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アゼルの主夫会


 次の日、ハングル講座を終えて、待ち合わせ場所へ向かった。日本と同じ四季があるアゼルにも春の訪れを感じされる暖かさで、半そでの人も見かけられた。

 マクドナルドが見えてくると、入り口10メートル手前に、白人男性が1人で立っているのが見えた。金髪に白髪が混じり、緑色の半そでシャツにジーンズを履いている。頭髪のフサフサ感に陰りがあり、想像した通りの年代に見える。

 私が歩み寄って「ハンズ?」と話しかけると、「ああ。ヨーコーか?」と右手を差し出してきた。「日本料理は好き?」と尋ねると、「いいね」とハンズは言い、近くの「ザクラ」という日本料理店に向かった。

 ハンズは、オランダ出身の50歳。なんと、私が卒業したユトレヒト大学が母校という。ワイフが、BP(英国石油会社)で働き、ハンズが家事や二人の子どもの育児を担当しているという。 「育児といっても、すでに14と15歳だから、学校ですぐ友達作って、逆に、こっちが遊んでくれって頼まないと、遊んでもらえないよ」とおどけて見せた。

 私が、アンに電話をしたら躊躇されたことを話すと、「私も、友人に誘われて、あのお茶会に1年前くらいに参加したことあるけど、馴染めなかったな。20人くらいの女性が100人くらいに見えたよ(笑)。なんか、『女性の会』みたいな雰囲気が醸し出されていたし、『あなた男性なのに、働いてないの?』みたいな目でも見られるし、、」と言い、私は「あー。わかるわかる。その気持ち」と、救われる思いになった。

 
私:どういう経緯で主夫になったの?

ハ:これまでは、イギリスやフランスなど20年くらい、色々な国を転々としてきたけど、妻がアゼルに赴任することになって、ここは配偶者に就労ビザが出にくいし、英語もあまり通じないから、少し、一息入れるのもいいかなと思ってね。

私:これまではどんな仕事を?

ハ:イギリスの医療関係の会社で管理職だったのだけど、とにかく激務だった。だから、こちらに来て、何もすることがないのに最初は戸惑ったよ。

私:こちらではどんな日々を?

ハ:通信教育で、コンピューター管理の資格を取ったり、アゼル語を学んだり、ジムに通ったり。家事もやっているよ。妻の帰りが遅くなることが多いから、基本、夕食作りは私だよ。
私:私の妻は5時半くらいには帰ってくるので、夕食は一緒に作ることが多いな。

ハ:それは羨ましい。

私:オランダでは、「主夫」という概念は浸透している?

ハ:そうだね。男性が育児休暇を取ったり仕事をパートタイムに切り替えて育児を女性と分担するのは普通だよ。私は、子どもが小さい時もイギリスにいて、1年半くらい仕事せずに育児に専念した時期があったけど、その時は、周りの男性から羨ましがられたよ。「自分も子どもとの時間を作りたいのに」ってね。「だったら、そうすればいいだろ」って言ってあげたよ。

私:日本では3年前、東京のある自治体の首長が2週間の育児休暇を取り、「育児休暇を取得する日本で初の首長」という見出しで、全国紙の一面トップで報道されました。テレビのトークショーでも話題になり、「革新的」と好評価も多くありましたが、「首長として他にやるべき仕事があるのではないかな」と批判的な女性コメンテーターもいました。ある男性著者のプロフィールには「育児休暇を取得したことがある」と書かれるなど、男性が育児休暇を取ることがどれだけ稀なのかがわかります。

ハ:へえ。オランダだったら、逆に、日本でそれが一面トップで報道されるということがニュースになるかもな(笑)。そしたら、君はかなり変わり者だね?(笑)

私:「アゼルではどんな仕事をしているの?」とアゼルの人によく聞かれるのですが、何て答えている?

ハ:定年ですとか、妻が働いているとか、適当に言っているよ。みんな、目を丸くするけどね。

私:周りからは変な眼でみられるし、お茶会に行けば、女性ばかりで馴染めないし、主夫はつらいね。

ハ:うん。私も最初は心細かったよ。私はマージャンが大好きで、マージャン倶楽部が木曜昼にあるのだけどね。女性ばかりかと思うと、足が遠のくよ。他にも3,4人、主夫がいて、毎週木曜朝にコーヒーを飲んでいるのだけど、良かったら、来てくれよ。

私:へえー。「アゼルの主夫会」ですね。他の人はどの国出身なのですか?

ハ:アメリカとかイギリスだね。

私:ちなみに、私と同世代の人は?

ハ:いや、みんな、私と同じくらいだよ。お年寄りと混じるのも、いいじゃないか(笑)。

私:ええ。是非。

 話は、アゼルバイジャンの見どころや、ハンズが日本に行った時の話など、盛り上がり、昼食後は、近くのカフェでお茶をし、2時間半があっという間に過ぎ去った。

 別れ際、「週末にうちで食事会を開くこともあるから、是非、一度、夫婦で来てくれよ」と固い握手を交わした。

 「主夫」という超マイノリティーに属し、虐げられる分、仲間を見つけた時の結束は速い。また、主夫の楽しみが一つ増えた。

辞表提出

親愛なるダン(代表理事)へ

 ここに辞意を表明したいと思います。私がダダーブで働き始めたのが2010年3月。ダダーブに100人近くいる国際スタッフで、私より長く滞在している人は2人だけになりました。

 情けない話ですが、ここでの滞在中、様々な事が身に降りかかり、疲労がピークに達しております。従業員による全面ストライキ、地元住民からの脅迫、友人らの拉致事件、そして腹心の失踪。1年前と比べ、自分が仕事に集中できていないと思うことが多くなりました。こんな無責任な状態で工場を運営していたら、また皆さんに迷惑をかけることになりかねないと思います。
 
 さらに、私は妻と結婚して4年近くになりますが、未だに、長期間、同じ屋根の下で暮らした経験がありません。以上の理由で、来月31日をもってダダーブを去りたいと思います。

ライフラインでの仕事は、これまでの人生で一番、刺激あるものでした。こういった機会を私に与えてくださったこと、心から感謝しています。色々していただいたのに、こちらは迷惑をかけるばかりで、申し訳なく思っています。また、この狭い人道援助の世界で再会できることを楽しみにしています。

黒岩

契約は来年5月までだったが、今年一杯で辞めることは、数ヶ月前から考えていた。「5月までできるかな」「やっぱり12月で辞めようかな」などと数時間ごとに気持ちが揺れていた日々に終止符を打ったのは、他でもない、腹心の失踪事件だった。これまで築き上げてきたものを、色々な意味で一瞬にして壊された私は、心身共にリセットが必要と判断した。

先日、ハロウィーンパーティーで、国連で働くイギリスの友人が妻に「私もダダーブでは古株になった」と話し、自分の耳を疑った。彼がダダーブに来たのは昨年6月。私は、その1年以上前からいる。彼が古株なら、私は「超古株」ということか。

別に新しい仕事が見つかったわけでもない。妻の今の国連での契約も来年2月で切れ、次のポストを取れるかどうか、取れるとしたらどの国になるのか、見極めてから、次の進路を2人で考えることになる。だから、多少の貯金もあるし、次の行き先が決まるまで、体を休めようと思う。
 
上司からは3日後に返答が来た。少しくらい慰留の言葉をかけてくれるかと思ったが、「君の思いを尊重する」「これまで力を尽くしてくれてありがとう」とあっさり。副代表のバヒドは「いくら本人が希望しても、過酷な現場での仕事は2年で辞めさせるのが私のポリシー」と話していた。

おいおい。1年以内に7人の援助関係者が拉致されるような超過酷な現場に3年近く働いている自分はどうなるのだ、と思ったが、おそらく、最初の1年を国連で過ごしたから、彼の「2年」の定義に入らなかったのだろう。

というわけで、唐突だが私のダダーブ生活も、残りわずかとなった。

来年からは、このブログのタイトルも、工場長日誌から、「ひも日誌」に変更しなくてはならないな。

人生、初めての賄賂

4日午前、ナイロビの日本食材が売っている店で豆腐やらコンニャクやら仕入れに行った帰り道、友人から電話が入り、運転中だったが、電話に出た。

そこを、検問中の警察に見られ、呼び止められた。

「運転中に携帯で話してはいけません。運転免許を見せてください」

やばーい!免許はもう一台の車に置きっぱなしだった。ここは潔く、「忘れました」と答える。

「あなたは、運転中に携帯で話し、後部の車両がつまり、渋滞を引き起こしていた。それがわかっていますか?」と警察官。

「渋滞なんか起きてない」と私。

「先ほど、ここで事故があったばかりだ。あなたの様な運転は、危ない。事故を引き起こす恐れがあります」と警察。

「なんで、私が事故を引き起こすなんて、あなたにわかるのか?」と私。

ここで、警察の表情が険しくなる。「わかるのか、わからないのか、そんなことは、私たち警察が決める事だ。あなたに尋ねられる筋合いはない。とりあえず、近くの警察署まで同行お願いします」と、2人の警察官が私の車の助手席と後部座席にそれぞれ入ってきた。長さ約50センチほどあるライフル銃が、それまで車内にあった週末の平穏な雰囲気をぶち壊す。

私は、仕方なく、彼らの言う通りに車を走り出した。間違いなく、彼らは賄賂を要求してくる。免許不携帯の私に、罰金を逃れるすべはない。問題は、額をどれだけ下げられるかだ。数ヶ月前、妻も同じ様に警察に尋問され、6000シリング(約6000円)取られたばかりだ。

助手席の警察官は、「これから、あなたは、警察署で、まず手続き費用5000シリングを支払います。それから、来週、裁判所に行っていただき、最高3万シリングの罰金を支払わされます。運転中の携帯通話は、今年5月までの罰金1万シリングでしたが、今は3万シリングまで上がりました」

私は、「わかりました」と平静を装った。ここで、「そんな時間はない!」などと苛立てば、こちらの弱みを見せる事で、彼らの要求額は跳ね上がるだろう。

警察官は「手続き費用は持っていますか?裁判所に行くのは、いつがいいですか?」などと私の都合を聞いてくる。

私は「お金はあります。裁判所出廷は、そちらの都合に合わせます」と、従順な市民を演じた。

警察官は、「そうですか」と、それまでの強い口調が、若干、弱まった。

私は、考えた。相手の同情をかうような、作り話を。「実は、妻が昨日から病気で、今病院にいるのです。それで、妻からの電話で、どうしても、出なければいけなかった。運転中に電話に出ることはいけないと分かっていたのですが、妻の事が心配で、、、、」。

警察官の表情は一変する。「え!どこの病院?」

私は、「アガカン」と即答。2年前、私が熱を出して、お世話になった総合病院だ。ここで、即答しなければ、私の話が怪しまれると思った。

警察官は「入院したのか?」と尋ね、私は、頷いた。

「じゃあ、早く行ってあげないと。なぜ、それを早く言ってくれなかったんだ。私にも妻がいる。君の気持ちはよくわかる」と警察官。
「とりあえず、この手続きを終わらせましょう。それから、私は病院に行きます」と伝える。

しかし、警察官は、「何か、私たちにできることはないかな?こういうのは、どうだろう?私たちの昼ご飯代を出して、このまま病院に行くというのは?」

来たーー!賄賂要求。

「昼ご飯代って、いくらなんですか?」と尋ねると、「3000シリング」と言う。私は「へ!!」と驚く。そんな高級ランチ、どこにあるのだ。

そしたら、「じゃあ、2000シリングでいい」と言ってくる。

妻が6000シリング払わされた事を考えれば、2000シリングは、低い。それに、免許不携帯のことをつかれたら、こちらも不都合が生じる。

私は、黙って車をとめ、財布から2000シリングを出した。

払った後、もっと、額を下げられたのではと、少し後悔。政府が腐敗しきったケニアは、法の支配も確立されず、良い意味でも悪い意味でも、「ごね」が効く。


ちなみに、警察に呼び止められた時に、私に電話をしたのは妻ではなく、隣人。しかも、用件は、「私の分のこんにゃくも買ってきてー」。なんで、こんなくだらない電話に、出たのだろう??後悔してもしきれないものがある。

警察から解放された後、私は、隣人に電話を返した。「賄賂、割り勘にしない?」。

武装した若者、工場訪れる (その2)

事件が起きた午後、工場Aを統括するアヤレと電話で話した。アヤレは今月初旬にライフラインに入った。治安悪化で私が自由に動けない中、モウリドが二つの工場を一度に統括するのが難しくなり、工場Bをモウリド、工場Aをアヤレと分担した。

「とにかく、工場長が直接、地元の青年組織と話すことが大事だと思います」とアヤレは言った。しかし、私は「ナイフや斧を振りかざし、『工場長はどこだ?』と言う若者たちと話す勇気は残念ながらないよ。もし、君が彼らと話し合いができるという自信があるのなら、君にやってもらいたい。もし、君の安全が保障されないなら、とりあえず、今は時間を置いて、他の機関と連携して、話し合いができる環境を作るまで待つしかないよ」とアヤレに伝えた。ライフラインの本部からも、とりあえず、ダダーブの国連敷地外には出ないよう指示が出ていた。

アヤレは、「わかりました。それでは、モウリドも一緒に話し合いに参加してもらえるよう、お願いできないでしょうか?」と言う。私は、モウリドに電話をした。モウリドも、自分の身に危険が及ばないか心配しながらも「安全な環境で話し合いができるなら、参加します。七輪を配るだけでなく、技術指導などで、地元の人たちと協力できる余地はいくらでもあるはずです」と前向きだった。アヤレは地元の青年組織との個人的つながりを使って、交渉を進めるという。

自分の従業員の身に危険が及んでいるのに、工場長として、何もできないことが悔しかった。

しかし、ライフラインがダダーブで活動を始めて5年になるが、なぜ、このタイミングで、このような事が起こったのか?ダダーブはケニア北東部に位置し、住民の大半はソマリア民族で、難民と言語も宗教も同じである。つまり、ナイフを持って工場に来たのもソマリア民族の若者だ。

まず、考えられるのが、昨年の16万人という大量の難民流入により、木々などの資源が枯渇し、地元住民と難民との間の軋轢が増幅したということ。地元住民の大半は遊牧民で、ヤギやラクダを飼育し、限られた木々に生計を依存している。ケニア北東部に住むソマリア系住民は、1960年代にケニアからの分離独立運動をし、中央政府から弾圧された歴史があり、他の地域と比べ開発は遅れている。そこに、90年代から難民が押し寄せ、水、食料、教育、医療など、 地元住民が受けることのできないサービスが無料で難民に提供され、あげくに、木々がどんどん伐採されては、いくら同じ民族といっても、軋轢が生じるのも無理はない。


ダダーブには20以上の援助機関があり、2000人近くのケニア人が雇われている。しかし、多くは大学卒業などの資格を必須とし、ナイロビなどと比べたら教育水準が低いダダーブ周辺地域出身の人は、そこまで恩恵を受けることができない。また、6000人以上の難民が援助機関で働くが、就労許可がない難民は、「ボランティア」扱いで、ケニア人従業員とは待遇面で大きな差がある。そのため、人件費を抑えたい援助機関は、ケニア人よりも難民の方を雇いたいため、ダダーブのソマリア系ケニア人の不満は募るばかりなのだ。

次に、少し出前味噌になるが、この1年でライフラインの知名度が格段に上がったことが挙げられる。弱小団体であるライフラインは、事務所と工場が他の援助機関内にあり、 私が昨年5月にライフラインに来るまで、難民も援助機関職員も、ほとんどライフラインを知らなかった。

しかし、「難民自身で運営する七輪工場」をキャッチフレーズに、他の援助機関との共同プロジェクト、啓発キャンペーン、従業員への研修などを繰り返し、インターン制度で障害者を工場へ受け入れるなどするうち、ライフラインの知名度は上がり、以前、職員募集をしても数通しかこなかった申込書が、今は200通にまで膨れ上がった。新しい資金提供者も見つかり、従業員数も、当初の30人から53人にまで増えつつあった。

そして、その従業員が全員難民で、1人もダダーブ周辺のソマリア系ケニア人から雇われていないことが地元住民に知れ渡り、今回、こういう結果を招いた。実際、詳細は書けないが、先月初旬から、ライフラインに対するいくつかの「嫌がらせ行為」があった。

他の援助機関も地元住民とは様々な対立を乗り越えて活動を継続してきている。ライフラインはこれまで他の援助機関の隠れ蓑で活動してきたため、こういった問題に対処する必要ななかった。つまり、ライフラインが成長する過程で、起こるべきして起こったこととも言えなくもない。

アヤレとモウリドが彼らとどんな交渉をするのか。とにかく、彼らに危険がさらされないことを願うばかりだ。

私にとってのアメリカ

ライフラインの年次総会出席のため、4月27日、本部があるワシントンDCの国際空港に到着。高校、大学と5年半を過ごしたアメリカに10年ぶりの再訪。私にとってのアメリカとは、ルーズで、寛容的で、それでいて傲慢。

1996年、15歳で交換留学生として渡米した際、男性入国審査官は、「何を勉強しにきたの?ウェルカム、エンド、グッとラック!」と励ましてくれた。彼にとっては何気ない一言でも、新天地での生活への不安で一杯だった自分にとっては、忘れられない一言となった。

  米中西部オクラホマ州の公立高校に留学したのだが、ある日、アメリカ史の自習時間で、後ろから消しゴムを投げてくる奴がいた。「ストップ!」と私が言っても、投げ続けてきたので、短気な私は、机を立ち上がり、彼の顔面を殴りつけた。そして、私はそのまま机に戻ろうとしたら、彼が私の襟をつかみ、殴り返してきた。そのまま二人とも5日間の停学処分を告げられ、学校を早退した。

 夕方、ホストファミリーの家に学校から電話が来た。「停学処分は取り消す」という。ホストマザーの話では、私のクラスメートたちが、校長先生に「ヨーコーは悪くない。他の国へ行って、消しゴムを投げられたら、誰だって怒るはずだ」と申し出てくれた。英語があまりできなかった自分は、当時、そんな親友がいたわけでもなかった。つまり、私個人を守るというよりも、クラスメートたちは「留学生」というマイノリティーに対する校内の差別的行為に、憤慨したのだった。

 入国審査官の歓迎の一言も、クラスメートたちの申し出も、日本ではあまり体験することのできないもので、多民族国家アメリカの強さみたいなものを肌で感じた。

 しかし、今回の入国審査は違った。筋肉ムキムキの入国審査官の体格は16年前と変わらなかったが 、カウンターに来た自分に「所持金は?クレジットカードは?入国目的は?」などと疑心暗鬼に満ちた質問を浴びせた。15歳と31歳の私の人相が変わったからだと思う人もいるかもしれないが、残念ながら、当時の私の顔は、今と変わらない彫りの深さだった。

 午後2時半に市内の宿舎に着き、そのまま、市内を歩き回った。宿舎近くの大型スーパーに水を買いに行ったら、レジの女性がポテトチップスを食べながら、仕事をしていた。「市内地図はどこで買えますか?」と女性に尋ねたら、後ろに並んでいた男性が「3ブロック離れた所にあるよ」と教えてくれた。

 テロとの戦いで入国審査は厳格化しても、日本にはない、仕事に対するルーズな感覚も、見知らぬ人に話しかける人懐っこさも、変わっていなかった。16年前、当初は1年間の滞在予定だったのが、日本の高校に退学届けを出し、留学先の高校にそのまま残る決断をした自分が、なぜアメリカにそこまで惹き付けられたのかを思い起こさせてくれた。
プロフィール

seventh star 7

Author:seventh star 7
黒岩揺光  
1981年、新潟生まれ。7人兄弟の末っ子。15歳で米国留学して以来、住んだ国は計8カ国に。海外生活計17年。日本では毎日新聞記者、アフリカでは難民キャンプの工場長、アゼルバイジャンで主夫、ジュネーブで国連職員などを歴任。ヨルダンで長男出産後に前妻が死亡。日本に帰国後、再婚し、新潟で暮らす。
 著書に「僕は七輪でみんなをハッピーにしたい」(ユーキャン)「国境に宿る魂」(世織書房)。
メール連絡先 yokuroi×hotmail.com (「×」を「@」にしてください) ツイッター:@YokoKuroiwa

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