スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

武装した若者、工場訪れる (その8)

翌日、再び、工場に鍵をかけた地元出身の若者から電話が来た。「私は鍵を開けた。だから、仕事をくれ」と言う。「鍵は開いていないと、アヤレからは聞いている。鍵を開けてくれない限り、交渉はしない」と伝えた。そもそも、この若者は、自分が勝手に鍵をかけた組織が、自分を雇ってくれると、本気で思っているのだろうか?

翌々日の朝、「今から鍵を開けに行く。話し合いの準備はできているね?」と携帯メッセージが届いた。

こちら側は、鍵を開けてもらうことが交渉再開の条件だった。しかし、交渉相手が、地元住民全体の「代表」でなければ意味がない。鍵を閉めた若者だけと交渉して、和解したとしても、第3、第4のグループが現れる可能性があるからだ。

だから、私は、「最初に謝罪したグループと、鍵を閉めたグループ、さらに他の主要メンバーが一緒でなければ、交渉のテーブルには座らない」と伝えた。そしたら、鍵を閉めた若者は「そんなの聞いていない!鍵を開けたら話し合うと言っただろ?他のメンバーと話し合いたいなら、自分で連絡してくれ」と電話を切った。

そしたら、7月5日、「地元住民側が全員一緒に交渉に参加するということです」とファラから連絡が入った。ファラは、工場Bの主任に5月に昇格し、7月からは、モウリドと共に、私の補佐役になった。治安悪化で、私は国連の敷地から出ることはできないため、地元住民に交通費を支給して、約6キロ離れたキャンプから出向いてもらった。

私は国連のゲートで彼らを出迎えた。地元住民側は9人。20—50代の男性だ。 ファフィ地区の地方議員2人、長老、そして、鍵を閉めた人を含め、特に役職のない若者6人。全員、身体検査、持ち物検査を受け、ゲート内に入ってきた。私は、精一杯の作り笑顔で出迎え、全員と握手をした。ゲートから、会議室まで約300メートルの距離があり、私が一緒に歩こうとしたら、若者たちが「車はないのですか?こんな長い距離歩けません!」と文句を言ってきた。本来、ソマリア民族の大半は遊牧民であり、毎日数キロ、数十キロを歩く彼らが、こんな距離を歩く事さえ文句を言うなんて、理解し難いものがあった。
 
 会議室に座った私は、ファラを横に、そして、9人と対面となる形で、話し始めた。冷静に、低姿勢で、と自分に言い聞かせながら。

「本日は、遠いところをわざわざお越し頂き、ありがとうございました。私は、ライフラインのプロジェクトマネージャーのヨーコーと申します。今日の会議では、まず、こちらから、ライフラインの紹介をさせて頂き、その後、地元住民とライフラインとの間で起こった一連の事柄を時系列で確認し合い、最後に、皆さんからライフラインへの要望をお聞きすると言う形で、進行させてもらってもよろしいでしょうか?」

と尋ね、地方議員と長老の3人は、深く頷いた。

「ライフラインは、米国に本部を置く非政府組織で、森林保全を目的に、七輪を製造、配布しています。ケニアだけでなく、ハイチ、ウガンダでも活動しています。ケニアでは、2007年に活動を始めました。きっかけは、難民による森林伐採が深刻化したことです。皆さんは、ヤギ、牛、ラクダを飼育して生計を立てていますが、難民の大量流入で、木々がなぎ倒され、皆さんの生活が脅かされていることに危惧しました。数十万の難民を受け入れ、さらに、難民に無料で提供されるサービスを受けることさえできない地元住民の生活改善のため、ライフラインはケニアにやってきました。

私がライフラインに入った昨年、従業員たちは、地元住民に対して良いイメージを抱いていませんでした。なぜなら、彼らの地元住民についての知識は限られており、薪を拾い集めに行くと、襲ってくる人たち、というぐらいの認識しかなかったからです。

しかし、七輪を作ることで、地元住民たちの苦しみに共感するようになり、『自分たちの住んでいる所に突然46万人の人が押し寄せ、木々を伐採したら、誰でも良い思いはしない。地元住民の人たちも、難民と同じ様に苦しんでいる』と劇などでキャンプの住民に訴え始めました。

確かに、ライフラインは難民しか雇っていませんが、プロジェクト自体は、地元住民の生活改善だということを忘れないで下さい。

本来なら、2007年に活動を始めた際、皆さんに挨拶をするべきでした。それについては、大変申し訳なく思っています。これで、簡単な紹介を終わりますが、何か、質問はあるでしょうか?」

特に質問は出なかった。

「それでは、次に、これまで、私たちの間で起こった事柄を時系列で確認し合いましょう」

6月4日に最初のグループが訪れ、「工場を1時間以内に閉鎖しろ」と命令し、6月7日にナイフや斧を持った若者たちが訪れ、6月14日に工場再開したが、17日に再び閉鎖、19日には鍵がかけられたこと、を確認し、地方議員たちは「間違いない」と事実を認めながらも、反論した。

地方議員の1人は「私たちは、ずっと、あなたとの面会を希望してきた。しかし、あなたは、これまで一度も姿を見せなかった。ナイフを持った若者たちが工場を閉鎖したことに関しては、もう何度も謝ってきたが、もう一度謝らせてもらう。私たちは、彼らがナイフを持って行くなんて知らなかった。後から知らされて驚いた」

私は、「6月14日、地方議員のお二人は工場で私の従業員に謝罪し、『もう、皆さんの活動の邪魔は誰にもさせない』と約束しましたね?」と尋ねた。

議員は頷いた。

私は続けた。

「それでは、なぜ、そこに座っている若者が鍵をかけ、私たちがあなたに電話をした時、鍵を開けるよう、彼に命じることができなかったのですか?」

議員は、「警察に連絡しろと、伝えたはずだ」と言う。

別の議員も「私自身も警察へ届け出た。後は、ライフラインが警察に届け出て、警察が彼を捕まえるよう説得するものだと思っていた」と言った。

私は、議員らが鍵をかけた若者を、本気で警察に捕まえてほしいと考えるなら、なぜ、今、ここで一緒に仲良く座っているのか、全く理解できなかった。「だったら、警察へ今、突き出したらどうですか?」と言うのをこらえた。

私は、「もし、警察に頼ることができるなら、私たちは、始めから、警察に連絡をしています。 しかし、ここでは、警察がうまく機能せず、皆さんこそが、地元住民を統率する力を持っていると信じたからこそ、皆さんにお願いしたのです」

議員は「もう、過去のことを掘り下げても仕方ない。これからの事を話し合おうじゃないか」と開き直った。

私は、はぐらかされまいと、粘った。「この点は、私たちにとって、とても重要な点です。なぜなら、今、この場で、皆さんと和解したとしても、皆さんに、住民全体の統率力がなければ、第3、第4のグループが現れる恐れがあるからです。最初に、『もう邪魔は誰にもさせない』と約束したのに、そこに座っている鍵をかけた張本人を、鍵を開けるよう説得できなかったのか。説明していただけませんか?」

50代くらいと思われる議員は、腕を組み、私と目を合わせようとせず、「もう、鍵のことはいいだろう?今は、もう鍵は閉まっていないのだから!」と声を少し荒げて返答した。

この時点で、私は確信した。彼らとどんな交渉をしようとも、従業員の安全が確保されることはないと。そもそも、何の力もない、役職のない若者6人が連れてこられたのは、議員2人が、彼らの雇用機会をライフラインから提供してもらい、彼らに支払われる給料の1—2割を議員が「斡旋料」として徴収することで、出席者全員が利益を得ようとしているとしか思えなかった。彼らは、ライフラインの活動も、ライフラインの従業員の安全も、本気で考えようとはしていない。

 もう1人の30代くらいの若い方の議員は「そもそも、私たちは、初めから、あなたとの面会を求めていた。しかし、あなたは、これまで一度も顔を出すことをしなかった。今回の問題の原因はあなたにあるのではないですか?」と私を非難し、会議での優位な立場を取り戻そうとした。

私は、「6月5日、私は、工場に行き、地元住民の代表と名乗る2人と面会をしました。その時、あなたたちはそこにいなかった。そして、その2日後、武装した若者たちが工場を訪れ、『工場長はどこだ?』と叫んだのです。どうか、皆さん、想像してみてください。皆さんが、中国にいて、工場を経営しています。そこにアフリカ出身の人はあなたしかいません。周りはみんな中国人です。ある日、あなたの工場に15人の中国人がナイフを持って、あなたを探していました。あなたは、この人たちと面会をする勇気がありますか?」

年寄りの方の議員は「ない!」ときっぱりと認め、若い方の議員は、言葉を失った。

その後、住民たちの要望を聞いた。その間も9人の足並みは揃わず、統一した要望を出すのに時間がかかった。鍵をかけた若者は、「今すぐ、私たちを雇用してくれ」と要望し、議員たちは「最低、従業員全体の半分を地元出身の人に割り当ててくれ」と要求した。結局、後者に落ち着き、私は「本部と話し合い、一週間後に返答させていただきます」と伝えた。

怒鳴り合うことなく、何とか、会議は円満に終わりかけていた。最後に私は、皮肉を込めて尋ねた。「私は、就職したい組織に願書を出すことは聞いたことありますが、その組織の建物に鍵をかけるという行為をあまり聞いた事はないのですが、それは、こちらの習慣なのですか?」と。鍵をかけた張本人は苦笑いをし、他の若者たちは「ここの習慣ではありません」と気まずそうに答えた。彼らの表情から、それが恥じるべき行為だという認識はあるということが垣間見え、少し安心した。

最後に、再び、全員と握手をし、記念撮影をした。

最初に工場を閉鎖してから1ヶ月になろうとしていた。そろそろ、工場長としての長期的な決断を出さなければいけない時期に来ていた。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

seventh star 7

Author:seventh star 7
黒岩揺光  
1981年、新潟生まれ。7人兄弟の末っ子。15歳で米国留学して以来、住んだ国は計8カ国に。海外生活計17年。日本では毎日新聞記者、アフリカでは難民キャンプの工場長、アゼルバイジャンで主夫、ジュネーブで国連職員などを歴任。現在は中東ヨルダンで妊娠した妻に寄り添う専業主夫。
 著書に「僕は七輪でみんなをハッピーにしたい」(ユーキャン)「国境に宿る魂」(世織書房)。
メール連絡先 yokuroi×hotmail.com (「×」を「@」にしてください) ツイッター:@YokoKuroiwa

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。