主夫歴3年半を振り返る


主夫会メンバーのオランダ人、ハンズ(50歳)が6月中旬にアゼルバイジャンを去る。BPで働く妻、デボラの契約が満期を迎え、スコットランドの支社へ異動になる。5月29日、ハンズの車で、バクーから30キロほど離れた風光明媚な山道へドライブへ出かけ、「主夫体験」について色々尋ねた。

前にも書いたが、ハンズは私と同じ、オランダのユトレヒト大学出身。大学院で地質学の修士号を取得した後、化学製品の会社に就職した。妻のデボラとは大学で出会い、デボラは地質学の博士号を取るため、アメリカに留学し、離れ離れになった。

1995年、デボラが博士号取得後、ロンドンのシェル石油で就職が決まった。ハンズは、東南アジアの支社への異動の話を断り、会社を辞め、オランダに買った家を売り、デボラと一緒になるためにロンドン郊外のプラスチック製造会社で働き始めた。「女性に付いて行くために、会社を辞めることに抵抗はありませんでしたか?」と尋ねると、「全くなかった。まず、博士号まで取ったデボラが自分のキャリアを諦めて、私の所に来るというのがありえないと思ったし、私も、海外で生活をしてみたいという好奇心があった。私は16歳まで海外に行った事がなかったからね(小国オランダではとても珍しいこと)」

1年半後、有能な人材を大企業に紹介する人材派遣会社から「エイブリーデニソン」という世界に1万5000人の従業員を擁する多国籍企業のロンドン支社を紹介された。会社のロゴマークなどを専門に作るなど会社だ。

ハンズの手腕はすぐに認められ、1999年、ドイツ支社への配属を打診された。50人の部下を抱える部署のリーダーのポストで、年収は1千万。97年に長女を、99年に長男を出産したデボラは「誰か子どもの世話をする人がいた方がいいし、夫にとっては大きな昇進話だったから応援したかった」とシェル石油を辞め、一緒にドイツに移り住んだ。

ハンズはすぐ仕事に夢中になったが、ドイツ語が話せないデボラは就職活動がうまくいかず、友人もなかなかできなかった。なにより、博士号を取得し、大手石油会社の社員から、一瞬にして「無職」になり、日々、家にいる生活が耐えられなかった。子育てママグループなどに参加したが「大学を卒業して多言語を使いこなす有能な女性たちが駐在員の妻になり『良い母』になろうとしている姿にとても違和感があった」と振り返る。

精神的に不安定になったデボラは、英語圏の会社に願書を出し、BPのスコットランド支社から内定をもらった。ハンズは、「デボラや子どもと離れ離れになってまで、キャリアを大事にしたくない。家族は一緒が一番」と、再び会社を辞め、デボラと共にイギリスへ戻った。

ハンズは5歳と3歳になった子ども2人を世話するため、「専業主夫」になった。「保育園が遠かったから、私かデボラのどちらかが子どもの送り迎えをする必要があった。それに、子どもたちを朝から晩まで保育所詰めにしたくなかったしね。私の父親は、専業主婦だった母の家事手伝いをよくしていた。当時のオランダではとても珍しいことだった。だから、自分も家のことをやるのが当たり前だという意識が芽生えていたのだと思う」とハンズは説明する。

年収1千万円から無職へ。「子育てサークル」に顔を出せば、そこには女性ばかり。突然、「サークルのチェアマンになってほしい」と勧誘され、戸惑った。ある夜、サークルの夕食会で、他のメンバーを車で迎えにいったら、その家の夫から変な目で見られた。「俺の妻に手を出すなよ、みたいな感じだったな」と苦笑い。

男の友人と集まれば、決まって仕事の話になった。「周りの人は皆、それぞれの仕事があって、とても輝かしかった。『新しいプロジェクトが始まった』『これをしたらこんな利益が出た』とかね。一方、私は『洗濯機が壊れた。新しい包丁を買った』とか、そういう話しかできなくて辛かった」と振り返る。

「ブランクが2年以上になると、その後の就職活動に悪影響が出る」と思い、1年半後に就職活動を開始。現地の大学の求人広告に応募し、大学と民間企業の連携を担当する部署の面接試験に招かれた。「特定の民間企業に、『なぜ私たちの大学と連携する必要があるのか』発表してください」と言われ、それまで民間企業で働いた経験を活かし、大学と連携することで、どう利益につながるかわかりやすく解説し、採用が決まった。

子どもの送迎をするため、午前10時から午後4時のフレックスタイムを認めてもらった。 給料はドイツ時代に比べたら3分の1に減った。

デボラは出張が多かった。月に一度はアゼルバイジャンに飛び、2年間は、週4日、800キロ離れたロンドン勤務となった。月曜朝にロンドンへ飛んで、木曜夜にスコットランドに戻ってきた。ハンズは子育てと仕事を一人で掛け持ちしなくてはならなくなり、「休む余裕なんて全然なかった」と振り返る。

2011年、デボラがアゼルバイジャンへ異動する内示をもらった時、ハンズは仕事を辞め、デボラに付き添った。家族の為に仕事を辞めるのはこれで3回目だったが、「アゼルバイジャンに行けば、デボラの出張も減るし、家族が一緒にいれる時間が増える」と快く受け入れた。

アゼルバイジャンでは少し就職活動をしたが、いい話はなかった。「就労ビザを取得するのも難しいし、そこまでして仕事をしなければいけないという重圧がなかった」と言う。

BP社員が多く住む高級住宅街の一戸建ての家が無料で会社から割り当てられ、車と運転手が付き、さらに子どもの学費も100パーセント出してもらえる。学校も家から歩いて2分。

「最初は子どもたちが新しい環境に慣れるのに時間がかかるだろうと思ったけど、家に着いて15分で、呼び鈴が鳴り、『隣に住んでいる○○です』って同年代の友達ができちゃった。運転手が買い物もやってくれるし、お手伝いさんが掃除もしてくれる。会社からのレターには『電球が壊れるなど、家で問題があったら、ヘルパーに電話してください』って書いてあるんだ。電球の交換くらい自分でできるだろ?」

火曜日と木曜日はアゼル語を学び、木曜朝は主夫会に参加する。朝と晩は料理をし、週に2—3回はスポーツセンターで泳ぐ。月に一回は国内外に旅行に出かける。「ピアノの練習をしようかと思ったけど、結局、5回くらいしか触っていない。時間ってのは、簡単に過ぎ去っていくね」と言う。

4月最後の週末は15歳の長男と2人で、ドライブ旅行に出かけた。私は、自分が中学の頃、同級生が父親と日曜日に2人で車に乗っているのを見て「○○の奴、親父と2人で出かけてたぜ!」と友人たちとからかったのを思い出した。それほど、私が父親と2人で出かけるということがなかったし、「ファザコン」みたいに見られるのも嫌だった。

ドライブ中、ハンズが「私が何も仕事をしないから、子どもたちが学校で馬鹿にされたりしないか心配したことはあった」と言った。それで、私は3日後、ハンズの家で食事会に招待された時、17歳の長女のレベッカに「お父さんが仕事をしていないということで、同級生から何か言われた事はある?」と尋ねた。レベッカは「アメリカ人の友人が『ええ!お父さん仕事していないの?』と少し驚いていた。すごい古い考えの家族みたいで、、、」と答え、ハンズは「他にはないのかい?」と尋ね返していた。レベッカは「それ以外はないな。その友達も特にからかっているようでもなく、ただ驚いている感じだった」と答えた。父親と娘のこういうストレートな会話も羨ましい。私がレベッカだったら父親を気遣って「特にない」と隠すか、「お父さんのせいでいじめられた」と感情的になるかのどちらかだろう。

ドライブ中「これまでしてきた人生の決断に後悔したことはない?」とハンズに尋ねると「ないね。一度も。一つ一つの決断には必ず、予期しない結末が待っているだろ?それがわくわくさせるんだよ」。

私たちは、360度小山に囲まれた凸凹道で道に迷い、出くわした村人に方向を尋ねながら走った。対向車はほぼゼロ。聞こえるのは鳥のさえずりだけ。「こんな素晴らしい景色に巡り合えたのも、私の決断のおかげだろ?」ハンズは胸を張って答えた。

「これまでの決断で、何か自分の中で譲れない原則みたいなのはあったの?」と私は尋ねたが、ハンズは「、、、。特にないかな」と答えに困っていた。それでも、ハンズがデボラと冗談を言い合って笑い合う姿や、子どもたちとストレートに接する様子を見て、言葉にならない「原則」がそこにあるように思えた。

ハンズ2
主婦で賑わう平日昼間のカフェで、主夫会メンバーと談笑するハンズ(左から2人目)

ハンズ1
アゼル語で地元住民に道を尋ねるハンズ

ハンズ4
首都バクーから車で20分もすれば、何もない平地が広がる

ハンズ5
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プロフィール

seventh star 7

Author:seventh star 7
黒岩揺光  
1981年、新潟生まれ。7人兄弟の末っ子。15歳で米国留学して以来、住んだ国は計8カ国に。海外生活計17年。日本では毎日新聞記者、アフリカでは難民キャンプの工場長、アゼルバイジャンで主夫、ジュネーブで国連職員などを歴任。現在は中東ヨルダンで妊娠した妻に寄り添う専業主夫。
 著書に「僕は七輪でみんなをハッピーにしたい」(ユーキャン)「国境に宿る魂」(世織書房)。
メール連絡先 yokuroi×hotmail.com (「×」を「@」にしてください) ツイッター:@YokoKuroiwa

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