今できる親孝行とは

今、私にできる親孝行って何だろう。毎日電話をする。手紙を書く。温泉に連れて行く。でも、お金と時間を捧げる以外にも、できることってあるんじゃないか。息子の私にしかできないことってあるんじゃないかって考える。

子どものころ、病院の院長だった父の帰宅はいつも遅く、私は完全お母さん子だった。両親はけんかすることが多く、6歳のころ「あっけんが(あんなの)いらねえ。離婚してくれ」と母親に言ったことがあるほど。

東京の医大を卒業後、医師不足に悩む新潟の農村に父が足を踏み入れたのは、父が33歳の時。その後にできた町立病院の初代院長になった。小さな町の院長という職業柄なのか、自分を敬まってくれる人は多くいても、自分と肩を並べて酌を交わせる人は多くいなかったようだ。

小学2年の運動会。母は用事があって来れず、父が一人で来てくれた。昼ご飯の時、同級生たちは皆、家族ぐるみで戯れて食べるのに、なぜか、父は誰もいないグラウンドの隅っこに腰を下し、私と二人きりでおにぎりを食べた。どんな会話をしたのか、そもそも会話があったのかさえ覚えていない。ただ、そのときの陸の孤島にいるような感覚は、25年たった今でも鮮烈に残っている。

父は、私が小学6年と中学3年の時、2回、町長選挙に立候補した。医療と福祉を合体させ、健康都市を作りたいと訴えた。一回目は現職と、二回目は、助役との一騎打ちで、結果は2連敗。父のことはあまり好きでなかったはずの私だが、負けがわかった瞬間、なぜか涙が止まらなかった。

父は今年、77歳になり、10月に喜寿のお祝いをすることになった。温泉旅館に兄弟7人と、その家族が集まり、合計26人。私は、1週間ほど前に日本に戻り、会の準備をした。

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いつも、替え歌やクイズ、ビデオメッセージなどをするのが慣例だった。「黒岩先生がこの町にいてくだすって、助かります」というおばあちゃんのメッセージを流すのではなく、もっと、斬新なことができないか考えた。

父は昨年、新潟に来てからの想いを冊子にまとめ、同僚や知り合い、親戚に配った。その冊子に何かヒントはないか、読み直してみた。

そしたら、最初の3ページで良いアイデアが浮かんだ。

父は冊子の冒頭で、町長選挙に立候補するまで家族ぐるみでつき合っていた友人「Tさん」について書いていた。Tさんは、地元の有力者で、選挙に出ることを、父は真っ先に相談し、Tさんは父を他の有力者に紹介してくれた。これが出馬する決意につながった。しかし、いざ、父が出馬表明すると、Tさんは一言の相談もなく、相手候補の応援にまわった。相手陣営の選挙カーに乗り込み、「よそ者にこの町を渡すわけにはいかない」とマイクで叫んだという。

父は「こんな人を一度でも『友人』と思った自分が恥ずかしい」と冊子に記した。父なりに、医師不足に悩む農村を、医療最先端の町に変えようと献身したにもかかわらず、「よそ者」であるがゆえに、受け入れてもらえないもどかしさが文面から伝わった。以来、22年間、父とTさんが口を交わすことはなくなった。

私は父に言った。「Tさんに会いに行ってもいいか?」

最初は戸惑った様子だったが、しばらくしたら、父は電話帳を取り出し、「ここだ」と住所を教えてくれた。

私はビデオカメラを持って、Tさんの家に行った。何せ22年たっているため、かなりの高齢であることが予想される。正常に会話が成立するのかさえもわからない。


Tさんの家に着くと、丁度、窓ふきをしていた婦人が「どなたー?」と尋ねてきた。父の名前を出すと、すぐに「あー。黒岩先生の。昔はご家族で来てくれたのよ」などと会話が始まった。Tさんは出かけているといい、帰ってきたら連絡するよう伝えてくれるという。

次の日、Tさんからは連絡がなかったため、私から電話をした。「ああ!黒岩先生の。昨日は家まで来てくれたそうで。明日、事務所の方に来てくれるかな?」とTさんは言った。低い声だが、老いを感じさせない、はっきりとした口調だ。

事務所というのは、Tさんが経営する建築会社。事務所の二階に理事長室があり、Tさんは、私を笑顔で迎えてくれた。年齢はなんと86歳。

大きなソファに腰を下し、私は、父が喜寿を迎えたこと、そして、昔から父を知る人たちにインタビューをして回っていると伝えた。

Tさんは22年間、溜まりに溜まったものを吐き出すように話し始めた。

本当は父を選挙で応援したかったこと。しかし、町全体が外から来た革新系である父にアレルギーを抱いていたこと。建設会社はどこも役場から仕事を受注せねばならず、受注先は、田中角栄の支援母体「越山会」の影響がものすごかったこと。父が町長になれば、越山会の影響低下は必至であり、それを何としてでも防ごうとする人たちがたくさんいた。そして、Tさんもその人たちに反対すれば、仕事がなくなってしまう可能性があったこと。

Tさんは、新潟と東京を結ぶ「関越自動車道」を地図で見せた。新潟市からほぼ一直線で南下するが、ある地点から、突然、東に急角度で折れ、私の故郷、南魚沼市にぶつかり、そこから、今度は南西に急角度で折れる。「本当なら、こんな折れなくて、まっすぐ道路を作れば安上がりだ。でもね、越山会の強い魚沼に高速が引かれることになった。これでわかるかね?この町がどんな町だったのか」

私はTさんの一言一言に相づちを打ち続けた。そして、父の気持ちを代弁して見せた。

「選挙で父を応援することができないと悟ったとき、一言、父に声をかけることはできなかったのですか?」

Tさんは、数秒の沈黙の後、答えた。
「本来であれば、堂々と言うべきだった。おれはそれをやらんかった。もっと謙虚さがあってしかるべきだったと、いまでもおもっている」

そして、最後に付け加えた。「お父さんに伝えてほしい。今度、食事でもしようと」

10日後、私、Tさん、父、母の4人でイタリア料理店で食事をした。 後から、二兄や私の妻も加わった。

選挙について、Tさんは父に、「黒岩先生は優秀すぎた。それが町民を怖がらせたと思う」と伝え、父は「医者としての黒岩は受け入れられたと思うけど、政治家としての黒岩は受け入れてもらえなかった。医療以外に口を出されたら困ると言う感じだった。私ももっと議会の人たちに事前に理解を求めるべきだったと思う」と言った。

話はワインの話から、お互いの家族の話、Tさんが昔、四国へ出稼ぎに行った話まで、多岐にわたった。父は「せいぜい、1時間半くらいで終わるだろう」と言っていたが、2時間半たっても、Tさんは全く席から立ち上がるようすがなく、終止、上機嫌だった。Tさんは、最後に、「今回、こんな風に再会できて嬉しい。この機会を作ってくれたお前さん(私)に深く感謝しているよ。先生、これから、たまに飲もうじゃないか」と伝えた。

レストランからの帰り道、父は「年を重ねて、お互い鎧が剥がれた感じだったな」と言った。

お父さん。「仕事減らす減らす」と言いながら、77歳の今でも週40時間働いてるよね。そろそろ、肩の荷を下ろして、時間をすぎるのを気にせず、お茶やお酒を飲める友達を作ってください。海外生活15年目になった親不孝な私ができる、数少ない親孝行でした。
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プロフィール

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Author:seventh star 7
黒岩揺光  
1981年、新潟生まれ。7人兄弟の末っ子。15歳で米国留学して以来、住んだ国は計8カ国に。海外生活計17年。日本では毎日新聞記者、アフリカでは難民キャンプの工場長、アゼルバイジャンで主夫、ジュネーブで国連職員などを歴任。現在は中東ヨルダンで妊娠した妻に寄り添う専業主夫。
 著書に「僕は七輪でみんなをハッピーにしたい」(ユーキャン)「国境に宿る魂」(世織書房)。
メール連絡先 yokuroi×hotmail.com (「×」を「@」にしてください) ツイッター:@YokoKuroiwa

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