私の二姉(42歳)。夫婦揃って弁護士で、それぞれの法律事務所を持ち、いわば自営業。10、8、5歳の子ども3人おり、平日は姉、義兄、私の母の3人で育児担当を持ち回りし、家族5人揃っての夕食は週末に限られる 。子どもが1、2歳の時からずっとこんな感じで、先日、5歳の姪が熱を出した時も、二人とも仕事は休まず、姪は病児保育に預けられた。施設は伝染を防ぐため、4畳くらいの狭い部屋に仕切られ、そこに一日中入れられる姪が可哀想で仕方なかった。

そんな姉に疑問を抱き始めていた矢先、私自身が生後2ヶ月で預けられていた現実を知り、姉に対する疑念など二の次になった。私の父は医者である。私が生まれた当時は町立病院の院長だった。家計のことを考えたら、母が働く必要は全くなかった。にもかかわらず、上の兄姉も同様、生後まもなく、ベビーシッターに預けられたという。

母は育児の専門家として知られる。元保母の体験をもとに、官僚的な保育園の体質に警鐘を鳴らし、園児の個性を重んじる重要性について説いた著書「おお子育て」(教育史料出版会、1981年)が2万部売れ、全国各地から講演依頼が届いた。そして、「続、おお子育て」(同、1986年)では7人の子どもを育てた体験を綴り、その後も執筆を重ね、著書は合計9冊に。当時生まれたばかりの私は、親が本を出すことが普通のことだと勘違いし、同級生に「お前の親はどんな本書いているがあ(書いているの)?」と尋ねていた。

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本では「育児をライフワーク」と書きながら、自分の子どもは生後間もなく他人に預けっぱなし、、、。何か腑に落ちないものがあり、私は、改めて、本を読み返してみた。

「続、おお子育て」には各子どもの章があり、「揺光章」によると、私は生後46日で、ベビーシッターさんの家に預けられた。母乳が欲しくて泣きじゃくり、ベビーシッターさんから「母乳を辞めてくれ」と言われるほど、ずっと泣きじゃくったという。これについて母は、当時「(勤務先の保育園で)あと1ヶ月で卒園していく子どもたちを受け持っており、その子たちの気持ちを考えると、なんとしても3月いっぱいは(仕事を)がんばらなくてはと思った。揺光にはがまんしてもらった」と記している。

そして、子どもたちが卒園した後の、4—5月の2ヶ月間、母は「育児休暇」を取った。この期間で、母は1日も早く職場復帰するため、おかゆなどの離乳食を始め、6月、私を託児所に預けた。本には「(託児所でも)1日中泣いている日が続いた。でも、それもほんの一ヶ月くらいで卒業し、、」と書かれている。私からしたら「ほんの一ヶ月」ではなく「一ヶ月も!」と思ってしまう。つまり、人生で一番重要な時期である生後6ヶ月の間の計2ヶ月間(3月と6月)泣き続けたということだ。さらに、ネットで調べると、生後3ヶ月で離乳食を始めるのは、あまりにも早すぎで、乳児の体に負担がかかるリスクがあるという。母は私を2ヶ月間泣かせ、体にリスクを負わせてまで、職場復帰を、いや、保育園の子どもたちと一緒にいることを優先したのだ。

本を読み返せば読み返すほど、この32年間、「なぜ?」「なぜ?」とバラバラに考えていたことが、一つの糸で結ばれていく思いだった。なぜ、私は5歳まで母のおっぱいをしゃぶり続けたのか?なぜ、私は中学までおねしょを続けたのか?なぜ、私は兄姉と同じ球団ではなく、広島カープを応援したのか?なぜ、私は人一倍競争意識が強いのか?なぜ、、、。

母は本で、「3歳ころまでを極端な愛情不足の中で育った子どもは、後になっては、その埋め合わせがつかないという例をよく耳にする」(おお子育て、130ページ)と書いている。それでは、私みたいに、最初の6ヶ月の内の2ヶ月間、母親を求めて泣き続けた場合は、どうなるのだろう?

本の「揺光章」の最後、テレビ局が家を取材に来た時、「お母さんはどんなお母さんか?」とレポーターが私に尋ねた時のことが紹介されている。当時3歳の私は「虹」と答え、その理由は「きれいだから」。この虹発言は、私がどれだけお母さん子だったのか象徴する言葉として、家族内でずっと受け継がれていた。しかし、今一度、改めて、当時の私の心境を探ってみた。虹は、きれいだが、見たい時に見ることができず、見えたとしても、決して触ることができない。言い得て妙とはこのことだ。

10月18日夜、東京ドームでカープの敗戦確定を見届け、19日、東京の三兄の家に立ち寄って、最終の新幹線で新潟の実家へ戻った。午後11時半に家に着き、居間のテーブルに「先に寝る。布団は和室に敷いてある」という母の置き手紙があった。

20日朝、午前8時くらいに起きると、父はすでに出勤し、母は、テレビを見ながら日課のストレッチ体操をしていた。「ああ、起きた?」と、絨毯に横たわって足を開いたり閉じたりしながら、いつもの甲高い声で母は言った。 「カープ残念だったわね」と言い、台所で、朝ご飯のパンを用意してくれた。「パン、パン、パン」という母のスリッパの足音の中に「ブッ!」というおならの音が混ざるところは、何年も変わらない。そして、体内から臭気を放出したことなど全くおかまいなしといった様子で「コーヒーでいいの?」などと聞いてくるところも変わらない。こんな愛きょうある母親だから、私たちの間では「チヅコ」とファーストネームで親しまれている。

保母を20年した後、自宅を改造して、登校拒否時や障がい児が通える駆け込み寺を8年運営し、数ヶ月だが参議院議員も勤めた。今は、社会福祉法人の理事長として、老人のケアハウスやグループホーム、障がい者が働くパン屋やカフェの運営をしている。

私がパンをかじり始めると「じゃあ、すずかけ(老人のケアホーム)にミーティングに行ってくる」と出かけて行った。家に一人になり、考えた。母親に尋ねるべきかどうか。なぜ、私が小さい時、私よりも、保育園の子どもたちを優先したのか?

うーん。母親のすべてを否定してしまうようで、躊躇してしまう。でも、母とゆっくり話せるのは年に1—2度しかない。「さしさわりのあることを言い合おう」というキャッチフレーズが母の名刺に綴られていることを思い出し、私は思い切って、母の携帯に電話した。


「今日、昼飯でも行こう」。母は「もうすぐ家に着くから、その時に」と言い、電話を切った。家に来ると、「12時にケアホームの入居者の人にこの前の市議選挙の結果報告と挨拶をしなきゃいけないし、1時半からはミーティングがある」と言う。

私は「12時の挨拶は明日でもいいだろ?」と言うが、「昨日、市議選が終わったばかりだから、今日しなきゃいけないのよ」と引かない。私は、車で15分かかる自然食レストランに行きたかったため、「じゃあ、ちょっと時間的に難しいな」と言い、部屋に戻ると、3分後、母が「わかった。12時の挨拶は、午後6時にずらせるから、行きましょう」と言って来た。

ズボンを履き替え、財布をポケットに入れ、準備をしていると「何やっているの?行かないの?」と母。とにかくせっかちで、周りの人間が自分ペースで動くと思うところも、ずっと前から変わらない。

私の運転で行き、茅葺き屋根のレストランに入り、私はあんかけ豆腐定食を、母は、鮮魚定食を頼んだ。水を飲みながら、私は、勇気を振り絞って母に切り出した。
プロフィール

seventh star 7

Author:seventh star 7
黒岩揺光  
1981年、新潟生まれ。7人兄弟の末っ子。15歳で米国留学して以来、住んだ国は計8カ国に。海外生活計17年。日本では毎日新聞記者、アフリカでは難民キャンプの工場長、アゼルバイジャンで主夫、ジュネーブで国連職員などを歴任。現在は中東ヨルダンで妊娠した妻に寄り添う専業主夫。
 著書に「僕は七輪でみんなをハッピーにしたい」(ユーキャン)「国境に宿る魂」(世織書房)。
メール連絡先 yokuroi×hotmail.com (「×」を「@」にしてください) ツイッター:@YokoKuroiwa

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