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人生、初めての賄賂

4日午前、ナイロビの日本食材が売っている店で豆腐やらコンニャクやら仕入れに行った帰り道、友人から電話が入り、運転中だったが、電話に出た。

そこを、検問中の警察に見られ、呼び止められた。

「運転中に携帯で話してはいけません。運転免許を見せてください」

やばーい!免許はもう一台の車に置きっぱなしだった。ここは潔く、「忘れました」と答える。

「あなたは、運転中に携帯で話し、後部の車両がつまり、渋滞を引き起こしていた。それがわかっていますか?」と警察官。

「渋滞なんか起きてない」と私。

「先ほど、ここで事故があったばかりだ。あなたの様な運転は、危ない。事故を引き起こす恐れがあります」と警察。

「なんで、私が事故を引き起こすなんて、あなたにわかるのか?」と私。

ここで、警察の表情が険しくなる。「わかるのか、わからないのか、そんなことは、私たち警察が決める事だ。あなたに尋ねられる筋合いはない。とりあえず、近くの警察署まで同行お願いします」と、2人の警察官が私の車の助手席と後部座席にそれぞれ入ってきた。長さ約50センチほどあるライフル銃が、それまで車内にあった週末の平穏な雰囲気をぶち壊す。

私は、仕方なく、彼らの言う通りに車を走り出した。間違いなく、彼らは賄賂を要求してくる。免許不携帯の私に、罰金を逃れるすべはない。問題は、額をどれだけ下げられるかだ。数ヶ月前、妻も同じ様に警察に尋問され、6000シリング(約6000円)取られたばかりだ。

助手席の警察官は、「これから、あなたは、警察署で、まず手続き費用5000シリングを支払います。それから、来週、裁判所に行っていただき、最高3万シリングの罰金を支払わされます。運転中の携帯通話は、今年5月までの罰金1万シリングでしたが、今は3万シリングまで上がりました」

私は、「わかりました」と平静を装った。ここで、「そんな時間はない!」などと苛立てば、こちらの弱みを見せる事で、彼らの要求額は跳ね上がるだろう。

警察官は「手続き費用は持っていますか?裁判所に行くのは、いつがいいですか?」などと私の都合を聞いてくる。

私は「お金はあります。裁判所出廷は、そちらの都合に合わせます」と、従順な市民を演じた。

警察官は、「そうですか」と、それまでの強い口調が、若干、弱まった。

私は、考えた。相手の同情をかうような、作り話を。「実は、妻が昨日から病気で、今病院にいるのです。それで、妻からの電話で、どうしても、出なければいけなかった。運転中に電話に出ることはいけないと分かっていたのですが、妻の事が心配で、、、、」。

警察官の表情は一変する。「え!どこの病院?」

私は、「アガカン」と即答。2年前、私が熱を出して、お世話になった総合病院だ。ここで、即答しなければ、私の話が怪しまれると思った。

警察官は「入院したのか?」と尋ね、私は、頷いた。

「じゃあ、早く行ってあげないと。なぜ、それを早く言ってくれなかったんだ。私にも妻がいる。君の気持ちはよくわかる」と警察官。
「とりあえず、この手続きを終わらせましょう。それから、私は病院に行きます」と伝える。

しかし、警察官は、「何か、私たちにできることはないかな?こういうのは、どうだろう?私たちの昼ご飯代を出して、このまま病院に行くというのは?」

来たーー!賄賂要求。

「昼ご飯代って、いくらなんですか?」と尋ねると、「3000シリング」と言う。私は「へ!!」と驚く。そんな高級ランチ、どこにあるのだ。

そしたら、「じゃあ、2000シリングでいい」と言ってくる。

妻が6000シリング払わされた事を考えれば、2000シリングは、低い。それに、免許不携帯のことをつかれたら、こちらも不都合が生じる。

私は、黙って車をとめ、財布から2000シリングを出した。

払った後、もっと、額を下げられたのではと、少し後悔。政府が腐敗しきったケニアは、法の支配も確立されず、良い意味でも悪い意味でも、「ごね」が効く。


ちなみに、警察に呼び止められた時に、私に電話をしたのは妻ではなく、隣人。しかも、用件は、「私の分のこんにゃくも買ってきてー」。なんで、こんなくだらない電話に、出たのだろう??後悔してもしきれないものがある。

警察から解放された後、私は、隣人に電話を返した。「賄賂、割り勘にしない?」。

武装した若者、工場訪れる (その2)

事件が起きた午後、工場Aを統括するアヤレと電話で話した。アヤレは今月初旬にライフラインに入った。治安悪化で私が自由に動けない中、モウリドが二つの工場を一度に統括するのが難しくなり、工場Bをモウリド、工場Aをアヤレと分担した。

「とにかく、工場長が直接、地元の青年組織と話すことが大事だと思います」とアヤレは言った。しかし、私は「ナイフや斧を振りかざし、『工場長はどこだ?』と言う若者たちと話す勇気は残念ながらないよ。もし、君が彼らと話し合いができるという自信があるのなら、君にやってもらいたい。もし、君の安全が保障されないなら、とりあえず、今は時間を置いて、他の機関と連携して、話し合いができる環境を作るまで待つしかないよ」とアヤレに伝えた。ライフラインの本部からも、とりあえず、ダダーブの国連敷地外には出ないよう指示が出ていた。

アヤレは、「わかりました。それでは、モウリドも一緒に話し合いに参加してもらえるよう、お願いできないでしょうか?」と言う。私は、モウリドに電話をした。モウリドも、自分の身に危険が及ばないか心配しながらも「安全な環境で話し合いができるなら、参加します。七輪を配るだけでなく、技術指導などで、地元の人たちと協力できる余地はいくらでもあるはずです」と前向きだった。アヤレは地元の青年組織との個人的つながりを使って、交渉を進めるという。

自分の従業員の身に危険が及んでいるのに、工場長として、何もできないことが悔しかった。

しかし、ライフラインがダダーブで活動を始めて5年になるが、なぜ、このタイミングで、このような事が起こったのか?ダダーブはケニア北東部に位置し、住民の大半はソマリア民族で、難民と言語も宗教も同じである。つまり、ナイフを持って工場に来たのもソマリア民族の若者だ。

まず、考えられるのが、昨年の16万人という大量の難民流入により、木々などの資源が枯渇し、地元住民と難民との間の軋轢が増幅したということ。地元住民の大半は遊牧民で、ヤギやラクダを飼育し、限られた木々に生計を依存している。ケニア北東部に住むソマリア系住民は、1960年代にケニアからの分離独立運動をし、中央政府から弾圧された歴史があり、他の地域と比べ開発は遅れている。そこに、90年代から難民が押し寄せ、水、食料、教育、医療など、 地元住民が受けることのできないサービスが無料で難民に提供され、あげくに、木々がどんどん伐採されては、いくら同じ民族といっても、軋轢が生じるのも無理はない。


ダダーブには20以上の援助機関があり、2000人近くのケニア人が雇われている。しかし、多くは大学卒業などの資格を必須とし、ナイロビなどと比べたら教育水準が低いダダーブ周辺地域出身の人は、そこまで恩恵を受けることができない。また、6000人以上の難民が援助機関で働くが、就労許可がない難民は、「ボランティア」扱いで、ケニア人従業員とは待遇面で大きな差がある。そのため、人件費を抑えたい援助機関は、ケニア人よりも難民の方を雇いたいため、ダダーブのソマリア系ケニア人の不満は募るばかりなのだ。

次に、少し出前味噌になるが、この1年でライフラインの知名度が格段に上がったことが挙げられる。弱小団体であるライフラインは、事務所と工場が他の援助機関内にあり、 私が昨年5月にライフラインに来るまで、難民も援助機関職員も、ほとんどライフラインを知らなかった。

しかし、「難民自身で運営する七輪工場」をキャッチフレーズに、他の援助機関との共同プロジェクト、啓発キャンペーン、従業員への研修などを繰り返し、インターン制度で障害者を工場へ受け入れるなどするうち、ライフラインの知名度は上がり、以前、職員募集をしても数通しかこなかった申込書が、今は200通にまで膨れ上がった。新しい資金提供者も見つかり、従業員数も、当初の30人から53人にまで増えつつあった。

そして、その従業員が全員難民で、1人もダダーブ周辺のソマリア系ケニア人から雇われていないことが地元住民に知れ渡り、今回、こういう結果を招いた。実際、詳細は書けないが、先月初旬から、ライフラインに対するいくつかの「嫌がらせ行為」があった。

他の援助機関も地元住民とは様々な対立を乗り越えて活動を継続してきている。ライフラインはこれまで他の援助機関の隠れ蓑で活動してきたため、こういった問題に対処する必要ななかった。つまり、ライフラインが成長する過程で、起こるべきして起こったこととも言えなくもない。

アヤレとモウリドが彼らとどんな交渉をするのか。とにかく、彼らに危険がさらされないことを願うばかりだ。

私にとってのアメリカ

ライフラインの年次総会出席のため、4月27日、本部があるワシントンDCの国際空港に到着。高校、大学と5年半を過ごしたアメリカに10年ぶりの再訪。私にとってのアメリカとは、ルーズで、寛容的で、それでいて傲慢。

1996年、15歳で交換留学生として渡米した際、男性入国審査官は、「何を勉強しにきたの?ウェルカム、エンド、グッとラック!」と励ましてくれた。彼にとっては何気ない一言でも、新天地での生活への不安で一杯だった自分にとっては、忘れられない一言となった。

  米中西部オクラホマ州の公立高校に留学したのだが、ある日、アメリカ史の自習時間で、後ろから消しゴムを投げてくる奴がいた。「ストップ!」と私が言っても、投げ続けてきたので、短気な私は、机を立ち上がり、彼の顔面を殴りつけた。そして、私はそのまま机に戻ろうとしたら、彼が私の襟をつかみ、殴り返してきた。そのまま二人とも5日間の停学処分を告げられ、学校を早退した。

 夕方、ホストファミリーの家に学校から電話が来た。「停学処分は取り消す」という。ホストマザーの話では、私のクラスメートたちが、校長先生に「ヨーコーは悪くない。他の国へ行って、消しゴムを投げられたら、誰だって怒るはずだ」と申し出てくれた。英語があまりできなかった自分は、当時、そんな親友がいたわけでもなかった。つまり、私個人を守るというよりも、クラスメートたちは「留学生」というマイノリティーに対する校内の差別的行為に、憤慨したのだった。

 入国審査官の歓迎の一言も、クラスメートたちの申し出も、日本ではあまり体験することのできないもので、多民族国家アメリカの強さみたいなものを肌で感じた。

 しかし、今回の入国審査は違った。筋肉ムキムキの入国審査官の体格は16年前と変わらなかったが 、カウンターに来た自分に「所持金は?クレジットカードは?入国目的は?」などと疑心暗鬼に満ちた質問を浴びせた。15歳と31歳の私の人相が変わったからだと思う人もいるかもしれないが、残念ながら、当時の私の顔は、今と変わらない彫りの深さだった。

 午後2時半に市内の宿舎に着き、そのまま、市内を歩き回った。宿舎近くの大型スーパーに水を買いに行ったら、レジの女性がポテトチップスを食べながら、仕事をしていた。「市内地図はどこで買えますか?」と女性に尋ねたら、後ろに並んでいた男性が「3ブロック離れた所にあるよ」と教えてくれた。

 テロとの戦いで入国審査は厳格化しても、日本にはない、仕事に対するルーズな感覚も、見知らぬ人に話しかける人懐っこさも、変わっていなかった。16年前、当初は1年間の滞在予定だったのが、日本の高校に退学届けを出し、留学先の高校にそのまま残る決断をした自分が、なぜアメリカにそこまで惹き付けられたのかを思い起こさせてくれた。

初めての入院


4月6-9日のイースター休暇に、ケニア最高峰のケニア山(5200メートル)に挑戦した。3泊4日の行程で、私と妻、他の友人3人の計5人で参加。旅行会社を通して、私たち一行には、案内人2人、料理人1人、荷物運び屋7人、計10人のケニア人が付き人として付いた。

大学時代に、賭博付けの日々を送っていた自分は、本当の幸せを探るため、ラッセルの「幸福論」を読み、「人間にとって最高の余暇の過ごし方は登山」と書いてあったのを鵜呑みにし、以来、ハイキングや登山をするようになった。しかし、前回の登山は、2008年の愛媛県石鎚山(1900メートル)。多少、不安はあったが、欧米のバックパッカーが普通に登っているという話を聞き、「まあ、大丈夫だろう」と軽い気持ちで臨んだ。

ナイロビから車で約3時間かけて標高2300メートルの麓まで行き、初日の3時間10キロの行程は、難なく終える事ができた。「荷物運び屋なんて雇って、金の無駄遣いだったな !」と、私はいつもの様に、調子に乗っていた。

二日目、3200メートル地点から4200メートルの7時間の行程。前半は、いつも通り友人たちとゲラゲラ冗談を言い合い、高山植物と記念撮影するなど、楽しい一時を過ごしていた。しかーーし!3時間経過したころから、両足が重く感じるようになり、声を出すのが億劫に。友人たちの歩くペースがとても速く感じるようになった。昼休憩では、すでにくたくたで、案内人の「食べたらすぐ出ますよ」の声が、体にずしんと響く。それまで余裕しゃくしゃくの発言ばかりをした手前、「ちょっと疲れました」とは、口が避けても言えない。試しに、「Mさん。大丈夫ですか?」とさりげなく、休憩時間を伸ばそうと試みるが、「え?全然、行けますよ」という残念な反応、、、。

休憩後は、MさんとOさん男性二人のペースはスーパーマン並になり、遠い彼方の存在に。案内人は「ちょっとペースが下がってます。天気が心配なので、できるだけ速いペースの方がいいです」と、とても残酷な一言が。

そしたら、本当に雪が降ってきた!頭と足がふらふらで休憩したいけど、
休憩したら、汗が冷えて寒気が走る。もう、どうすることもできない。人間なんて、自然の中に入り込めば、とても弱い存在だということを体で痛感する。

辺り一面真っ白になる中、「ここは根性だ!」と自分に何度も言い聞かせる。ほとんど登山をしたことのない妻のペースに着いて行くことさえできない自分が情けなくて仕方ない。荷物運び屋のおかげで、自分が持っていたのはカメラの鞄だけだったが、もうそれすら、持っているのが辛い。案内人のピーターに「カメラお願い」と頼むと、二言返事で了承。もう、彼が私にとっての神様だ。

「あの登り坂を登れば、ほとんど終わりですよ」というピーターの声を頼りに、一歩一歩坂を登る。雪で足が冷える。数時間前まで「天空の城ラピュタみたいですね」と景色を楽しんでいたのが、もう、大分昔のことのようだ。

ようやく、登り坂を終え「もう着いた?」とピーターに尋ねると、「あの建物です」と彼が指差した先は、まだ500メートル以上ある遠い彼方の世界だった。もう、30秒歩くごとに、30秒の休憩を取りながら、ピーターの済ました顔だけを頼りに歩いた。

山小屋に着き、そのままベットに倒れ込んだ。びしょびしょになった下着を変え、二つの寝袋を体に巻きつけた。「ポップコーンとお茶の用意ができました」という案内人のかけ声にも反応できなかった。

晩ご飯は美味しい魚フライだったが、ほとんどのどを通らず、パイナップルとオレンジだけ食べることができた。次の朝3時、山頂を目指すことになっていたが、私は、「無理です」と辞退し、山小屋で待機することに。
夜中、うなされて目が覚めると、妻が、「すごい熱」と私の額を触っていた。トイレに行くために立ち上がると、めまいに襲われ、ベットを手すり代わりに歩き、5メートル先のトイレに行ったが、なぜか、尿が出ない。

朝7時半ごろ、妻に起こされる。「早めに出ないと、下山できなくなる」と言う。しかし、5メートル先のトイレに行くのが辛い自分が、どうやって14キロの登山道を歩くというのか?全く、自信がなかった。試しに、山小屋周辺を歩いてみたが、20メートル歩くのがやっと。めまいと発熱で、気力が出てこない。案内人たちは、「酸素不足でめまいが生じているだけで、少し標高が下がれば、元気になるよ」と励ましてくれるが、14キロ歩く自分が全く想像できない。

ダダーブという医療施設が充実していない所で働いているため、しっかりした民間保険には加入していた。加入する際、「僻地での緊急事態で、飛行機やヘリなどでの救助も保険でカバーされること」を条件で加入したのを思い出した。「ヘリなどでの救助はできないか?」と尋ねると、案内人たちは、「とりあえず、聞いてみる」と山小屋に設置された固定電話で連絡を取った。

そしたら、「ヘリは天候が良ければ来れるそうです」とのことで、私は「念のため、保険が適用されるかどうか確認したい」と、私の保険会社に連絡するようお願いした。そしたら、ツアーを企画した会社社長から電話で、「もう、ヘリは飛んで行ったぞ!」との電話が。私は、「とりあえず、保険会社と連絡取り合って!」とお願いした。数分後、社長から電話で、「保険は適用されないらしい」という返答が!私はすかさず「ヘリを止めてくれ!」と発声した瞬間、山小屋の上空から「パタパタパタ」とヘリのプロペラの音が!!私は、社長に「ヘリ代は?」と尋ねると、「3000ドル(約25万円)」。ああああ。3000ドル払うくらいなら、死んでも、歩いて降りようとするだろう。絶対絶命だ。しかし、もうヘリは来てしまった。「帰ってくれ」とも言えない。

ヘリが着地し、山小屋に泊まっていた登山者数十人は、一斉にヘリの周りに集まり、記念撮影を始めた。パイロットが、「君が病人か?」と尋ねて来て、頷き、荷物を持って、妻と二人でヘリに乗り、数十人の野次馬たちに見送られながら、上空へ飛び立った。初めてのヘリで、乗客は皆、ヘッドフォンをすることが決まりになっていることさえ知らなかった。ヘリからの壮大な景色を前に、私はカメラに手を伸ばす気力さえなかった。3000ドル、どうしようーー。

山麓近くの病院に運ばれ、「高山病」と診断。すぐ、酸素マスクを付けてもらった。本来、酸素レベルが90以上はるはずが、私の体には80前後しかなかった。医師から「とりあえず、1日入院ね」と言われ、人生31年目で初めての入院が決まった。

まず、保険会社の担当者に電話。そしたら、案の定、「4000メートル以上に行くということは、その行いに危険が伴うということを自覚していながらの行為とみなされ、保険は適用されない。山登り、バンジージャンプ、スカイダイビングなどが例」という。私は、電話口で声を張り上げ、「ダダーブで働くことだって十分危険でしょ!それを自覚して活動し、事故、事件に巻き込まれても、保険が適用されるのに、なぜ山登りはだめなんだ!」と。しかし、向こうの答えは変わらず、私はあきらめるしかなかった。

酸素吸入したら、一気に食欲が出てきて、チキンカレーを食べ、体調は快方に向かった。しかし、夫婦共々、3000ドルの事が頭から離れず、妻は、「本当は、下山できたのではないか?」と疑問を投げ始め、私は「病人の私を責めることはしないでほしい」などと、口喧嘩に。

登山に行く荷物しかないため、本もパソコンもなく、病院の個室で妻と二人で何することもなく、時間を過ごし、次の日の朝、晴れて退院。ナイロビの自宅に着いたのは午後2時ごろ。

「本当に大きな問題というのは、お金で解決できない問題のことをいう」。昔、カジノで負けた時に自分で作った慰め言葉を自分に言い聞かせながら、ベットに入り込み、昼寝を始めた。

従業員による初めてのボイコットー第1話ー


ラホとの対立から一夜明けた朝、モウリドから電話があった。「ラホが工場長から公平に扱われていないと言って、今日は出勤しないと言ってきました。そして、工場にいる副主任のキモからも、他のスタッフ全員が出勤はしたが、仕事をせず、ただ、座って話しているだけのようです」との報告だった。時間は午前8時半。勤務開始時間を30分過ぎている。この日は工場に行かず、事務所で1月の報告書作成に費やそうと思っていたが、予定を変え、モウリドと工場へ向かった。

向かう途中、モウリドは「ラホが仕事に来ないから、他のスタッフ全員も仕事をしなくなるなんて、おかしい。ラホが圧力をかけたとしか思えない」と言う。私は「何の説明もなしに仕事をボイコットするのはルール違反だ。ラホに電話して、私が工場に向かっているから、説明に来るように伝えてくれ」とモウリドにお願いした。モウリドはすぐ電話をし「病院に行くから、少し遅れるとのことです」と話した。

工場に着くと、ラホ以外の従業員全員、私服姿で、工場の前の木陰に座っていた。私は「ラホが仕事に来ないから、あなたたちが仕事をボイコットする理由にはならない。あなたたちは、ラホと契約を交わしたのではなく、私と交わしたのだから、何か不満があるなら、私に話してください」と伝えた。

従業員のリーダー格のモハメドが「私たちはこれまで皆を信頼し合って仕事をしてきました。でも、今朝、ラホから電話があり、昨日、工場内の複数の従業員がラホの失態について工場長に密告したことを知りました。ラホは、私たちのせいで、仕事に行くことができなくなったと嘆きました。私たちの中に、密告者がいるということに、私たちは耐えることができません。皆、お互いを疑い合っています。これでは、仕事はできません」

私は、「ラホについて問題が、他の従業員から指摘されたのは事実です。それについては今調査中で、私はラホに何の罰則も与えていない。昨日、ラホからは事情を聞いただけです。それだけのことで、あなたたちが仕事をボイコットする理由がわからない」

女性のミンシャが「他人について誤った情報を流すのはいけないと思います」という

私は「その情報がどんな情報か皆さん知っているのですか?」と尋ねると、皆、首を振った。「ではその情報が正しいのか間違っているのか、ここで判断するのはやめましょう」と伝えた。

私は「皆さん、自分が工場長で、従業員が、他の従業員について問題を指摘してきたら、その従業員に事情を聞きますか、聞きませんか?」と尋ねたら、皆「尋ねる」と答えた。「それでは、何が問題なのですか?」と聞きただすと、モハメドは「誰からもわからない情報によって、私たちは混乱している。お互いへの信頼がなくなった。だから、ラホも仕事に来れなくなった。一体、この中の誰が密告したのか、皆、知りたがっている」と言った。

私は「どんな組織、社会でも、内部密告者というのは大切な存在です。組織の中にある問題をあぶり出し、その問題を対処することで、その組織は成長していくものです。そこで大事なのは、この内部告発者の秘匿です。この存在が明らかにされたら、密告によって危害を被った人から復讐されかねないため、彼らのプライバシーを守ることは大切なのです」と説明した。

私が一生懸命話している間、後ろで従業員の1人が「くす」と笑うのが聞こえ、頭に血が上った。「何がおかしいのですか?」とその従業員を睨みつけた。「あ、ちょっと、携帯電話がなったので」とその従業員は弁明した。仕事をボイコットされ、従業員全員を敵に回しているような感覚になり、私も頭が混乱していた。

モハメドは、さらに続けた。「私たちには、工場長の下に、主任がいて、副主任がいる。何か問題があれば、従業員は直接工場長にではなく、主任や副主任に伝えればいい。情報伝達のはしごはしっかり守らなければならない」と言う。

私は「昨年、前任者のJから仕事を引き継いだ時、別の工場の主任はとても信頼できる人だと聞いていました。だから、彼を私も信頼し、彼からだけの情報に頼って、工場を運営していました。しかし、数ヶ月後、その主任が、他の従業員を『犬』と呼んでいたことがわかったのです。私が、主任からの情報だけを頼りにしていたばっかりに、主任が犯した従業員に対する侮辱行為を見抜くことができなかった。モハメドに尋ねますが、あなたが、主任から犬呼ばわりされたら、それを工場長に伝えようとは思いませんか?」。

モハメドは「伝えます。でも、私は、名前を公表して、皆の前で伝えます。工場長は、なぜ、昨日、ラホに個人的に伝えたのでしょうか?皆の前で伝えれば良かったのではないでしょうか?」

私は「それはラホの名誉を傷つけることになります。まだ、その情報が正しいのか、間違っているのか、わからない状況で、それを公表することはできません。それに、皆、モハメドと同じ様に名前を公表して密告することは難しいと思います。例えばソマリアの武装勢力から人権侵害を被り、それを新聞記者に伝えるとした場合、あなたは実名を公表できますか?」と尋ねた。

従業員は「それと、これとは話が違います」と言う。私は「根本的な概念は同じです。今回だって、名前を公表することで、その人たちが、復讐されないとは限らない。だから、もし、私が名前を公表するべきだと考えるなら、私たちは一緒に働くことはできないと思います」と強く言った。

ここで、遅れてやってきたラホが輪に入ってきた。ラホは、いつもの様に、長々と話し始めた。
プロフィール

seventh star 7

Author:seventh star 7
黒岩揺光  
1981年、新潟生まれ。7人兄弟の末っ子。15歳で米国留学して以来、住んだ国は計8カ国に。海外生活計17年。日本では毎日新聞記者、アフリカでは難民キャンプの工場長、アゼルバイジャンで主夫、ジュネーブで国連職員などを歴任。現在は中東ヨルダンで妊娠した妻に寄り添う専業主夫。
 著書に「僕は七輪でみんなをハッピーにしたい」(ユーキャン)「国境に宿る魂」(世織書房)。
メール連絡先 yokuroi×hotmail.com (「×」を「@」にしてください) ツイッター:@YokoKuroiwa

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