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妻の仕事を理由に3回仕事を辞め、計2万キロ移動した男

主夫会メンバー6人の内、ハンズとグレムがアゼルバイジャンを去り、オールドジョンは夏休みでイギリスへ一時帰国。6月20日の主夫会は、私のニュージョン(44歳)だけとなった。が、学校が夏休みに入ったため、ニュージョンの息子2人、リトルジョン(11歳)とジェイク(5歳)も加わった。

ニュージョン

ニュージョンはマイアミ出身。12歳で父親を糖尿病で亡くし、母子家庭で育てられた。「それまでは母が家で家事、育児をして、父が外で働く、ごく普通の家庭だった。でも、父が亡くなり、母が働き始め、私と五つ上の姉も家事を手伝うことになった」と言う。

大学で心理学を学び、非行少年の保護施設で働いた。その後、マイアミの2年制カレッジで進路相談員となった。スポーツ好きのニュージョンは、地元のソフトボールリーグで毎日の様に試合をした。チームが人数不足に陥った時に友人の紹介でアナというコロンビア人女性がチームメートになった。「最初会った時は、身長150センチの女性がスーツ姿で来たから、『この人、本当にソフトボールできるのかな?』って不安だった」と言う。

アナがセカンドを守っていたから、「セカンド狙って打て!」と相手チームベンチから声が上がった。「それで、アナが、センターへ抜けそうなゴロをバックハンドで捕って一塁へジャンピングスローで投げた瞬間、相手チームが黙ったんだ」と誇らしげに話す。
一つ年下のアナと、3年後の2001年に結婚。長男のリトルジョンが生まれた。アナはコロンビアの大学で化学工学を勉強し、石油大手「カストロル」のマイアミ支社からオファーをもらい、米国へ移住していた。
2002年、BPがカストロルを買収し、アナはBP社員となる。

その年のニュージョンの誕生日、アナに「ヒューストン」という名前のステーキ店に招待された。そして、ヒューストンにあるスポーツチームのロゴが入った誕生日ケーキが出てきた。ニュージョンは、ヒューストンにBPの大きな支社があることに気付き「ひょっとして、異動になったのか?」とアナに尋ねたら「当たりー!」とハイタッチされた。

アナにとっては地方から本社へ昇進する様なもので、口では「おめでとう!」と言ったが、心中複雑だった。

数日間、アナと自然体で話すことができなくなった。自分が積み上げたキャリアをすべて捨てて、1000キロ以上離れたヒューストンで一からスタートできるのか?マイアミにはすでに自前のヨットも購入していた。
2人の当時の収入はあまり変わらなかったが、「大学勤務より、大手石油会社の方が、将来的に収入が高くなることは簡単に想像ができた」と言う。
さらに、マイアミを出たい理由が2人にあった。アメリカでは、公立学校のレベルの地域間格差が激しく、マイアミは低い方だったという。進路相談をしていた大学の学生が中学レベルの算数問題が解けなかったりした。そして、石油会社と違い、大学はどこにでもある。「自分が新しい就職口を探すのは、アナと比べたらそこまで難しくない」とニュージョン。
誕生日から約1週間後、アナに伝えた。「アナのために、俺はヒューストンでキャリアを一からスタートする。ヨットも売る。その代わり、一つ条件がある。ヒューストンに行ったら、出張はしないでくれ」。マイアミ勤務の時、アナは、国内外に長期出張が多く、あまり一緒にいることができなかった。「ヒューストンに付いて行って、見知らぬ土地で独ぼっちにされたらたまらない」とニュージョン。アナは「大丈夫。新しい部署で、出張はほとんどない」と答えた。

私が「アナに『異動を断って』と言うことは考えなかった? 」と尋ねると「それはなかった。彼女はコロンビアから自分のキャリアを伸ばすためにはるばるアメリカへやってきた。その彼女が目を輝かせて『異動が決まった』と言ってきた。それを『断れ』なんて自分に言う権利はないよ」とニュージョンは言う。

ヒューストンに着いてからが「人生で一番辛かった」。米国で人口が4番目に多いヒューストンには多くの大学があったが、いくら履歴書を送っても、なかなか返事が来ない。当時、銀行口座は夫婦別々にしており、収入がなければ、クレジットカードの返済が滞ってしまう。アナは「お金に困ったら、私のカードを使って」と言ってくれたが、男のプライドがそれを許さなかった。「妻にお小遣いを求める男にだけはなりたくなかった」と言う。

朝起きても、何もすることがない。リトルジョンを保育所に預け、パソコンに向かって、仕事を探すだけ。退屈と孤独とプレッシャーの三重苦だった。アナの帰りが数分でも遅れたら、電話をし「どうしたんだ?遅いじゃないか?」と苛立った。1ヶ月半後、2年制カレッジの進路相談員として就職した。

3年半後、アナは、ヒューストンからアラスカに異動となった。大学まで毎日1時間半運転して通勤していたニュージョンは「もう少し条件の良い職場が良かったから、この時の異動話はすぐ受け入れられた。それに、アラスカは風光明媚で、大好きなハイキングやキャンプができるからね」と言う。

ニュージョンはアラスカ大学で働き、2008年、次男のジェイクが生まれた。4年後、アナは、家族が同伴できないアラスカ州の僻地勤務となった。キャンプ暮らしの劣悪な生活環境のため、2週間勤務したら、2週間休むというスケジュールだった。これにより、アナが僻地へ行く2週間は、ニュージョンが仕事をしながら一人で子ども2人の面倒をみなければいけなくなった。地元の学校で野球のコーチもやり、さらに、大学院の通信教育も受講していたニュージョンは、一気に多忙になった。

ある日、ジェイクが保育所で転んで唇を切るケガをした。ニュージョンは野球のコーチ中で電話に出れず、僻地勤務中のアナに緊急電話がかかってきた。

アナは「どちらか片方の親ができるだけ子どもと一緒にいるようにしたほうがいい」と強く感じ、ニュージョンに一つの提案をした。
「仕事を辞めたらどう?」。

ニュージョンは怒った。「ふざけるな!」

それまで貯め続けてきた「不公平感」をぶちまかした。「これまで俺が家族のためにどれだけキャリアと妥協してきたと思っている?自分勝手なことばかり言いやがって!」。

次の日、アナは冷静に夫に語りかけた。

「お互いにとってプラスに考えられないかしら?あなたは修士号を取りたいと前から言っていた。仕事を辞めれば、勉強に集中できるじゃない?子どもにとってもどちらかの親が常に一緒にいた方がいいわ。経済的には私だけの収入で生きていけるのだから。大学院に行く奨学金を得たと思って考えて。仕事、育児、勉強、スポーツ、一度にすべてをやろうとしているあなたが楽しそうに見えないの」。

ニュージョンは考え直した。「アナは私を虐げようとしているのではない。あくまで家族にとって何が一番良いか考えようとしているだけなんだ」。1週間後、上司に退職願を出した。

通信教育のため、アラスカで暮らす必然性がなくなり、それまで旅行した中で一番好きだったサンディエゴに1年、そしてフロリダ州の海岸沿いの小さな町に1年暮らし、アナはそこから毎2週間、アラスカに飛んだ。
フロリダでは、家の裏が海で、毎週末、ボートに乗って釣りに出かけた。朝起きて海を見ると、ドルフィンが飛ぶこともあった。「夢の様な生活だった」と言う。

そして、1年半後、アナへ海外駐在の話が来た。選択肢は三つで、スコットランド、アンゴラ(アフリカ)、そしてアゼルバイジャン。天気が悪いスコットランドはだめ。アンゴラは子どもの教育設備が整ってない。行くとしたらアゼルバイジャンだった。全く国のイメージができなかったが、同僚にアゼル人がいて、「とても良い所よ!」と言われ、グーグルで検索してみた。四季があって風光明媚で治安も良く、教育設備もしっかりしている。確かに悪いところじゃなさそうだった。
契約は3年間。ニュージョンは、「アメリカ国内なら仕事は見つけやすいが、英語が通じないアゼルバイジャンは話が別だ。3年間も俺は何をすればいいのだ?2年、通信教育を受け、3年、仕事がなければ、計5年のブランクになる」と拒絶した。

アナは言った。「あなたがそこまで働きたいなら、私がこの仕事を辞めるわ。でも、一つだけ言わせて。アゼルバイジャンに行けば、医療保険、家、車、子どもの学校が無料で提供され、さらに海外駐在手当が出る。支出は食費だけになるのに、収入は増えるのよ。私たちがアメリカで10年共働きして貯まるお金が、アゼルバイジャンでは2、3年で貯めることができるのよ」

ニュージョンは悩んだ。毎回、毎回、アナに良い様に言いくるめられている様な錯覚にとらわれた。しかし、アナの言っていることを頭の中で繰り返せば繰り返すほど、それが「全うな判断」という結論しか引き出すことができなかった。母子家庭で育てられ、奨学金がなければ大学には行けなかった自分の苦しみを、子どもに味わせたくない。

2012年8月、会社の招待で、アゼルバイジャンに「下見ツアー」に家族で来た。(海外駐在前に支給される手当の一環)。BPにとってアゼルバイジャンは世界で最も大きなプロジェクトの一つ。アナは事務所の規模や様々な国籍の同僚に会い、「一気にやる気が出た」。

一方のニュージョン。街で人に話しかけても英語が通じない。スーパーで買い物をすれば列に割り込んでくる人がいる。初めての国外生活。友人もいない場所で、家に取り残される生活を想像できなかった。二日目の夜、ニュージョンは「こんな所で3年も住むことはできない!」とアナに言った。アナは「もう下見ツアーまで来て、何言っているの?会社にどれだけのお金をかけてもらっていると思っているの?」と怒鳴り返した。「おそらく、これまでで一番大きな喧嘩だったかもしれない」と2人は振り返る。

2013年1月、アゼルバイジャンに家族4人で到着。会社からすぐ割り当てられるはずの車と家が、なかなか支給されず、短期滞在用の3LDKのマンションに暮らした。

アナは新しい仕事へ慣れるため、毎朝、引き締まった顔で家を出て行く。一方、ニュージョンは、友達もいない。英語も通じない。車もなく、移動の自由もない。 見知らぬ土地へ連れられ、牢屋に入れられた気分だった。アナが家に帰って来ても、アナの顔を見て話す事ができない。 アナが「何かあったの?」と尋ねても、無視するか、「何かあっただと?こんな知らない国に住まわされて、何もない方がおかしい!」と感情的に返した。

アナの同僚の妻に「料理教室やるからいらっしゃいよ」と誘われ、平日の昼間に行くと、そこには50人の「マダム」がいた。男性一人ぼっちで「宇宙人の気分だった」と言う。

朝6時に起き、朝ご飯の支度をし、子どもを学校へ送る。スポーツセンターで汗を流し、昼ご飯を食べ、午後1時半にジェイクが、午後2時半に、リトルジョンが学校を終え、迎えに行く。午後は、子どもたちの世話をし、夕ご飯の支度をする。アナは残業がほとんどなく、夜は家族4人で映画を見たり、海岸を散歩したりして過ごす。

木曜日の「主夫会」の存在は一ヶ月経ってから知り、同じ境遇の男たちに出会って「救われた気分だった」と言う。毎週楽しみに通い続け、日々のあらゆる愚痴を言い合い、鬱憤を晴らした。

子どもとバスケをしたり、日曜日はアゼル人少年に野球を教えたり、支給された車で、週末に風光明媚な地方都市へ出かけたりするうちに、「自分は『仕事ができない』のではなく『仕事をしなくても良い』恵まれた環境にいるんだ」って思えるようになっていったという。
「自分は12歳で父親を亡くした。それまでは毎日、学校から帰ると母親が家で待っていてくれた。海に散歩に連れて行ってくれ、菓子を買ってくれた。最高の思い出さ。でも、父が亡くなって、母は毎日仕事に行かねばならず、私は一人ぼっちだった。気付いたら、今、自分は、母親が自分にしてくれたことを、自分の子どもたちにやっていたよ。いつもアナのために自分のキャリアと妥協してきたと思ってきたけど、自分が仕事を辞めた本当の理由は、もっと別の所にあったのかもしれない。

自分の母親が一生懸命働き、私は子どもとして家事を手伝った。そこには誰が男で誰が女とかなかった。そんなこと考えている余裕なんてなかった。だから、今、こうして、自分とアナが「男」か「女」かというよりも、夫婦として、家族のためにどう貢献できるか考えられたのだと思う」とニュージョンは話した。

アナの母国、南米コロンビアは未だに「男は外で働き、女は育児家事」の考えが根強いと言い、「夫がコロンビア人だったら、私は今頃離婚していたか、育児に専念させられていた」とアナは言う。子どもの頃、夏休みになると、父親から「洋裁教室」に通わされ、「良い妻、良い母親になりなさい」と言われ続けた。「理系が得意な自分は常に親から否定されている気分だった。だから、コロンビアを出ることが子どものころからの夢だった」と言う。

先週の「父の日」に、アナは子ども2人に「あなたの父親は世界で最高の父親よ」と伝えた。「夫が仕事を辞めて子どもと接してくれるおかげで、リトルジョンは、スポーツが大好きになった。それまでは、私と美術館に行くのが好きだったのよ。他の親からは『あなたの子どもはコンピュータゲームやらないのですね!』って感心されるの」と鼻高々だった。




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プロフィール

seventh star 7

Author:seventh star 7
黒岩揺光  
1981年、新潟生まれ。7人兄弟の末っ子。15歳で米国留学して以来、住んだ国は計8カ国に。海外生活計17年。日本では毎日新聞記者、アフリカでは難民キャンプの工場長、アゼルバイジャンで主夫、ジュネーブで国連職員などを歴任。現在は中東ヨルダンで妊娠した妻に寄り添う専業主夫。
 著書に「僕は七輪でみんなをハッピーにしたい」(ユーキャン)「国境に宿る魂」(世織書房)。
メール連絡先 yokuroi×hotmail.com (「×」を「@」にしてください) ツイッター:@YokoKuroiwa

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